ようこそ、最終使徒戦争へ。

第一章

第三話 碇家

presented by SHOW2様


接触実験−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−





………人工進化研究所。



7月1日はこの世界の分岐点となった日だった。

今、ユイは前史の話よりも、リリスとの会話を楽しんでいる。

ここ、第5実験室に篭って早、3時間は経っていた。

『リリスちゃんは、何でも知っているのねぇ。 本当にすごいわ〜』

『えへへへ…そんな事無いですよ〜♪』


……いつの間にか、大分仲が良さそうだ。 ドーラに前史を教えてもらっているゲンドウは泣いているのに。


その頃、シンジは両親に告げた事をもう一度考えていた。

この部屋の窓から射し入ってくる太陽の光は、既に紅い。

”ヒュゥ…”

窓から少し涼しい風が優しく部屋に訪れると、カーテンが”ひらりひらり”と舞う。

男の子は、緑の木々の間に消えようとしている太陽を見ながら、静かに立ち上がり開いていた窓を閉めた。

シンジは、そこから見える紅い湖面を眺めた。

徐々に、紅色に支配されていく風景。

男の子は、まるであの”紅の世界”に居るような錯覚に陥る。

シンジは、しばらく”ぼ〜”とこの音の無い静かな世界に身を委ねていると、漠然とした寂しさに襲われた。

(…紅く煌く波間が綺麗だね、綾波。 ふぅ、綾波…君に逢いたいよ。)

彼の心情の変化を感じ取ったかのように、胸ポケットにある紅い玉が”ふっ”と温かくなる。

彼は、自然と”彼女”に意識を寄せた。

”ピピッ”

静かな部屋に、電子音が聞こえた。 どうやら、PDAにドーラが戻ってきたようだ。

『マスター、ただいま戻りました。

 ゲンドウ氏から、マスターの為に協力するように要請されましたが、如何致しましょう?』

シンジはベッドに備え付けてある机に置かれた充電中のPDAに振り向きながら言った。

「…僕の方針に沿ったものなら、いいんじゃないかな? 任せるよ、ドーラ。」

『はい、畏まりました。』



………所長室。


 
ゲンドウは、何も映っていない端末を見ると、徐に手を伸ばし電源スイッチを入れた。

彼は、明日行われる重要実験の手順と、その準備状況の確認を行おうとしたのだ。

とても危険だと思われる実験。

あろう事か、その被験者に名乗りを上げたのは、自分の愛妻だった。

息子から、母は無事に生還する、と言われていても、

 明日の実験の後、自分の妻は長期間に渡って直接会えない状態に成ってしまう。

今日はユイとの時間を多く取りたい、そう思うゲンドウであったが…そういう時に訪問者がやって来る。

”プシュ!”

「…碇、邪魔をするぞ。」

(…チッ…)

「…どうした? 冬月。」

副所長である冬月は、明日に控えた実験の当事者たるユイとその夫、

 ゲンドウが数時間に渡って1回も実験場に現れないのを不思議に思い、この所長室に上がって来たのだ。

「碇、実験場の準備状況の確認に…なぜ来ない? それに、ユイ君はどうした?

 明日はユイ君の実験なんだぞ?」

「ああ、わかっている。」

ゲンドウは、まるで取るに足らないことを聞かれたように、ぞんざいに答えた。

冬月は、いつものように机に肘を付いて手を組んだ男を見ると、目を細めて苛立たしげな顔になった。

「碇…明日の実験は、ドイツ支部で行われる実験の結果を見てからの方がいいのではないか?

 ユイ君と接触する初号機は、リリスそのモノと言える。 支部のEVAより危険ではないのかね?」

「ああ、そうかもしれん。 …だが、適格者方式での実験を提唱したのは、ユイであり、ここ本部だ。

 その本部が今更…特別な理由もなく実験スケジュールを変更し、支部に後れを取るわけにはいかん。

 絶対とは言えないが、ユイは確証に近い自信を持っているようだ。

 それに…この件に関しては、委員会の決定が下されているしな。 …まぁ、問題ないだろう。」

この男の態度に、冬月は違和感を覚えた。

(ん、なんだ? …実験の日程変更など今まで何回もあっただろう。 なぜ今回は……)

「…そうか、ならいいだろう。 それで、ユイ君はどうした?」

「ん? ああ…ユイは、いつもの実験室にいるのではないか?

 ご、ごほん! …私もこれから確認しに…彼女に逢いに行こうとしたところですよ、冬月先生?」


……訝しげな目をしている冬月。 彼を誤魔化そうと言ったゲンドウの言い様は語尾が少しおかしくなった。


この所長室の主は端末の電源を落とし、妻のいる第5実験室へ向かおうと席を立った。

ゲンドウは、初老の男性の横を歩き過ぎようとした時、再び声を掛けられたので”しぶしぶ”足を止めた。

「…碇。」

男は、言葉なく首を少しだけ動かす。

コウゾウはそんな男を横目で見て、言葉を続けた。

「やはり、ユイ君の接触実験はやめた方がいいのではないか?

 もしもの事態で…今、彼女を失う訳にはいかんだろう。」

「ユイを止める事は、私には出来ませんよ、それにもう委員会…いえ、ゼーレが決定していますからね。」

そう言って部屋を出て行く男を、冬月は静かに見送ることしか出来なかった。



………第5実験室。



『…ユイかあさま。 私、そろそろ…しんちゃんの所に戻りたいの…』


……俯き、申し訳なさそうにしている幼女。


『あらそう。 …残念ねぇ。』

その様子を見て、ユイは本当に残念そうな顔をして、紅い本の羊皮紙を見ていた。

科学者として、研究に携わる者としては、未知の紅い本に興味を持って見なければならない処だろうが、

 ユイは、不思議と本当の女の子との会話を楽しんでいるような気持ちにしかならなかった。

(本当の娘みたいねぇ。 う〜ん、この娘よりもいい子なのかしら? シンジの好きな娘って?)


……やはり気になる息子の想い人。 
 

そんな時、研究室の扉が開いた。

”プシュッ”

「…ユイ、入るぞ。」

ダークブラウンの髪を揺らして振り返ると、夫が立っていた。

「あら、あなた? どうしたんですか?」

「…む。 明日から暫く会えんと思ってな。 シンジが寂しがるかと思ってだな。 その…」

「まったく…アナタったら。 素直に私に会いに来たって言えないんですの?」

妻に”ズバッ”と言われたゲンドウは、

 次の言葉が見つからず、どうしたものかと思っていると、彼女がイスから立ち上がった。

「さてと、シンジの所へ行きます。 ほら、突っ立ってないで、あなたも一緒に来て下さいな。」

ニッコリ笑うユイはマイペースだった。



………所長控室。



”コンコン、カチャ”

「しんちゃん、入るわよ?」

ユイは返事を待たずに部屋に入り、中を見やると彼女自慢の息子は窓の外を見ていた。


……もう夕暮れ、というより、窓から見える空はすでに深い藍色に変わっている。


藍色の窓に浮かぶような白磁器の肌がもたらすコントラスト。

彼女の瞳に映った我が子の横顔は、芸術家が総力を持っても創りえないような色彩があった。

「かあさん、お願いがあるんだ。」

シンジは振り向きながら、ドアから入って来た母に言った。

男の子の全てを吸い込んでしまいそうな真紅の瞳。 それに見惚れていたユイは、自然と反応が遅れる。

「…ん、なぁに?」

「京都のおじいちゃんに、僕に協力してもらえるよう、手紙を書いて欲しいんだ。」

母の”にこやか”だった表情の中に”すっ”と影が入る。

この結婚生活を送るようになってから、今日に至るまでユイがなるべく考えないようにしていた事。

それは、自分を育ててくれた両親、京都の実家の事だった。

「ど、どうしてかしら?」

ユイは動揺を隠すように目を伏せて答えたが、少し声が震えてしまった。

「かあさん。 かあさんの事情は知っているよ。 ごめん…でも、ゼーレの影響力を削いでおきたいんだ。」

「…シンジ、どういう事だ? 前史では特に何も影響は無かったと思うが?」

「うん、前史のおじいちゃんは、生きる気力を失ったままだったからね。

 それに使徒戦争までの準備として、単純に、ゼーレの財力・権力を縮小させる……

 それだけじゃ、だめなんだ。 どうせ似たような組織が直ぐに出てくるだけだからね。

 この混乱の地球経済においては、表も裏もリーダーが必要なんだ。

 碇 玄という人物を、もう一度表舞台に立たせ、経済界に君臨させる。 …裏方は僕だけどね。

 …ねぇ、かあさん。 おじいちゃんに、おばあちゃんの事故の真相を教えてあげよう。
 
 今のおじいちゃんには、生きる活力を得る格好の材料だと思うんだ。」

ユイは瞳を”パチクリ”として問うた。

「? …しんちゃん、お母さんの事故の真相って?」

「? ……リリス? ちゃんと、かあさんに前史の事、教えた?」

シンジは、余りの母親のレスポンスの遅さに、幼女に聞きながら、

 今は彼女に大事そうに抱えられている紅い本を取ろうと手を伸ばした。


……しかし、ユイが息子の手から身体を逃がすようにひねり、それは阻まれる。


男の子は、少し驚いた顔になった。

「…か、かあさん?」

「り、リリスちゃんは、ちゃんと教えてくれたわよ。 …ね、リリスちゃん?」

『…ぅ、も、勿論だよ。 うん…疑っちゃいやん、しんちゃん♪』


……大半の時間を単純な楽しいお喋りに使ったなど、この二人に言えようが無い。


シンジは少し肩を竦めると、再び母の目の前に手を出した。

「…ま、いいけど。 それより、なんで返してくれないのかな? かあさん?」

「ねぇ〜 かあさんに、リリスちゃんを頂戴な? …ね、しんちゃん?」

「だめ。」

「あん、いけずぅ。 …じゃ、ちょっと貸してね? それ位いいでしょぅ?」

「だめ。」

「うぅ、どうしてよぅ…。」

「大事なヒト(友達)だから。」


……その言葉に毎度の暴走天使は本の中で身悶えている。 …シンジ以外、誰も気が付かないが。


『あ〜ん♪ しんちゃ〜ん♪ もぅ…もぅ、もぅ〜』

男の子は、そのドピンクな波動を感じ取ると、薄っすら冷や汗をかいてしまった。

「ぅ。 大体…かあさん、明日は実験じゃないか。

 これからもコミュニケーションは取れるけど、文字でのメール形式だよ?

 …分かっているとは思うけど、音声はダメだからね。

 だから、リリスと直接やり取りは出来ないよ?

 大体、ドーラじゃなきゃ出来ないんだし……どうにしろダメだよ。」

顔を俯けてシンジの話を聞いていた母は、何かを思いついたのか、少し瞳を大きくした。

(そうだわ。)

ユイは顔を上げると、シンジの瞳を見た。

「…わかったわ。

 じゃ、その代わり、かあさんが戻ったらリリスちゃんを本から出してあげて?

 …いいでしょ? …ね、お約束よ?」

「? まぁ、リリスが望むなら、考えてもいいかな。 …でも、約束はしないよ?」

「そんな事言わないで、お願いよ? そうしてくれたら、かあさん…手紙じゃんじゃん書くわ♪」

「う〜ん。」

男の子は、腕を組んで瞳を閉じた。

『失礼します、マスター。 ユイ様の提案を検討する時期ではないと提言致します。』

PDAのドーラの助言に、シンジは頷いて答えた。

「そうだね。 …僕でも未来は分からないんだ。 だから、その返事は使徒戦争が始まり、

 かあさんをEVAからサルベージしてから。 その時の状況次第だね。」   
 
息子の決定事項を聞いたユイは、彼の差し伸べている手に、”渋々”と紅い本を返した。


……暫く放置されていたゲンドウは、会話に加わるチャンスだと感じ素早く言った。


「…シンジ、手紙にはどういう内容を書かせるのだ?」

「うん、まずさっきも言ったように、おばあちゃんの事故についてだね。

 かあさんが、これから11年間近く会えないって事。 そして孫である僕の保護。

 僕を保護するメリットを書いてもらうよ。 まぁ、5年くらいで碇財閥を世界のトップに出来るって、

 かあさんが書けば、ちょっと興味を引くでしょ?」



………第2実験棟。



冬月は、明日実験の行われる第0番ケージに向かっていた。

自分の教え子でもあり、密かに恋慕にも似た感情を持っている女性の為に。

(…将来は格納庫となるであろう場所をケージ…檻とはな。)

彼は、そんな事を思いながら地下へと続くエレベーターを待っていた。


……”チン”と前時代的な音が響いて扉がスライドすると、そのエレベーターには先客がいた。


「あら、冬月先生。 …どうなさったんですか? こんなところで…」

声を掛けた女性は、唇に艶のある紫色の紅をさしていた。

ユイと同じショートカットではあるが、

 この女性は、彼女のような朗らかな温かみとは違う、鋭利な才気に溢れた雰囲気と貫禄に満ちていた。

初老の男性は、女性に目をやって答えた。

「ああ、ナオコ君か。 君こそどうしたんだ? こんな時間まで。

 …確か有機体思考基礎理論の報告書が上がってきたばかりだと思っていたが。」

「ええ、私のほうは一区切りがつきましたわ。」

彼女の言葉を聞きながら、冬月は、ゆっくりした足取りで、エレベーターの中に入って行く。

「…では?」

「先生、明日の実験で人類は新たな局面を迎えます。

 一科学者として、そんな時にとても休む気になんてなれませんわ。

 歴史的な実験を失敗、何て事にならないようにリストのチェックを行おうと思っていましたの。」

初老の男性は、ドアの方へ身体を向けながら、彼女の横顔を横目で見た。

「…何か問題でもあったのかね?」

「特に無いでしょうね。

 まぁ…あの娘の理論が正しいという事が前提の話ではありますけど、ね…」


……その言いように、副所長である冬月は眉根を寄せてため息した。


…赤木ナオコは秀才であった。

これまでナオコが発表した学術論文は数知れない。

その功績や彼女が持つ数多の特許技術など、誰もが認める才女であった。

ナオコ自身も、己の”知力”に対して絶対的な自信を持っていた。

それは長い間、揺らぐ事のない絶対的なプライドであった。

しかし、ある人物とディスカッションした時に、ナオコは人生初の敗北を知る事になった。

その人物の豊かな知識で造られた砲身から発射された弾丸は、ナオコには無い”自由な発想”で出来ていた。

ナオコの常識とプライドは、その人物の”それ”によって木っ端微塵に打ち砕けたのだった。

世界的に有名な赤木ナオコ博士の矜持を打ち砕いた人物は、誰から見ても”タダ”の小娘であった。

そう、碇ユイは天才だったのだ。

冬月にして”刺激のある論文”と言わせる、その柔軟な発想力とでも言えば良いのか…

彼女は、常人にはないセンスを持っていた。

ナオコは、ユイと出会って変わってしまった。

撃ち崩された彼女のプライドの後に残ったものは、”嫉妬”だった。

今まで感じた事もない暗い感情を持て余したナオコは、

 何かにつけて、彼女の理論、仕事を自分と比較し、”けち”を付けたがった。


……その彼女の勝気な性格というか、プライドの高さというモノは、

 結婚生活に歪みを作りその相手と別れる原因にもなった。


しかし、ユイはその性格からなのか、そういった相手でも特に気にする事無く、ナオコと仲良くしていたが。

だからこそ、ナオコは余計にユイに何かをしてやりたいという、気持ちを高めていくのだった。

その黒い気持ちが、彼女の夫にすら向いたが、彼女の誘いにゲンドウが答える事は今まで一度も無かった。

冬月も上に立つ者として、その感情を把握していたので、隣に立つ彼女を観察するように横目で見ていた。

(ん? …まさかとは思うが、何かしらの妨害をするつもりなのか?)

