遠野物語

遠野家編

序章

presented by 紫雲様


 それは、夏にしては肌寒い日の夜だった。
 長期にわたる療養生活を終え、恩人である『先輩』の元を辞した彼は、最愛の女性と再会する楽しみに心を躍らせながら、暗い夜道を早歩きで歩いていた。
 その途中、彼は夜の公園の街灯の下で、一人、ポツンと立ち尽くしている子供に気づいた。
 腕時計に視線を落とすと、時刻は夜の10時。あまりにも不自然な光景である。
 見かねた彼は、逸る心を抑えながら、公園へ足を向けた。
 「こんな時間にどうしたんだい?」
 突然、かけられた声に、子供はビックリしたように彼を見上げた。
 「ご、ごめんなさい」
 「謝らなくてもいいよ。お父さんかお母さんはどうしたのかな?」
 「・・・いないんです。2人とも。お母さんは死んじゃったし、お父さんは僕を捨てたまま、戻ってこないんです」
 肩を震わせて、嗚咽を上げる子供を、彼は困ったように見つめた。
 「このままじゃ、風邪をひくよ?ほら、これを着て」
 彼は肩に引っかけていた薄手の上着を子供に着せた。そのまま片腕で子供を抱き上げる。
 「な、何するんですか?」
 「とりあえず、俺と一緒に来ると良いよ。実はね、俺も長い間、家を留守にしていたんだ。一人で帰るのは心細くてね、できれば、同行者が欲しかったのさ」
 抱きあげられた子供は、最初は緊張していた。だが彼が家路を急ぐ間に、いつのまにか小さな寝息を立て始めていた。
 「・・・世も末だね、なんで、こんな小さな子供が・・・」
 ただ『お母さん』と呟く声が、彼の耳に届いていた。

 「兄さん!生きていたんですね!」
 数か月前、ある事件の後、行方不明となっていた兄の帰還に、彼女―遠野秋葉は歓喜の表情で出迎えた。
 「ただいま、秋葉。それよりこの子を」
 兄―遠野志貴の腕に抱かれていた子供に、秋葉はその時、初めて気づいた。
 「この子・・・兄さん、この子、ひどい熱が!」
 「琥珀さんに解熱剤を用意させてくれるかな?」
 
 「・・・すー・・・すー・・・お母さん・・・お母さん・・・」
 「とりあえずは大丈夫そうだな、帰ってきて早々、ありがとうな。秋葉、翡翠、琥珀さん」
 布団に包まれ、解熱剤を投与された子供は、先ほどまでに比べると、だいぶ穏やかな寝息を立てていた。
 「ところで、兄さん。聞きたい事は山ほどあるのですが、まず、この子は?」
 「ああ、公園で見かけたんだが、放っておけなくってな」
 「志貴様らしいです・・・」
 「確かに、志貴さんの判断は正解でしたよ。この子、肺炎を起こしかけていましたからね。そのまま放っておいたら、間違いなく危険でしたよ」
 メイド服を着た少女―翡翠が子供の額のタオルを交換する間に、割烹着の少女―琥珀が手慣れた手つきで紅茶を注ぐ。
 「うう・・・あれ、ここは?」
 「あら、起こしてしまいましたか。あなたは熱があります。そのまま横になっていて下さい」
 「で、でも」
 「いいのよ、今夜一晩、ここで眠っていきなさい。熱を出している子供を、夜中に放り出すほど、私達は冷たい人間じゃないのだから」
 翡翠と秋葉の言葉に、子供がコクンと頷く。
 「そういえば、あなた、名前は?」
 「シンジ。碇シンジです」
 再び夢の国へと落ちた子供―シンジの掛け布団を直すと、4人は無言のまま、シンジをジッと見つめていた。

