第十五章
presented by 紫雲様
NERV本部第2発令所―
ゼルエルによって破壊された発令所。その予備として用意されていた第2発令所に、関係者全員が集まっていた。
NERVメンバーに加えて、シエルと秋葉という組み合わせである。
「・・・赤木博士、約束通り、説明していただけるのですね?」
絶対零度の如き冷たさを秘めた秋葉の言葉に、発令所に緊張が走る。
ゼルエル殲滅後、心臓を失ったシンジを案じた秋葉を、無理やり押しとどめたのがリツコだったからである。
『説明は必ずします。ですから、今はシンジ君の救助を行ってはいけません』
それを間近で聞き、さらには秋葉の力の一端を目撃していた加持とミサトにしてみれば心臓が止まるような一幕であった。
ちなみにミサトは、今はこの場にはいない。いくら加持の権限を使ったとしても、さすがに発令所までの立ち入りは強行できなかったからである。
「ええ、約束通り説明します。これが、その理由です」
リツコが初号機エントリープラグの内部映像をモニターに映し出す。
静寂が場を支配した。
「これがシンクロ率400%の正体」
「どういう事ですか!シンジはどこへ行ってしまったんですか!」
「いえ、シンジ君はいます。今のシンジ君はエヴァと一つになってしまったのです。今のエントリープラグ内部には、シンジ君を構成していた材料というべき要素が、全て残っている。だから、その要素を失う訳にはいかなかったんです」
モニターには、主を失ったエントリープラグ内部の光景が静かに映し出されていた。
遠野宅―
「・・・シンジ・・・」
「・・・遠野君・・・」
リビングで茫然と虚空を見つめる二人の少女を、琥珀は悲しげに見守る事しかできずにいた。
ゼルエル戦の最中に、シンジがフィードバックで心臓を破壊された時、彼女達はショックで気を失っていたのである。
目を覚ましたのは、つい先ほど。とりあえず元気づけようと、アスカとレイにシャワーを浴びせ、食事も摂らせた琥珀だったが、二人を慰めることはできなかった。そして、秋葉とシエルは本部へ事情説明に出向いており、今、この場にシンジの現状を知る者は一人もいない。
そこへ激しい音を立てて電話が鳴った。
「はい。こちら遠野でございますが・・・秋葉様!・・・はい・・・はい・・・分かりました」
やがて琥珀が静かに受話器を置く。
「・・・二人とも、しっかりしなきゃ駄目ですよ。そんな事では、本当にシンジ君が死んでしまいますよ?」
「・・・琥珀さん?」
「先程、秋葉様から連絡がありました。シンジ君は死んではいないそうです」
少女達の瞳に、ゆっくりと明るさが戻り始める。
「ですが、生きているとも言えない状況だそうです。シンジ君を助けるために、赤木博士がサルベージ計画を進行するそうですが、その手助けをあなた達2人に行ってほしい、と言われました」
「「やります!」」
「それでは、最初に布団の中でぐっすり眠りなさい。シンジ君に、暗くて不健康な女の子だなんて、思われたくないでしょう?」
琥珀の言葉に、少女達は真剣な顔で頷いていた。
3日後―
「さすが先輩ですね。たった3日でサルベージ計画を立案してしまうなんて」
後輩の褒め言葉に、リツコはどこか自嘲したような空気を漂わせながら応じる。
「私の計画は、しょせんは二番煎じ。いえ、正確には三番ね。以前のデータをもとに、計画しただけだから」
「以前にもあったんですか?じゃあ、その時は・・・」
「サルベージは失敗。だから、今度は成功させないといけないの」
リツコが振り向いた先には、普段通りのシスター服を着たシエルが立っていた。
「シエルさん、協力、ありがとうございます」
「御礼はいいですよ。シンジ君を助けるためですからね。それより・・・」
「はい、約束は守ります。あなたが協力してくれた事によるデータは、一つの例外も無く、全て破棄します」
魔術の痕跡を残さないための要請。それこそシエルが出した唯一の条件である。
「この計画に必要な資材、データ等の準備にあと1週間。シエルさんの方の準備は、どれぐらいかかりそうですか?」
「こちらは、あの子達の体調次第です。琥珀さんが言うには、問題ないそうです」
「分りました。ではシンジ君のサルベージ計画を、来週の水曜日、午前8時から開始する事にします。マヤ、各部署に通達と、準備の指示をお願い」
「はい、先輩!」
僅かな希望を胸に、大人達は少年の奪還に向けて動き出した。
???―
(・・・ここ・・・どこだろう・・・)
ふと気づいた時、シンジは真っ暗闇の中にいた。普通なら恐怖感や警戒心を感じるのだが、何故かその気になれない。むしろ、安堵すら感じていた。
(・・・僕は・・・ゼルエルと戦って・・・死んだんだよな・・・じゃあ・・・ここはあの世なのかな?)
