ようこそ、最終使徒戦争へ。

第一章

第四話 学生

presented by SHOW2様


碇グループ−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−






………第二新東京市。



「全く…今頃、何だって言うんだ?」

国内通信事業最大手である株式会社イノベーションインフォテック、

 通称”IIT”の代表取締役社長は黒塗りの大きな乗用車の後部座席に深く座り、憤慨していた。

暑そうに扇子を煽っている社長の愚痴に、助手席に座っている社長秘書が愛想笑いで相槌を打つ。

「こちらの都合は一切聞かず。 いまさら何を考えているんでしょうねぇ。」

そう言った中年男性は、カバンの中に仕舞い込んだ本日の予定表を思い出していた。


……4日前に突然”グループ会議”を行う、という決定通知が来たのだ。


IITは碇財閥が創り、資本提供をしている会社であった。

しかし、ここ十数年は財閥からの資金提供額も年々減少している上、

 現在では、独立採算が取れる程に成長した会社に、もはやグループ企業としての意識は無くなっていた。 

彼らが向かっている第二霞ヶ関ビルは、この第二新東京市が現在の首都で在る証明のように、

 行政府の近くに堂々とそびえ立っていた。


……その最上階にある大会議室に向かう人影が二つあった。


かつて経済界の”ドン”の一人として政財界に名を広く知られていた老人とその秘書である。

すでに会議室には、80社以上のグループ企業の代表が集まっていた。

”ガチャ”

「ふむ。 待たせたな。」



中を一瞥し、おもむろに口を開いた老人は、ゆっくりと壇上の上座の席に座った。

この広い部屋は、講演会場のようにすり鉢状になっており、最前列にある二つの席以外は埋まっていた。

「あの席は、何処のじゃったかな? 有馬?」

「はい。 席表によりますと、通信会社イノベーション…」

”ガチャ!”

秘書の説明は、勢いよく開いたドアの音で止まってしまった。

この会議室に在る2つの出入り口の上座側が開くと、

 黒いカバンを持つ背の低い太った中年男性と、同じような体型の頭の薄い中年男性が入って来た。

「いや〜済みませんなぁ、がっはっは。」

いわゆるバーコード頭のこの男は、笑いながら自分たちの席へと歩いて、周りを見渡した。

「…えっ!!」

まさか、いつも空席であった檀上中央に碇財閥の当主がいるとは考えていなかった男は、驚きに足を止めた。

「なんじゃ、貴様は?」

老人の鋭い視線に、中年男性の額から脂汗がにじんだ。

「か、株式会社、イノベーションインフォテックの、に、西崎でございます。

 …い、碇様。 き、今日は如何いった、ご…御用向きで、ご、ございましょうか?」

表舞台に出てこなくなってから20年以上経つ老人に向けて、

 ようやく出てきた大企業の責任者の言葉は、情けなくもしどろもどろであった。

しかし、玄はその言葉をまるで聞いていないように視線を動かさず、彼らを睨みながら言い放つ。

「会議に向け事前準備もできん無能に用はない! そこの席をさっさと片付けろ!!」

”ごほんっ”

碇 玄は、一つ咳払いをすると、静かではあるが、会場全体に通る声で言葉を続けた。

「…では、これより総合経営戦略会議を行う。 有馬、各社の現在の経営状況をスクリーンに出せ。」

「はい。 畏まりました。」

この会議の重要性を理解し、かつての玄を知る一握りの経営者たちは慌てて居住まいを正した。

そして、玄を直接知らない若い世代の経営者たちは、ただ今の展開に驚き、IITの社長の顔を見ていた。


………無能呼ばわりされた男はただ固まっていたが。


「あの、碇様。 我々の席は…」

太った秘書は、恐る恐る手を挙げる。

それを見た老人は、一喝して切り捨てた。

「まだいたのか! この経営戦略会議に出たくば…IITは新しい経営責任者を直ちに連れて来い!!」


……これから日本経済を根底から変化させるであろう会議は、始まりから既に5時間を数えていた。


20年以上経済界から離れていたとは思えないほど、玄の経営方針は”今”を的確に捉えていた。

さらにその提示されたあらゆる分野の新たな事業計画は、

 企画・生産・流通・消費に至るまで、互いに深く絡み合うようにグループ企業間の隙間を埋めていき、

  更に多角的に発展をしてゆくだろうと、参加した全ての者が理解していった。

シンジの思惑通り”主”の突然の復活により再結成された、碇グループの活動が加速的に活発になっていく。



………12月中旬の京都。



一流の職人による手入れの行き届いた色彩豊かな庭園。

それを望むシンジは、ドーラから各グループ企業の新しい事業計画の進捗状況を詳しく聞いていた。

「…以上のように、各企業の事業は当初の想定以上に、順調に推移しております。」

「そのようだね。 テレビでも最近、頻繁にCMを見るようになったよ。」

(…もぐっ、ゴクン。)

男の子は、口の中のモノを嚥下すると言葉を続けた。

「…相互的に必要なモノをグループ内で補完し、無ければ無理に買収などせずに必要な会社を創る。」

「はい、マスターの仰りのとおり、グループの企業数も相応に増えております。

 現在、碇グループが一日に国内市場を流通させている物資・資金等のシェア、

 その総量は、16%に達しました。」

「そう。 この4ヶ月間で随分成長したねぇ。 じゃあ、そろそろゼーレが動くかな?」

それに答えたのは、シンジの座っている縁側の傍らに置いてあった紅い本だった。

『う〜ん。 …そうだねぇ。 おじいちゃまの復活を、いっちばん望んでないのって…キールだもんねぇ。

 きっと、妨害してくるんじゃないかな? …しんちゃん、どうするの?』

『今のところ、直接…手を出してはこないだろうね。』

(…ずずっ)

男の子は波動で答えながら、お茶を一口飲んだ。

『ま、今は警告くらいが精々じゃないかな? リリス、おじいちゃんには、その時…』

(…もぐ。)


……どうやらシンジは、三時のおやつの時間らしい。


彼は、口の中に広がる餡子の甘味をゆっくりと味わう。

『はっきりと、ゼーレと決別する事を宣言して貰うんだ』

(ゴクン。)

「シンジ様、お茶の御代わりを淹れますわ。」

マユミが、吉野の桜をモチーフにした土の風合い豊かな湯のみに手慣れた手付きで煎茶を淹れる。

ほど良い温度で浸出された玉露の滋味を味わいながら大福を食べるシンジ。


……幼女も同じように、おいしそうに大福を食べている波動を感じるが、

 本の中で”絵”を食べたとして、果たして意味あるのか?


