ようこそ、最終使徒戦争へ。

第一章

第一話 目覚めた時

presented by SHOW2様


白い砂浜−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−





「じゃ、行こうか。」


左手に、紅い本を持った少年が呟く。


「{我が力は全て綾波レイのために。

  我の望みと、綾波レイの願いの為に我の時間を過去に。

  我と、我が中にいる綾波レイの魂、リリスの本を過去に。

  我は、我と綾波レイの願いの力である。}」


シンジは言葉へ神気を集中させると、

 その{言 霊}の力で、反次元虚数海である”ディラックの海”を利用し、時間への干渉を開始した。


少し離れた所に佇む、朽ちた杭に打ち付けられた白いロザリオが見たモノは、

 少年の体の輪郭が淡く輝き、瞬く間にその周りの景色が歪み始め、目も眩む様な明るさになった刹那、

  ”ポンッ”という音と共に、そこに在ったモノはなくなったという事実だった。

白銀の少年から見える紅くなった周りの景色は”ぐにゃり”と歪み、

 天と地が混ざり次第に霞んで光が消え、自身は暗闇の中に在った。



………暗い濃い闇の空間。



暫くすると、遥か遠くの一点に光が見えてくる。

(…うん? あ、あそこ? …あれ?)

なぜか、その光を見たシンジは無意識に”あれが戻るべき過去”なのだ、と感じた。

少年が、真紅の瞳と意識をソコに向けると、あくまで感覚的にではあったが、

 ”光”に、その遥か遠い輝きに見られたような気がした。

(…? あれ? えっと、ど、どうすればいいんだ?)

シンジの想像では、”逆行”というモノは、漠然的に過去を望めばいいとしか考えていなかったので、

 このような何の変化もない静寂に包まれた世界に、ちょっと不安を覚えて途方に暮れてしまった。

暫くすると、遠くに見えていた光が変化し始め、光の帯のようにシンジの方を照らし始めた。

(ホッ…よ、良かった。 何か動き出したみたいだ。)

僅かに、その”ほっ”と安堵したような心の波動を感じてレイが聞く。

『…どうしたの、碇君?』

『あ、綾波。 …な、なんでもないんだ。』

『ん? しんちゃん?』

なぜか、リリスからもジト目のイメージがやってくる。

『………あははは。』


……ちょっと、カッコ悪いシンジだった。





反次元虚数空間−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−




その光に照らされた空間と呼ぶべきソコは、前回使徒戦時に入ったことのあるディラックの海とは違った。


……巨大なトンネルのように見える空間。 


遥か遠い輝きに続いている一本の巨大な筒。

”ぼんやり”と光に浮き上がっているような、その大きな円形の下側に視線を動かすと、

 そのトンネルの内側を薄っすらと照らしていた輝く光は、”ゆっくり”と動いていた。

更によく見ると、その淡い輝きは止め処ない大河のようにゆっくりと、

 遥か先から流れてくる黄金色の液体のようであった。

その液体を光源と照らされたトンネルの壁面を見ると、見覚えのある光景が徐々に見え始めた。

周りの様子を見ていた少年は、先程まで黄金色の液体の上に浮かぶようにいただけのハズなのに、

  ふと気が付けば、遥か先の上流に向かって飛ぶような速度で移動していた。


……シンジは、その上流から流れてくるような周りの映像を見ていた。


ふと、右側の壁面のその光の映像を見ると、


……大きな白い女性によって優しく抱えられているように浮いている黒い球体。


また、左側の壁面に視線を向けると、


………近くにいる白の巨人と戦っている赤の巨人。


シンジは、そのだんだんと鮮明になってきている、今ではトンネルのあらゆる所で動いている映像が、

 まるで自分の記憶を巻き戻して再生しているビデオを見ているように思えた。


…………灰銀色の髪を掻き揚げる少年の笑顔。

……………目の前で、膨大な光に消えた青の巨人。

………………片腕で爆弾を抱えて疾走する青の巨人。

…………………青の巨人に組み伏せている、黒の巨人。

……………………視界の下に見える漆黒の影に消える紫の足。


シンジは、”それら”を自身の辿った過去の映像を呆然としながら見ていた。

(そう、やっぱりそうなんだ。だよね、全ての始まり。最初だからだよね。僕らの物語のスタート地点は。)

彼は、次々と変化して行く記憶の映像を”ボンヤリ”と見て、

 無意識に、やはり2015年に過ごしたあの街に戻るんだと、漠然と考えていた。


………………………烏賊のような巨像から光る紐が波打ち飛んでくる。

…………………………胸に2枚の仮面をつけた巨人が振り向き、ゆっくり向かってくる。


(…あぁ、そろそろだな。)

少年は映像を見ていたが、一向に周りのスピードが落ちてこないことに気付いて、慌て始めた。

(…え?)

そして映像は、減速する事もなく”あっ”という間に過ぎていく。


……………………………ドリフトして横付けに停まる、青い車が。


(えっ、ちょ、ちょっと!?)

シンジとしては、ソレ処ではなかった。


……いったいどこまで戻ってしまうのか!?


(ダメだ!! …くぅ! と、止まれ〜!)

慌てて逆行を止めようと意識してみたが、一向に止まる気配も、減速する気配もない。

シンジは必死に、願った。


……頼むから、お願いだから、止まってくれ、と。





予想外の分岐点−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−





……シンジは必死だった。


このトンネルは無情にも、

「まだまだ記憶の続きを見てね♪」

 とでも言うように唯々映像を再生し、最初に見えたあの光の点も相変わらず遥か遠くのままであった。

そうこうしている内に、

 シンジの周りの景色は、あの淡々とした何の変化もなかった、小学校時代へと戻っていた。


……誰もいない教室で、チェロを弾く男の子。


(ああ、この時…先生以外は誰も聞いてくれなかったんだよね。)

ふと、その映像を見たシンジの心が微かに震えた。

『…碇君?』

シンジの中にいるレイは、少年の心の微妙な変化も如実に感じ取っていた。

その優しく、包み込む様なレイの温かい心に対して、

『フフッ… 大丈夫だよ♪ 今は綾波もいるし、寂しくなんて……………』


……その頃、トンネルの景色はシンジが小学校4年生あたりの映像になっていた。


『…ぜんぜんないよ。』


と、言いたかったのだろう。 


……しかし、言えなかった。


シンジが護ると誓った少女の心が、レイの心が、少年の胸の裡から留める間もなく、

 何もできない一瞬のうちに、彼の中から離れてしまったのだ。



「えっ!? あ、あやなみ!! 綾波!!! 綾波っ!!!!」



シンジはワケが判らず、急いで振り返ると、

 もう今では遥か下流に淡く輝くように見える光に向かって叫んでいた。

「どうなっているんだよ!!! …止まれ、止まれ、止まれ、止まれよ!!!!

 あなやみ!! あやなみ!!! リリス!! どうなっているんだよ!?」

彼は左手に握られている紅い革の本に向かって叫んだ。

「リリス!! ふざけている場合じゃないんだよ!!!