周囲に何かないだろうか?そう考えて、彼は両手を左右に振りながら、歩き出そうとして、ハッと気がついた。
(・・・手が・・・足が・・・ある?どういう事だ?)
いくら考えても納得のいく答えは見つからない。やがて『あの世ってのは、そういう所なのかな?』と自分を納得させる。
(・・・あの世かあ・・・母さん、いるのかな?いるのなら、一度、会ってみたいな)
シンジはそんな事を考えながら、宛てもなく、ゆっくりと歩き出した。
遠野宅―
「いいですか?あなた達二人の役目は、シンジ君に呼びかける事です。具体的な作業については私が行いますので、あなた達は呼びかける事だけに専念してください」
コクンと頷くアスカとレイ。二人はサルベージ計画の成功率を押し上げる為、シエルが魔術を使ってサポートに入る事をすでに聞いていた。同時に、そのサポートに自分達が重要な役割を伴っていることも。
「呼びかけるだけで良いのね?」
「重要なのは、シンジ君にあなた達の存在を気付かせる事なんです。アスカさんやレイさんという灯りを目指して、シンジ君が帰りやすいようにする。それが目的なんです」
「分かったわ。遠野君が帰ってきてくれるのなら、私、なんでもする」
互いに顔を見合わせ、頷き合う少女達。
「ただし、覚悟しておかねばならないことがあります」
「何?」
「今回、あなた達は自分の精神―魂を初号機の中にいるシンジ君の精神の中に潜り込ませる事になる。私がサポートするので、それ自体は問題ありません。問題なのは、あなた達がシンジ君に嫌われかねないというリスクです」
シエルの言葉に、アスカが『どういう事!?』と詰め寄る。レイは無言だが、それでも詳しい説明を求めていることは、誰の目にも明らかであった。
「シンジ君の精神に潜り込む。それはシンジ君の記憶を垣間見る、という事でもあります。当然ですが、その中にはシンジ君が他人に触れられたくない記憶もあります」
「それじゃあ・・・」
「シンジ君のトラウマ。7年に渡る虐待の歴史。そして原因となった、父親に捨てられた時の記憶。それをあなた達に見られた時、シンジ君がどう反応するのか、それだけは私にも分らないんです」
申し訳なさそうに、頭を下げるシエル。だが彼女の知識をもってしても、これ以上の案は、脳裏に浮かばなかった。
「シエルさん、ありがとう」
アスカの言葉に、シエルが驚いたように顔を上げた。
「アタシ、アイツが帰ってきてくれるのなら、それだけでいい。だから力を貸してくれてありがとう」
「大丈夫。私もアスカも遠野君が私達を嫌うなんて思ってないから。私達は遠野君の事を信じてるの。シエルさん、ありがとう」
シエルがニコッと笑う。
(・・・シンジ君、良い子達に会えたわね・・・協力するから、必ず帰ってきなさい)
サルベージ計画当日―
発令所にはサルベージのため、技術部職員全てが集合していた。加えて、副司令である冬月、監査部部長である加持、作戦部長である日向もこの場にいる。
「マヤ、ケージのシエルさん達につなげて頂戴」
「はい、先輩」
「シエルさん、そちらの準備はいかがですか?」
『こちらは問題ありません。いつでもいけます』
今回のサルベージの為、腹部のコアに複数のケーブルを取り付けられた初号機。そしてケージには、シエルの他に、アスカ・レイ・秋葉がいる。アスカとレイに関しては、急遽、運び込まれた医療用ベッドの上に横になっている。
「アスカ、レイ、準備はいいかしら?」
『いつでもいいわよ!』
『ええ、いいわ』
少女達の言葉に、リツコが司令席の横に立つ冬月に振り向く。
「副司令」
「シンジ君を取り戻すサルベージ計画を、今より開始する。赤木博士、計画の進行、全て一任する。必ずシンジ君を取り戻したまえ」
「はい。では、これよりサルベージ計画を開始します!」
リツコの言葉に従い、職員達が割り当てられた仕事に取り掛かり始める。
「初号機へのコンタクト、開始します」