「では、私は手順のリストチェックを行うよ。」

彼女と実験場に着いた後、冬月は、オペレーター席に座って端末の電源を入れる。

「はい、分かりましたわ。」

ナオコは、そう答えると、冬月の反対方向へ歩いてく。

そんな女性を見やると、冬月は画面に視線を移した。

(ふむ、異常はないな。 杞憂に過ぎなかったか…)


……しばらくの時間が過ぎると、冬月の背後に人影がさした。


「私は、もう地上に上がりますわ。 それでは冬月先生、明日の実験、ぜひ成功させましょう?」

彼女はそう言うと、男の返事を待つことなくエレベーターへ向かって行ってしまった。



………自宅。



ユイは、シンジに頼まれた手紙を書くついでに、溜まった洗濯物などの家事を片付けようと自宅へ戻った。

自動車を車庫に入れ、そのまま玄関口へ向かおうとした時に声が掛かった。

「あら、こんばんわ。 奥さん、こんな遅くまでお仕事? 大変ねぇ。」

「ぁ、あら。 木村さん、こんばんわ。 …そんな事はありませんのよ…」

「そう言えは…ここ最近、お宅の坊ちゃんを見ないわねぇ? …どうかなさったの?」

ユイもゲンドウも気付いてはいなかったが、

 近所付き合いをしているこの木村夫妻は、ゼーレから派遣されている監視員であった。

まさか、自分たちが引っ越してくる前から仕込まれているとは考えていなかったが、

 ユイたちが属しているこの組織は、実に用意周到な網を用意していた。

そして監視員は、この数ヶ月間姿が見えなくなった彼らの息子について興味を持ち始めた。

「ああ。 実はうちのシンジ、ちょっと前から病気になってしまって。

 前に、その症状が酷くなった時があって、今は近くの診療所に預けているんですの。

 もう少しで良くなると思うんですけど。」

「…まぁ。 そうだったの。 …ゴメンなさいねぇ。 何だか不躾な事を聞いちゃったみたいで。

 息子さん、早く元気になるといいわねぇ。 あ、いけない。 それじゃ、ごめんくださいね。」

このゼーレの監視員も、ユイの事を近所付き合いで把握した性格調査で嘘が苦手な女性だと認識していた。

それなので、今の会話もすんなりと真実だと受け止めてしまった。


……実際のユイは、ゲンドウを手玉に取るくらい役者だと思うが。


ユイは改めて、久しぶりに戻った近所を見渡して思った。

(シンジに言われた通りね。 組織の人間が監視員として、絶対に家族について聞いてくるって。

 まさか、木村さんだとは思わなかったけど…

 でも、これでシンジは研究所とここにはいないって認識されたわ。)


……現在、シンジは髪を黒く塗り、黒いカラーコンタクトレンズをしていた。


(…自分の部屋か。 なんだか、ドキドキするな。)

逆行した時に意識がなかった彼にとって、この部屋は10年以上ぶりに戻ってきた自室である。

電気を点けたり、窓の近く行ったりは出来なかったが、それでも月明かりで改めて見る懐かしい部屋。

彼は、車のトランクから出て、車庫の内扉から直接家に入ったのだ。

ユイはワザと外回りから家に入り、一人で帰宅した事を印象付けた。

これから京都へ出す手紙の内容通り、明日の実験に集中するであろう監視員の目を盗み、

 シンジを安全に京都へ出すにはこれが良い、とゲンドウと相談した方法であった。

明日の実験後、ゲンドウは、前史どおり1週間程度職場放棄する。

組織が、彼の息子を調べようと診療所を調べれば、消息不明になっているという手はずだった。

診療所のカルテ、入院記録はドーラにより完璧に偽装されている。

(こんな、部屋だったっけ? 良く憶えて無いなぁ……)

繁々と部屋を見入っていたシンジは、そう思いながら子供机の方へ近付いていく。

机の引き出しを何気に開けてみると、その中には家族3人で写っている写真があった。

(あ! これは… そうだ、これは憶えている。 

 どんな時でも…とうさんとかあさんが見られるようにって、写真を入れて持っていたんだ。)

その写真を手に取り”じっ”と見入った後、これからまた暫く会えない家族だと思って、

 持って行こうと紅い本の羊皮紙の間に忍ばせた。
 
『…う? …ッ!! かっわいぃぃ♪ ”っちゅ” しんちゃん、この写真ちょ〜だい!』

本の中にいる幼女は、写真に写っている主人の無垢な笑顔に興奮して、紙の中から写真にキスをしていた。

『…ぅ。 だ、だめ。』


……主人は、写真の保管場所を間違えたと痛感していた。


その頃ユイは、自室の机で便箋にペンを入れていた。

(…どう、書きましょうか。 …この手紙が私本人のモノと分かり、且つ他人に見られても大丈夫な内容。

 そうだ、お父さまが旅行に連れて行ってくださった時の失敗の逸話。

 私以外で”あれ”を知るのは、当時から秘書だった有馬さんしかいないものね。)


……翌早朝、ユイは一人車を出し郵便を出すと、そのまま彼女の職場である人工進化研究所へと向かった。


ゼーレの監視員であった木村夫妻は、ユイの出発を確認した後、静かに車を出して彼女の後を追った。

これを見ていなかった、本当の近隣住民が彼女たちを見たのは昨日が最後であった。



………人工進化研究所。



ユイは、車を運転しながら”ボンヤリ”と昨日の息子との別れを思い出していた。

(…シンジって大人になったら、絶対に女泣かせになるわ…)



〜 自宅 〜



「…しんちゃん、もう夜だから、軽いモノになっちゃってごめんなさいね。」

ユイは、軽い夜食をシンジの為に用意した。

母親はこれから11年以上、直接会えなくなってしまう息子に、最後に何かしてやりたかったのだ。

それが豪華な食事とは言わないが、しかしこんなモノしか用意が出来なかったのか、

 事前に何か出来なかったのかと、ユイは自分に後悔と情けなさしか感じられなかった。

「かあさん、僕は前史での”母さんの手料理”って覚えてないんだ…

 だから今の僕にとって、かあさんが作ってくれたって言うだけで、これは1番のご馳走だよ。

 忙しいのに、本当にありがとう。 明日から僕は頑張るよ。

 じゃ、いただきます。」

シンジは、本当に嬉しそうに”にっこり”と屈託無く笑って、チャーハンを食べ始めた。 

ユイは、その顔を見ただけで何か救われたような気がしたが、やはり嬉しいやら悔しいやら、

 心の裡が大きくうねるように揺れると、その瞳に涙が溢れる。

「…ぅ。 明日から、表立って私たち家族は会えなくなるけど、母さんはいつでもあなたの味方よ。

 どこにいようとも、どんな事になっても、いつもあなたの事を思っているわ。

 私が書いた手紙が役に立つのか分からないけれど、おじいちゃんによろしくね。

 シンジ、頑張って…ぅ…そんな事…私に言う資格、無いわね…ぅ…本当に…御免なさいね…うぅ…。」  

ユイは自分の子供に起こった事、前史も含め…今でさえ何も力になれない事にただ謝り、泣いていた。

シンジは、この世で最後に残った食べ物を味わうように、

 皿に残った最後の”ひとかけら”を大事そうにゆっくりと咀嚼していく。

「ねぇ、かあさん。 前史での運命は、僕がコアのキーを見出した時に決まってしまったんだと思う。

 誰のせいでもないよ。 でもね…今回は、僕の意志で望んでするんだ。

 だから、何も気にする事はないんだよ。

 それに、今はとうさんとかあさんに会えて良かったと思っているんだ。」

「…どうして?」

「今回、研究所で過ごした時間は、僕に掛け替えのない家族というものを教えてくれたんだ。

 ……うん。 前史のままの記憶しかなかったら…多分、自分の両親にいい印象を持てなかった。

 いい感情を持っていなかったから、将来を共に過ごす娘にも会わせる事はないと最初は思っていたんだ。

 でも、今は…できれば、その娘に家族という絆を将来プレゼントしようと思うんだ。」

ゆっくりと正直な気持ちを静かに語ったシンジは、皿に落としていた紅い瞳を上げて、泣き顔の母を見た。

「…ありがとう、シンジ。 かあさん、その子に会うのを楽しみにしているわ。」

ユイはそう言うと、泣き顔を拭き、シンジの食べ終わった皿を片付け彼が寝るまでベッドの傍らにいた。

我が子の安らかな寝顔を両の瞳に刻むように、しばらく見入った後、ユイは静かに部屋を出て行った。

(おやすみ、しんちゃん。 …愛しているわ。)


……そしてユイは、息子が起きる前に静かに家を出たのだった。 



………第二実験棟。



車をいつもの場所に駐車し、ドアを閉めたユイはその行為によって何かを振り切るように気持ちを切り替え、

 瞳に力を込めて実験棟の方へ力強く歩いていった。

彼女の向かった先は、第二実験棟、第0番ケージに隣接された実験制御室である。

この第0番ケージには、巨大な上半身が鎮座していた。

これは先日、ゲンドウが指揮を執って、

 LCL供給が容易な地下深い培養棟から搬送した、完成したばかりの初号機の上半身である。

現在、この本体は厳重に”拘束”され、この”第一次接触実験”の為の各種動力ケーブル、

 測定装置に接続される計装用ケーブルなどの束がそこかしこに配線されていた。

”プシュ”

ドアが開き、ユイが実験制御室の中を見ると、すでに多数のスタッフが詰めていた。

泊まり掛けでの準備作業をしていたと思われる男性スタッフから声が掛かる。

「碇博士、おはようございます。 …ずいぶんとお早いんですね?」

「おはよう。 …実は、ちょっと昨日はよく眠れなくて。 いろいろ考えちゃってね。

 こんな事、言ったら怒られちゃうけど不安でね。」

「それはしょうがないと思いますよ。 前人未踏の世界ですからね、この実験は。」


……彼は、ユイの不安を実験に向けたモノと思っていたのだが、実際の彼女の不安は息子に向いていた。


ユイは、男の顔を見て答えた。

「…実験? ああ、そうね。 実験、頑張りましょ。」

(…ふぅ、実験結果を知っているって言うのは、やっぱり、つまらないわね。)


……徹夜明けでも、まだまだ準備に忙しいスタッフにはとても言えない心の裡だった。


昨夜ユイは、自宅の床に就いてから、ゆっくりとシンジとリリスによって得た情報を整理していた。

実際、彼の告白を聞いた時は地獄から天国へと気持ちが沸き立ってしまっていたので、

 余り深く考えていなかったが、よくよく思い出してみると今の息子には超常の力はない。


……つまりそれは、彼の生命の保証はない、という事。


そういう状況の中で、自分の息子は誰も逆らう事さえ考えないほど巨大な組織に立ち向かっていくのだ。

一人になり、その事に思い至ったユイは、眠れなくなってしまった。

シンジは、未来は分からない、と何回か言っていた。

すでに今、前史と違うらしい事は、先程の食事の会話からも感じる事が出来た。

もし、未来が確定していないのならば、

 単純に過去を知っている、という事は絶対的なアドバンテージにはならないと言う事である。

今、3歳児の彼の言う事をもし、自分の父が一笑の内に一蹴してしまったら?

自分はその時、人あらざる状態だ。

またも子供のために何も出来ないのか、と自分に嫌気を感じる。

(大丈夫、シンジを信じる……)

彼女は、呪文のように頭の中で何度も唱えて朝を迎えたのだった。

(シンジ…)

ユイは、実験手順リストの書類に目を落としたまま固まってしまったかのように、少しも動かなかった。

しかし、彼女の頭の中の時間は止まっていても、周りの時間は変わらず過ぎていく。

(大丈夫、大丈夫、……そうだ、ゲンドウさんに会わなきゃ。)

ユイが、緩慢な動きで顔を上げたのは、彼女がこの実験場に着てから3時間が過ぎた時だった。



………所長室。



7月2日の朝を迎えたこの部屋の持ち主は、まんじりともしない夜を明かしていた。

碇ゲンドウは、先程から家族の事を考えていた。

息子から思いもよらない未来を教えてもらった事で、これからも続いていくと考えていた日常は、

 今日の実験後、もろくも崩れ去るようだ。

彼は何度となく、自分が愛している妻ユイとの出会いを思い出していた。

あの柔らかな微笑を浮かべる彼女を見た時に、初めて感じた自分の中を駆け上がるように湧き出た衝動。

今まで一人で生きてきた時間と、このような社会に、他人には負けぬ、

 そう思っていた絶対的な自分の価値観を、人生を変えた女性。

”愛する”という事を実感させてくれた人。

…と、これまでの様々な思い出を一つ一つ、丹念に吟味している処に、扉が開く。

”プシュ”

この部屋に入って来たのは、初老の男性だった。

(またか…)

この男は、いったい何回この部屋を訪問すれば気が済むのだろうか?