 ねぇ? 何、黙っているんだよ!? …ねぇ、答えてよ!?」


彼は、何回も本に向かって必死に叫ぶが、その本は、いつものあの陽気な声で答えてはくれなかった。


……シンジは、あの紅い世界に居た時に感じた事もないくらいの、深々とした絶望感に襲われていた。


折角、お互いの心が判り合った。 掛け替えの無い少女がまさに心の裡から消えていってしまった。

自分が抗おうとも、このトンネルの進行は無情にも決して止まってくれない。


「いやだ!!
 
  ………ぁあ!!あああぁぁぁあ!!!」



叫ぶシンジは、周りの景色がやっと変わってきた事にも、全く気付く余裕はなかった。



「ああああ!!!!! あっ、あやなみ! ………ぁっあああああ!!!!


  ……………あぁ、ぁぁぁぁ、、、、」


少年は、自身の脳が焼き切れるほど必死に少女を想い、助ける方法を考えたが、何も浮かばなかった。


その何も感じなくなる暗闇に、絶望と虚無の果てに、シンジはその一瞬、

 微かに見えたモノに向かって口を開き、一言だけ呟くとそのまま気を失った。


「……れい。」





目覚めの刻−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−





……宵闇の夜。


………蒼銀色の月の光もない闇夜。


何も映さない暗い空間の中、苦しげに呻く声が聞こえる。

「あぁ、…………ぁ!………
 
  い、いゃだ!………………」

苦しげな声が叫びになる。

「……っあやなみ!!

  ああああ!!!!!あっぁっあああああ!!!!

   ……………あぁ、ぁぁぁぁ、、、、」


”…スラッ!”


その声を聞き、慌てて部屋に入ってくる母親。

「シンジ? どうしたの? シンジ!? …しっかりしなさい!!!

 シンジ! ……あぁ、シンジ。」

非日常的な光景が繰り広げられる暗闇の中、母親が愛するその頬に手を添え、

 我が子を呼ぶと、その声に呼ばれるように薄っすらと子供は瞼を震わせて、ゆっくりと瞳を開けた。


……雲間に隠れていた、月が”サァッ”と浮かび上がり、その一瞬、部屋に蒼銀の光が舞い降りた。


蒼くなった部屋の中、母親に映ったのは燃えるような、深いルビー色の瞳。


「……れい。」


母親がその見慣れぬ紅い瞳を呆然と見入る中、シンジは気を失い動かなくなった。



「…どうしたんだ、ユイ?」



近所でもおしどり夫婦とまで呼ばれるほど仲睦まじい、この二人が揃って自宅にいる事は珍しい事であった。

ハッキリとは分からないが、何やら共稼ぎの上、不規則な仕事をしている、

 …というのが近所の専らの風評だった。

お互い研究員として、日々充実した毎日を送るこの二人に掛け替えのない、

 安らぎに満ちた時間を与えてくれるのが、先ほど苦しんでいた子供であった。

母親は、愛して、愛しても足りない位の愛情を子に注いでいたし、

 …父親は生来の無愛想ではあったが、もちろん常に妻を愛し、子を慈しんでいた。

父親は、今、母親の腕の中で抱かれている動かぬ子供を見ようと、部屋の明かりを点けた。


……ベッドの傍らにいる愛妻の腕の中に見えたものは、見慣れぬ白銀色の髪だった。 


想像にもない”モノ”を見た父親は、言うべき言葉を失ってしまった。

「? …なに? ユイ、シンジを見ろ!」

慌てているゲンドウが珍しいのか、ユイは夫を”ポカン”とした表情で見ていた。

「お、おい、ユイ! …しっかりしろ!」

言われた言葉の意味を、やっと耳から頭に入れる事に成功したユイは、

 明るい蛍光灯の光に漸く慣れた二つの眼を愛しい子に向けた。


……腕の中にいる子は確かに、愛しい我が子。


腹を痛めて産んだ子供だ、間違えようがない。

鼻を擽る向日葵の笑顔と同じ太陽を思わせる、その香りもいつもと一緒だ。

だが、今、ユイの瞳に映っている子供の髪は、僅か数時間前まで見ていた色とは全く反対の色だ。

「……え? え?」


……ユイの瞳は正常に映像信号を脳に発信中だが、

 彼女の一般では天才と言わしめる程の頭脳は、どうやら着信拒否らしい。


子を抱きながら、茫然自失となっている妻より早く自己の再構築に成功した夫ゲンドウは、

 愛する妻と、子に歩み寄った。

「こ、この子は…シンジ……だな?」

彼は、子供の顎に手をやり上に顔を向かせて、確認するように見ながら言った。

「あ、当たり前でしょう!! 何を言っているんです!? ゲンドウさん?」


……ユイは、夫の声で再起動し、自分に言い聞かせるように言った。


しばらく、繁々と我が子を見ていた二人は、これからを考えた。

そして、ゲンドウとユイは外へ出掛ける準備をし、車の置いてある車庫へシンジを抱いて連れて行った。


……自分たちが日頃行っている仕事のせいか、

 それとも、今、この子供に起こった事を予想し対処出来るお互いの知識のせいか、

  二人は、一般的な親が行なう事をしなかった。


この日、近所の夜間救急外来設備を擁する病院の電話は、珍しく1本も掛かってこなかった。





両親との邂逅−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−





”ピッ…ピッ…ピッ…ピッ…ピッ…ピッ…ピッ…ピッ”



………白の世界、その部屋。



……定期的な電子音が聞こえる。


そこは、病院のような部屋だった。

シンジは、規則正しい電子音を聞いて眠そうに瞳を開けた。

「う、ん。 …ぅう?」

その音の方を見れば、自分の生存を証明してくれている心電計の音だった。


(あれ? ここは、どこだろう?)


ここはドコで、一体いつからココにいるのか?

周りを見ると、窓があり、その先に見える景色は、穏やかで暖かそうな日の光に溢れていた。

まるで、二昔前のテレビドラマの主人公のような事を取り留めもなく考えてみたが、

 相変わらず自分の状態を把握できず、”ぼけっ”と天井を見ていた。

その時、”カチャ”と、ドアが開く。

「…?」

音のした方を何気なくシンジが向くと、ソコから入って来たのは、

 優しそうな微笑みを浮かべている女性と、黄色い眼鏡を掛けている男性だった。

今はちょうど、昼頃のようだ。 

その女性の手には、パンやハムの載った皿が見える銀色のトレイがあった。

そして、やはりここは病院なのだろう。


……その二人は揃いの白衣を着ていた。


「あら、しんちゃん。 起きたのね。 …ホント、よかったわ。」

ダークブラウンのショートカットの髪にシャギーを入れた女性。

この病院で働いていると思われる彼女は、学生にも見える。

大分幼い、という顔の造り。 童顔というべきか、見たところ20代前半ではなかろうか?