『ふ〜ん。 じゃあ、やっと(……もぐっ)本格的にゼーレと戦…』

「ッ! マスター、屋敷にドイツより国際電話が入ります。」

幼女の波動は、PDAの声に遮られた。

「言ってる傍から早速だね。 ドーラ、回線に割り込んで、僕が言った事をおじいちゃんに伝えて。」

「イエス、マスター。」

PDAの画面が消え、待機状態になる。

『………。』

シンジは紅い本を手に取って開くと、回線よりも先に会話に割り込まれた幼女を慰めるように優しく言った。

「…リリス? 今は時間がなかっただけだよ? キミを無視した訳じゃないし、ちゃんと聞いてたよ?」

『ぅ! べ…別に、拗ねてなんかいないよぅ! ゃ、やだなぁ、しんちゃんたら。 アハハハ…

 私はそんなお子様じゃないモンっ! ホントだよぅ。』


……的確に心の裡を把握されてしまった、幼女。


女の子は、慌てたようにポケットからハンカチを取り出して、

 口の周りに付いたアンコを拭きながら、顔を紅くして隠れるように羊皮紙の中に消えていってしまった。


……”パタン”と静かに本を閉じたシンジは、和やかな午後の時間を楽しんでいた。


マユミが茶道具を仕舞っていると、長い長い廊下の曲がり角から有馬が歩いてくるのが、シンジに見えた。

「あ! 有馬さぁ〜ん! ちょっといいですか?」

ダークグレーのスーツを着た有馬は、足早に廊下を歩いた。

「お待たせをいたしました、シンジ様。」

「あの、お願いがあるんですけど…」

「…何でございましょうか?」

シンジは胸ポケットから”コアリリス”を出し、有馬に見せて言った。

「コレをネックレスにして、いつも身に付けておきたいんだけど。 何かちょうどいい物ってないかな?」

それをしばらく観察する様に見た有馬が、少し考えるように目を細めて言う。

「それを身に付ける、と仰るのなら作らせた方が早く、またその仕上がり…出来も良いと思いますが。」

「そうですか。 じゃ、それでお願いできますか?

 あ、それと、条件というか…作成する際にコレを預ける、って言うのはダメ。

 …あと、固定方法はネジ止めとか、締め付けたり、かしめたり、

 う〜んと、とにかく傷付けるような方法は絶対にダメ、厳禁だよ。」

「…? 分かりました。 ふふっ。 シンジ様にとってソレはとても大事なモノなのですね?」

「そうだね。 これは、僕の命。 今の世界で一番大切な…そう、宝物みたいなものだよ。」

「それでは、今この場でお借りして採寸をしましょう。 …お貸し頂いても宜しいでしょうか?」

「え? うん。 …はい、どうぞ。」

そう言って、シンジは彼にゆっくりと手渡す。

その様子に、有馬は本当に余程大事なモノなのだと理解し、間違っても落とさないようにと確り両手に取る。

しかし、男の手に触れた瞬間だった。 今までの滲み出るような美しい紅色が、見る見る変色してしまう。

「え!? こ、これは! た、大変、申し訳ございません!!」

自分が何かしてはいけない大変な粗相をしたかのように謝る有馬に、シンジが説明した。

「あ、ああ、僕以外の人が触るとそうなるんだ。 別に有馬さんが何かした訳じゃないんだよ?」



………書斎。



”プル、プルルルルルル…”

生きるために半身を機械にした男は、相手が出るのを静かに待った。

”チャ……ザァァァァァァ…”

通信が繋がったと思った瞬間、彼の耳に砂嵐のような雑音が入ってくる。

「…ふん。」

(相変わらず、アジア圏の通信インフラは最低レベルだな…)

小さくため息をついた男は、口の端を上げるように歪んだ笑みを浮かべた。

『……ワシじゃ。』

しばらくの時間が経過すると、碇 玄の声が聞こえた。

「…これはこれは、お久しゅう御座いますな、筆頭殿。」


……白髪の男は、しばらく聞こえていたノイズを特に気にする事もなく、冷静に言葉を放った。


電話口から聞こえてきたのは、一見恭しそうな…しかし、実際には見下しているのが分かるような声だった。

「その声、キール・ローレンツか。 久しいな。 …で、何の用じゃ?」

玄は、書斎の窓から見える庭園に目をやった。

『最近、日本市場が随分と活発な動きを見せているので、少し興味を持ちましてな。

 調べれば…随分と”碇”という名を耳にしましたよ。 まだまだ、ご健在なようですな?』

耳に入る詰まらない言葉に、玄は苛立ちを隠さなかった。

「ハッキリと、単刀直入に言ったらどうだ? ふん、そうだ。 …昔からお前は謀が好きだったな。

 何が心配で電話をした? ん? そうか、ワシが復活したことが怖かったんじゃな?

 安心しろ。 ゼーレの空位、第0位に復帰するつもりは最初からないわい。

 …と言うよりは、お前の私物と化してしまった…そんな下らん組織に一片の興味もないわ。」

『クッ! …な、何んだと!? …く、くだらんだと!?』

「そうだ、実に下らん。 ……ただの欲に溺れた大馬鹿集団に興味はないと言っておる。」

『…碇! それは我々ゼーレに対する裏切り、明確な敵対の意思表示と思ってよいのだな?

 フッ、くくく! ああ、最早…かつての高貴な第0位は失われてしまったようだ!

 崇高なる我らゼーレを侮辱した罪は、贖えぬ程に重いぞ…島国の矮小なる老人よ。

 今、この時より我々は袂を分かたなくてはならぬようだな。』

「何を今更。 …貴様の罪は全て知っておるわ。 このワシを嵌めた報いを受けるは、お前じゃ!

 これ以上の言葉は、もう用意しておらんし、無用じゃろう。 さらばじゃ。」

”プッ…”

「…ふう。 …こんな感じでよかったかの、ドーラよ?」

『はい、結構かと存じます、玄様。 突然、通信に割り込みまして大変失礼を致しました。』

「いんや、良かったわい。 事前に知らされていなかったら、

 いくらワシでも彼奴とあれほど冷静に会話などできようが無いわ。 ふっ。 まぁ、したくもないがの。」

回線は切れているが、血の昇ったこめかみを右手で揉みほぐしながら、まだ電話でやり取りをしている玄。


……先程まで発していた彼の怒りのオーラは、静かな水面のように消えていた。


『はい、お気持ちは理解できます。 では、シンジ様に次第を報告しますので、失礼致します。』

玄は、左手に持っていた受話器を優しく置いた。



………2005年、碇家。



この屋敷で一番広い畳敷きの大広間に使用人が全て集められ、上座に座る当主から年始の挨拶が始まる。

数え切れぬ程に用意された膳には、品良く飾られた豪勢なおせち料理が載せられている。

「明けましておめでとう御座います。 えっと、みなさん、昨年は大変お世話になりました。

 今年も変わらずよろしくお願いします。 …では、冷めない内にさっそく料理を頂きましょう。」

紋付羽織袴を着付けたシンジは、ちょっと座り辛そうに紫色の八端判の座布団に腰を下ろし、

 隣に座っている祖父の会津塗器の雅びな”ぐい飲み”に吟醸酒を注いだ。

”…とくとくとくっ”