「初号機、特に異状なし。全て問題ありません」
「どんな些細な事でも、異常があったら、すぐに報告しなさい!」
今日のリツコはサルベージ計画の責任者として全体を統括しなければならない為、直接サルベージの為にMAGIを操作するような事はない。その為か、『全体の統括者』という慣れない仕事に、若干ではあるが戸惑いのような物が感じられた。
「先輩!MAGIから途中経過報告です。現在のところ、問題ありません。いつでも第2フェイズに移行可能です!」
「分かったわ、マヤ。これから第2フェイズに移ります。各オペレーター達は、作業を開始しなさい」
そこかしこから『了解』という言葉が聞こえてくる。
「シエルさん?」
『分りました。では、こちらも行動開始します』
「マヤ、ケージの映像をカット。正面モニターには初号機のエントリープラグ内部の映像と、各種データのみが映るように変更しなさい」
「はい、先輩」
マヤの指示に従い、モニターが順次変化していく。
その光景を、リツコは黙って見続けていた。
ケージ―
「二人とも、楽にして下さい。昼寝するつもりで構いませんから」
シエルの言葉に、少女達がコクンと頷く。その顔は笑顔を浮かべてはいるが、やはり緊張を感じているせいか、どことなくぎこちない笑顔である。
「弟をお願いね」
「忘れないで、あなた達の呼びかけが、シンジ君を助け出す、もっとも重要な要素である事を」
秋葉とシエルの言葉を聞きながら、少女達はその意識を暗闇に委ねていた。
「・・・とりあえず、入り込む事には成功したようです」
魔術の証である魔力回路の光を発現させるシエルに、秋葉が頷く。
「あとは、あの二人次第・・・信じて見守るしかありません」
「そうね・・・でも、あの二人はシンジの過去を見る事になるのよね?」
「はい。確かに、あの出来事はシンジ君にとって、もっとも忌まわしい事件でした。あの二人も、知らずに済めば、それが一番だった・・・」
同情の視線を、シエルが初号機に向ける。正確には、初号機の中にいるであろう、シンジに向けて。
「でも、シンジ君を本当の意味で救うには、あの出来事を知る必要があると思うんですよ。あれを理解した上で、シンジ君を支えていこうという気概が無いようでは、くっついたところで、遠からず破綻するだけです」
「シンジが他人と距離をとりたがる理由、無条件に信用できる人しか、自分の近くに近よらせない本当の理由。それはあの魔眼じゃないものね。あの子は、自分の意志で魔眼を封じて、一般社会に溶け込んで生活している。それはあの子が本当は、他人と仲良くなりたいという願望を持っているから、他人に嫌われたくないと思っているから、両目を封じてまで生活している」
「・・・子供達は何も悪くないのに・・・何で、こうなってしまうんでしょうね」
お互いに一児の母であり、同じ男を愛する女でもある二人は、痛ましげに少女達を見つめていた。
???―
「・・・ここは?」
「・・・恐らく、初号機の中よ、アスカ」
暗闇の中に、佇む二人の少女。
「そうみたいね、とりあえず呼びかけてみましょうか。シンジ、出てきなさいよ!」
「遠野君、迎えに来たの。一緒に帰りましょう」
その呼びかけに応える者はいない。どうしようか?と悩む二人。
『二人とも、聞こえますか?今からサポートに入ります』
「「シエルさん」」
『そのまま前に向かってください』
言われた通りに歩きだす少女達。やがて暗闇は消え、明るい場所へとでた。
きれいに整頓された、大きな部屋。その片隅には、勉強机一式とベッド、本棚が置かれている。それは明らかに子供部屋だった。
そしてベッドの脇で、椅子座ってチェロを弾く人影が1つ。
「シンジ!」
椅子にかけてチェロを弾いていたのは、紛れもなくシンジであった。緑の両目は楽譜を追い、その両手は激しく動いている。
「遠野君!」
「・・・待って!レイ、これはアイツじゃない!アイツの目は、片方が銀色よ!」