その女性は黒曜石のように美しい黒い瞳に優しい微笑みを浮かべたまま、ゆっくりとベッドに近付いてきた。

彼女に付き添っている男性は30代半ば位で、髪も瞳も黒く、背は大きく体格は”がっしり”としていた。

彼は、女性と違って、その表情は一見何の興味もないのか、その顔は無表情だった。

しかし、無言のまま子供が寝ていたベッドを緩やかに起こし、

 女性が何も言わないうちに備え付けのテーブルを用意した。

ショートカットの女性は、その行動をさも当然とした様子で、特に気にする事も無く、

 ベッド横の備え付けのイスに座りながら、テーブルにトレイを置いた。

”…コトッ”

「しんちゃん、大丈夫?」

上体を起こされた子供の顔を覗き込むように顔を近づけ、心配そうに聞いてきた。

「…あの、すみません。 ここはどこでしょうか?」

シンジは、どこか綾波レイに似たこの女性に既視感を憶えつつ、丁寧に質問した。

「あら! …まぁ、いやね。 この子ったら、どうしちゃったの? 

 まるでここを知らない、どこかのお兄ちゃんみたいな事を言って。

 それとも、お母さんの事、忘れちゃったのかなぁ?」 


……シンジは、”お母さん”という言葉に、大きく目を見開いた。


そして、朗らかな声で答えた彼女の髪、瞳、鼻、唇、頬、顎を”ゆっくり”というより、

 まるで時間が止まってしまったかのように”まじまじ”と見ていた。

「あら、まぁまぁ。 …そんなにお母さんの事”じっ”と見て。 どうしちゃったの?」

女性は柔らかい微笑みを浮かべたまま、小首を傾げた。

「お、ぉかあさん?」

子供は、そう言って驚いた表情のまま動きが止まってしまった。

微笑んでいる女性の顔から視線をずらさない子供に、隣に立っていた男性が漸く口を開く。

「シンジ、何を言っているのだ? まさか、パパもママも忘れてしまったのか?」

「…へ?」

その言の葉を聞いたシンジは、”バッ”と視線を男性に向けた。

「…む? 何だ、シンジ。 …パパの顔に何か付いているのか?」

男は、そう言って自分の顔に手をやって頬を擦った。

「…ぱ、パパぁ?」


……変化した表情の大きさを比べると、今、子供が驚いた”ソレ”よりも、

 普段と様子の違う我が子を更に心配して青ざめた二人の表情の方が勝っていた。


「ゲンドウさん、やっぱり、何かしらの病気、あるいは後遺症かしら?」

「…むう。」


………子供は黄色いメガネの男を見たまま、石のように固まっている。


「…突発性遺伝子情報の変異、障害については、過去にも幾つかの事例があります。

 でも、やはりできる検査は、全て実施した方が良いんじゃありません?」

「むう…しかし、通常のヘルスチェックでは、特に異常は認められなかった。

 これ以上の検査となると、DNAチェックくらいだな。」

「ええ。 この子の変容を見れば、余り人の目に触れさせない方がいいと思いますわ。

 もしもの場合でも、この部屋にいる限りは、特定の職員にしか知られる心配はありませんもの。

 …原因が何も分からない今、完全な検査を行なうのであれば、直ぐの方が良いですわ。」

突然、親と名乗った二人は、子供が呆然と見ている中、その様子を気にすることもなく会話を進めていく。

「…あ、…え、と、お母さん? …お、お父さん?」

ようやく言葉の意味を理解したシンジは、初めて口にする単語のように”たどたどしい”口調で言った。

「む、どうした、シンジ? ナゼいつものようにパパと呼ばん?」

「…はぁ。 もう。 ゲンドウさん? 今はそれ処ではないでしょう?」

「む? しかしだな、ユイ。 男の子がパパと呼ぶ時期は女の子よりも遥かに短いのだ。

 私にとっては重要で貴重な今の幼い時期を……」

「すぅ…あなた!!」

息を肺に溜めて、一気に吐き出した妻は、少しキツイ視線を夫に向けた。

「う! す、すまん、ユイ。」

そんな夫婦漫才を見せられたシンジは、

 これは遠い忘却の彼方にあった、求めていた”家族”というものだと感じる。

「…ぷ! く、あははは…」

子供は、肩を揺らして笑い始めた。

「あら……フフッ。 しんちゃん、やっと笑ってくれたわね。」

昨日の深夜から、心配の余り…というよりも、子供のその変化に普段の余裕がなかったユイも自然と笑う。

「しんちゃん、何も心配は要らないわ。 …さぁ、お腹、すいているでしょ?」

「う、うん。」

子供はそう言われて、目の前の銀色のトレイに載っていたパンを見て、

 下を見ながら怖ず怖ずと手を出し、食べ始める。


……そんな様子を両親は”じっ”と静かに見守っている。


シンジはパンを咀嚼しながら、その養分が頭に回ってきたのか、先ほどの両親の会話を逡巡し始めた。

(もぐもぐ………ごくん。)

「あ、あの、検査って?」

「こら。 そんなに慌てて食べないの、消化に悪いわよ?」

「ご、ごめんなさい。 って、あの、僕ってドコか悪いの?」

「シンジ、これを見なさい。」

ゲンドウはそう言って、徐に鏡をシンジの顔が見られるように差し出した。

「え? っ!!! …あ、あ、あぁぁぁ!」

その鏡に映っていたのは、紅い瞳、白銀色の髪、白磁色の肌。

シンジは鏡に映る子供を見て、”自分”を思い出した。


……そう、紅い世界、見出した喜び、巨大トンネル、映される映像、そして在り得ない絶望を。


「し、しんちゃん、落ち着いて!! ほら、こっちを見なさい!!」

シンジの体が”ガクガク”と大きく震え始めたのを見たユイは、

 慌てて両手でシンジの顔を自分に向かせて、彼の瞳を見詰めながら呼びかけた。

「……ぅあ。」

子供は、呆然とその黒い瞳を見ると、徐々に震えが治まって落ち着きを取り戻した。

「シンジ、今おまえが見たように、体の色が変わってしまっている。

 おまえが寝ている間に、色々検査をしたが、どうやら病気ではないようだ。

 ……しかし、体を元に戻す為に、更に詳しい検査をしたいのだ、分かるな?」

その様子を見ていたゲンドウが言ったが、子供は頭の中で違う事を考えていた。

(…そうだ、そうだよ。 父さんとか、母さんなんて突然言われたから、

 今までの事なんて出てこなかったよ。 …えっ!? ってことは…)

やっと、自分の姿を見て事態を把握し始めたシンジの頭に、ある疑問が浮かび上がってきた。

「じ、じゃあ今は、一体…いつなんだ?」

子供は父の手から鏡を取り、”じっ”と自分を見ながら無意識のように呟いた。

(え? いつ? …どういう事?)

その様子を見ていたユイは、シンジの呟きを聞いて、その事を考えながらではあったが、

 変わらぬ笑顔のまま答えてあげた。

「…なに言っているのよ、シンジ? 今は2004年の4月2日よ?」

動くモノがないような、沈黙の空気が部屋にはあったが、シンジの脳内は激しく動いていた。

(2、2004年!? ど、どうして? てっきりあの街からスタートすると思っていたのに!