「明けましておめでとう御座います、おじいちゃん。 おっと、…はい、どうぞ。」

「明けましておめでとう、シンジや。 ……おっとっと…」

”…ぐいっ、ゴクッコクッゴクッ…”

「〜ふぅ。 美味い! っと、ほれ、お年玉じゃ。」

玄は、注がれた冷酒を飲み干すと、仕舞っていた小さな封筒を取り出す。

そして、老人は初孫にお年玉をあげるという初めての行為に満足気な表情になった。

しかし、それを貰う方のシンジは袋の中を見て、戸惑っていた。

「お、おじいちゃん? これなに?」

その玄の手渡した小さな封筒には紙が一枚だけ存在していた。


……その紙は、1の隣に0が8個書いてあるシンジ名義の口座の残高証明書だった。


「うん? なんだシンジ、お前はお年玉も貰った事がないのか?

 ふ〜…まったく、あの男はしようがないのぉ。

 可哀想なシンジよ。 これからはちゃんとユイの分まで、じいちゃんがあげるから心配するな。」



”…ぶッわっくしょん!”

「なんだ? 大丈夫か、碇?」

「グスッ。 ふん! ああ、問題ない、冬月。」


……ゲンドウは、盛大なくしゃみをしていた。



「そうじゃなくて、金額だよ。 こんなに貰えないよ、おじいちゃん。」

「シンジや。 お前はこれから色んな事で、特にこういうモノは必要になるんじゃ。 取っておきなさい。

 それにの…お前がもたらした財閥への益に比べれば、全く持ってないに等しい金額じゃわい。」

「ぅ…分かった。 貰っておくよ。 ありがとう、おじいちゃん。」


……あの電話の一件以来、株取引や流通などで徐々にではあるが、

 ゼーレの末端組織から妨害を受け始めていたが、シンジの指示で支障をきたすようなモノは一切なかった。


シンジは、逆にそういった妨害工作を画策、実行してきた組織を玄に教えて、一つ一つ潰してもらっていた。

「失礼致します、マスター。 どの国からでも自由に使えるように、スイスに口座を設けました。

 その資産運用処理は私にお任せ下さいませ。」

「…は、はい。 よ、よろしくお願いします。」


………これから毎年額の増える一方のお年玉はドーラにより、スイスの口座へ自動的に振り込まれる。

そしてあらゆる国の全ての銀行で、シンジは自由に資金を引き出す事が可能になった。


『っ!! しんちゃん、しんちゃん! こっちこっち! はやくなの♪』

そのせかす波動にシンジは紅い本を開いた。

『どうしたの? ? な、なにしてるの?』

『改めて、明けましておめでとう、しんちゃん♪ 私はね、お金なんて持ってないから、

 コレをあげるの。 …よっ、うんしょ…っと♪ ね、しんちゃん、大事にしてね♪』


………薄い桃色の桜をあしらった蒼い振袖を着付けた幼女は、

 大きなお年玉袋に入り、嬉し恥ずかしそうに微笑んだ顔を紅く染めてこちらを覗くように見ている。


『そのネタ、クリスマスにもしたね。 ふふっ。 気持ちだけで十分だよ? ありがとう、リリス。』


……クリスマスの時は、七面鳥の格好をして『私を食べて♪』であったが。


幼女は、この主人の温かく優しい太陽のような波動を受ける為なら何でもしそうな勢いがある。

ドーラは、リリスがいつもそういう事をする度に主人から温かい波動を一身に受けているのを見ては、

 自然にそういう行動が出来ない自分の性格と言うか特性に、歯痒い思いを感じてしまう。

PDAの画面に映っている女性は、顔を俯けてそんな事を考えていた。

「ドーラも、いつもありがとう。」

ウグイスの止まり木に梅をあしらった柔らかな黄色い振袖に、長いキャラメル色の髪を結い上げた女性は、

 いつの間にか主人に見られていた事に動揺し、”ばっ”とその俯いていた顔を上げる。

(ぁぅ…)

そして、彼女の緑の瞳に映った主人の優しい微笑みに、ただ顔を紅くし固まってしまった。 



朝の宴が終わり、着替えを終えたシンジの自室の一つである和室に有馬がやって来た。

「有馬でございます。 シンジ様、失礼します。」

”スラッ”

「シンジ様、先に頼まれましたモノが出来上がってきました。 こちらでございます。」

有馬は、細長くしっとりと濡れているような柔らかな黒い革で覆われている箱をおもむろに差し出した。

「え? あ! ああ、ありがとう、有馬さん。」

シンジはそれを受け取り、ゆっくりと箱を開ける。


……その中に在った”モノ”は。


それは男の子のオーダーのとおり、

 中に納めるモノを一切傷つける事のないように、緻密に計算され創られたプラチナ製のネックレスだった。

溢れる光の中を優美に踊るような1対の翼が、保護すべき紅い玉を優しく包むように、

 折り重なり合うように絡み合っていて、煌く輝きに満ちていた。

その秀逸なデザインは、はめ込みや取り出しは容易であるが、不意に外れるような事はない。

シンジは、手に取りしばらく見入っていたが、ネックレスにゆっくりとコアリリスを入れ、首から下げた。

ちょうど、彼の胸の上にくる長さに調整されていたそのネックレスにはめ込まれた涙形の玉は、

 これまで以上に柔らかく輝くように、その紅を深くしていった。


……シンジ達の穏やかな日常が続く。



………4月1日、第二新東京大学入学式。



この厳かな式典に出席する学生の多くは、非常に優秀である。

セカンドインパクト前の首都にあった東京大学を復活させたこの学び舎は、

 あの悲劇の後、混乱の時期ではあったが早々に設立された大学であった。

新生された東京大学は、

 優秀な学生を多数輩出して社会に貢献している教育機関として、かつての名誉をそのまま受け継いでいる。


……今朝は薄曇りで、

 天気予報によれば傘の心配はないとされていたが、どんよりとした晴れやかな気分になれない日だった。


まるで自分の心情を映しているような空を見たリツコは、肩の力を抜きながら、小さくため息を吐いた。

(…ふぅ。 何で私こんな所にいるんだろう…)