『よく気づきましたね、アスカさん。ここにいるのは、過去のシンジ君。三咲町で、遠野の家で過ごしていた頃のシンジ君です』
やがてドアが開く。すると廊下から小さな女の子と、メイド服の女性が入ってくる。レイは以前に写真を見ていたので知っていたが、二人は春奈と翡翠であった。
「にいに!」
「だめですよ、春奈ちゃん。静かにしないとね?」
「はーい!」
ベッドによじ登り、真剣にシンジを見る春奈。そんな春奈を翡翠とシンジが笑いながら見返していた。
平和な光景。シンジが守りたいと望み、エヴァへの搭乗を決意させた原点。
「お兄ちゃんが守りたかった人達・・・」
『そうです。これからあなた達には、こうしてシンジ君の記憶を巡ってもらいます』
平和な光景が、まるでノイズが走ったテレビ画面のように、歪み始める。その歪みはどんどん大きくなり、やがて完全に消えてしまった。
残されたのは、暖かい光を放つ、緑の球体―大きさは野球ボール程―であった。
『それがシンジ君の心の欠片。大切に持っていてくださいね?それでは、次に向かいますよ』
コクンと頷くと、レイは心の欠片を取り上げた。
「おとうさん・・・おとうさん・・・」
次は駅のプラットホームだった。一人泣き続ける幼子。周囲には人影などない。
「・・・まさか」
『そう、3歳の頃のシンジ君。実の父親に捨てられた頃です』
無心に父親を求めるシンジ。だがそれに応える者は、誰もいない。
「・・・シンジ・・・」
幼いシンジに近寄るアスカ。触れようとしても、アスカの手はシンジをすり抜けてしまう。
「シエルさん、せめて触れないの?」
『だめよ。シンジ君の心―精神が変質しかねないから。我慢してください』
「・・・ごめんね、シンジ。アタシ、無力だね・・・」
アスカの目から、一滴の雫が静かに落ちる。その雫は幼いシンジをすり抜けていく。
やがてノイズが走り、消えていく。残されたのは、冷たい光を放つ、青い球体。
それを取り上げると、アスカはキッと前を向いた。
「行くわよ!絶対に、あいつを取り返すんだ!」
発令所―
「マヤ、現在までの報告を」
「はい。現在、予定の75%の作業を終了しています。初号機にも、想定外の反応はなく、S2機関が動き出す気配もありません。シエル二尉からも、特に連絡は入ってきておりません」
「念のため、ケージへ繋げて頂戴」
リツコの指示に従い、マヤが通信を繋げる。
「遠野会長、そちらの方は大丈夫ですか?」
『ええ、特に問題はありません。シエル先輩は術の維持に専念しているので対応はできませんが』
「そうですか。問題が起きていないのであれば、十分です。こちらは作業の75%を終了。これから、第3フェイズへ移行します。本格的にシンジ君への呼びかけを始めますので、何か反応があるかもしれませんが、その時はお願いします」
『分りました。何かあればすぐに報せます。通信はONのままにして頂けますか?』
「分りました。マヤ、通信は維持したままにしておいて」
はい、と返答をするマヤ。
「では、第3フェイズへ移行します」
???―
次に現れたのは、学校の屋上であった。
シンジを挟むように、アスカとレイが座っている。それに向かい合うように、中央にトウジが座り、その両側にヒカリとケンスケが座っていた。
「琥珀さんのお弁当、おいしい・・・」
「そうだね、琥珀姉さんは料理上手だから」
「へえ・・・アスカ、少し分けて」
「いいわよ、代わりに卵焼きちょうだいね」
「・・・トウジ、後で感想ぐらい言ってやれよ?」
「なひを・・・ひゅうて・・・ふぇんすふぇ」
車座になって、6人で一緒に昼食を摂る時間。
口におかずを入れる度に、幸せそうに顔を綻ばせるレイ。そんなレイを、包帯越しに嬉しそうに見つめるシンジ。互いのお弁当に箸を伸ばしあうアスカとヒカリは、それぞれの出来栄えに感嘆している。大きな弁当箱に、まるで顔を突っ込むかのように食べるトウジを、総菜パンを食べるケンスケが呆れたように見ている。
平和な一時が、そこにあった。