ゲンドウとしては、昨日から今日の実験の開始までユイの側にいたかったのが、

 実際に側にいたのはこの老人だった。

「…なんだ、冬月?」


……かなり険悪な雰囲気だ。


「碇、いよいよだぞ。」

落ち着きなく歩いている老人を見たゲンドウは、”ふぅ”と聞こえるような大きなため息をついた。

「あぁ、間もなく10時だ。 実験準備は既に終わっている。

 ユイも準備に掛かっているだろう。 …我々は出来る最大限の成果を上げねばならん。」

「碇、それは分かっている。 そうだ、我々に出来る事を、彼女のサポートをしなければな。」

「ああ。 では、行こう。」

ゲンドウは、冬月を連れて実験棟へと向かった。



………住宅街。



10時。

その時、シンジはゆっくりと駅に向かって歩いていた。

髪の色も瞳の色も標準的な子供だが、

 大人の付き添いもなしに出歩くには、早過ぎても遅過ぎても不審に思われる位に幼い容姿である。

人の多い繁華街であればそれほど目立たないだろうが、このように静かな住宅街だと目立ってしまう。

『子供って、不便だね。』

『ホント、そうだねぇ。 …ねぇ、しんちゃん? これからどうやって京都に行くの?』

子供は、帽子を被り直しながら背負ったリュックの中の本に答えた。

『うん。 電車で行こうと思っているんだ。 

 でも、特急とか目立つのには乗れないから、あくまでも普通に使える、生活圏の電車で行く事になるね。

 だから、う〜ん…そうだね。 京都まで大体3日位かかるかな?」』

『ねぇねぇ♪ …このまま、ゆっくり歩いて行こうよぅ?』

『え? それはダメだよ、リリス。 大体、それじゃ何時になるか分からないじゃないか?』

『え〜…じゃ、じゃあ出来るだけ、ゆっくり歩いて駅に行こうね♪』

この幼女が、これほどご機嫌なのには理由がある。


……そう、目下のライバルであるドーラは、スリープ状態のPDAにいた。


電源確保の困難なこの状況下では、主人の波動を感じる事ができるが、

 バッテリーの電力を多く使ってしまうので積極的に起動する事が出来ない。

つまり、今は愛するシンジ君を誰にも邪魔されずに独占出来るという美味しいシチュエーションなのだった。

「ちょっと、ぼく? いいかな?」

男の子が振り返ると、そこには青色のズボンが見えた。

「おはよう、ぼく。 この辺の子かな? 一人で何処に行くんだい?」

子供が見上げると、声を掛けてきたのはお巡りさんだった。

(げげっ)


……シンジは基本的に素晴らしい能力を持っているが、一瞬のスキのようなモノが出て止まってしまった。


「…? どうしたのかな?」

お巡りさんの段々と不審気になるその顔からは、迷子かな? という雰囲気が発せられてくる。

『しんちゃん、私の言う通りに言って!

 ”ぼくの名前は、こんどうタカシです。 この通りの先にあるお家に帰るところだよ。”』

「ぼ、ぼくの名前は近藤タカシです。 えっと、…この先の…お家に帰るところです。」

「そうたったのかい。 …じゃ、お巡りさんが一緒にお家まで送ってあげるよ。」

「…はい。」

シンジは、ここで断れば泥沼になりそうだったので、頷くことしか出来なかった。

『しんちゃん、あのお家だよ。』

『あの家?』

お巡りさんと一緒に歩いていると、100m先に近藤宅が見えた。


……シンジは覚悟を決め、迷うことなく家のドアを開けようと手を伸ばした。


(…カギ無いけど……)

”カチャ”

(え!?)

シンジは内心の驚きを出さないように、そのまま玄関のドアを開ける。

「お、お巡りさん、ありがとう……た、ただいま。」

「タカシ君、一人で歩いていちゃ危ないから、これからはお父さんかお母さんと一緒に外に出るんだよ?」

「はい、ありがとうございました。」

子供が一生懸命に頭を下げると、お巡りさんは優しそうな笑顔で、そのまま立ち去って行った。

”…バタン”

(どういう事?)

閉められた玄関のドアに寄り掛かるようにしたシンジはリリスに聞いた。

『ふぅ。 リリス、ありがとう。 助かったよ。 でも、この家のヒトは?』

『ウフッ♪ いいのよ。 しんちゃんの為だもん、ねぇ〜♪

 …この家の奥さんはちょうど今裏庭でお隣さんとお話しているわ。 子供は2階ね。 旦那さんは寝てる。

 基本的に居る時は鍵をしない家みたいね…』 

ゆっくりドアを開け周りを確認する主人から、本当にうれしそうな波動と共に感謝の言葉が送られる。

『すごいよ! リリス! 君ってすごいや! …本当にありがとう!』

『ッ!! どういたしましてぇ♪』

シンジは通りに出て再び歩き出した。

リリスは初めて主人の役に立ったと、喜びの波動を振りまいていた。


……シンジは気にしていなかったが、彼女はドーラが出現してから彼女と比べて仲の良さでは勝っているが、

 ”お役立ちポイント”とでもいうのか、何と無くソコは負けているような気がしていたのだ。


リリスは、自分の性格は、どうもドーラと違って細やかな気遣いが苦手なようだと認識していた。

しかし、ここで思いがけぬ自分のポイントの挽回と、

 主人の温かな感謝の波動を全身に受ける事が出来たのだ。


……それはもう大喜びであった。


一方、今は波動での会話を聞く事しか出来なかったドーラは、というと…

電力維持の為のスリープモードではあるが意識のある彼女は、

 先程からの主人の不思議な行動と起きた事象を冷静に分析して、悔しさに震えていた。

(…失敗しましたわ。 PDAだけではなく、携帯電話も持っていただくべきでした。

 そうすれば、自然な会話も出来ますのに。 油断大敵…もう、1ポイントも上げさせませんわ!)



………第0番ケージ。



ユイは実験用のフィットスーツに着替えて、その上に白衣を羽織った。

プラグスーツの原型ともいえるそのスーツは、純白と言えるような清い色だったが、

 やはり体のラインがハッキリとしてしまう物だった。

「…それでは、実験カプセルに搭乗します。」

ユイのその一言が切っ掛けになり、実験場は騒然とした雰囲気をより強くしていった。

彼女が、初号機と呼ばれる巨大物体の傍らにある小さな白い円形の筒のような物の中に消えて行く。

そのカプセルは地面に固定されており、上半身しかない巨人と同じように、

 ありとあらゆる場所から各種のケーブルが無数に延びていた。

実験制御室でその様子を見る事もなく、机に肘を付いているゲンドウは”別れの今わ”を思い出していた。



〜 小部屋 〜



”プシュ”

「…ユイ。」

被験者の控え室として用意された部屋。

低い男の声に、部屋にいた女性は俯いていた顔を上げたが、その顔は若干青かった。

「…あ、あなた。 ゲンドウさん、シンジを、シンジを頼みます。

 私では、あの子に何もしてやれません。 だから、え? …っあん。」

ゲンドウは、不安を口にするユイの唇を静かに自身で塞いだ。


……若干の静寂が部屋に訪れる。


「…ぅ、ぷはぁ。 あ、あなた。」

夫と目が合い頬を紅くするユイ。 …夫婦にとってのソレはとても懐かしいと思うくらい久しぶりであった。

ゲンドウは、目を逸らさずゆっくりとユイの背に腕を回し、優しく力を入れる。

「これから起こるであろういかなる困難にも、私は決して諦めない。

 それが、私の導き出した結論だ。 ユイ、私はどんな事があっても、お前とシンジ…

 家族を諦めない。 これは私の絶対の誓いだ。」

「…ゲンドウさん。」

ユイは夫の決意に応えるように、彼に凭れ掛かった。



………実験制御室。



「…所長? …碇所長? ユイ博士が、カプセルへの搭乗を終えましたわ。」

「…ぅ。 ……うむ。 それでは予定どおり10時05分より実験を開始する。」

彼女に応えたゲンドウは、強化ガラスの先、どこか焦点が合っていないような瞳でEVAを見ていた。

横に立っていたナオコは、そんな男を見て普段の雰囲気とは違うモノを感じていた。

(ユイさんの事、心配じゃないのかしら?)

「…それでは実験をスタートします。」

そして、斜め後ろに立って様子を見ていた冬月も、同じ違和感を覚えた。

(なぜ、ユイ君を見ないのだ? 碇?)

「うむ、よろしい。 …リストスタート。」

副所長の号令が掛かると、女性職員がキーを叩き始める。

「了解。 実験フェーズ1を開始します。 事前確認リストナンバー1から109番までチェックよし。」

「110番からスタートします。 …チェック。 碇博士、聞こえますか?」

次々と上がる報告とデータの氾濫にもスタッフは混乱する事もなく、実験は順調にステップを踏んでいく。

『”ザァ” えぇ、これからカプセル内データを送信します。』

ゲンドウが目をやると、カプセル内の映像信号がモニターに映し出され、ユイの顔が見えた。

「了解。 …こちら統制室の受信状況よろし。 255番までのリストチェック終了です。 …所長?」

「うむ。 これよりフェーズ2へ移行する。」

責任者の余りに早い返答に、冬月は咎めるような目でゲンドウを見た。

「おい、碇。 少し様子を見たほうがいいのではないか?」

『”ザッ” 大丈夫ですわ、冬月先生。 まだ個々のチェックに過ぎませんもの。 …続けて下さい。』

「…ユイさん。 了解したわ。 それでは再度スタート。」

「ハッ。 リスト再スタートします。 …リストナンバーファイルフェーズ2へ移行します。

 256番から1221番までチェックスタート。」

制御室は、定期的に発せられる必要な報告以外に口を開く者はいなかった。

「うん? …ちょっと待って下さい。 569番が理論値よりもマイナスです。 再ロードを行います。」

「…了解。」

「データのリロード終了。 チェック開始569番から1221番スタート。」

(…これから行われるフェーズ3は、実際にEVAへ動力電源を入れる事になる。

 神の誕生となるのか、悪魔の誕生となるのか…この制御室にいるものには判断が付かないだろうな。)

ゲンドウは、実験の推移状況を見ながら周りを見渡した。

「どうした? …碇、今のところ実験は順調だ。 …もう少し落ち着きたまえ。」

モニターをチェックしていた冬月は、ゲンドウと視線が合い、窘めるように言った。

「…リストチェック終了。 フェーズ2の完了を報告します。

 碇博士のモニターに異常はありません。 これよりヘルスチェック機能開始します。」

別のモニターにユイのバイタルが表示される。

定期的な心拍グラフが描かれると、彼女の心理状態が安定している事が、冬月とナオコには見て取れた。

「…どうだ、ユイ? いけそうか?」

しかし、ゲンドウはそのモニターを見ることなく構わずユイに聞く。

『”ザッ” もちろんですわ。 あなた、私は大丈夫です。』

「…分かった。 これよりフェーズ3の準備に入る。 …EVAへの動力伝達準備を開始しろ。」

「了解。 安全装置の動作確認後、動力回路を投入します。 特高電気班へ準備を開始せよ!」

『了解! …安全装置動作確認よろし。 …遮断器を投入します。 …投入!』

”…ガチャン!ブゥゥゥゥン”


……動力電圧の高さに、まるで振動のような音が聞こえてくる。


「投入確認。 充電確認よし。 …1番線及び2番線使用準備開始。」

「碇博士の脳波、心理グラフを3番のモニターに出します。 …グラフ正常位置を確認。」

「碇、電力使用準備完了だ。 そちらはどうかね、ナオコ君?」

「…えぇ。 冬月先生、ユイ博士の精神データは先日の準備段階の時と同じ、非常に安定していますわ。」

(いよいよか、ユイ。 …これで本当によいのか? 本当に戻ってくるのか? …シンジ。)

ゲンドウは、机に肘を突いたままEVAを睨むように眼光鋭くしている。

その雰囲気に、冬月でさえ声を掛けることが出来なかった。

その横に立つナオコは、無表情に白いカプセルを見ている。

「…これより、最終ステップであるフェーズ3を開始する。」


……ゲンドウは鬨の声を放った。


「了解。 碇博士、これより素体の方へ動力を伝達させます。」

『”ザ” 了解です。 これより接触を開始します。』


………世界初、適格者方式での接触が始まる。


「稼動電圧、臨界点まで1.2…0.7…0.5…0.3…突破しました。」

「パイロットの精神パルス、自我正常です。」

「…それでは、接触開始。」

ゲンドウがモニターを注視する中、シークエンスは進んでいく。

「被験者よりパルス送信確認。 全回路正常。 …初期コンタクト、正常位置確認。」

『”ザ” 了解。 シナプスの送信を開始します。』

「素体側、パルス、シナプスともに受信を確認。 …リスト2550番までオールグリーン。

 接触面、ボーダーラインまで1.0…0.8…0.6…0.4…0.2…

 えッ! 素体側に未確認反応を確認! ……これは何?」

「それでは、分からん! どうした!?」

女性スタッフの濁る報告に、普段の冷静さを捨てた冬月が珍しく怒鳴る。

「は、すいません! …碇博士以外のパルスパターンが微弱ながら検知されました。」

「…まさか!? EVAに意識があるとでもいうの?」


……初号機の瞳に鈍い光が灯る。


『ッ! ぁあっ! きゃああああぁあぁぁぁぁ!!!! ”ザァァァァァ………”』

「ッ!! っどうした!?」

”ガタッ”とイスを飛ばし、ゲンドウが立ち上がった。

「だめです! 映像信号、ヘルス、バイタル…カプセル側の計測信号が全て消えました!!」

「な!! …ユ、ユイィィィ!!!」

「実験中断!! 回路を切って!」

「全電力をカットしろ!! 直ぐにだ! モニターの復旧が最優先だ!!」

アラートが鳴り響く制御室からゲンドウが実験室へ走り出すのと同時に、ナオコが、冬月が指示を出す。

「待って下さい! いきなり電力カットをしたら、被験者への影響が!」

「既に出ているやもしれん、早くしろ!」

「…こ、これは!!!」

驚きの声を上げた男性職員に、冬月が厳しい目を向けた。

「なにがあった!!」

「素体に再度反応を確認!! パルスパターンの出力が桁違いに強くなっています!