優秀な学生は誰? という問いに対して、大学で教鞭をとる教授たちが逡巡なく頭の中に浮かべる人物。

一年間という誰にでも平等な時間を、他のどの学生よりも濃密に、有効に使った女性。

彼女は2年生ながら在校生代表として、新入生たちに挨拶を頼まれていた。


……この式に参列している”優秀な”学生の中に、退屈そうに座っている葛城ミサトの姿があった。


一般的に優秀な学生というジャンルに、残念ながら彼女は当てはまらない。

スーパーソレノイド理論を発表した、京都大学・第一生体エネルギー研究室の工学博士、葛城教授。

彼は、2000年に南極で起きた惨劇、いわゆるセカンドインパクトの主催者の一人だった。

彼の一人娘であるミサトは、その出来事を体験した事により、

 約2年間という期間、失語症になる程の心神喪失状態になっていた。

2002年、南極調査船の第2隔離施設にて、彼女を廊下から見てその場を去った冬月は知らなかったが、

 彼女は、彼が見たその直後から専門家の治療を受けて、徐々にその症状を回復していった。

しかし、その医者の施した治療は、比較的短期間で回復させる為に、

 父を奪い去ったモノを憎むという代替行為で精神を安定させる、という安易なケアに過ぎなかった。

元来、母親似のミサトは、自己中心的な外罰的思考者で、

 父親のように熟慮するという事が苦手な上、今まで軽いノリで適当に暮らしていた。

彼女は、日本に帰国し、しばらくすると心の裡に何処からともなく浮かんでくる”憎いなら滅せ”という、

 目を閉じても耳を塞いでも消えない暗い心の想いに漠然と従い、軍事関係へと人生を進めようとした。

(…どぉ〜せ、軍隊に入るなら下っ端はゴメンだわっ。)

そう考えた彼女は、大卒で受験資格を得られる戦略自衛隊の防衛専門学校へ入隊する為に、

 より”箔”が付くであろう、第二新東京大学へと深く考えずに受験したのだった。
 

……父親と違い、その”お気楽極楽頭脳”には勉学に励むという機能は、残念ながら無かった。


では、どうしてミサトは最高学府の誉れ高い大学へ入学が出来たのか?

それは、彼女に備わっている野性の”カン”とでもいう運の良さで試験監督員の目を盗み、

 隣近所の机から情報を得て、見事”合格”という暴挙に成功したのだった。

彼女曰く、

「受験なんてぇモンは…そう、コツよコツ!! ちゃちゃ〜とやって、ポイって感じかしらねぇ♪

 あんなモンに大切な人生の時間を費やすヤツの気が知れないわぁ〜」

とか何とか、のたまっていた。



………壇上。



式次第に則り、印象にも残らない地味な中年男性がそこへ昇ったり降りたり、

 壊れたレコードを思わせる同じような訓辞を述べると言う事に、一体どれほどの意味が在るのだろう?

もはや、新入生にとって睡眠導入儀式と化したその変化のない壇上に、突然と鮮やかな色彩が訪れた。

男子学生は、視界に入ったヒトに、睡魔を瞬殺して目を見開き、女学生は少し眉根を寄せ訝しげな目をした。


……髪を金色に輝かせた薄いブルーのシャツに白いスーツを着た女性に、式場の視線が一斉に集まった。


『ただ今紹介にあずかりました、赤木リツコです。

 僭越ではありますが、最後に在校生を代表して挨拶をさせて頂きます。』

壇上の女性は、会場を埋め尽くす数多くの人たちに臆する事もなく、にこやかに話し始めた。

彼女の堂々とした態度は、人前で話すという行為に慣れているのか、

 どこか自信のようなモノが内側から滲み出しているようだった。


……リツコの不幸、それはここでミサトの視野に入ってしまった事であろうか。


(な、なに? あの女? ぷぷっ…水商売のお姉ちゃんみたいな髪。 変なの、ちょっち引くわね。

  ぅ? う〜ん…ここで代表挨拶ってこたぁ、もしかしてとっても優秀ちゃん?)

”キュピーン”

ミサトの目が”にんまり”と妖しく輝く。

(ぐふふふ…こりはちょっち、お近付きにならなきゃ損♪ 損♪)

逃がさないわよ、と雄弁に語っている彼女の目線の先にいるリツコは、背筋に冷たいモノを感じていた。

(そう言えば、シンジ君に聞いた娘って、確か今年入ってくるのよね…

 という事は、この中にいるのね…何だか、嫌な予感がするわ。

 式が終わったらグズグズせずに、さっさと帰ろうっと。)

リツコのその判断は正解であった。


……ミサトは式の後、代表を務めた彼女に近付こうと探したが、既に会場にはいなかったのだから。


その後、ミサトは何とかその女性に近付こうと学校内での調査を開始した。

(ふぅ〜ん。 やっぱ、あたしの”カン”に間違いなんてないんだわぁ♪

 大学設立以来最高の頭脳ですってぇ? こりゃ大したモンだわぁ。 ぐふふ…ゲッチュ♪ ゲッチュ♪)


……こうして彼女の執念が実ったのは2週間ほど経った4月14日の昼時であった。


リツコは、自身の論文を執筆することで頭が一杯であったので、

 わざわざ混雑している昼の学食を避けるように、いつもどおり若干時間をずらして食堂を利用していた。

だから、リツコは普段12時キッカリに食堂に出席していたミサトとは、今まで接触することすらなかった。

静かになり始めた食堂での息抜きの時間が、フル回転していた彼女の頭脳を効率よく冷ましてくれる。

(もう少しで、あの論文も形になるわね…)

金髪の女性は、券売機にお金を入れて目的のボタンを押した。

そして、印刷された食券を手にすると、リツコは何時もどおり足を進める。

しかし、彼女の平穏な日常は、今日この昼時に破られることになるのであった。

ミサトは今日、教授に呼ばれて入学早々お小言を頂戴し、大事な昼食を大幅に出遅れるハメになっていた。

(まぁーったく、何なのあの”ちょびひげハゲ”は! 今日の食堂戦線に遅れちゃったじゃないの!

 くぅ… 限定20食の木曜定食が売り切れてたら、ただじゃぁおかないわよ!)


……毎回、課題もせず遅刻をする方が悪いと思うが。


(おりょ?)