『・・・これが、シンジ君の楽しい一時なんですね』
シエルの声が静かに響く。
「遠野君は、私達と一緒にいる時間を、楽しいと感じてくれていた」
「そうね」
やがてノイズが走り、今度は穏やかな光を放つ赤い球体が姿を現した。
「これなのね」
大切そうにレイが取り上げる。
「シエルさん、あと何個集めればいいの?」
『次で最後です』
「何かある訳?それに、何で最後ってわかるの?」
どこか言い淀んだシエルの言葉に、アスカが目ざとく気づく。
『人間には喜怒哀楽の感情があります。遠野の家では、初めて家族という喜びを知った。捨てられた時には悲しみを知った。学校ではみんなと一緒にいる楽しさを知った』
「・・・じゃあ、次は」
『残るは怒り。シンジ君が絶対に、あなた達には知られたくないと思っている、現実にあった出来事なんです。私達はその事実を知っている。でも、あなた達には、それを見てもらわなければならないんです』
「・・・覚悟はできてるわ!シエルさん、案内して!」
『ええ、シンジ君を救ってあげてね』
そこに現れた光景を見た時、少女達は言葉を失っていた。
普段は感情が希薄なレイだが、今回はその白い肌から、いつも以上に赤みが失われていた。
アスカは、怒りで両手を握り締め、歯ぎしりしていた。目の前で繰り広げられる光景を止めたくて。
「・・・シエルさん!」
『事実なんです。遠野家で引き取られる際、司法当局が明らかにした事実。当時10才だったシンジ君の将来を案じて、この事実は公表されませんでした。ですが、だからと言ってシンジ君の心の傷が癒える訳ではないんです』
そこには10才のシンジが虐待を受けていた。殴られ、蹴られ、大人達に蹂躙されている。だが、何より衝撃だったのは―
『シンジ君が受けていた虐待は暴力だけではなかった。性的な意味でも受けていたんです。シンジ君はあなた達に好意を持っている。でも自分にそんな過去があるなんて、好きな人に知られたい訳がない』
「・・・遠野君・・・」
崩れ落ちるレイ。その赤い瞳から、涙が落ちる。
「・・・やめて!もう、やめてよ!」
干渉できない、過去の記憶と知りつつも、アスカは目の前の光景を止めようと飛び出していく。だが彼女がいくら、その拳に怒りを込めて殴りかかっても、目の前の光景は無情にも続く。
「シンジに触るな!」
『・・・アスカさん・・・』
「シンジに触るな!おまえ達みたいな汚い大人が触るな!」
アスカの叫びが虚しく響く。やがて、その光景はノイズが走り、消えた。
残されたのは、不気味なまでに黒い光を放つ、漆黒の球体。
それをアスカは、自分の胸にかき抱くように押しつけた。
「・・・シンジ・・・シンジ・・・」
ボロボロと泣き続けるアスカを、シエルは見守ることしかできなかった。
沈黙を続ける少女達を、シエルは黙って先導していた。
『二人とも、準備は良いですか?』
「・・・何?」
『この先にシンジ君がいます』
その言葉に、少女達が気まずそうな顔を見せていた。
『できる事なら知りたくはなかったでしょうね』
黙ってコクンと頷く2人。
『でも必要な事だったんです。それだけは理解してください』
再びコクンと頷く少女達。
『さあ、行きますよ』
同時に、明るい光が差し込んできた。
突然の出来事に、少女達は声もない。
視界を埋め尽くすのは、街路樹のように、整然と並んだ樹木だった。空からは暖かな日差しが差し込み、心地良い暖かさを齎している。
その世界の中に、人影が存在していた。
芝生に座りこむ人影は、その座り方とスカートを穿いている事から女性と思われた。顔は逆行となって分らない。
「・・・良く、ここまで来たわね。零号機パイロット綾波レイ、弐号機パイロット惣流=アスカ=ラングレー、で良いわね?」
「アタシ達の事、知っているの?」
「ええ、よく知っているわ。もう1人いるようだけど、静かにしていて貰えるかしら?私には知るべき義務があるのだから」