 こ、これは!? …碇博士に近いパターンです!」

「な、なに!? 詳細な分析を開始しろ! …ナオコ君?」

「わ、分かりました。 キミ! モニターをこちらに回して!」

ナオコは、モニターに出力されているデータを凄まじい早さで解析し始める。

「…これは! 素体のコアパターンが実験前と比べて変化をしています!

 このパターンって…まさか!? そんな、ユイさん?」


……ナオコが変化したコアに驚いている…ちょうどその頃、

 ゲンドウはカプセルに辿り着き、無理やりエントリーハッチを開けようとしていた。


「く、くそぅ! ユイ! ユイ! …ぬぐぅ、ぬぐぉぉ …ひらけぇ〜!!」

ゲンドウは、両手で握るハンドルに、あらん限りの力を込める。

”ギギギ、ギギィィ…ガバン!!”

男は、丸いハッチが解放されると、あわてて中を確認した。

「ユイッ!」

彼の瞳に最初に映ったのは、誰もいないシート。 その次に、白衣とフィットスーツ。 

ただ、それだけであった。



………ドイツ支部。



午前3時55分。

”プルルルルル、プルルルルル………ッチャ”

「…ふぁい、もしもし…」

あくびを噛み殺した女性の声。

『アッ! もしもしっ!? ドイツ支部のピョートルです!』

電話先の男は、非常に慌てた調子であった。

「え? ピョートル…どうしたの?」

睡眠から完全に覚めていない女性は、緩慢に応えた。

『夜分遅くすいません、惣流博士!!

 本日の09時00分から予定されていました、接触実験は無期限中止となりました!』

「え? …ッ!! えっ!? …それはどういう事なの!?」

惣流・キョウコ・ツェッペリン博士は深夜の自宅、自室のベッドで眠っていた体を勢い良く電話に向けた。

『はい、委員会からの厳命です! …なんでも本部の実験が失敗、犠牲者が出たそうです!』

「…! 犠牲者って?」

『被験者である碇ユイ博士です!』

キョウコは、瞳を大きくした。

「なんてこと。 …そう、分かったわ。 これから直ぐに支部へ行きます。 あなたは関係資料を集めて!」

『博士、すみません。 それが、委員会から止められてしまって何も情報が来ないのです。』

「え!? どういう事?」

『事情はよく分かりませんが、一つはっきりとしている事は、

 今、博士が支部にいらっしゃっても何も資料を提出できないのは確かです。』

「…分かったわ。 電話ありがとう。 明日、通常通り支部に行くわ。 えぇ、それじゃ。」

”…チン”

(ユイさん、あなた。)

キョウコは、電話機をしばらく見詰めて、瞳を強く瞑った。



………所長室。



……あれから。


あの実験が中止されて2時間が経とうとしている。

現在、赤木ナオコ博士が職員の先頭に立ち、あらゆる調査が実施されていた。

委員会への実験レポート作成と書類整理は全て、冬月が文句の一つもこぼさず必要な処置をしてくれた。


……そこまでゲンドウは落ち込んでいた。


(…ぅ。 ……ユイ。)

ゲンドウは、カプセルのシートにあった白衣とスーツを掴み、呆然と手に抱いていた。

こんな時に限って、いつも座っているイスがやけに心地悪い。


……心の空白。 ぽっかりとした虚無感。 暗闇に飲まれていきそうな絶望。


ふとゲンドウは、あの”ドーラ”が語った話を思い出した。

”……もし、自分の最愛の女性が手の届かない彼方へ消えてしまった時……”

(なるほど、これはツライ。 想像以上だ。

 シンジの話を聞いてなければ、あの人外な行いをするのが、今の私には分かる。

 やはり、私には、”あの”狂気があるのだ。 何をしても…ユイ、お前に会いたい。)


”ピピピ…ピピピ…ピピピ…”


……静寂な部屋に、無粋な電子音が鳴る。


ゲンドウは、窓に向いていたイスをゆっくり回転させて端末を見た。

何もする気にはなれなかったが、所長としての職責なので、先程、委員会宛にメールを出したのだ。


……本部実験失敗に付きドイツ支部で予定されている実験の実施を見送られたい、と。


そのまま電源を入れっぱなしだったのかと、何気に画面に目をやると新着メールが届いていた。

(ふぅ。 …どうせ委員会からの嫌味か何かだろう。 …それとも、喜んでいるだろう、ドイツ支部長か?)

ゲンドウが見たメールの差出人は、見た事がないアドレスだった。

不思議に思いながらも、セキュリティは異常なほど高いのでウィルスなどの心配はないと、開いてみる。

(…なにッ!!)

ゲンドウが、食い入るように見たその手紙。



《ゲンドウさん、大丈夫? …心配を掛けてゴメンなさい。

 シンジの言った通りになったわね。 私は今、魂というべき存在になり、コアの中にいます。

 先程、ドーラさんが来たので、あなたへの連絡をお願いしました。

 もう、実験中止から2時間も時間が経っているのですね?

 ここには、比較するモノが何もないので、時間の概念というべきモノが在りません。

 私の体内時計の感覚なら10秒くらいかしら?

 …という事は、こちらの1秒がそちらの約12分であるなら、11年先のあなた達に会えるのは、

 私の感覚だと5日と14時間…まぁ、6日間は無い位ね♪

 ちょうど良い休暇だと思ってのんびりしていますわ。 ふふっ。 冗談ですよ? 怒らないでくださいね。

 あなたに全てを押し付けるカタチになってしまって、本当にゴメンなさい。

 でも、これから大変でしょうが、がんばってくださいね。 何も出来ないけれど、私も近くにいますわ。

 ドーラさんの話ですと、シンジは今頃、電車に乗って京都へ向かっているはずです。

 心配なさらないでね、あなた。 何かあれば直ぐに私とあなたに連絡するように言っておきましたもの。

 あの子を応援しましょうね。 …私たち、家族ですもの。

 それでは、お身体を大事にしてね? あなたの妻、碇ユイより。

                       P.S. 先程のキス、うれしかったわ♪ 》


……床には、”ぱさっ”と落ちた白衣とスーツ。 それ以外は、動くモノはなかった。



………電車。



午後12時。

(ぅ、あつい。 …日除け下げちゃおうっと。)

シンジは、靴を脱ぎシートの窓上にある日除けを出そうとしたが、身長がまるで足りなかった。

(…ふ、不便だね。 …はぁ。)


……精一杯、背伸びをして手を伸ばしている子供。 それを見ても、誰も手助けをしない。


「あら? …はい、坊や。 大丈夫?」

しなやかな手が伸びると、ゆっくり日除けが降りてきた。

シンジは振り返りながらお礼を述べる。

「ありがとう、お姉さん。」

ニッコリと笑うその子の表情は、彼女にとって久しく見た事のない綺麗な笑顔であった。

男の子の見た金髪の女性には、左目の下の泣き黒子があった。


……よく言われるが、世間は狭い。


(う…ッ! ぇぇえええ!? …もしかして、り…リツコさん?)

「どうしたの、坊や? …あら、親御さんは?」

(…またその問題か。 今、ドーラいないんだよねぇ。)

「あ、あの…」

『り、リリス、起きてよぉ〜 助けて!』

「えっと、僕は、その。」

男の子は、しどろもどろになっている。

「どうしたの? …坊や、大丈夫? どこか具合でも悪いの?」

リツコの顔が”すっ”とシンジの近くに寄ってくる。

男の子の額に、汗が”つぅー”と落ちる。

その時、主人のSOSに幼女が颯爽と登場した。

『おっはよう♪ しんちゃん…』 

しかし、リリスは今まで感じたことのない女性の波動を感じると、絶叫してしまった。

『って、まぁた女のヒトぉぉ〜〜〜!!!!』


……なぜ? なんで、この主人の周りは美女が集まってくるの!?


そんな幼女に、シンジは固まったまま説明を開始する。

『ちょ、違うでしょ! 彼女はリツコさんだよ!! リリス、どうしよう?』

『…む? ありゃ…ほんとだね。 なるほど。 どうしよっか、だねぇ。 …う〜ん、あ! そうだ♪

 この時代には、孤児なんて一杯いるんだから、ストレートにそう言っちゃえば?』

『…そ、そっか。』

シンジは、”くいっ”と首を動かして、金髪の女性を見上げた。

「…身体はどこも悪くないです。 お姉さん、あの、僕には親がいないんです。

 これからお世話になる孤児院に行くところなんです。」

「…あら、そう。 …ゴメンなさいね。 悪い事、聞いちゃったわね。 お姉さんってダメねぇ。

 あ、そうだ。」

リツコは、カバンの中を”ごそごそ”と手を入れ、中から綺麗な黄色い飴を子供に”そっ”と手渡した。

「ふふ。 はい、この飴玉、あなたにあげるわ。 …食べてね?」

(……リツコさんってやっぱり優しかったんだねぇ。)

「あ、ありがとうございます。」

”ぺこっ”とお辞儀をしながらシンジは、やはり前史のリツコは狂わされた被害者という認識を深めた。

そのリツコは感心していた。


……見た目はめちゃくちゃ幼いこの可愛らしい男の子は、何と礼儀正しいのだろう。


そして、落ち着いた雰囲気と言うと滑稽かも知れないが、ソレが当てはまる位に堂々と電車に乗っている。

王の風格というか、上に立つべきヒトの雰囲気が滲み出ているようだ、と考えたリツコは、

 いったい何を考えているんだろうかと、可笑しくなってしまった。

相手は幼稚園児みたいに幼いのに。

(わたし、何考えているのよ。)

「…ふふふっ。」

リツコは、嬉しそうな笑顔で飴の包みを開けている子供を見やりながら、久しぶりに笑みがこぼれた。

そこにリュックに仕舞っていたPDAから”ピピ”っと音がする。

(ッ! げげっ!)

リツコは、今年第二新東京大学に入学し情報・電子工学科を専攻していたが、

 それに留まらず、あらゆる理化学科をトップに近い好成績で突き進む、母譲りの才女であった。

彼女は、高校卒業時に両親が別れてしまったのを切っ掛けに、そんな家庭との関係をリセットしたくて、

 また、自分をリスタートさせようと、今までの黒髪から思い切って金髪に脱色するという、

  一般的に言えばイメージチェンジをしてみたのだった。

そんな彼女は父を嫌っており、その目は男性不審に近い感情を常に持っていたが、

 ここ最近の生活で思い出すのも難しい位に忘れていた”笑う”という感情を自然に引き出してくれた、

  目の前の男の子には、不思議とそんな感情すら抱けなかった。

「あら、目覚ましかしら? …何か鳴ったわよ? …どうしたの?」

普段ではあり得ない位、お世話焼きになっているリツコ。 その目標であるシンジは、動くに動けなかった。


……先程、孤児と言ってしまった。


そんな3歳という子供のリュックから出てきたのが最新の情報機器なんて、

 持ち得ようの無いモノが在ったら、とっても不審だと思ったから。

「どうしたの?」

リツコは、聡い子だと思っていたのに、どうした事か動きが止まった子を見やる。

「う…は、はい。 なんだろう?」

シンジはそう言って、覚悟を決めながら手元のリュックの蓋をゆっくりと開けた。

ドーラはリリスと違い、状況判断に優れるハズ。 …だから、無闇な事はするまい、と思って手に取ったら…


……彼女は興奮していた。


「マスター、お言い付けどおりユイ様に近況のご報告を申し上げました。

 その際、システムアドレスを割り当てましたので、ユイ様、ゲンドウ様と随意に連絡が取れます。

 早速、ユイ様からご依頼されましたので、ゲンドウ様宛のメールを1通届けて参りました。」

普段冷静な彼女がココまで言うのは勿論、リリスに持っていかれたポイントをぶん取り返したかったのだ。

ドーラは電車を待っている時、主人に仕事を頼まれてから、異常に張り切っていたのだ。

(うぉ! あっちゃ〜ぁぁ。)

シンジは反応が出来ない。


……その薄いというか、何も無い反応にドーラはふと冷静になる。 …彼女の頭の切り替えは世界最速だ。


「…え? …って、え? …え?」

リツコは、子供には不釣合いなというより、自分でも買えない最高級のPDAを見て固まろうとしたが、

 更にその後に聞こえた、自分でさえ作り得ないような流暢な会話に、思考停止を始めた。

しかし、生来の探究心から、彼女の頭脳は何とかその呪縛から逃れる事に成功し、彼に質問する事が出来た。

「あ、あなた、それは……なに?」

(ど、ドーラ。 …どうしよう、どうすんのさ!)


……シンジはの頭脳は混乱している。


何せ、こんな場所でリツコに会うとは。 しかも、出会ってもココまで関係し、会話をするとは!