”キラン”

(あそこにいるのって、赤木のリツコさんじゃないの? これってば…らっき〜♪)

現在の時間は、12時55分。 お昼休みも終わりに近い食堂は、人もまばらだった。

ミサトは食券も買わず水をコップに注ぐと、そのまま彼女が座ろうとしている席に向かった。


……ここで、赤木リツコという女性の普段の食事風景を少し説明しよう。


彼女は、基本的に一人で食事を摂ることが多いようだ。

なぜなら、赤木リツコとコミュニケーションを取る、

 という行動は、一般的な普通の学生にとって少しの覚悟を必要としたからだ。

彼女は、一を聞いて十を答えてしまう才女である。

例えば、難解な学術論文などをネタに、冗談っぽく話をしても、ガツンと正解を突きつけられるだけだし…

万が一、彼女から意見を求められても困るし…というワケで、学生達は彼女と一線を引いていた。

だから、リツコと食事を相席する人は、自然と教鞭を執る教授などが多かった。

彼女もシンジとメールをやり取りしたりしていたので、

 別段ひとりで食事ということにも寂しさを感じることもなかった。

テーブルに一人座ったリツコは、水を一飲みして、食堂のカレーにスプーンを向けた。

今日は、普段どおり一人だった。

(あの論文…テーマを絞って今日中にある程度はカタチにしないと間に合わないわね…)

金髪の女性が、論文のスケジュールを考えてカレーを食べ始めると、

 彼女の視界の端にテーブルの前で立ち止まった足が見えた。

そのヒトは座ったり、テーブルにトレイを置いたりせずに立ち止まったままだった。


……なんだろう? と、何気に視線を上げると、

 濃紺色の長い髪に、不自然な程”にこやか”に笑っている女性が立っていた。


「こんちわぁ♪ 私、葛城ミサト♪」

「え? …か、葛城、みさと…さん?」

「そ、葛城ミサト。 よろしくねん♪」


……リツコは、メールを打った。


《 こんにちわ、シンジ君。 お元気かしら?

 今日、葛城ミサトっていう子と知り合ったわ。 かなり、向こうからの一方的なモノではあったけれど。

 シンジ君の言うとおりの人だったわ。 あの娘、一時失語症だったって聞いていたけど、本当かしら?

 ”べらべら”と屈託なくよく喋ってくれたわ。
 
 あなたに言われていなければ、イライラして本当にタバコでも吸いたくなっちゃったかもね…

 ふふっ吸ってないわよ?  シンジ君は、あの時の言葉を覚えてくれているのかしら?

 あなたも忙しいでしょうけれど、できれば近い内に逢いたいわね♪

 何か困った事があれば何でも相談に乗るわ。 だから、遠慮せずに連絡をちょうだいね。

 愛する弟へ。 あなたの姉より。

                   P.S.何もなくてもちゃんと連絡をしてね、待っているわ。 》


……キャッスルトンのダージリンティを飲んでいたシンジは、

 手にしたカップを、赤色に輝くマホガニー材で作られたテーブルに置いた。


彼は、ドーラのPDAで読んでいたリツコの手紙に、何となく顔を紅くした。

「マスター? どうかなさったのですか?」

(…り、リツコ姉さん?)

『しんちゃん、どうしたの? 何で、お顔紅いのかなぁ?』 

「え? ぅ…、な、何でもないんだ。 り、リツコさんって……」


……何と言ってよいのやら。


人の好意に慣れていないシンジは少し居心地悪そうにしていた。

彼が、姉であるリツコへの返事を四苦八苦しながらドーラに伝え頼んだのは、

 メールを読んでから3時間後の事だった。





アメリカ進出−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−





………2006年。



年中無休で暑い日本。

何月だろうと季節は変わらないが、そんな6月にシンジは5歳になった。

玄は、孫の誕生祝いは去年と同様、盛大にと張り切って準備をしようとしたが、

 その男の子は去年を思い出し、屋敷で仕事をしている人に迷惑だと近しい人だけの夕食会を願った。

誕生会である夕食会に招待された山岸マユミは、碇家の人たちと同席の食事を取る事は今回が初めてだった。
 
通常のパーティー、宴などは、シンジの近くにいて給仕をするのが当然の仕事であったし、

 彼女自身、思いやりのある優しいシンジの近くにいて世話を焼く事を好んでいた。 


……夕食会は、風のない月夜美しい銀色の光り注ぐテラスを用意されていた。


皆が席に着いたのは、太陽が斜めになり、昼の暑さから適度に気温の下がった穏やかな夕暮れであった。

樹齢の窺い知れない程の時を重ねた大きな樹で作られた特製テーブルには、4つの燭台が置かれている。

”カシュッ! ジュ…”

その燭台に火が灯されると、ロウソクの炎はたおやかに揺らいだ。

「マユミ様、失礼いたします。」

「あ、はい。」

部下であるウェイターが机に皿を静かに置く。

マユミは、目の前に次々と並ぶ料理の数々を見て、感嘆のため息を漏らした。

彼女は、普段、給仕する側にいるので、これらの料理は見慣れているモノであったが、

 いざ自分が給仕される側に着くとまるで別のものに見えてしまったようだ。

「めでたいのう、シンジ。」

「おめでとう、シンジ君。」


……玄とリツコの言葉に有馬、マユミはにこやかな表情で頷いていた。


優しい笑顔で祝辞をくれた祖父と姉になってくれた女性へ感謝の言葉を、とシンジは立ち上がって、

 玄、リツコ、有馬、マユミの顔をゆっくり見ながら口を開いた。

「おじいちゃん、リツコ姉さん、ありがとう。 有馬さん、マユミさんいつも僕の事、

 身の回りの事や、わがままを聞いてくれて本当にありがとう。

 僕は今日で5歳になったけど、実際には、17歳くらいだね。

 でも、まだまだこれからも迷惑をかけると思うから、改めて、皆さん、よろしくお願いします。」

リリスも、ドーラも盛大におめでとう、と波動を出しているのをシンジは嬉しく感じながら、席に着いた。 

「さて、料理が冷めてしまわんうちに食べようかのう。」

玄の言葉によって、和やかに夕食会は進んでいく。
 


………7月中旬。



シンジは、アンティーク調のイスに座って、碇グループから提出された報告書を読んでいた。

現在、復活を遂げた碇グループの経済力は、以前とは比べ物にならないくらい強大になっていた。

それは、もはや日本経済界において無くては成らない存在、というランクである。

男の子は、そんな報告書類をテーブルに落とすと、窓の外に瞳を向けてこれからを考えた。

今では、ゼーレの妨害工作も頻繁になっていたが、日本においての影響力は既に”碇”の方が強く、

 大規模な工作は出来なくなっていた。

妨害工作を実行すればする程、カウンター攻撃を的確に貰い逆に潰れていく会社にゼーレのメンバーは、

 全て玄の手腕と信じていたので、改めてその実力に驚かせられていた。


……本当の立役者は小さな男の子であったが。


「ドーラ、とうさんと、かあさんにメールを送りたいんだけど、お願いできる?」

シンジは、机に置いてあるPDAを手に取った。

「もちろんでございます、マスター。 どうぞ仰って下さいませ。」


《 とうさん、かあさん、お久しぶりです。

 前回の連絡から、随分と時間が経っちゃってごめんなさい。

 これから、僕はある大学に通学する為に、アメリカに向かいます。

 しばらく遠くに離れてしまうけど、普段通り連絡は取れるし、僕は変わらず元気に過ごせると思うから、

 何も心配しないでね。 シンジより。  
  
                  P.S.とうさん、風邪をひかないように、体に気を付けてね。 》



………所長室。



”ピピピ、ピピピ、ピピピ…”