 じゃあ、ここは、どこ? この人たちは、本当に、父さんと、母さんなの?)

「…と、父さん、ここは病院なの?」

ゲンドウは、眉を”ピクッ”と動かした。

「ち、パパだというのに、…っ! ご、ごほん! ここは、パパとママの研究所だぞ、シンジ。」

”ギロリ”と睨んでいるユイに気付いたゲンドウは、慌ててシンジの方を向いた。

「そうよ、しんちゃん。 普通の病院よりも設備もいいし、検査が早いから、研究所に連れて来たのよ。」

夫から子供へ顔を動かしたユイは、その一瞬で表情を微笑みに変えた。


そう、ここは確かに病理設備の整った部屋ではあるが、一般人には決して入れない、

 国連直轄の人工進化研究所だった。





研究所の実験−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−





シンジはあの後、疲れていたのだろうか、昼食を食べている最中に意識を失うように眠ってしまった。

それをお互い見やったゲンドウとユイは、シンジの白銀の髪からDNAを抽出し、検査を開始する。

ここは、世界を見渡しても類を見ない程、最新鋭の医療機器を始めとした多種多様な研究設備が整っていた。

異変を起こしているDNA検査も後、数時間で終わるだろう。

その結果を待つゲンドウ、ユイは何をするともない、緩慢な時間というものを感じていた。



………部屋。



主人公である男の子は、というと。

今はお子様の姿ではあるが、どうやら気が付いたようだ。

彼は”ゆっくり”とその瞼を開けた。

今、周りに人の気配は感じられなかった。

そこは、記憶にない天井、暗い部屋だったが、窓から遠慮するような蒼銀色の月明かりが入ってきている。

今の自分を取り巻く事態を思い出し、次第に覚醒してくる意識。

(あれからどうなったのだろう? …ここ…研究所って?) 

心の中にいるハズだと、そう信じたい、レイを意識してみるが、

 靄が掛かったような心の裡に何も感じる事はできず、またいくら呼びかけても返事はなかった。

この物静かな薄暗い部屋の中で強く意識を向けても、あの紅い世界は本当の記憶だったのか、

 それとも全て夢だったのか、シンジは何もかもが、ハッキリしなくなってきてしまう。

窓から見える淡い光の中に見える月を”ボンヤリ”と見ながら、シンジは心の中のレイがいない、

 という虚無感から、あの出来事は結局、夢だったのだと思い始めた。


……よく、虚無感というものは、心に穴が空いたような、と言われるが、

 間違いなく今この子供は、その小さな体から気力がなくなり、

  覇気が、生きる為に必要な一切の力がなくなっていた。


それ程までに、シンジにとっては、最早レイは自身の魂と同義であった。



………所長室。



”チッ…チッ…チッ…チッ…チッ…”

時計が時間を刻む、秒針を進める音がやけに大きく聞こえる。

”パラ…パラ…パラ…”

ユイは顔を上げ、落ち着かないように研究資料の分厚い書類を、捲っては戻している夫に声を掛けた。

「あなた、私はこれから一旦家に戻って、シンジの着替えを取りに行きますわ。

 あの子も、おもちゃとか、絵本とか、…とにかく気を紛らわすものが必要でしょうから。」

「む。 それならば俺が……」

「いいえ、ダメです。 ゲンドウさんに任せると、あの部屋は荷物だらけになってしまいますから。

 …ふふっ、私が行きます。 

 あなたは、シンジの側にいてあげて下さいな。」

無理に、それでも緩やかに微笑み、ユイは座っていた長椅子から鞄を取って立ち上がった。

「そうか、判った。」

ゲンドウは頷き、机に肘をのせ、顔の前で手を組んだ。

ユイが部屋を出た後、部屋に残された夫は、ゆっくりと深いため息をついた。



………自宅。



ユイは自宅に戻ると、洋服類を袋に纏めた後、不思議な感覚を覚えた。

(…ん?)

何かに引き寄せられるような感じだった。

ユイの視線は、ごく自然に階段の先に向けられた。

その視線の先に、今、自分の子供に起こっている、

 この不可解な事件とでも言うべき現象の答えがあるような気がしたのだ。

(そうよ、しんちゃんのオモチャも持っていかなくちゃ…)

母親は、ゆっくりと足を踏み出して子供部屋に続く階段を上って行った。

”…スラッ”

襖を開けて彼女が見た愛し子の部屋は、静かな月明かりに照らされていた。

”カチッ”

ユイは、その中を一瞥すると、明かりをつけてオモチャ箱の方へと足を向けた。

母は箱の中から、シンジのお気に入りの紫色のロボットを探す。

「…あら? ないわ。 おかしいわね。 …どこかしら。」

ユイは、いつもキチンと片付けができる、余り手のかからない我が子を誇りに思っていた。


……しかし、こういうときに限って、旨くいかないものである。


そして、普段であれば気にもならないような些細な事でも、母はシンジの体の異変に繋げて考えてしまう。

「…はぁ。」

(ふぅ…だめね。 こういう時こそ、不安になっている子供を支えなくちゃ。 

 親が”イライラ”しては、いけないわ。)

彼女は、かぶりを振って、自分の頭を切り替えようと、絵本の置いてある子供机の方へと歩いていく。


……ユイは、自身の瞳に映っている、その見慣れぬモノを見て、

 昨日から非日常の世界に足を踏み入れてしまったような感覚を更に強めていく。


「な、何、コレ? …本?」

その無意識に伸ばされた右手に取られた本は、見た事もない見事な深いルビー色とでもいうのか、

 紅い革でカバーされている小さな文庫本のようであった。

そして、彼女は無作為に本を開こうとした。

「…あ、あら?」

ユイは両手で開こうとしたが、いくら力を入れても、その本は全ての紙が接着されているかのように、

 1ページたりとて開く事はできなかった。

「…え?」

(…何かしら、この本…)

しばらく、見た事もない本を”ジッ”と見ていたが、彼女はなぜか、

 この本はシンジに関係しているのではないかと思い、最早、おもちゃの事も、絵本の事も、

  頭の中から綺麗に消えていた。


……ユイは、この本が解決の糸口になると思い洋服袋を手に掴み、シンジの許へと急ぐのだった。 



………研究所。



妻がオモチャ箱と格闘している頃、
 
 ゲンドウは、検査結果の出る前に息子の様子を見ようとゆっくり立ち上がった。

机に目をやると《 所長 碇 ゲンドウ 》と表記されたプレートが月明かりに浮かんでいた。

地上にある所長室は、一般に言われる社長室の4倍は軽くある広々とした部屋だった。

その部屋には、金属製の硬質な入口の扉とは違う温かみのある、

 ややオレンジがかった風合いのドアがあった。

ゲンドウは落としていた視線をドアのある右手にやり、どうしたものかと肩でため息をついた。

腕時計に目をやれば、短針は2と3の間にあった。


……夫婦は、ここ24時間、脳を休める事はなかったようだ。 


ゆっくりと、間違いなく寝ているであろう息子の邪魔はすまいと、静かに木製のドアに右手を掛けた。

普段であれば”カチャ”とでも金属のこすれるような音がしただろうが、

 今は父親の望み通り、音を立てる事はなかった。


(…シンジ。)


メガネを左手の中指で掛け直しながら部屋を見やると、寝ていると思っていた子は、

 蒼い部屋の中、上半身を起こしており、まるで彫刻のような影を作っていた。

…そう、人形と見まがう我が子からは人の気配、とでも言うのか、息遣いとも言えるものが、

 全く感じられない物体のような雰囲気を出していたのだ。


……あぁ、たった1日で何と言う変わりようだろうか!!