ドーラは、どうしたものかと考えようとしたが、介入してくる”本体システム”の力を感じた。

『あ! マスター、申し訳ございません!! 私の不始末のせいで、”剪定の刻”になってしまいました!』 
『え? やった!! …ふぅ〜、よかったぁ…』

『?? あの、マスター? 私が言える立場ではございませんが、いったい何が良かったのでしょうか?』

『…だってドーラ、君が直接会話できるって事はユグドラシルが動いたって事でしょ?』

『はい。』

『…って事は、良い未来を選び、決める事ができるんだよ? …3つの選択式で!』

ドーラは、自分のミスでこうせざるを得ない状況になってしまったのに、

 マスターは自分を責めるどころか、そんな事は気にもしていないことに驚いた。


……彼の瞳は、良き未来の事を見詰めている。


彼女は、その考え方に、その優しさに自分がますます主人を好きになっていくのを自覚した。

『ありがとうございます、マスター! 私はお側に居させてもらい、本当に幸せでございますわ!』

(…あぅ。)

一方の幼女は”うっしっし”と突っ込みを入れようとしていたが、物語の展開が早くて介入できなかった。

『取り敢えず、ドーラ、今はリツコさんが不審がっているから早く選択肢を!』

『イエス、マスター。

 1.赤木リツコの家に行く

 2.次駅で降車する

 3.リツコの腹を殴る 以上です。』

『はへ? ……な、殴るって何さ?』

『分かりやすく申しますと、

 1…この時より関係を持つ、2…今は無関係になる、3…関係を失わせる、という事です。』

『ふむ。 2も、3もメリットが無いね。 どうせだから、これはチャンスと捉えて1番にしよう!』

『了解致しました。 それでは私のPDAをリツコ様にお見せ下さいませ。 1番になりますわ。』


……通常の人の感覚では、一瞬のやり取りが終わる。


「…えっと、良かったら見ますか?」

そう言って、シンジはリツコにゆっくりとPDAを見せた。

その端末を繁々と見ていたリツコは、戸惑いながら言う。

「す、少し触ってみても良いかしら?」

「えぇ、勿論ですよ?」


……リツコは幼年の男の子から情報端末を借りるという人生始まって以来の出来事に、


 (…ロジックじゃないものね。)と想ったのはココが人生初だった。

そして、リツコは借りた端末を侮っていた。


ただのAIというには複雑すぎる思考能力。 あの”偉大な”母が生涯を掛けて、

 追い求めている”人格OS”がこの手の平にあるような錯覚にまで陥ってしまった。

暫く夢中になるほど端末をいじっていたが、彼女はふと、自己紹介すらしていない自分に気付いた。

「…あ、ゴメンなさい。 私は、赤木リツコよっていうの。 …あなたは?」

「…ふふっ。 はじめまして赤木さん。 僕は碇シンジって言います。」
 
ちょっと顔を紅らめた大人の女性に、シンジは向日葵のように自然で温かな微笑を浮かべ答えた。

リツコは、余裕で返事を返してきた幼年の男の子に、更に顔に血が集まるのを感じてしまった。

そして、自分でもどうしてそう言ったのか分からないが、考えるよりも口が先に動いていた。

「…シンジ君は今、急いでいるのかしら?」
 
(なんだろう?)

突然の質問に、男の子は少し不思議そうな顔で答えた。

「…いえ、それほど…急いではいませんよ?」

「お姉さんは、二つ先の駅で降りちゃうんだけど、良ければケーキとジュースをご馳走するわ。」

シンジは、女性の言葉に目をパチパチと瞬いた。

(断るのも悪いかな…)

「いいんですか?」

「ええ。」

「じゃ、お言葉に甘えさせてもらいます。」

彼は、駅近くの喫茶店にでも行くのだろうと余り深く考えずに返事をしたが、リツコは違うことを言った。

「ふふっ。 良かったわ。 

 今、お姉さんの家には誰もいなくてね、一人で食事っていうのも少しさびしいなって思っていたのよ。

 …久しぶりに腕が鳴るわ〜」

(えぇ! おうちって、リツコさんの家?)


……先程、自分で選択したことを忘れているのか?


「あ、あ、あの、僕そんな…」

「駅近くのスーパーでお買い物するから、少し付き合ってちょうだいね?」

”にっこり”と前史では見た事もない優しいリツコの笑顔に、最早シンジに退路は存在しなかった。





京都へ−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−





………京都。



セカンドインパクト。

人類が体験した最大の天災がもたらした被害は例外などなく、日本の歴史的な古都でも凄惨なモノだった。

しかし、その被害を運良く免れた屋敷が高台にあった。


……碇家の屋敷である。


日本という文化の源でもあった建築物、その歴史ある人工物の中でも碇家の屋敷は見事な物だった。

1995年、その名家は歴史ある土地から突如、引っ越しを開始した。

低区にあったその屋敷は、4年の歳月と莫大な資金をかけ、京都を全望できる高台へと移築されたのだった。

それは、当時の地元新聞にも取り立たされる程の大規模な工事であった。

道路整備から、その土地自体の地質改良には言うに及ばず、何もない雑木林の寂しい山中が、

 一転して一つの町を形成したのだ。


……それは、雄弁に碇家の力とそれに関係する人の多さを語っているようであった。


その山中を”トコトコ”登って行く赤いカブが見える。

大きな木製の門の手前に停まった郵便局員が、その手に持つ封筒を見て逡巡していた。

差出人の名前が書いていない封筒。 それどころか表に”碇家当主様”としか書かれていない封筒。

そんな状態の封筒ですらココまでしっかり、届いてしまう家。

こんな、あからさまに怪しい不審物をココの主人へ渡していいのだろうか?

後でなにかトラブルになったり、それが原因で自分に何かされたりしないか? 自分の家族は?

現在の一般人の持つ碇家の印象は、良くわからない、怖そうとか、暴力団? といったモノしかなかった。


………意を決し郵便受けに封筒を投函した郵便局員は、特に何事もなく無事に定年退職を迎えるのだが。


「玄翁様、今日このようなモノが届きました。 チェックしましたので、中はただの紙です。」

「ぅ? …有馬か。 これは、封筒か?」

玄翁と呼ばれたその人は、もう60歳に届くという年齢からは信じられない位、痩せ細って老けていた。

老人と呼ぶ事に違和感のないその人物は、ゆっくりと振り返り、

 長年、甲斐甲斐しく働く有能な補佐官である、有馬元彦を見やった。

有馬は50代前半といった処か、細身だが背は高くゲンドウ位ありそうだ。

そして、その顔に在る目は、生気にみなぎっているというか、細く油断の無い瞳をしている。


……有能な人物では在るが、気を許す部類の人種ではなさそうだ。


キッチリと7:3で整えられているその髪型から、彼の几帳面さというか細かそうな性格が伺える。

「はい。 今時、郵便でというのが気になりますが、

 特に危険はございませんでしたので、一応お目通りをいただきました。」

有馬は彼の元で働いて既に30年近い。 その間ずっと滅私して主の為に尽くしてきたのだ。

22歳で初めて玄を見た時、その強烈な個性とカリスマ性、その権力に憧れ、無理やり働き始めたのだ。

その3年後、当時35歳の玄がその気力の大半を失ってしまったのは、彼が妻を失った時のことだった。

碇家は莫大な資産家だが、家督を継げるのは男子のみという不文律が在った。

その為、有馬は分家からの派閥争いの可能性を調べたが、

 白も黒も無い灰色のまま、事件として扱われる事無くその事故は処理され終わったのだった。

それから玄は、これからの碇家はユイの産む子に掛かっていると考え、

 その後、彼は行動・愛情の全てをユイに注いで育てたのだ。

玄は、ユイの為に経済界を引退した。 そのため、碇家はゆっくりとした衰退の道を取っていった。

有馬は納得できなかったが、主の決めた道と、変わらず奉公していた。

ある時、理由は分からなかったが、玄に言われて屋敷を引っ越す時に、

 ユイがこの屋敷をとても気に入っていたので新築ではなく手間のかかる移築工事もした。


………しかし、1999年、屋敷の完成と共にユイは家を出て行き、

 彼女からの連絡は一切なくなってしまったのだ。


その原因は、父親がユイの初めての異性との付き合いを反対したことが原因だった。

玄は、出所のハッキリとしない、というよりも、

 若い愛娘よりもかなり歳が上の男性が、彼女に相応しいとはとても納得できなかったのだ。

何度となく話し合って懸命に説得をしたが、ユイは母親譲りでとても一本気だった。


………その結果、玄は唯一の家族を失い、それから彼は、人生の時間を早送りしたように老けていった。


何の気力もない、ただ生きているだけの老人を見て、有馬は自分の人生はこんな人物の為ではない、

 と割り切る様になり、ユイが出てからは玄の跡目を狙うかのような虎視眈々とした行動を取っていた。


……そんな、世間から切り離されてしまったような屋敷に届いた、不審な封筒。


玄は差し出された封筒をおぼつかない手付きで受け取り、”もたもた”と封を開けようとしている。


……心酔し切っていた人物の見たくもない姿。


その様子を横目で見ていた有馬は、自分の腑がイラ立ちに震えてくるのを必死に抑えるのだった。

(……貴方の時代はもう終わってしまった。 あなた自身も、もう長くもあるまい…)

「フゥ、開いたぞ。 メガネは何処じゃったかな…」

「こちらでございます。」

玄は、文面を見るための老眼鏡を有馬から受け取ると、それを掛けて目を落とした。

《 碇 玄様へ貴方の娘ユイより。 》

その一文を見た瞬間、玄は当然、離婚の話だと思った。

(…それみたことか! ワシの言う事を聞いておれば良かったモノを…)

静かに様子を見ていた有馬は、ここ最近一切変わる事のなかった玄の瞳に、急に力が入ったのを感じた。

《 私の息子、シンジの事でお願いがあります。

 …この封筒に差出人の名を書かなかった理由も、お母さんの事故の真実も全てこの手紙に託します。 》

しばらく手紙を読んでいた玄は、次第に肩を震わし始めた。

「? …玄翁様、お加減が宜しくないのですか?」

有馬が聞くが、まるで耳に入っていないようだ。

だが、主人の体から気力とでもいうのか、何かが吹き出るような鬼気迫るそんな雰囲気に、

 有馬は、これ以上の邪魔はとても出来なかった。

15分が過ぎると内容を読み終わったのか、玄は手紙を封筒へ”サッ”と仕舞う。

そして、勢いよく立ち上がると、有馬に言った。

「明日、次期碇家当主となるユイの子、シンジが来る!
 
 有馬、宴の準備じゃ! 屋敷中を掃除せい! 我が孫に恥ずかしいところを一切見せるな!」

その力強い瞳、言い様、まるで現役時代を彷彿とさせる怒声に有馬の心は、驚きと共に喜びに震えた。

(!!!まさか…主様! お戻りになられたんですね!)

動かぬ部下を見た玄は、目を大きくして彼を一喝した。

「有馬! 何を呆けておる!!」

「ッ! ハッ畏まりました!!」



………マンション。



駅から出た男の子と歳若い女性は、下手をすると若すぎる親子にも見られる。

そのリツコとシンジは、スーパーの買い物を終え、一路、彼女のマンションへと足を向けた。

「シンジ君、ここが私の住んでいるマンションよ。」

そのマンションは、セキュリティの確りしている9階建ての建物だった。

エレベーターを降り、シンジはドアの鍵を開けようとしているリツコに言う。

「あの、赤木さん…」

「リツコ、で良いって言っているでしょ?」

”…ガチャ”

「さ、上がってちょうだい。」

3LDKの広めの一室、その居間に案内されると女性特有の甘い香りがした。

「あ、あの、お、お邪魔します。 り、リツコさん。」

「はい、どうぞ。 ソファーにでも座っていてね。 今、ジュースを入れるから。」

「あ、あの…お構いなく…」

「ふふっ、シンジ君? 貴方は、ケーキとジュースをご馳走されに来ているんでしょう?」

リツコは、行儀が良いというか…まさか、私を女性と意識しているのであろうか?

 顔を紅くし固まっている子供を見やって可笑しそうに笑った。

しかし、リツコの見立ては間違っていない。


……シンジの精神年齢は15歳だ。


テーブルに用意した甘いケーキと果実を絞ったジュース。 そして、一時の楽しい会話。

リツコは、久しぶりに楽しい時間を過ごしている。

(こんな、小さいのに良く知っているわね?)

基本的に彼女は、知識が在るだけの頭の良さというモノを評価しない。

機転というか機微、知恵を生み出す頭の回転の速さ、それが無ければ価値が無いと思っていた。

そして、目の前の子の聡さはどうだろう、ハッキリ言って大学の同窓より遥かに良い。

男の子との小気味のよい会話を楽しむリツコであったが、聞きたい事があった。

「さっきのPDA、誰が作ったの? あのOS、と言えるのかしら? とても素晴らしいわ。

 私の母もね、その手の研究をしているんだけど。 ちょっとレベルが違う感じよ。」

”…プル……プルルルルル……プルルルルル……”

電話機が、その存在をアピールする。

リツコは、ソファーから立ち上がって、壁にある電話の子機を手に取った。


「はい、もしもし。 あら、母さん。 …そう、分ったわ。 ええ、それじゃ。」

ソファーに戻ってくるリツコの顔は、少しだけ寂しげだった。

「あの、リツコさん。 僕の名前って、聞いた事がありませんか?」

「なまえ?」

リツコは、この孤児と言った子供の名前を自身の記憶に照らし合わせるようにサーチした。

「ッ! …碇って、まさか。 碇ユイさんの子供!?」

リツコは、母の同僚であるユイに一度だけ会ったことがあった。

彼女は、ユイに対して自分の母と違う、その雰囲気と母以上に感じる才溢れる言動に好感を持っていた。
 
「ゴメンなさい。 嘘を付くつもりはなかったんですが…

 事情があって、人多い場所では、ああ言うしかなかったんです。
 
 リツコさん、僕はあなたに伝えるべき事があります。 そして、知る義務も在ると考えます。」

リツコは、突然雰囲気の変わった子供を見たが、その瞳に宿る力に冗談を言っているのではないと確信した。

「あのユイ博士のお子さん、ね。 であれば、ああいった端末を持っていてもおかしくはないのかしら…」

「いえ、あれはヒトの技術では作れないと思いますよ。 それと、これを見て下さい。」

そう言って、シンジはリュックから紅い革の本を取り出して、彼女に見せる。

(まぁ、何て綺麗な紅。 …綺麗。)

「…何が書いてあるの?」

「何処でも、開ければ分ります。」

そう答えたシンジの顔は、朗らかに笑っていた。

(読めば、ではなく開ければ?)