「…む?」

「どうした、碇?」

その電子音に反応した二人の男は、お互いの実験報告書類に埋もれながら、それらの整理をしていた。

「ああ、メールだな。 ぐぅ…」

ゲンドウは、硬くなってしまった腰を伸ばすように立ち上がると、

 足元の書類を踏まないように気を付けながら自身の机に足を進めた。

そして、端末に新しく入って来た情報を確認する。

「やはりメールか、碇?」

(し、シンジ…)

返事をせず、画面を見入っている男に、冬月は目を細めた。

「どうした? どこからだ?」

「むぅ…な、何でもない、冬月。 そうだ…冬月、赤木ナオコ博士の思考体の実験機はどうした?」

「ん? ああ、それなら…現在、量子コンピュータの並列処理の実験をしているはずだな。」

ゲンドウは、冬月の言葉を聞きながら机に肘付いていつものポーズをしているが、

 今は、若干顔を伏せ気味にしている。


……なぜ、彼は顔を下に向けているのか?


毎日職場に寝泊りする程忙しいゲンドウは、身も心も疲れ切っていた。

そこに久し振りに息子から来た新着メールがきたのだ。

読んでみれば、その中に疲労困憊の自分を労わるように書いてあった、さり気ない一文があった。

彼は、息子の優しい気遣いに感動して、思わず目頭が熱くなってしまったのだ。

ゲンドウは、それを古い付き合いであるロマンスグレーの男に悟られぬように、顔を下にしていたのだ。

(…くうぅ〜 しんちゃん、何でゲンドウさんにだけ書いて、私には何もないのよぅ…

 ちょっと、ドーラさん!? しんちゃんに良く言っておいて下さいね!

 今度はちゃんと私にも書いて頂戴なって!)


……主人公の母親は、自分に何か一言を書いてくれていない事に、”プリプリ”と怒っていた。


コア内の体感時間ではまだ1日ちょっとしか経っていないので、彼女は変わらず元気なようだ。



………京都。



シンジは玄の書斎にいた。

「おじいちゃん、グループ再結成から今度の8月で2年になるね。」

「うむ。 …早いものだのぉ。 シンジがこの屋敷に来てから、もう2年経つのか…

 お前の言ったとおり、この2年という短期間で碇グループは、今の日本経済の中心として活動しておる。」

「うん、そうだね。 前にも言ったけど、僕は8月になったらアメリカに行くよ。

 だから、おじいちゃん…アメリカ政府に僕のアメリカ国籍の取得と、要人保護の国連特例条例の適用を、

 名前を変える許可を貰って欲しい。」

男の子の瞳を見た玄は、にこやかな表情のまま頷いた。

「それは簡単じゃよ。 …そんな許可は、直ぐにでも下りるじゃろう。 で、名は何とする?」

「うん。 少し前から考えていてね、”シンジ・リカイ”っていう名前に変えようと思うんだ。」
 
「そうか、分かってはいたが寂しくなるのぉ。

 そうじゃ、向こうの大学を受験するにも口添えが必要じゃろ? …何処の大学へ入学するんじゃ?」

「うん、マサチューセッツ工科大学へ行こうと思うんだ。」


……アメリカに在るマサチューセッツ工科大学(MIT)は、セカンドインパクトの影響をモロに受け、

 多くの地域と同じく一瞬にして消え去った大学の一つであった。


チャールズ川の氾濫によりケンブリッジ市のその全域が水没してしまったのだ。

悲劇の後、再建されたMITは、日本とは違い”第二”という冠詞は付けられなかったが、

 それでも伝統を重んじたのか…設立場所を元のボストンの水没を免れた高台とされていた。


……シンジと一緒に書斎に入ったマユミは、少し寂しそうな顔で主である彼を”ぼ〜”と見ていた。


思い出せば、ただの新人メイドであった自分が、不思議な縁で突然、当主専属のメイドになって、早、2年…

最初は色々失敗もしたが、周りに、特に有馬に鍛えられた事もあり、

 今では自分の実力で筆頭メイドとして当主の側にいる。

男の子から申し出を受けた時は、今まで想像する事も無かったブルジョアな世界を見られるだろうと、

 そんな単純な考えと、どこか漠然とした気持ちで”仕事”として承諾しただけだった。

しかし気が付けば、この小さな男の子の持つ柔らかい雰囲気と、

 自分が不思議なほど自然に優しくなれるその空気を好きになっていた。  

いつの間にか、本当の弟を心配する姉のように親身になって世話を焼く自分を自覚した時は、

 自分に誇らしいような気恥ずかしいような、何とも表現の難しい…そんな気持ちになって、
 
  より一層この仕事を誇りに思い、励むと誓ったものだ。

(…シンジ様、アメリカに行ってしまうのね。 覚悟をしていた事だけど、やっぱり寂しいわ。
 
 向こうのメイドさんのほうが気に入った、何て言ってここに連れてきちゃったりしたら、

  私、どうしよう…)

マユミは、そんな事を”ボンヤリ”と考えながら、シンジと玄の会話を耳に入れていた。

「?? …ま …さん? …マユミさん? どうしたの?」


……何回呼んでも返事をしないマユミを不思議に思い、心配したシンジは席を立って、彼女の傍に近寄った。


「ふぇ? …あ、すみません。 なんでしょうか、シンジ様?」

「マユミさん、疲れているんじゃない? 大丈夫?」

マユミは、最初の頃シンジに”様”付けで呼ばないでくれ、とお願いされたが、

 自分だけ普通に呼ぶ事は出来ないと、頑なに”シンジ様”と呼んでいた。

マユミは、シンジに心配されないように、微笑みながら返事をする。

「はい、もちろん、私は大丈夫です。 …シンジ様がアメリカに行ってしまうと寂しくなりますわ。」

「え? …なんで?」

小首を傾げたシンジは”?”という表情だった。

男の子のそんな反応に、マユミは少し大きく瞳を開いてから、少し淋しそうに答えた。

「え、なんでって…それは、こうしてシンジ様のお世話が出来なくなってしまいますからね…」

シンジはマユミの言葉に、不思議そうな顔から意外そうな顔になった。

「あれ? もしかして、マユミさんって…僕とおじいちゃんの話を聞いていなかったの?」

「あっ! すみません。 ちょっと考え事をしていました。 なんでしょうか?」

「あの、できればマユミさんも一緒にアメリカに来て欲しいんだ。

 …知っている大人のヒトがいると、やっぱり安心だし。

 それに、その、有馬さんは今までどおり、おじいちゃんのサポートをして貰わないといけないと思うんだ。

 …えっと、僕は外見上、かなり小さな子だから、家族に、保護者になって欲しいんだけど…ダメ?」


……一生懸命説明するシンジの想像もしていなかった申し出にマユミは固まった。


(え!? 私が、シンジ様の家族…)

まさか、アメリカでのシンジの保護者に、仮にではあるが、彼の家族になれるとは!