男は、息をする事が許されていないかのように、呼吸する事も忘れ、その光景に見入っていた。

その何も音を立てられない、一種異様な緊迫感から、その雰囲気からゲンドウは踏み入れた足を戻し、

 ゆっくりドアを閉めると、踵を返して自分の机に戻った。

(くそっ!! なんて事だ! なぜうちの子が! 

 これは、神に抗うような研究をしている罪に対する罰なのか!

 …ならば、なぜその刃を私に向けない!!)

彼はイスに座り窓に見える仄暗い灰色の雲に浮かぶ月が自分の敵、というように睨みながら心の裡で叫んだ。


……研究所に戻ったユイは、泣いた。


その姿を見た瞬間に、何かを感じる時間も関係の無いような勢いで、瞳から雫が溢れ止まらなかった。


(うぅ、ぅ…うぅう……ぅ。)


ゲンドウが見た光景は、ユイが着替えを取ってきて、シンジの部屋に入った時も、

 動いた月が映す影の位置以外、全く同じであった。


……果たしてこの子は何時間その姿でいたのか?


まるで糸の切れた人形のような、一切動かぬ我が子を震える手で寝かしつけると、

 ユイとゲンドウは所長室に戻った。


”………ピピピッピピピッピピピッピピピッピピピッ”


……静寂な世界を割るような電子音に、二人の顔が反応する。


それは、この施設の最高責任者が秘匿の為、最上級の機密扱いである”SSS”と設定した情報、

 シンジの検査結果が出たという、福音を知らせるハズの音だった。

ゲンドウの机に設置された、持ち主以外世界中の誰も操作する事ができない特殊端末から、

 調査、検査書類をプリントアウトして無言のまま食い入るように、羅列されている数字や、

  文字に瞳を凝らした。

互いに、その結果を理解できてしまう自分にイラ立ち、また、解決方法が分からない自分にイラ立った。


……気が付けば、窓の遠く先には、朝日によって薄紅く輝き始めた雲が見える。


夫婦はどうにか、何かの答えを出そうと、普段使われる事のない会議室へと移動した。



………第3会議室。



「…あなた、これは…」

「うむ。 …遺伝子情報の差分、とでも言うべきなのか。」

「えぇ。 私たちから見るよりは、あの子の方を基準にした方が解かりやすいですわ。」

「ああ、そうだな。 …未知のデータが、在る。」


……頷きながら答えるゲンドウ。


「0.11%。 シンジから見れば、人類の遺伝子情報は、99.89%同じ。 

 そう、情報量がヒトより”多い”のよ。」

「…我々の研究している”アレ”とも違うな。」

「そうですわね。アレは、0.11%”違う”のですから。」


……ユイは、日頃行なっている自身の研究成果を言った。


(…これは、遺伝子情報の突発的変異による附加とでもいうのかしら?)

「体の異変はコレが起因していると見て、ほぼ間違いないだろう。」

ゲンドウはその結果を見て、眉根にしわを寄せた。

ユイは、自身の生涯を掛けるべき道を探求する者としての心と、

 自身の掛け替えのないモノに対する深い情に揺れていた。


……このデータを使用すれば、間違いなく研究は新たな局面を迎えるだろう。


悪魔の囁きのような”ソレ”を、ゲンドウもユイと同じく甘い誘惑のように感じていた。 


……一研究員として、また、一組織をまとめる立場の自分として。


何も言えなくなる二人は、お互いを見てどうすればいいのか逡巡していた。

会議室のドアノブが回ったのは、そんな時だった。



………無人の廊下。



さて、冬月コウゾウの朝は早かった。

国連研究機関の副所長という立場が、彼を立たせていた。

自身の成長する好奇心の大きさは、京都大学教授という職に就いても、決して衰えるところを知らなかった。

だが、その好奇心に彼の持っていた信念が負けたのは、早いもので、もう1年近くも前の事だった。

今振り返れば、自分が信念だと強く思っていた事でさえ、

 何のことはない好奇心の延長だったのでは、と思ってしまう。

実際、色々思う処はあったが、確かに”モグリ”で医者の真似事をしていた時には想像もできない、

 そんな世界の住人になった自分に心湧く事さえあるのだ。

決して若くはない身体ではあるが、背を曲げる事もなく歩く彼の姿は、

 大人のゆとり、とでも形容すればいいのか、貫禄のある雰囲気を醸していた。

しかし、実際の彼の心の裡は、最高の環境で1年近く研究しているにも拘らず、

 相も変わらずの研究成果に、腑はイラ立ち、今にも爆発してしまいたくなるような、

  鬱屈とした日常を送っていた。


……今は、ちょうど7時。


いかに優秀な国連研究機関だとはいえ、出勤している職員は余りいない時間。

普段では、様々な人種、技師、研究を支える各スタッフ、数えられない位のそれらの人を内包する建物。

だからこそ、人のいない、無音の音色が聞こえそうなこの時間を冬月は好んだ。

廊下を進み、ゆったりとした足取りで右に曲がる。

(…うん?)

各施設、設備から離れているために、その右手に見える部屋を使うのは経理係のような、

 事務方の研究者とは無縁の人種、とは決め付けられないが、

  普段の勤務時間でさえ使われる事の少ない空間から、男と女の声がした。


……そんな声に聞き耳を立てるのは、先ほども出たが自分の信念に反する。

 
そんな事を考えた冬月は、一旦止めた足を再び出したが、右耳に入ってきた言葉に彼の動きが止まる。

『…そうだな、…未知のデータがある。』

『……0.11%、シンジから見れば、人類の遺伝子情報は、99.89%同じ。

 …そう、情報量がヒトより多いのよ。』

(なに!? み、未知のデータだと?)

冬月は知らず、視線と意識を扉の方へ向けた。

『…我々の研究しているアレとも違うな。』

『そうですわね、アレは、0.11%違うのですから。』

『…体の異変はコレが起因していると見て、ほぼ間違いないだろう。』

自身の研究を、新たな局面を迎える可能性を秘めたその囁く様な単語に、無意識に冬月の右手は動いていた。


”ガチャッ!”