翌朝―
 久しぶりに帰還した志貴を交えた朝食は、和気藹々とした雰囲気で進んでいた。そして食べ終わった所で、琥珀がポンと手を打った。
 「そういえば、昨日のシンジ君ですけど、お粥を用意したんです。翡翠ちゃん、後片付けだけ、お願いしてもいいかしら?」
 「分かりました、姉さん。こちらは任せてください」
 お粥の入った土鍋を持って、寝室へと向かう琥珀。その5分後、事件は起こった。
 「誰か来て!志貴さん!翡翠ちゃん!秋葉様!」
 「な、なんだ!?」
 紅茶で一服していた秋葉と志貴、そして食器を集めていた翡翠は、何事かと慌てて寝室へ走り出した。
 寝室では琥珀がシンジを必死で抱きかかえている。その足元にはお粥の入った土鍋が転がっていた。
 「どうしたんだ!琥珀さん!」
 「お願いします!そこのカバンの中から、青いビンの薬剤と注射器を!」
 ひたすら喚くシンジ。その首筋に、注射器をうつ。やがてシンジの行動は緩慢になり、ついには眠りに落ちた。
 「何があったの?琥珀」
 「ええ、実はこの子、お粥をを受け取ろうとして、土鍋を落としてしまったんです。そしたら顔を真っ青にして『ゴメンナサイ、ゴメンナサイ』って繰り返して。大丈夫だよ、と言っても、聞き入れなくて。そのうち『ぶたないで、良い子になるから、ぶたないで』そう何度も繰り返して・・・」
 「まさか、この子」
 秋葉がシンジの服をめくる。昨日は慌てていて気付かなかったが、体の至る所に小さな傷や打撲の痕と思しき痣ができていた。
 「ひどい話だな、家庭内虐待か・・・」
 「こんな小さな子供に・・・許せません!」
 秋葉の髪の毛が真紅に染まる。慌てた志貴がとりなして、髪の毛は元の黒に戻った。
 「志貴様、秋葉様、この子、何とか助けられないでしょうか?」
 「当たりまえです!このまま見捨てるような真似など、できるものですか!」
 義憤に燃える秋葉は、即座に行動を起こした。
 「琥珀!翡翠!この子の看病をしてあげて!私はこの子の事を調べてきます!兄さん、悪いですけど、家で待っていていただけますか?」
 「分かった。家の事は任せてくれ」
 
夕刻―
 リビングには4人が勢揃いしていた。
 琥珀が鎮静作用のあるハーブティーを用意していたが、今の秋葉はそんなものは何の効果も無いほど『冷静に』怒り狂っていた。
 「秋葉様、私達も聞いていいのですか?」
 「構わないわ、二人も知っておくべきだと思うからね」
 入れたばかりのハーブティーに口をつけ、一息つく。
 「あの子は碇シンジ。今年で10歳。母親は碇ユイ。東方の三賢者と呼ばれたほどの天才科学者。でも、あの子が3歳の時に亡くなっていたわ」
 「それでお母さんの事を呼んでいたんですね」
 「ホント、やるせない気持ちになるわね。それで父親の方なんだけど、名前は碇ゲンドウ。国連で働いているのは分かったけど、詳細は不明。住んでるところとかも分からなかったわ。唯一、分かったのは、あの子を知人に預けていた、という事ね」
 ハーブティーのお代わりをしながら、話を続ける。
 「この知人がロクでもない連中だったのよ。養育費はせしめておいて、でも子供はほったらかし。それどころか虐待の対象にしていた」
 「父親は、それを知らないんですか?」
 「知らないどころか、知っていて放置していた可能性があるわ。養育費を払ってまで虐待を放置すると言うのも理解できないけど、他に考えようがないのよ」
 そっと翡翠が差し出したお茶菓子に、秋葉が礼を言いつつ手を伸ばす。
 「あの子、耐えられなくなって家出したみたいね。あの子が住んでいたのは、第2新東京市だったわ。子供が歩いて移動できる距離じゃないから、トラックの荷台かなにかに隠れて移動したんでしょうね」
 「他に係累はいなかったのか?」
 「いたわ。京都に本拠地を置いている碇財閥。あの子はあの財閥の当主、碇源一郎の孫に当たる。それも唯一の直系だったのよ。でも当主は現在、病気療養のために面会謝絶状態。加えて財産分与目当てのハイエナがたむろしていて、すぐに会うのは不可能なのよ。下手に渡して、何かあったら大変だしね」
 「それで、秋葉様は、どうなされるおつもりですか?このまま放っておく秋葉様ではありませんし」
 琥珀の言葉に、秋葉が力強く頷く。
 「とりあえず、あの子を遠野家で引き取ろうと思います。知人連中はお金が目当てで、捜索願いすら出していませんでした。それなら馬鹿正直に、教えて差し上げる必要もありません」
 「つまり、俺の弟になる、ということか」
 「いいえ、私達4人の弟です」



To be continued...
(2010.06.19 初版)


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