筆頭メイドの驚く顔を見ていた玄は、大きく頷いた。

「うむ、マユミがこの2年の間、

 当主のメイドに相応しくなろうと必死に努力しておった事はモチロン知っとるよ。

 そして、碇家のメイドとして、どこに出しても良い程に磨き上げたその実力を認め、

 ワシの孫、シンジがアメリカにいる間の保護者、シンジの姉、”マユミ・リカイ”として、

 アメリカ国籍を取得し、今までと同様、孫に尽くして欲しいのじゃ。」


……玄の言うとおり、碇の筆頭メイドとして彼女は、この2年間で作法、マナーは言うに及ばず、

 経済や、語学、情勢分析等、超一流の秘書としても通用するレベルに有馬に鍛えられていた。


それでも、この突然の申し出に、マユミは自信無さ気に言った。

「ほ、本当に私で宜しいんでしょうか? 私がアメリカでシンジ様のお役に立てるのでしょうか?」

「もちろんだよ。」


……シンジの太陽のように温かく朗らかな笑顔を見たマユミの答えは決まっていた。



………8月。



空がオレンジ色から紅色に染まる夕暮れ。

夏物の茶色の和服を着つけている玄は、探していた孫をようやく見つけた、という顔だった。

「…おお、ここにいたのか、シンジ。」

呼びかけられた男の子は、庭園の片隅にある大きな池を見渡せるベンチに座っていた。

「あ、おじいちゃん…」

彼の瞳の先にあったのは、太陽が沈み込み、空を紅く染める光を反射して同じ色に染まる鏡のような水面。

男の子は、その煌きを見ながら”彼女”の事を想い、

 コアリリスの温かさを感じる静かな時間を過ごすのが、最近の日課だった。

祖父は、彼の横に腰を掛けて、言葉を続けた。

「…すでにアメリカへの要請、手続きは全て終わっておるぞ。 …MITの特別編入試験は10日じゃ。」

「ありがとう、おじいちゃん。 渡米準備は全部マユミさんがしてくれているから…特にやる事なくてね。」

彼を取り巻く女性のテリトリーは、電子的サポートはドーラ、物理的サポートはマユミと確り分かれていた。


……もう一人の幼女は、”私は精神的サポートなの♪”と自負していたが。


「のう、シンジよ? ワシは、お前に会えてよかったわい。 ”あのまま”じゃったら、ワシは間違いなく、

 生きる気力を失い、何もなせぬまま…ただ死んでおったやも知れん。

 あの馬鹿者の私物と成ってしまったゼーレを潰すこと、…コレが今のワシの生きる目的じゃ。

 お前の戦争が終わったら、家族みなとゆっくりと過ごすとしよう。」

祖父の言葉に、シンジは一つ静かに頷いて返事をした。

「うん、そうだね。」

「…ま、ワシは、どうしても…あの男は好かんがのぉ…」

「ぷっ、はははっ」

恐縮しているサングラスの大男を想像した男の子は、思わず笑ってしまった。

玄は、悪戯っぽい瞳を真面目にして、男の子の顔を見詰めた。

「シンジ、身体は十分に自愛せよ。 それと…」

祖父は、星の瞬き始めた空を見上げる。

「それと…ワシは、明日見送りには行かんからの。 しばしとは言え…ワシは、別れは嫌いじゃ。」 

シンジは、玄の横顔を見て、彼の視線を追うように星空を見上げて、弱々しい光を放つ星を見ながら言った。

「ふふっ。 …明日は別れ、じゃ無いよ。 おじいちゃん…」

そして、彼は、ゆっくりと視線を落として紅い水面を”じっ”と見詰めると、

 今逢う事が叶わない最愛の少女、”綾波レイ”に向けて紡ぐように言葉を続けた。

「…いつでも連絡は取れるし、必要ならいつでも戻れる。 そう、それは別れじゃない。

 本当の”別れ”じゃ、ないんだ。」

哀しそうな紅色を瞳に浮かべた彼の声は、最後の方になると小さな呟きのようになっていた。



………新関西国際空港。



空港のロビーに、アメリカへ”帰国する”二人の姉弟と、彼らを見送る一人の中年男性がいる。

「有馬さん、ありがとう。 そろそろ時間だから、行ってくるね。」

男の子は、決意ある表情で少し白髪の交じった髪を七三に整えている男に言った。

「はい、シンジ様。 …どうぞお身体に気を付けて下さいませ。 マユミ、頼みましたよ。」

有馬は、男の子を見ていた柔らかい表情を真剣なモノに変えて、先日姉になったばかりの女性に言う。

「はい! し、しん…しんちゃんの事は私にお任せ下さい!」

姉弟となった手前、やはり”様”はおかしいから、シンジと呼ぶようにと言ったら、

 姉となったマユミは、まだ小さいので”ちゃん”の方が自然だと主張した。


……本当の兄弟のように自然に呼べているか、というと、まだまだではあるが。


パスポートの情報に由れば、この二人はアメリカ人のシンジ・リカイと、姉のマユミ・リカイである。

男の子の姉は、錦糸のように艶のある漆黒の髪を腰元まで伸ばしており、彼女の瞳は黒曜石のようだ。

一見、とても華奢な身体つきに見えるが、

 そのバランスの取れたスタイルの良さは、彼女の着ている薄手のグリーンの洋服の上からでも分かる。

蒼いサマージャケットを羽織っている彼女の弟は、

 とても特徴的な紅い瞳、白銀色の髪であり、彼の肌はとても白かった。

大分歳の離れた姉弟のように見えるが、とても仲の良さそうな雰囲気で男と喋っていた。

すでに大きい荷物は送ってあるのだろう。 手荷物しか持っていないその姿は、とても旅慣れているようだ。


……搭乗を促す空港のアナウンスが流れると、彼らは手を大きく振って男性と別れた。


エレベーターに乗った姉弟は、仲良く手を繋いで大型旅客機の待つ搭乗ゲートに向かっていった。

彼らの乗る飛行機は、一般的に言われる”特別機”や”専用機”ではなく、

 普段どおりのスケジュール、一般的な飛行プランに則っている普通のジャンボジェット機であった。

しかし、その内側は、整備士から搭乗するキャビンアテンダント、

 パイロットなどの運航関係者は全てチェック済みの碇家のスタッフであるのはもちろんのこと、