「ふ、冬月!」

「…先生!」

闖入者などいようハズもないと思っていた時間と場所に鍵を掛け忘れていた二人は、同時に叫んでしまった。

「い、碇! ユ、ユイ君もか! …い、今の話はなんだね!?」

盗み聞きとも、思えなくもない登場の仕方に呆然とする二人。

「冬月! …何を聞いた!?」

ゲンドウの普段の不遜な態度は霧散し、彼から発せられている雰囲気には、何か悲愴めいたモノがあった。

しかし、周りに気を配るという配慮を失った、

 研究者の目をした冬月は、彼らの手に持つ紙束にしか意識がいかなかった。

「そ、ソレを見せてくれ!」


……よほど失敗の連続であったのだろうか? …この男の研究は。


冬月は、一切の余裕なく、彼らから奪ったA4用紙の束を貪り読み、やはり研究者夫婦と同じく、

 このデータが自分達の研究に与える影響に大いに歓喜し、また興奮した。

「こ、これだよ、碇!! …我々に足りないモノだ! 正しく神がコレを与えてくださったのだ!!」

その男の瞳を見ながら、確かにこの男女も同じ事を感じ、考えたのだ。

しかし、正直なところを言えば、こう言いたいはずだ。


……自分の息子でなければ。


冬月の興奮した頭を落ち着せ、冷静さを取り戻させようと、彼らは十分な時間を掛けて説明した。

しかし彼は、眉根を寄せ、沈痛な表情を浮かべて事の顛末を、その被験者の様子を聞いても、

 やはりこう言った。

「そうか、そんな事が。 君たちの子が、あのシンジ君がこのような、”特異なデータ”を持つとは…」

その言いように、自然とユイが睨む。

「あ…ス、スマン。 決して悪気はないのだよ? もちろん、あの子の事は私も知っている。 

 …何せ君たちの子供だ。 私としても、断じて悪いようにはしたくはないが、
  
 この事態を、何時までも秘匿する事は難しいだろう。

 ……なにせ、我々はゼーレに使われている身だからな。」

「…それは判っている、冬月。」

ゲンドウは冬月の様子を見ながら答えた。

冬月は、意識的にユイの方を向いた。

「…まぁ、事実を隠す事は困難を極めるだろうが、不可能ではあるまい。 

 あの子の根本的な解決策を見出すには、かなりの時間が掛かるだろう。

 幸い、あの子の変容を知っている者は、ここに居る、我々3人だけなのだ。

 模索している間、彼の事を誤魔化す為にも、

 取り敢えず、変装でもさせて周りに気取られないようにし、その時間を稼ぐのだ。

 その為に、まずゼーレの喜びそうな情報を与えるべきだと私は思うがね。

 …そう、この研究成果報告書を作り上げ、其方に目を逸らさねばなるまい。」


……冬月は、教え子に噛み砕くようにゆっくりと言った。


しかし…それは、この研究所の目的である研究成果を上げる為に、

 二人の息子と分からないように、何とか適当な虚偽の由来をつけるから、

  より詳しい検査データ、抽出した遺伝子情報、DNAを提供しろ、という提案でしかなかった。



「「……………」」



……今、二人の頭には、親としての良識というべき心と、何かを計っている天秤が動いているのだろう。



次第に、まとわりつくような”ジットリ”とした空気が流れる、この静かな会議室の中、

 3人は子供のことを考えていた。

ゲンドウが言う。

「そうだな、私たちの家族という事は既に、ゼーレにとっては人質という手札に等しい。

 …私たちには、裏切りは勿論、今更逃亡する事も許されないだろう。

 だが、是が非でも、シンジを守らねばならん。」

「でも…」

ゲンドウに反論しようとしたユイの声を遮るように、冬月が言葉を続けた。

「……シンジ君の髪、瞳の色は突然と変化したモノなのだ。

 先程も言ったが、幸いな事に、この事実は組織に気づかれてはいない。

 今の変容を気取らせないように、黒い髪、黒い瞳に変装させておけば、

 …もし、仮に情報提供者だと判明しても、彼らの追跡調査から逃れる事もできるだろう。

 ユイ君達にとっては、つらいだろうが事態が最終的に切迫してきたら、

  信用の置ける者に預ければ、最後は他人としてではあるが、

   殺される事もなく、生きていく事ができるだろう。」

「…でも…」

それぞれ二人がどんな意見を言おうとも、母親としては、絶対に納得できないユイが首を何度も横に振る。

「…ユイ君、君の方が我々よりも良く知っているだろう? ゼーレの表と裏…強引な手法は得意な組織だ。

 追求を受ける前に、明確に方針を決めないと、旨く処理できなくなるぞ。

 …つらいかもしれんが、判ってくれないだろうか?」

「………はい。」
    
彼女は諦めたのか、それとも”それ”がシンジの為と理解したのか。


……ユイは項垂れるように”コクッ”と頷いた。



…………大深度施設。



人類の想像を超えたオーバーテクノロジー、とでも言うのか、

 その技術力で造られたこの巨大な円形の空間は、

  かつては”黒き月”と呼ばれ、後に、ジオフロントと呼ばれた。

人ではない、誰かが遺したこの広大な空間は、それでも測量し計算した結果では、

 今空気に触れている部分は、僅か20%程度でしかなく、残りは掘削可能な地層で埋まったままであった。

そのさらに深淵、地下4000mに届く調査トンネルの先に発見された、

 地上の全てから、全ての歴史から隠されるように、静かに佇むモノ。


……サンプルコードネーム”リリス”。


それがここの秘匿された雰囲気をより、特別なモノにしているのは間違いない。

地上世界の全ての研究者が羨む、最新鋭の研究設備を使用する如何なる大プロジェクトも、

 ここに比べれば陳腐なモノに思えてしまう程の、大規模施設が造られていた。

その施設で、しかもごく限られた超上級職員でしか直接見る事ができない、その白い巨大物質は、

 遠くから見ればできの悪い人形のようであった。

ここの研究所の目的、全存在理由は、この白から始まり白で終わるのだ。



………その一角の実験棟。



ゲンドウ、冬月、ユイが指揮を執っている研究は多岐にわたるが、その中の一つ、

 これは”E計画”と呼ばれていた。

それぞれに浮かぶ表情は、微妙に違うが、

 (…滞っている基礎研究が劇的に進むチャンスかもしれない。)