その言葉に、今まで身近に感じられたシエルの気配が、少し遠くなった事を、少女達は敏感に感じ取っていた。
「・・・あなたは誰?」
「そうね、紹介させて貰うわ。私の名前は碇ユイ。碇シンジ、あなた達にとっては遠野シンジの実の母親よ」
碇ユイを名乗った女性の顔が、初めて陽に照らし出される。その顔には、確かにシンジの面影があった。何より、シンジにとって妹である、レイと瓜二つである。
「シンジのママ」
「そうよ。エヴァンゲリオン初号機の中で、ずっとシンジを守ってきたのは私。お腹を痛めて産んだあの子を、ずっと守ってきたの。でも、それももう終わり」
急にユイの雰囲気が変わる。
「シンジは帰さない。外にいれば、あの子は辛い思いしかしない。シンジが初号機に取り込まれた事で、私はシンジの全てを知ったわ。だから帰しはしない」
憎悪を瞳に宿したユイが立ち上がる。
そのお腹は、妊婦のように膨らんでいた。
発令所―
「大変です!初号機のS2機関が稼働開始しました!5つ全てが稼働しています!」
突然の凶報に、リツコが全体の統括も忘れて、慌ててコンソールに飛びつく。
「現状維持を最優先!進行タスクは全て一時停止!」
キーボードに指を走らせるリツコ。マヤもそれに続く。
「ケージから緊急連絡!初号機よりATフィールドが発生!」
青葉の叫びが、発令所の混乱に拍車をかける。
「・・・まさか!初号機?初号機が拒絶しているというの!?」
リツコは必死にキーボードを操りながら、初号機を見つめていた。
???―
「あなた達は特別に見逃してあげる。あの子が好意を持った人間を殺す訳にはいかないから。だから、すぐに帰りなさい」
ユイの放つ威圧感に、少女達は完全に呑まれていた。
だが、それでも必死に言葉を紡ぐ。
「・・・ダメ・・・遠野君は連れて帰るの・・・」
「・・・シンジはアタシの事を・・・真剣に考えて・・・返事をするって・・・約束してくれた・・・だから・・・引き下がれない」
「そう。それなら、あなた達も私の中に来なさい」
ユイの言葉は、二人にとって想像外のものであった。
「私はあなた達を殺す訳にはいかない。あなた達はシンジを置いて引き下がれない。それならば答えは一つ。あなた達もシンジと一緒に、私と一つになれば良いのよ」
「「・・・一つに?」」
「そう、あなた達にはその資格がある。レイ、あなたは初号機に取り込まれた私が産んだ娘なのよ。碇ユイと第2使徒リリスでもある初号機の遺伝子を持った、人類と使徒のハーフ。それがあなた、綾波レイ」
動揺をはっきりと表に出すレイ。シンジと出会う前の彼女なら、動揺どころか、眉一つ動かす事は無かったに違いない。だが心を成長させてきた今のレイにとって、自分の素性をアスカに知られる事は、最も忌避したい出来事であった。
嫌われたくない、遠ざけられたくない。様々な感情が渦巻いているその顔は、蒼白と言っていい。
「考えてもみなさい。あなたとシンジが兄妹である限り、あなたはシンジの伴侶にはなれないわ。それに、あなたの真実を知ってなお、人類はあなたを受け入れてくれると思うの?答えはNO。火を見るよりも明らかよ。それが現実なの。それなら、ここで一緒に暮らしましょう」
ガクガク震え、地面に膝をつくレイ。アスカが必死に揺さぶる。
「・・・私は・・・私は・・・」
「しっかりしなさい、レイ!アンタの正体がなんであろうと、そんなの関係ないでしょうが!」
「・・・友達思いなのね、あなたは。そんなに必死になるとは思わなかったわ。キョウコの一人娘、アスカ」
名を呼ばれたアスカが、ユイをキッと睨む。
「レイはアタシの友達だ!一緒に戦う仲間だ!そして・・・ライバルなんだ!それを傷つけるアンタを、アタシは絶対に許さない!」
「その真っ直ぐな所、好感が持てるわ。でも、いいの?もし、シンジがあなたを受け入れてくれなかったら、あなたは今まで通り、シンジと接していけるの?」
図星を刺されて黙り込むアスカ。