リツコは多少訝ったが、素直に本を開いた。

『はじめまして、赤木リツコさん♪ リリスといいます。』


……リリスは、脱幼女宣言でもしたのか? …妙に大人っぽい言葉遣いでスタートを切った。


その波動を感じ取ったシンジが、多少引きつっていたのは秘密である。

「な、なに? 写真が…絵が動いている?」

左ページに印刷されていた小さな女の子。

リツコは写真だと思っていたが、なんと挨拶という感じて滑らかにお辞儀をした。

「リツコさん、これからの話をすると、大分時間を取らせてしまいますが、構いませんか?」

「…え? え、えぇ。 良いわよ。 さっきの電話で、母さんはしばらく帰ってこないみたいだし。

 シンジ君がよければ、お願いするわ。」


……そして、シンジの告白が始まった。



………人工進化研究所。



ゲンドウは、太陽も大分傾いてきた夕暮れの湖畔を一人で歩いていた。

着の身着のまま、手荷物もない状態だったが、現金は多少持っている。

(…1週間後、委員会に提唱する計画。 …人類補完計画か。

 ”前”ではこの段階でシンジを他人の家に捨てた、とは。 まったく何をしているんだかな…)

ゲンドウは、振り返って赤く染まる人工進化研究所に目をやった。



”プシュ”

「……碇?」

冬月が、所長室に中間調査報告書を持って入って来たが、部屋の持ち主はいなかった。



………風呂。



シンジは、リツコに前史を語った。

そして、リツコはその事をリリスよりもドーラを使用して検証しながら聞きたいと言った。

だから時間はだいぶ掛かってしまい、全ての話が終わったのは、太陽が大分低くなった頃であった。

窓から入る夕暮れの紅を見たリツコは、

 シンジに夕食を食べていきなさい、と言って、先に風呂を用意してくれた。

”かっぽ〜ん。 …ザパァ〜”

「ふぅ〜。」

(…風呂は命の洗濯か〜。 確かに良いリフレッシュになるよねぇ。)

シンジは髪を洗い、体も綺麗になり気持ちが軽くなったような気がした。

研究所では人目に付かないようにしていたので、短時間でのシャワーだけだったのだ。

(…はぁ。 しっかし、スタート初日からこれまた随分予定外な事が起きるものだね。)


……ゆっくりと湯船に浸かって瞳を閉じる。 その頃ゲンドウは人目につかぬように山中を歩いていたが。


リツコは、今晩のメニューに鶏肉の香草焼き、ポタージュスープとサラダを用意していた。
 
金髪の女性は、手馴れた手付きでフライパンに油を引き、それを見ながら先ほどのことを考えていた。

(…ふぅ、信じるしかないわねぇ。 …ゲヒルン、NERV、使徒、母さんのMAGI、そしてシンジ君。

 シンジ君は、選ぶことができると言ってくれたわ。 …ゲヒルンに入らず、普通に暮らす事も出来ると。)

”ジュワァァア……”

鶏肉の焼け色を見ながら、アクセントの香草をフライパンに入れる。

(うん、いい香り♪  …よし、と。)

皿に盛り付けていると、ちょうどシンジが風呂から上がってきた。

「ちょうど、できたわよ。 え!? し、シンジ君? あなた、大丈夫なの!?」

リツコの瞳に映ったのは、先程とは真逆のカラー、白であった。

「え? ああ、これが本当の僕ですよ。 さっきは髪の色を黒く塗って、コンタクトをしていたから。」


………髪を染めなかったは、ユイの”こだわり”だった。 彼女いわく、シンジの絹のような髪が痛むと。


リツコは、その瞳が離せなくなったかのように見入っていた。

まるでルビーのように輝く真紅の瞳。 …銀色、というより白い髪。

初めて見た時から色白だと思っていたが、よく見ると白磁器のように輝いている肌。

「? 如何したんですか?」

「な、なんでもないわ。 さ、さあご飯が出来たわ。 いただきましょう。」

リツコは不思議な感覚を憶えた。

ついさっきまで他人だった子。 でも、今は、ココにいるのがとても自然だと感じた。

自分が良く理解できない不思議な感覚。 そう、これはリツコが生涯初めて覚えた感情、母性だった。

「おいしい! …リツコ姉さん、ありがとう!」

”もぐもぐ”と一生懸命咀嚼しているその子の様子を、リツコは優しい眼差しで見ている。

「いいえ、どういたしまして。 ふふっ。 なんだか今日は特別上手く出来たわ。」

シンジに”リツコ姉さん”と呼ばれたのが嬉しいのか、ニコニコしている。

「シンジ君、京都へは私が車で連れて行ってあげるわ。」

「え? でも、悪いですよ?」

「さっき、ドーラさんと相談したんだけど、やはりシンジ君の外見では移動時間が限られるし、

 保護者がいた方が目立たないわ。

 それに、ここからは白いそのままの方が、”その組織”の目を欺けると思うの。

 そうなると、移動は自動車のほうがよりベターよ。」

「う〜ん。」

シンジとしては、今、余り関わりを持ってしまうのは良くないと考えていたのだ。

しかし、充電されているPDAの彼女にとっては、主人が最優先の1番である。

利用できるものは、全て利用するのである。


……大人のやり取りに失敗した幼女は寝ているようだが。 …しかし良く寝る。 さて、寝る子は育つのか?


「分りました。 ご迷惑をおかけしますが、よろしくお願いします。」

「ええ。 出発は明日の夕方頃、高速を使わずにゆっくりと行きましょう。 …到着は明後日ね。」

リツコは、顔を真面目に引き締めシンジに言った。

「…シンジ君、私はゲヒルンに入社するわ。 人類の為、何て考えられないし、想像も出来ない。

 ただ、今日知り合った不思議な子、あなたを助けたいと思った。 …これは私の素直な気持ちよ。

 それに、とても面白そうだし♪ …ね、シンジ君、あなたの行く末を見せてちょうだい。」

リツコは、将来なるであろう科学者としての未知に対する探究心を秘めた瞳で、とても悪戯っぽく笑った。

(……ぅう。)

「将来は分らないけど…リツコ姉さん、本当にありがとう。」



………京都。



あれから、玄は人が変わったように動いていた。

彼の老人然とした今までの雰囲気は、何処にもなかった。

有馬はこれ喜び、主の言う前に必要な行動を率先して起こしていたが、

 ふと、我が主人をここまで変えたあの手紙には、一体何が書いてあったのか、と思わず聞いてしまった。

「…玄様。 あの手紙は、いったい誰からの手紙だったのですか?」

「む? あれか。 あれはわしの娘、ユイからじゃ。

 ユイの息子…すごいぞ! 何と、天才らしい! 

 僅かな物証と事情を検分し、マイの事故を殺人だと結論した。

 我が碇財閥を5年で世界一にする為に来るらしいのだ。」

玄は手紙の内容を思い出し、嬉しそうに言った。



〜 ゼーレ 〜



さて、ゼーレとは元々1918年11月に世界経済を”神の手”として調整・運用するべく、

 第一次世界大戦の終戦調停の会議後に、極秘に発足した組織であった。


……そして、物語が動いたのは、1980年当初のことだった。


当時、ゼーレの第2位であったナンバー01、キール・ローレンツは死海付近より新たな文書を発見した。

彼は独自に研究者を雇い、極秘裏にその古文書の解読を開始したのだ。

研究者達が全力で解読したものは、とても不完全なレポートであったが、

 キールを興奮させるには十分な物だった。

それによれば、未知なる霊的エネルギーというか、

 高次元エネルギーを利用する事によって、”魂の解放”が行える、というものだった。

そして、”儀式”と呼ばれるそれを実行できれば、なんと進化の…魂の階梯を昇れると報告したのだ。

これは、神への道が発見された、と言っても良いレポートだった。

元々、キールと言う人物は、選民思想がとても強かった。

だから、ゼーレがこの儀式を実行するべきだと考え、そのシナリオを作成・遂行すべきだ、と提唱した。

しかし、組織発足時のゼーレの目的である、

 世界経済における、いわゆる”神の手”で在るべきと、当時ゼーレ筆頭であった碇 玄が却下したのだ。


……その決定から半月後。


碇 玄は、交通事故により妻を失い、自身も重症に近い怪我を負い、長期療養のため経済界を離れた。

その際、長期に渡り筆頭としての職責が果たせないと、ゼーレ決議により判断され、

 第1位である彼のナンバー00という地位は、空席とされた。

そして、その後任には、第2位のドイツ、キール・ローレンツが着任したのだった。



〜 京都 〜



有馬は、玄の歴史ある言葉を静かに聞いていた。

そして、あの手紙には、交通事故とその後の顛末、全ての黒幕がキールであり、

 祖母の復讐を行うのなら孫のシンジが手伝うと書いてあった。

その証拠は、実際に会ってから見せるとも書いてあった。

玄は、死んだ者は生き返らぬ、と今まで復讐などは考えていなかったが、

 それよりも孫がいる事も知らなかったし、それが、望んだ男子とは!

老人は、ユイの手紙を出した時に出発している孫は、明日ここに来るであろうと楽しそうに語ってくれた。

「時間を取らせてしまい、申し訳有りませんでした。 引き続き準備の状況確認をしてまいります。」

そう言って、男は、玄のいる部屋を辞した。

そして、廊下を数メートル歩くと、有馬は足を止めた。

(…財閥を5年で世界一に? どうやって? 不可能だ…そんなこと…)


……有馬は、これから来るであろう、ユイの子供に対して不審感を募らせた。



………道中。



車は順調だった。

リツコが運転するナオコの車は、赤いスポーツカーではあったが、十分日常の使用に耐える物だった。

助手席に座った子供は、今は夜空になった空を”ボンヤリ”眺めていた。

「シンジ君、寝ていなさいよ。 …まだ、先は長いわよ?」

「ん、リツコ姉さん、ありがとう。 でも、大丈夫だよ。 姉さんこそ疲れたら、ちゃんと休んでね?」

「私だって、まだ大丈夫よ。」

こういった自然な会話にリツコは、実年齢は離れすぎているが、精神的には姉弟のような感覚を持っていた。

違和感なく、彼を弟と認識している自分に、何とも言えない思いが湧く。

(本当の弟、いたらこんな感じかしら。 …姉さん、か。 ふふっ…良い響きね♪)


ドーラは、GPS衛星信号のノイズを除去して受信すると、センチ単位の精度で地図を描きナビしている。


……リリスは、相変わらずシンジのことを想っていた。


『…む! しんちゃんの側に近寄る不穏な空気。 きっと金髪女ね! お姉さんは私よ、しんちゃ〜ん!』

シンジは、膝の上に”そっ”と置いた本を優しく撫ぜる。

『リリス、星が綺麗だよ。 いつか、きっと君を本から出そう。 そうしたら、一緒に夜空を見ようね。』

(…んっ、あん♪ しんちゃん…)


……小さな女の子は、シンジの優しい愛撫にトロけた。


「ドーラさん、近くのコンビニを検索して頂戴?」

「はい。 了解致しました、リツコ様。」

 ”ピピンッ!” 

「この通り沿い、500m先の道路左側に一軒ございます。」


……リツコは、このPDAが欲しがったが、ユイ同様の理由で断られたのだ。


…ダメですよ、大事なヒト(仲間)ですから、と。

コンビニに駐車し、食料、飲料の補充をして再度出発した後、気が付けばシンジは寝ていた。

リツコは、信号待ちの手持ち無沙汰な時間、何気にその寝顔を見入って、不思議な幸福を感じた。

(私が、誰かの為にこんなに骨を折るなんて。 …それが苦にもならず、逆に嬉しいだなんて。)

リツコの運転する車は、京都へ向かい順調に走って行った。



………古都。



朝焼けの町。 まだ静寂の支配する道。 そこを”するする”と静かに進む赤い自動車。


……この町は、今だ寝ているようだった。


”…キィッ。 ガチャ、パタムッ…”

赤い車が道路脇に停車し、運転席から人が出てきた。

(うぅ〜ん、しょっ…と。)

両腕をゆっくりと大きく伸ばした女性の髪が、柔らかく朝日に輝く。

ここは、日本人の心の都…京都。 昼間は大勢の人で賑わうであろうこの通りも、今は誰もいない。

朝5時40分。 リツコは心地の良い疲労感と、無事に京都までこられた達成感のようなモノを感じていた。

免許を取り、ここまで遠乗りしたのは実は初めての事であった。

優秀なナビのおかげ、とも言えなくもないが、実際に運転したのは自分だ。

今、心を満たしているモノは、普段の生活では感じた事のない充実した時間を過ごしている気分だった。

(ふぅ。 シンジ君に出会って、私は変わっているのかしら? こんなに優しい時間は久しぶりね。)

人付き合いが苦手な人物、というのが彼女の自分への評価だった。

それを端的に感じるのは、人とのコミュニケーション。

話のテンポが合わないのだ。 これを、会話のキャッチボールにでも例えればいいのだろうか。

自分のボールは相手に直撃し、相手のボールは見当違いの方へ投げられる。

そうなると、頭の回転速度が違うと思ってしまい、話が合わないと感じてしまう。

ここで、相手に合せる器用さがあればいいのだが、上手く合せられない。

その結果、相手に一歩引かれてしまう。 それを見ると、段々合せるのが無駄な努力のように感じてしまう。

リツコは、こういう悪循環を小さい頃から繰り返していた。

また、彼女が積極的に人付き合いをしないのは、彼女の名前にも原因があった。

初対面で挨拶をすれば、必ず”赤木博士の娘”と言われるのだ。

自分の個性の前に、親が存在しているように感じると、自分という”モノ”がとても希薄に思えるのだ。

そんな”自分”というモノを表現し、表に出すのが苦手だから、余計に人付き合いしなくなる。


……彼女の冷静で明晰な頭脳は、いつしかそれを当然だと割り切っていた。


しかし、この子とのふれあい…会話をしていると、一度もそんな詰まらない事を思う時はなかった。

ごく自然なコミュニケーション。 望んでみたモノがこんなに心地良いなんて。

(シンジ君って不思議な子ね。 …いつの間にか、心にいる子…)

助手席で無邪気に寝ている小さな男の子は、車が停車した事にも気付いていなかった。



………日も昇り。



「ありがとうございました、リツコさん。

 ここで、一時のお別れです。 車の中でお話ししたから、もう余り言いませんが、

 お身体に気を付けて下さい。 それと、彼女と知り合ってイライラしても、タバコは吸わないで下さいね。

 …それじゃ、また。」

「ええ、ありがとう、シンジ君。 …あなたも身体に気を付けるのよ?