 彼らの心の裡にある思いは、ほぼ、同じだった。


……その計画の根幹となる実験。


リリスの体細胞の培養実験は、この研究所ができて以来、

 1秒たりとも休むこともない時間と莫大な予算を充てられて遂行されたが、

  人の思惑を嘲笑うかのような結果と、溜息しか出ないような、そんな進捗状況であった。

世界を代表するような天才が、今までその全てを注力し研究してきて、

 それこそ、あらゆる方法を試して得られた成果は、

  ヒトDNAとハイブリッドさせる事で僅かに培養できた事、それが最高の実験成果だった。

予算を充てている上部組織から見ればその成果でさえ、評価に値するモノではない、と判断されていた。


……何故ならば。


ある支部で培養されていたサンプルコードネーム”アダム”の細胞は、

 ヒトゲノムとハイブリッドすることにより、培養、その基礎研究が順調に進んでのだから。

しかし日本に在る、

 ここ人工進化研究所で同じ方法により培養されたリリスの細胞片は5〜6時間経過すると、

  ことごとくネクローシス(壊死)を起こし、失敗していた。


……そして4月5日、新たな実験が行われた。


遅々として進まぬ基礎研究。

そこで新たな実験として、”あるヒト”の突然変異したDNA情報を基に培養を行う、と冬月が提唱する。

不可能とされていたリリスの基幹細胞の培養は、ヒトゲノムを基本的な母体とし、

 附加情報として”彼”のDNAを補完材料とする事で、実験開始から24時間後、成功と判断された。


……旧世紀末、南極で発見されたが、失われてしまった光り輝く巨人、いわゆる”神”の再生計画。


通称”E開発”は、生体部品を除く、骨格、電子部、人工筋肉繊維程度の基礎開発しか進んでいなかった。


しかし、シンジの情報を取り込んだリリスの基礎細胞に、更にヒト情報を当てる事に成功し、

 生体部品の開発が可能となりE計画は加速度的に進んでいった。


漸く、といってよいその実験成果の報告書は、巧妙に偽装され各支部、ゼーレ共に、

 人DNAの突然変異による成功だと報告され、3人の思惑通りこの一連の事案に関して、

  ”ある子供”の存在は一切関知されなかった。


また、その細胞の増殖速度は爆発的で常識ではありえないほど速かった。

「…す、すごいわ。」

その様子を、驚愕の面持ちで見つめるユイ。

後に結成される、NERVエヴァ全ての基礎となる開発機であった零号機は、

 先に開発された、人工骨格と、人工筋肉繊維組織で大半を造られていたが、

  内臓組織と、生体頭脳は基礎リリス細胞を基に造られ、エヴァとしての基礎生体機構を漸く完成させた。

しかし、試験機となる初号機はリリスの培養細胞をあらゆる部位に使い、

 リリスのダイレクトコピーとして建造された。

全て培養により創られていた初号機、むしろ建造と言うよりは、育成と呼んだほうが良いかもしれない。


……それは、驚くべき速度で成長し、6月1日には上半身が完成していた。


また、リリス細胞培養実験の成功を受けて、新たな計画がスタートした。

エヴァとのシンクロを行うための媒体としての人工生命体を創る実験が開始されたのだ。

当時、計画されていたエヴァの制御方法は、

 操縦者の思考を人工生命体に媒介させてエヴァに送信するという、

  ヒトへの危険性を低減させるべく考慮されたものだった。

この時点では、というよりも、死海文書の劣化もあり情報を全ては解読できず、

 その文献には”適格者”と言えるべきモノがいたらしい事までしかわからなかった。

その生命体創造実験は冬月指導の下、

 リリスの細胞と、ユイの細胞、シンジのDNA情報をハイブリッドされて培養を開始した。

しかし、その実験細胞は、基礎細胞の実験時と反応速度が違い、

 24時間経過しても通常の培養細胞と同等程度の増殖成長しかしなかった。





研究所での暮らし−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−





4月7日、シンジの知らぬところで、リリス細胞の培養実験の順調な経過に大人たちが歓喜している時、

 その実験に大いに貢献した彼は失意の中にいた。

ユイは、初期培養の一部成功を受けて開始した、本格的な実験の開始準備が終わって一息ついた時に、

 所長室の長椅子に置かれている鞄を見付けて、自分が取り戻さなければいけない、大事な事を思い出した。
 

……今まで太陽のように可愛らしく明るかった子供を。



………所長控室。



今では、我が子の病室になってしまったが。

(…シンジ。)

母親が窓から見た太陽は、もう空に高い。

換気をしようと、ここ3階の部屋に設置されている窓を開けてやり、眠っている子の為に、
 
 新鮮な空気を入れてやる。

”さわっ”と動く空気に、ユイのダークブラウンの髪が擽るように揺れた。

「…ふぅ。」

彼女は、肩から力を抜くような息を吐き、眼下に見える青い湖の波間に煌く光の輝きを見ている。

(こんな狭い部屋にずっと閉じ込めちゃってゴメンなさいね、シンジ。)

ユイとしては、今までと何も変わら生活を子供に与える為に、一緒に自宅へ帰る方が良いと思っていた。

しかし、あの月夜に映った、人形にも見えてしまった我が子の様子を思い出すと、

 今までどおりの生活が送れるとは考えられない、と考え直したのだ。 

また、周り近所から無意識に向けられる、奇異なモノ、異質なものを見るような目に、

 あの子が耐えられるとは、とても思えなかった。

実際、シンジは研究所から、というよりも、ここ所長控室からまだ一歩も歩いて、外に出ていなかった。

両親に運び込まれたあの時は深夜だった為、ここでシンジの存在を知っているのは、

 あのごく限られた3人だけであった。


……ゼーレの監視員にも把握されなかった、このシンジの幸運は、後のアドバンテージとなるのだが。


「…う。」

シンジは周りの空気が入れ替わっていくと、ようやく、体が目覚めのほうへと動き始めた。

そんな息子を優しい眼差しで見守る女性。

「…おはよう、しんちゃん。」

目が覚めれば、母親がいる。

シンジにとって、時も場所も違えど、

 ここは忘却の彼方にあった、温かい家族との生活の場である家と同じであった。

ここでのゲンドウは研究所の所長というより、一人の父親として息子を気遣っていた。

相変わらず言葉少なげな会話をしていく中でシンジは、

 ここにいる父親が昔の”知っている”父親と同じとはとても思えなかった。

なぜか、自分の記憶では、前史、父親に捨てられる以前の記憶が、ほとんど思い出せなかったのだが、

 それでも、やはり何となく優しかったような気がする、とココで今の父を見たシンジの感想である。

寝起きのシンジの様子を見ていたユイは微笑みながら、あの紅い本を見せるべきかどうか、迷っていた。

見せれば、昨晩の、あの状態になってしまうかもしれない。


……親としては、躊躇うのには十分な理由だ。


しかし…やはりユイは、自宅で見慣れぬ文庫本に感じた自分の感覚を信じて、見せることを決意した。

(…そうよ。 何かしらの切っ掛けになれば。)

母はベッド横のイスに置いてある鞄を手に取り、中を見る。

(あらまぁ。…日の光で見ると、この本の色って、まるでシンジの瞳の色とそっくりね。)

目的のモノを見た時、ユイはそんなことを思った。

そんな母の様子を”ジッ”と見ていたシンジ。

我が子の視線を感じたユイは、シンジに言った。

「あのね? 昨日の夜、お母さん、一度家に帰ったのよ。 着替えとかを取りに。 

 それで、しんちゃんのオモチャを取りに部屋に行ったんだけれど、

 机の上にこんなのが、置いてあったのよ。」

母は、そう言いながら手にしていた本を、子供に見せる。

「この本って、しんちゃんの?」

ユイは、優しく囁くようにシンジに聞いた。


……それは、紅い本。


シンジはその本を見て、彼女の言葉とその内容、聞かれたことを咀嚼できるまで大分、時間が必要だった。

そして彼に、ユイが恐れていた変化が訪れる。


……紅い瞳を見開き、ついでに口も半分開き状態で、固まるシンジ。


そして、震える小さな両手をゆっくりと伸ばしてユイから本を取ると、無作為に中を開ける。


……それを見たユイは驚いた。


自身では何をどうやっても一枚とて、その本は開かなかったからだ。

シンジの瞳に入ってきた情報、そのページの中には、


……何も記載されていなかった。


そんな本を呆然とした様子で見詰める子供。

(ふぅ。  …やっぱり、何か関係があるのね。 シンジ、アナタに何があったというの?)