サルベージ計画における自らの役割を教えられて以来、ずっとアスカを束縛してきた感情が、はっきりと鎌首をもたげた。
シエルには大丈夫だと断言したものの、もしかしたらシンジに嫌われるかも?という不安が全く無かった訳ではない。
アスカの心に僅かに残っていた小さな棘が、絶え間なく彼女を責め立てる。
「キョウコはね、アタシの親友だったのよ。私達、仲が良くてね、お互いの子供が男の子と女の子だったら、結婚させましょうね、って約束もしたわ」
「・・・え?」
「でもね、それだけだったら、私はあなたを受け入れるつもりはなかった。けれど、ここへ来るまで、あなたはシンジの過去に怒りと悲しみを感じてくれた。その事について、私は本当に感謝しているの。シンジをそこまで真剣に想ってくれているんだな、って」
初めて見せたユイの微笑みに、アスカは束の間ではあるが見惚れていた。
「さあ、私の中においでなさい。シンジも待っているわ」
優しく差し出されたユイの手に、アスカは右手を持ち上げた。そして―
パシンッ!
「みくびるな!私は惣流=アスカ=ラングレー!アンタの情けがなければ、シンジを想えないような女じゃない!」
アスカの啖呵に、レイが思わず顔を上げた。
「シンジに嫌われるのが怖い?ええ、確かに怖いわよ。でもね、たかがその程度の事でしょうが!シンジが私を向いてくれないのなら、シンジが頭を下げて『付き合ってください』と言ってくるような良い女になれば良いだけじゃない!」
「・・・でもシンジは自分の過去をあなたに知られてしまったわ。決して知られたくない過去を」
「それがどうした!シンジがメソメソしてるのなら、アタシが首根っこひっ捕まえて引きずり出してやる!アタシにだって知られたくない事はあるわ。だから」
ズイッと前に出るアスカ。
「シンジ、教えてあげる。アタシは正気を失ったママに捨てられたわ。ママはお人形をアタシだと思って、お人形と一緒に自殺した。エヴァのパイロットになった日に、ママに教えようと病室へ飛び込んだアタシが見たのは、天井からぶら下がっているママだった」
涙を浮かべながら、言葉を紡ぎ続けるアスカ。
「ママが亡くなってすぐ、パパは再婚した。ママのことなんて忘れたみたいに。それからだった、アタシが早く大人になりたいと思ったのは。必死に努力して、背伸びして、大人として見てもらおうとした」
ユイのお腹に、アスカが手を伸ばす。
「良いじゃない、汚れていたって。良いじゃない、心に傷があったって。それでもアタシ達は前に進んでいけるんだから。辛くなったら立ち止まって、お互いに慰めあって、それから、もう一度歩き出せばいいんだから。アタシ達には、時間だけはタップリあるんだから」
ユイのお腹に、アスカがそっとキスをする。
「惣流=アスカ=ラングレーは、遠野シンジを愛しています。シンジがどう思おうと、それがアタシの真実。嫌われたって良い。だから、一緒に帰ろう。シンジが守りたいと思うみんなが、シンジを待っている。その隣を、アタシとレイが歩いてあげる。だから、これを返すね」
シンジの心の欠片を、アスカがユイのお腹に近づける。それを見たレイも、同じように欠片を近づけた。
そして4つの欠片は、静かにユイのお腹へと消えていった。
発令所―
「初号機ATフィールド、以前増大中!」
「S2機関、止まる気配はありません!」
「みんな、諦めては駄目よ!」
リツコの檄に、職員達が必死にキーボードを操っていく。
「秋葉さん!そちらは大丈夫ですか?」
『ATフィールドですか?紫の壁のおかげで、初号機には近づけませんが、他の異常は見当たりません。ただ』
「ただ?」
『私です、シエルです』
突然、切り替わった声に、面食らうリツコ。
『こちらで、できる事は全て終了しました。あとは子供達次第です』
「初号機の中で、何かあったんですか?」
『碇ユイ。この名前に聞き覚えはありますよね?』
「・・・ええ、よく知っているわ」