 たぶん私は、タバコを吸わないと思うわ。 うふふ。 あなたに嫌われたくないもの。

 メールするから、ちゃんと返事を頂戴ね? …それじゃ、また。」

赤いスポーツカーは、高台の町へ向かう道の麓で停まっていた。

「り、リツコさん?」

「ふふっ、行ってらっしゃい♪ シンジ君。 また、会いましょう。」

運転席から手を振って別れを告げたリツコは、ゆっくりと来た道を戻って行った。

(…そうですね。 リツコさん、また会いましょう。)

それを見送りながら、シンジは大きく手を振る。

リツコは、直接、碇家まで送ると言ってくれたのだが、シンジはまだ歓迎されるか否か、

 屋敷での自分の扱いが分からないので、リツコを関わらせるのは悪いと思って断っていたのだ。

ゆっくりと上り坂を歩く子供。

リツコに貰ったパンを食べながら歩く様は、さながら遠足である。

『? リリス? …どうしたの?』

シンジは朝起きてから幼女が何か言いたげな波動を出したまま、何も言わない事を不思議がった。

(しんちゃんって、女性きらー? 無意識ってところが、微妙だけど… 気付いてないし。)

『しんちゃんって、私の事…すき?』

『もちろん。』

『…どういうふうに?』

『え? どういう風に? どうって、よく分からないけど、何で?』

(…はぁ、やっぱり。)

『しんちゃんって罪な男ねぇ。 惚れた弱みか。 わたしゃ、苦労しそうだよぅ…とほほ。』

『な、何言っているのさ? あのね、何度も言うようだけど…』

シンジの話の続きが予想できた幼女は、慌てたように話を遮った。

『いやん! だめよぅ! いいんだもん。 さ、最初は2番目でも! …いつか1番になるから♪』


……このペースでは、いったい何人のライバルが出てくる事やら?


リュックの中の紅い本は、”めらめら”と燃えていた。

『…だから、誰にも負けないもん!』

(…はぁ。)

小さな女の子の燃え上がる心の波動を感じた男の子は、小さくため息を吐くのだった。

そんなシンジが、ゆっくり歩くこと約1時間、ようやく上り坂が緩くなってきた。

小さな子供には、散歩、というには少し距離があったが、

 大人の何十倍の身体能力を誇る彼にとっては、何の負荷にもなっていなかった。

そして、何処までも続く白い塀と、大きな木製の門が見えてきた。

(で、でかいねぇ…)

「えっと、ここかな?」

シンジは遠くからハッキリ見えていた屋敷に向かって歩いていたが…徐々に近づくにつれ、

 自分の遠近感がおかしくなったのか、と思うほどその木製の歴史有りそうな門は大きかった。

(…えっと、呼び鈴って何処?)


……男の子の身長は低いが、それとは関係のないスケールの門には無粋な呼び鈴など存在しなかった。


”ピピッ”

リュックから音がしたので、シンジはPDAを取り出して画面を見ると、新着メールが入っていた。

《 マスター、後1分ほどでこの門より人が出て来られます。 その方に取り次いで貰いましょう。

 どうやら、この門は常時監視されているようです。 》

『ありがとう、ドーラ。』

メールを読み終わり、ちょうどPDAを仕舞った時、この門の右手側の通用門が開いた。

”がちゃ…”

「…あ、あの、すみません。」

通用門から出てきた女性は、声を掛けてきた男の子に向かって、にこやかに笑いながら応えた。

「あら、こんにちわ。 …坊や、何かご用?」

シンジはちょっと驚いた。


……自分の姿に何一つ動揺も反応もしないこの女性は?


(…珍しくないのかな?)

「あの、僕はシンジって言います。 おじいちゃんに会いに来たんですけど、入れてもらえますか?」

「おじいちゃん?」

この女性は、何も有馬に言われてシンジを迎えに来たわけでは無かったのだ。

この門の警備をしている警備センターから、たまたま近くにいたので、追い払うように言われたのだ。

彼女は、いつの時代も変わらない事の証明のような”メイド服”に身を包んでいた。

また、その手には、彼女が今どういう仕事をしていたのかハッキリと分かる、

 これも時代変化に関係ない”竹箒”と”ちりとり”を持っていた。

そして、眼鏡を掛けた彼女の口元には、小さなホクロが見えた。

「ぼうや、何処のおじいちゃんに会いに来たのかな?」

彼女は、そう言ってお辞儀をするようにシンジをのぞき込むと、

 彼女の黒く長い髪が背から”さらっ”と舞い降りた。

「あ、あの、その。 …ぼ、僕の名前は碇シンジなんですけど…」

「? そう、初めまして。 私は山岸マユミって言うのよ?」

彼女は、今年高校を卒業して就職をしたのが、たまたま碇家の傘下にある家政婦センターだった。

そして、新人研修が終わった5月に、欠員の出たこの屋敷に来たのだ。

当たり前ではあるが、メイドの、家政婦という使用人の世界にも厳しい序列があった。

筆頭執事として、有馬元彦。 その後、順位が下りて新人であるマユミは、他の同僚と同じ最下位であった。

そんな彼女は、当然、当主に目通り出来たのは、

 最初の屋敷に来た時だけであり、同じ使用人である有馬ですら、数える位に顔を見るだけだった。

しかし、運命の悪戯か……ここで、この屋敷に関わる最重要人物と知り合ってしまう。

「へぇ…珍しいお名前ね。 ここのお家も”碇”って言うんだよ? …同じだね♪」

「そ、そうですね。 って、そうじゃなくて、あの…中を案内して頂けないでしょうか?」

「え、御免なさいね、知らない人を入れると、お姉さん怒られちゃうの。

 …う、ん。 …でもちょっとならいいかな。 …のぞく位ならね。」

マユミは、物珍しさに中を見たがっていると勘違いをしていたが、それでも重要な規定違反である。

(ま…とりあえず、中に入れればいいや。)

「はい、ありがとうございます。」

シンジは中に入れば警備もいるだろう、なにがしか進展すると思って特に気にせず返事をした。

「じゃ、この扉から中を見てね?」

驚いたのは、警備センターでモニターをチェックしていた職員だった。

追い返せと命じたはずなのに、なぜか子供が今にも敷地に入りそうになっている。

今日は特別な日と聞いていた。 …なんと、次期当主となるおヒトがこの屋敷に初めていらっしゃるらしい。

そんな非日常のイベントがあるのに、不法侵入者騒ぎなど起こされたら、自分は間違いなくクビだ。

慌てた男性は、無線機をひったくるように取ると、怒鳴るような大声で叫んだ。

「正門警備に支障発生! 不法侵入の可能性有り! 警備員は直ぐに急行されたし!」

『”ザッ”了解! こちらCブロック、5人行きます!』

『”ザァ”了解! Bブロック、4人急行します。』


……こんな事態になっているとは全く思っていない二人は、

「わぁ、すごく広い庭ですね〜」…とか、

「そうなのよぉ。 お姉さん、毎日お掃除しているけど、結構大変なのよねぇ。」

 なんて…とても”ほのぼの”した会話をしていた。


「う? …アレなんですか?」

シンジが、指をさした方向から5人の警備員が疾走してきた。

「え? あら?」

お姉さんは不思議がったが、別方向からもやってくる。

しばらくすると、円を描くように囲まれてしまった二人。

そして、警備員の一人が声を出した。

「君、ここに入ってはいけない! …そこのあなた、無許可の人間を屋敷に入れる事は禁止事項だ!」

「あら、小さな子供がちょっと中を見たいって言っただけじゃないですか?

 …それだけの事で、この騒ぎなんですか?」

「あなたは、ここに入る時のマニュアルを読んでいないのですか!?

 …どんな理由があるにせよ、ダメなものはダメなんです。

 それに、その子の容姿は、その、我々と違う。

 とにかく! 今日は、問題を起こせない日なんですよ! その子をこちらに渡して下さい!」

「この子は普通ですよ? 容姿って何です! 失礼じゃないですか?

 見た目で危険って言うなら、あなた達だって十分そうじゃないですか?」

『この人、いい事言うね〜 そう思わない? リリス?』

シンジは、人を見かけで判断しないマユミの心に感心していた。

『べっつに! …む〜〜〜 まただよ。』


………むくれている幼女。 彼女の悲願達成までの道のりは長く険しい。 そんな道はないかもしれないが。


「何を騒いでいる!? 今は時間がないんだぞ! そこで何をしている!?」


……屋敷を綺麗に、次期当主歓迎の宴準備にと奔走しているところにこの騒ぎ。


有馬は、何年ぶりか分からない充実した忙しさに身を委ねていたが、トラブルはゴメンだった。

「あ、有馬様! すいません! メイドが勝手に敷地に子供を入れてしまったので、対処しようと…」

そう言われて見やると、大人達が取り囲んでいる中心には、メイド服の女性と小さい男の子がいた。

有馬は訝しげに男の子を見たが、その見た事もない容姿に、更に目を凝らした。

彼は、足早に騒ぎの中心へ足を運ぶと、多少イライラした調子で口を開く。

「君はどこから来たのだ? …親御さんはどうした?」

「初めまして、おじいちゃんに会いに来ました。 …僕は碇シンジって言います。」


……有馬の時は止まった。


まさか、碇家の人間だとは… それも中心も中心の最重要人物がリュックを背負って徒歩とは!

予想がつかなかった自分に腹を立てる時間は、1秒もなかった。

碇シンジと名乗った男の子が、驚いている自分に構わず話を進めたのだ。

「あの、おじいちゃん居ますか?」

「失礼しました! シンジ様、主様はこちらにいらっしゃいます。」

そう言うと、にこやかに屋敷の中心の方へ左手を指したあと、彼の顔は警備の方へ向いた。

「おまえ達はもういい! 所定の場所へ戻れ! …それとそこのメイド!」

男の子の声によって、男の叱咤の言葉は続けられなかった。

「あ、そうだ。 マユミさんも一緒に行きましょう、ね?」

シンジは、ゆっくり振り返ってマユミに柔らかな微笑みを向ける

「え、あ。 は、はい。」

有馬は、口を数回”ぱくぱく”と開けたり閉じたりしていたが、

 男の子の視線に合せるようにしゃがんだ。

「シンジ様。 申し訳ありませんが、彼女を連れて行くことは出来ません。」

「どうして?」

「物事には決まり、というものがございますので。」

「ふ〜ん、そう。 分かった。」

この言葉を聞いて、有馬は理解が得られたと嬉しそう頷いたが、マユミは少し寂しそうだった。

「…じゃ、おじいちゃんをここに連れてきてね。」

これは予想外の発言だった。

「…そ、それは無理でございます。」

彼にとって、この世のルール違反に等しい発言であった。


……子供のわがままの為に、主人を煩わせるなど出来る相談ではなかった。


「じゃ、一緒でいいでしょ?」

連れて行くだけなら、仕方ないか…と判断した有馬は”渋々”と頷いた。

碇 玄は、有馬から内線で孫が来たという報告を聞いて、シンジを応接室へ案内させた。

マユミでさえ、掃除でも入ったことのないその応接室は、

 シンプルではあるが見事な調度品がセンス良く纏められていて、やはりスケールが違った。

シンジは、マユミと案内された後、特にすることもなく手持ち無沙汰な時間を過ごしていたが、

 しばらくすると、和服を着た初老の男性が入ってきた。

「初めまして、碇シンジです。」

「うむ。 ワシが碇 玄じゃ。 おうおう、ユイによく似ているのぉ。 こりゃかわいい顔じゃ。」

シンジの顔を”まじまじ”と見た玄は、にっこり笑った。

「あの、お、おじいちゃん…」

「なんじゃ?」

「その、僕の身体のこと…聞かないの? どうしてって?」

「それはユイの手紙にも書いてあった。 …白銀の髪、真紅の瞳、白磁器のように白い肌。

 ま、ワシとしてはどうでもいい事じゃが。 さて、シンジよ。 態々ここに来たおまえの望みは何じゃ?」

「手紙には書いて無かったの?」

「はて、書いてあったか、ワシは忘れてしまってのぉ…」


……つまり老人としては、この子の機微に触れてみたかったのだ。


「分かった。 おじいちゃん、手紙には何が書いてあったのか分からないけど、

 僕の知っている事を教えるよ。 おばあちゃんの事故、母さんの事、そして僕がこの家に来た理由。」

「よし。 その前に有馬よ。 この子に飲み物を用意してあげなさい。 もちろん、お菓子もな。」

「はい、承知しました。」

これは、人払いをせよ、という事だった。

「ふふっ。 ありがとう、おじいちゃん。」

玄は、まさか、小さな子供に今の意味が分かるとは思っていなかったので驚いてしまった。



………人工進化研究所。



「ふぅ、出ないわねぇ。 いったい、どこに行ったのかしら?」

ナオコは、一昨日、しばらく家に帰れそうにない、と電話をしてから娘と連絡が取れなかった。

携帯電話という当たり前のようにあったインフラは、セカンドインパクトにより機能しなくなってしまった。

この時代、専用ダイヤルによる伝言板が主流になってしまっていた。

あの事件、ユイがEVAに取り込まれてから、

 あらゆる機器を使用し、全力で解明に臨んでいたがその調査に進展は見られなかった。

唯一、コアパターンの変化と、実験中のその前後の事象について詳しく分析したのが精々であった。

ナオコは娘の心配はしたが、家に帰る事はなかった。



………碇家。



玄は、驚きに満ちた瞳を目の前の子供に向けていた。

「むぅ。 シンジ、おまえはヒトを超えてしまったのか。 

 …いみじくも、あのキールの言っていたことが、本当であったとは…」

「それだけだとちょっと、違うけど。 …まあ、運が良かったんだよ。 たぶんね…」


……ドーラが突っ込みを入れないのは、シンジにリリス共々今は出てこないで、とお願いされていたからだ。


「シンジ、おまえをユイの子として、ワシの後継者として正式に皆に紹介しようと思うんだがの?」

「う〜ん。 僕としては今までどおり、表面はおじいちゃんが出ていて欲しいんだ。 しばらくはね…」

「そうか。 う〜む… 有馬には、さっきの事を話してもいいんじゃろ?」

「まあ、いいけれど。」

「…有馬! 茶菓子はどうした?」

「はい、只今。 大変、お待たせを致しました。 …では、こちらに。」

テーブルに豪華なお菓子を置きながら、有馬は玄の斜め前に畏まった。

「有馬よ。 わしは、今この時より家督をシンジに譲る事にした。

 おまえには不服があるかもしれんが、今までと変わらずの忠義をシンジに誓ってくれんか?」

「主様。 私は碇家の為に今まで尽くしてきた訳ではございません。 あなた様の為です。

 私は、他の誰の元でも働きは致しません。」

「…いや、そう言わんでくれ。 おまえの働きはこれからも必要になる。 …このとおりだ。」


……そう言うと、玄は今まで交渉の席では例え相手が国の代表であろうとも下げた事のない頭を下げた。

 
「ッ! 頭をお上げください! …分かりました。 ですが、申し訳ありませんが、条件がございます。」

「なんだ?」

「はい。 私は主様を疑う事はございませんが、ただ一点だけ、お聞かせ願いたいことが有ります。

 シンジ様の協力が有れば碇財閥が5年という、短期間で世界トップになる、との仰りに納得がいきません。

 それを証明して下さいませ。」

碇家の資産は莫大ではあるが、現在その経済活動はほぼ休眠状態だった。


……それ故、碇の名は一般には浸透していないのだ。 その財閥が5年で経済界のトップになるという。


「むぅ。」
 
実際、玄は家督を継げる男子、という事だけでシンジを受け入れていたが、

 有馬は、尊敬・信用できない人物の下では働かない、と言っている。

「分かりました、有馬さん。 おじいちゃん、100万円ほど僕に貸して下さいませんか?