ユイは息子を見ながら、無理に笑顔を作った。

「しんちゃん、疲れているのなら、横になっていなさいな。

 お母さん、何か飲み物を持ってきてあげるわ。」

母は、いつの間にか木製のドアを開けて部屋の様子を見ていたゲンドウと共に部屋から出て行った。





刻み始める歴史−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−




一度、本を閉じて、しばらく深い紅色の革カバー見ていたシンジは、再び本を開き、

 背表紙に書かれていた文字を見付け、凝視する。


”リリスの本”


間違いなく、そう在る。

焼き印を押されたような文字に”そっ”と右手で触り、人差し指でゆっくりとなぞってみる。


……シンジは思い立ったように、周りを見渡してから囁くようにして、そっと本に話しかけみた。


「…ね、ねぇ、リ、リリス?」


……しかし、期待した反応はなく、何もおきない。


彼には数多の知識は在るが、

 今”それ”はこの状況に対して、何の役にも立たないという事実を改めて見せられたような気がした。

”…ぽたっ…ぽたっ”

無意識のうちにシンジの頬に透明な雫が流れて、

 微かな褐色の模様のある何も書かれていない羊皮紙の上にシミを作っていく。

(…ぅ……ぅうっ…ぅ…)

男の子は、目を擦りながら、備え付けのテーブルに本を置き、幼くなった身体をベッドに投げやる。

「…ぅ。 …大体の事は、分かるんだ。」

誰に向かって話しているワケでもなく、ぽつり、ぽつりと天井を見ながら、言の葉を零し始めた。

そう、シンジは自分の置かれている状況をほぼ正確に理解していた。


……今は、2004年 4月 7日。


ここは、後に第3新東京市となる場所からほど近い湖畔に設立された、国連直轄組織。

その人工進化研究所の3階。

今、変容した自分に接触してくるのは、両親だけ、という事は、

 自分を他人に見られる事を避けている、という事。

それはこの時代、この組織を動かしているゼーレから自分を護る為であろう。

自分は、そんな前史の知識と今得られる少ない情報からでも、様々なことを想像できる。


……しかし、肝心なことは何も分からなかった。


(本当に知りたいことは、なにも………)


……分からない、という思いに、枕にやった頭を上げて改めて、机に放った紅い革の本を見る。


それに手を伸ばし、”ジッ”としばらく眺め、思いを込めるように考える。

(…でも。 …うん、そうだよ。 分からないからって、ただ、手をこまねいているだけじゃ、ダメなんだ。

 ……何でもいい、とにかく何かしなくちゃ! 動かなきゃ!)

シンジは、俯いていた顔を上げると、

 その燃えるような紅い瞳を、自分の絶望を感じていた心に向けると、力強く決心した。

(よし、話しかけてもダメ、と言う事は、聞こえないという事だな。 なら、その紙に何か書いてみよう!)


……何か、書けるモノはないかと周りを見渡したが、元々ここには事務机などはなく、

 筆記具の類は見い出せなかった。


シンジは、母が出ていったオレンジ色の木製のドアに目をやって、何日か振りに地に足を置いた。

(くつ…って、ないか。 …じゃ、裸足でいいや。)

自分の小さな履物が床には見られなかったが、

 シンジは、特に気にすることもなくドアに足を向け、その先に続く部屋に入っていった。

”…カチャ”

15mほど先に大きな机が見えた。

そして、窓から入る光の中、影のように黒くなっている人が座っていた。

(たぶん、父さんだろうね。)

シンジは余り気にすることもなく、”てくてく”と歩いて近寄って行った。

「む? シンジ、どうした?」

父は疲れ切った顔ではあったが、久しぶりに元気に歩く我が子を見ると、感慨深そうにその瞳を細めた。

「と、父さん。 ……あの、何か書けるモノってないかな? ちょっと借りたいんだけど。」

「む? 何か、絵でも描くのか?」

(ったく。 …パパだというのに。)


……ここに至っていても、やはり呼んで欲しいようだ。


「うん、ちょっとね。」

「そうか。 …ならば、これでいいか?」

ゲンドウは上着の内ポケットから、万年筆を取り出してシンジに見せた。

その、蒼い色をした太目の万年筆を、シンジは嬉しそうにゲンドウの手から受け取った。

「ありがとう、父さん。 じゃ、僕、部屋に戻るから。」

(…な、何だか、急に大人っぽくなったようだな?)

踵を返し、さっさと部屋へ向かってしまう我が子の姿を見ていたゲンドウは、

 今のやり取りに、若干の違和感を覚えた。

部屋に戻ったシンジは、パイプベットに無造作に座り込んで、

 机の上にある、紅い文庫本を手に開いて借りた万年筆を羊皮紙に向けると、何を書くか逡巡していた。

(…むぅ。 なんて書けばいいかな? …こんにちわ? それとも、おはよう?

 もし、何も反応がないと、ワケの分からない落書きみたいで、かなり恥ずかしいかも。)


……何でもいいと思うが、それより万年筆を見たほうがいい。


”…ぽたっ!”


……やっぱり、万年筆の先端に膨らんでいたインクが垂れた。


「あっ!」

折角、綺麗だったその羊皮紙に、無惨に作られてしまった黒い池。

(あ…あっちゃ〜。)

シンジは反射的に、親に叱られる子供のように、目を閉じて首を縮めた。

男の子は、しばらく何も変化がない周りの様子に、ゆっくり瞼を開け、汚してしまった羊皮紙に目を向ける。

「は? …あ、あれ?」

(…さっきの黒いインクは?)

シンジが先ほど垂らしたインクで作った黒い池は、何処にもなかった。

不思議と綺麗になってしまった羊皮紙を見ていたシンジの紅い瞳に、信じられないモノが映った。


(………えっ!?)


まるで羊皮紙の内側から”ジワ〜”と、表現すればよいのか。


さきほど消えたはずのインクが、内側からゆっくりと羊皮紙の上に浮かび上っては、

 染みるように”スーっ”と動いた。


………その紅い本の羊皮紙に、”誰か”が、何かを描いている。








第一章 第二話 「絶望を希望に」へ










To be continued...

(2006.12.16 初版)
(2008.03.01 改訂一版)


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