『今、シンジ君を帰そうとしないのは、彼女―碇ユイの意思によるものです。あの子達が彼女を説得できなければ、シンジ君は帰ってこない』
唇をかむリツコ。彼女は初号機の中に、碇ユイが存在していることを知っていた。だからこそ、ユイがシンジを守るであろうことも。それは間違いない事実である。
だが基本的な事を失念していたのだ。
シンジの辿ってきた道のりを考えれば、ユイがシンジを帰す訳がない事を。
その不安を現実化するように、マヤの悲鳴が響いた。
「エントリープラグが強制排出されます!」
ケージ―
滝のように流れ落ちるLCLを前に、シエルと秋葉は茫然とする事しかできなかった。
LCLにはシンジの全てが溶け込んでいた。それが排出されてしまえば、もう二度と、シンジをサルベージできない。
弟の消失に、二人の姉はガックリと肩を落とす。
その時だった。
「・・・シンジ・・・」
「・・・遠野君・・・」
ムクッと起き上がる二人の少女。
「あなた達・・・」
声のかけようのないシエル。だが少女達は首を左右に振ると、ベッドからその身を起こし、ゆっくりと初号機に近寄った。
彼女達は無言のまま、初号機のコアへと手を触れる。
「・・・聞こえてるでしょ、シンジ。一緒に、家へ帰ろうよ」
「遠野君、私、遠野君と一緒にいたいよ」
ジッとコアを見つめる少女達。
『初号機のS2機関、止まる気配がありません!』
『初号機の内部に異常発生!高密度のエネルギーがコアに集中していきます!』
危険を感じた発令所から、ケージへ緊急避難の連絡が入る。だが少女達は、全く動こうともしない。
そんな彼女達を守るべく、シエルと秋葉が二人と初号機の間に割って入ろうとするが、それを少女達自身が制した。
「大丈夫、あれを見て」
アスカが指さした場所、コア。その内部に見える、黒い影。
影はゆっくりと中から外へ向かってくる。やがて―
パシャン
LCLとともに、コアから出てくる黒髪の少年―
「馬鹿、どれだけ心配させれば気が済むのよ・・・」
「ごめん」
「本当はさ、おかえり、って言うつもりだったのに・・・アンタが馬鹿だから・・・」
胸に顔を埋めて嗚咽を上げる少女を、少年が優しく抱きしめる。
「・・・心配・・・したのよ・・・」
「・・・心配、かけてごめんね。レイ」
「遠野君!」
レイもまた、シンジに飛びつく。やがて通信を通して、発令所から歓声が聞こえてきた。
自分を見つめる、2人の姉の眼差しに、シンジが『ごめん』と口にする。そして―
「ありがとう、お母さん。僕を守ってくれて。それから・・・行ってきます」
緑の瞳で初号機を見つめるシンジの顔には、混じりけのない笑顔が浮かんでいた。
To be continued...
(2010.10.02 初版)
(あとがき)
紫雲です。今回もお読み下さり、ありがとうございます。
今回はシンジの過去に焦点を当ててみました。ただ単なる過去編ではなく、サルベージ計画の成功を左右する大きな鍵であり、同時にアスカとレイにとっても、自身に大きな影響を与えるようにしたいと思い、こんな感じで仕上げてみました。
シンジの過去については、シンジにとっての最大の不幸として、最初から決めていました。とは言え、具体的な描写は避けてサラッと流していますので、もしかしたら物足りない方もいるかもしれません。もし物足りないという方がいましたら、どうか脳内補完でお願いいたしますw
次回ですが、やっと番外編2になります。第3新東京市を舞台に繰り広げられる、マジカルアンバー琥珀と、マッド赤木の全面戦争(ご両人とも良い年齢して何やってるんでしょうw琥珀は設定上25歳、リツコは30歳なのに・・・)。生贄として巻き込まれるアスカとレイ。事態解決の為に乗り出すシンジと都古。彼らの活躍をお楽しみください。
それではまた次回もよろしくお願いいたします。
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