 今日は7月4日だから……え〜と、8日までに1億円にしてきます。」


………つまり、7月5日から8日までの4日間で、元金を100倍にする、と言ったのだ。


この申し出は、大人二人を大いに驚かせた。

「し、シンジよ。 …それはいくら何でも無理であろう?」

「面白いですね。 シンジ様の申し出を、しかとこの目で見させて頂きましょう。」



………ホテル。



……7月9日。


白いホテルの一室に泊まっているゲンドウの手には、受話器が握られていた。

どの場所の、どの回線からでも複雑な手順を踏めば、ゼーレへの連絡は取れるようになっている。

そして、一般の回線から特殊回線への切り替えはいつもどおり、10秒ほどで終わった。

”チャ”

『碇です。』

『…職場放棄とは、感心せんな。 碇。』

『申し訳ありません。 ですが…私には誰にも邪魔されない、静かな環境が必要だったのです。』

『ほう。 なぜかね? まさか傷心を癒していたわけでもあるまい?』

『もちろんです。 議長、只今を持って新たな計画を提唱致します。』

『なに? 計画だと?』

『はい。 ユイの解読した死海文書。 そこから見出した理論・方法による、我々人類の進化の儀式。

 ”人類補完計画”と呼称します。 これは、神への道となるでしょう。』

『なんだと!? あの儀式を碇ユイ博士が独自に解読したと言うのか? ふむ、どう言ったモノだ?』

『それは……………』


……ゲンドウの提唱した”人類補完計画”はこうしてキールに認可されたのだった。



………その1日前。



シンジは、リリスの”記憶の力”とドーラの”電子の力”で、1日で資金を増やす事に成功した。

しかし、証券等を現金化するのに3日間掛かってしまったので、16人の銀行の営業マンが、

 それぞれ625万円の現金を持って屋敷を訪れたのは、予定どおりの7月8日であった。

小さな男の子の目の前のテーブルには、約束どおりの1億円があった。

それを見た玄は、彼の見事な手腕に驚きと共に喜んだ。

「どうじゃ、有馬?」

「認めざるを得ません。 感服しました。 これまでの非礼をお許し下さい、シンジ様。」

そう言うと、有馬はシンジの前に手をついて頭を下げた。

「あ、そんな。 頭を上げて下さい。 これから、宜しくお願いします。 有馬さん。」

玄は、正式な手続きとして弁護士立ち会いの下、文書として家督をシンジに渡した。

その書類などの法的手続きに2日間を要したが、碇家の新しい当主は7月10日に誕生したのだった。


……また、その事実は、彼が14歳になるまで極秘扱いとされ、表向きの当主は碇 玄のままだった。





アメリカへ−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−





………人工進化研究所。



日の光を眩しい、とさえ感じるこの廊下を冬月は脇目も振らず走っていた。

この男が職場で走るということは、今回が初めての事であった。

その珍しい光景に、廊下ですれ違う職員は皆一様に驚いた顔をしていたが、

 その必死な様子に誰も声を掛けられる者はいなかった。

”プシュ”

「ハァ、ハァ。 …い、碇。 今まで何処に行っていた?

 …傷心も分かるが、ハァハァ…今は、おまえ一人の体ではないのだぞ?」

ヒザに手をついて、酸素を肺へ補給する初老の男性が、この部屋の主を見る。


……この所長室の持ち主が帰って来たのは7月10日の昼過ぎだった。


「ああ、分かっている。」

「分かっているなら尚更タチが悪いぞ? 良いか、碇…」

流石の冬月もこの男の職場放棄に文句を言おうと口を開いたが、それをゲンドウは無視した。

「…冬月、これより新たな計画を遂行する。」

「何を言っているのだ? 新たな計画だと? ッ! ま、まさか!」

机に肘を付いている男の口の端が上がる。

「フッ。 既にキール議長には提唱済みだ。」

「しかし、あの文書のとおりでは実行不可能だぞ? ユイ君は失敗したのだ。 これは紛れもない事実だ。

 今のままでは、EVAのコントロールが取れまい。 あの南極の惨劇を忘れた訳ではないだろう?」

「しかし、ユイの解読した死海文書によれば、”白き月よりのシ者”はアダムの覚醒から、

 太陽が地球を5500回昇った後やって来るとあるのだ。

 つまり、死海文書が正しければ、今から約11年後の2015年に、15のアダムの使徒が出現するのだ。

 冬月、ゼーレには、”その子”たちとの戦場になる、

 この”黒き月”に都市建設を開始するように裏から日本政府に圧力をかけてもらった。
 
 対使徒専用迎撃擬装都市として、何も知らない市民を、人類を護るというお題目の為にだ。

 それまでに我々は、何としてでもEVAのコントロール法を確立し、勝利せねばならない。

 今の初号機のコアパターンは、ユイの精神パターンと同じように変化してしまった。

 先の接触実験の検証をもう一度最初から見直す。」

「…今、ナオコ君が初号機からユイ君をサルベージする計画を作成しているぞ。」

「む? そうか。 彼女はこれをチャンスと見ているのだろう。

 それが成功すれば、ユイに勝ったとでも思えると。 まあ、成功確率は限りなく低いだろう。」

「期待しないのかね?」

「ふん。 EVAのテクノロジーは不明な点が多すぎる。 かなりの時間が必要になるだろう。

 しかし、私はどんな手段を使っても必ずユイを取り戻す。」

「碇?」

冬月は訝しげな視線をゲンドウに向けた。

「…そして、そのチャンスはキール議長が行う儀式に介入するしかあるまい。」

「儀式に介入だと!? そんな事が出来るのか!?」

「アダムを手に入れれば、可能だろう。」

「な!! ゼーレに逆らうというのか?」  


……冬月は、驚愕の表情で手を組む男を見る。


「私はユイの為なら悪魔にでもなります。 彼女にもう一度逢うために協力してもらいますよ、先生?」

彼の眼光は鋭く、初老の男性はこれ以上何も言えなくなった。

ソファーに座った冬月を見たゲンドウは、静かに受話器を取り電話をかける。

「なに!? 消息不明とはどういうことだ!! ……くっ!」

”ガチャン!”

叩き付けるように電話を切ったゲンドウは怒気を上げる。

「…馬鹿な!」

「どうした…碇?」

「私が計画を考えている間シンジを預けていたんだが、

 数日前から姿が見えなくなったと言ってきたのだ。」

「行方不明? それは重ね重ねの不幸だな。 直ぐに、警察に捜索願を出した方が良いのではないかね?」

「いや、ユイの扱いもある。 …表出させる訳にはいくまい。 …独自に捜索をするしかないだろう。」



………京都。



その盛大な宴というモノは、シンジを疲れさせていた。

屋敷で働いている人々が新しい主に挨拶をする。 その人数たるや、数えるのも馬鹿らしくなるほどだった。

シンジの能力では、一度の挨拶で全員を覚えるのは大した苦労でもなかったが、

 やはり彼は静かな雰囲気を好んでいるので、このような華やかな催しは精神的疲労に繋がった。

『はい♪ しんちゃん、あ〜ん♪』

『…リリス。 いくら僕でも、紙の中のモノは食べられないよ。 …はぁ。』


……緘口令を敷かれているとはいえ、

 屋敷の人々は、突如現れた神秘的で可愛い男の子の話題で盛り上がっていた。


さて、山岸マユミは、というと、先日からシンジに、

 ここの勝手が良く分からないので、一緒にいてほしいと言われ、

  仮にではあるが、当主筆頭メイドとして、今現在も彼の傍らにいて身の回りの世話をしていた。


……これを出世と言うのであれば、新入社員が行き成り会長の第1秘書に相当する扱いである。


序列の世界では反感も買うであろうが、マユミは、今までと違う世界が見られるかも、と余り深く考えず、

 この子の側も悪くはないと、思っているのだった。

有馬は、なぜか懐かれているマユミに一言注意をする。

「シンジ様の身の回りの世話をしてもらうが、決して粗相のないように。」

”ビシッ”と彼女の顔に人差し指を向けて、これから厳しいぞ…という顔をした。

「有馬さん? 人を指差すのはいけないって、かあさんが言っていたよ?」

「…は、はい。 失礼しました。」


……彼は、幼い男の子シンジに言われて面目を失ってしまう。



………池。



7月15日。

シンジは、庭園にある清々した水を湛える大きな池の小さな島にいた。

そして、小さな島の真ん中に建てられている庵に、祖父 玄と有馬、マユミを呼び出した。

「どうしたんじゃ、シンジ?」

最後に入ってきた玄は、庵の中を見やり、奥中央にいる孫に問うた。

玄が座り、落ち着くのを見てからシンジが口を開く。

「おじいちゃん、これからの話をしようと思ってね。

 さて、現在の碇家は、ほぼ経済活動を停止している状態だね。

 そこで、碇財閥の下位組織として碇グループを再び結成させようと思う。

 そして、あらゆるジャンルに進出させて、今の疲弊している日本経済の中心として活動する存在にする。

 大体2年間くらいでね。」

「なぜ、2年間なんじゃ?」

玄は、シンジの”力”ならそこまでの時間は掛からないと考えていた。

「ふふっ。 ただ、お金を集めるだけじゃダメなんだよ。

 大事なのは影響力。 そう、碇グループのイメージアップというか、ブランドを上げるのは、

 どうしても時間がかかると思うんだ。 そして、それは自然に上がっていかなければいけない。

 情報操作で上げるんじゃ、どこかで破綻する可能性があるからね。

 かつての地力を取り戻す為には、いかなる”解れ”も許されない。」

シンジの計画では、2年間でかつてあった碇家の権力・影響力を回復させ、日本経済を掌握し、

 その後、アメリカへ進出する。 そして、約1年間で地盤を作り、その次にアジア方面へ進出。

最後の1年間はゼーレの影響力の強いヨーロッパを攻める、と言うモノだった。

現在の地球では、セカンドインパクトの影響により経済活動を行える、という国は激減しており、

 多くの国は貧困と飢えに苦しんでいるという状態であった。

市場という経済を確立しているのは欧州連合、アメリカ、中国、

 そして、現在その活動の中心である日本が主だった。

3年後には更に活発に市場を成長させる日本に、国連本部ですら第二新東京市へ移転してくるほどであった。

シンジは、皆の反応を見ながら続ける。

「2年後、傘下グループがアメリカに進出するタイミングを見て、僕はアメリカへ渡る。

 おじいちゃんの名前で、アメリカ国籍を取得したいんだ、名前も偽名でね。」


……現在の治安状況は、資産家・お金持ちの親族は特に危険な時代であった。


その為、各国政府は要人保護と同義で国連特例条例を適用させ、偽名等の安全処置を認めていた。

「そして、国連軍のあるプログラムを受ける為に大学に入学する。」

「アメリカに渡るのはそのプログラムの為か。 つまり、大卒が受講資格なんじゃな?」

玄は正確に、シンジの計画を理解していく。

「そうだよ、おじいちゃん。

 そのプログラムっていうのは、昨日リリスの発案で、ドーラと相談しながら創ったんだ。」

この庵にいるメンバーは既に、シンジの持つ紅い本とPDAを”紹介”されていた。

「きゃ〜かわいい♪」

「む!? むぅ。」

「…何の冗談でしょうか、これは?」


……もっとも、それぞれの反応は様々であったが。


さて、リリス発案、ドーラ協賛のプログラムとは?

「…ま、簡単に言うと使徒戦争時に、僕がある程度の軍人さんになる為のモノだよ。」

玄たちには、これしか教えてくれなかった。


………実際にはドーラにより、昨日の内に国連事務総長、国連軍総司令部、国連軍統合幕僚会議、

 国連安全保障理事会の各国のPCの中には決定事項として、既にそのプログラムは在った。


「さて、それじゃあ早速傘下企業のお偉方を集めてもらって、おじいちゃんに”活”を入れてもらおう。」

小さな男の子は、楽しそうに笑った。


……そして、時は過ぎていく。





第一章 第四話 「学生」へ










To be continued...
(2006.12.30 初版)
(2008.09.13 改訂一版)


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