  念を入れて、全クラスのチケットをランダムな日付と碇グループ社員の名義で全て買い上げられていた。

単純に”特別機”や”専用プライベート機”を用意する方が手間も費用も”格安”ではあったが、

 セカンドインパクト以降のこの世界では、目立てばテロの標的になる可能性が増すのだ。

そのように単純でお粗末な事は出来ない。

あらゆる事態を想定して、ドーラとマユミは互いに相談し準備をしていた。


……こうして、シンジ達は一路、アメリカ発祥の地”ボストン”へ向かっていった。





ボストン−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−





………空港。



近代的な建物である空港の玄関に、一台の黒塗りの車がエンジンを止めて静かに待機している。

その周りには警護任務の為に市警から出動した車が、一般車に紛れるように偽装して8台ほど待機していた。

その中でも特に古めかしい…いや、古き良きアメリカという時代を感じさせる一台の車があった。

色あせたようにくすんだ赤い乗用車の運転席のドアを無造作に開けた黒人警官は、

 助手席の白人男性に缶コーヒーを投げ渡すと、乱暴にドアを閉めて馬鹿にしたような口調で話し掛けた。

「ハッ…まったく大した歓迎ぶりだな。 今回、”来米”なさるジャパニーズってそんなに偉いのか?」


……彼が、待機していた相棒に持ちかけた話題は、下らないと感じている今回の仕事のようだ。


彼は、先ほど買ったホットドックの紙袋を乱暴に開ける。

”ガサガサッ! …バクッ!”

大きな口で少し遅めの昼食にかぶり付いている黒人男性を横目で見た白人男性は、

 窓の外に視線をやって、買ってきて貰ったお気に入りの缶コーヒーのプルトップを開けて答えた。

”パキンッ! ずずぅ…”

「…あちっ! ふぅー、ふぅ。 …さぁな。 

 俺は日本人が二人って言う事しか聞いてないぜ? どんなヤツなんだろうなぁ…」

「なんだそりぁ? 付き合わされる身にもなれってぇの。 勝手に来たなら勝手にどっか行きゃ良いんだ。」

「はははっ! ま、確かにそうだな。 

 …ん? おっ!? アレかな? おい、どうやらお出でになったようだぜ?」

白人警官が缶コーヒーを飲んでいた顔を向けて目で合図すると、黒人警官は”阿吽”の呼吸でキーを捻った。


”キュ、キュ、キュルルルル…ボゥン!!”


今まで静かに眠っていたエンジンが、いつものように少し駄々をこねて目覚める。

彼らの先に停まっていた黒塗りの車は、偽装した市警の護衛車に挟まれて青空の下ゆっくりと発進した。



………道中。



ボストン市内に向って、道に迷うことなく順調に進む車列を”じっ”と観察している一人の男がいた。

まだ距離はかなり離れているが、一行の進む道沿いの小高いビルの屋上の柵に身体を預けているこの男。

ごく普通のサラリーマンのような特徴のない茶色のスーツを着ている彼の手には、大きな双眼鏡があった。

そして、彼の背に担いでいる荷物は、背広姿には不釣り合いなほど大きかった。

(時間どおり…アレだな。 さて、さっさと終わらせてしまおう。)

男は背に担いでいた大きなバックを足元に降ろすと、

 おもむろに中から金属製の筒を取り出して、細かな部品を組み立てると、立ち上がって構えた。

そして、そのまま取り付けたスコープを覗いて、息を静かに整えながらタイミングを計る。

(ぅ、ん…3、2、1…っ!)


”バシュゥッ!”


主役である黒塗りの車の後方、

 若干の車間距離をとって走る古臭い赤い乗用車の黒人警官は、相変わらず元気に文句を歌っていた。

「良いご身分だよな! ハッ! ったく、こっちの身にもなれってーの! こんなにゆっくり走りやがって!

 さっさと行けってんだよ! もしもーし! 燃費って知ってますかぁ!?

 お陰でこっちはゆっくりテーブルについてメシも喰えねぇ! なぁ!? ん? おい、聞いてんのかよ?」

事態が急変したのは、元気な彼が助手席の相棒を見た瞬間だった。

白人男性の奥の窓に、煙を吐き出しながら一直線に近づくモノがあったのだ。


”ブシュゥゥゥ!! …ドッカァァアン!!!!”


「うおっ!!」

それは、平和な日常が一瞬で戦場に切り替わる合図。

空気を切り裂き、鼓膜を破るほど大きな圧力の爆発音に、

 驚きながらも反射的に素早く反応してハンドルを切った彼が見たものは。

「…ワォ! ワォ!ワォ!ワォ! チクショー!! 止まれって!! くそっ! 冗談じゃねぇ!」

正面に噴き上がる黒煙と炎。 そして、ミサイルのように飛んでくる黒い物体に、慌ててハンドルを切った。


”キィィィ!!! キィィィ!! キィィイイッ!”


赤い車は、2回ほど大きく蛇行して、

 硬いアスファルトに2本の黒いタイヤの軌跡をこの事件の証拠として残すように描いてから急停車した。

素早く拳銃を握った二人は、停車した車から飛び出すと、

 頭低くしゃがみ込み、開け広げたドアに隠れるようにして周りを確認する。

「ヤロー どこだ!? どこからだ!? ったく冗談じゃねーぜ! 何だってんだよ、おい!!」


”…コロコロコロコロ…”


動くモノがなくなった世界で二人が見たモノは、自分たちを横切るように燃えながら転がっていくタイヤ。

「おい、アレ…」

「うっ…」

相棒が見ろよ、と促した目線に黒人警官がタイヤの転がってきたほうへ顔を向けると、熱と圧力で変形し、

 原型を留めぬほどに変わり果てた塊があった。

それは、黒塗りの高級車であったはずのひしゃげた車の残骸であった。

二人の警察官は、突然の事態に、

 護衛対象がこの世から消え去ったことを、黒い煙を吐き出す炎を見ながら実感するしかなかった。



………第二新東京大学。



本館の4階にある大きな蔵書室…いわゆる図書室に赤木リツコはいた。

彼女は、学校の備品として設置されているパソコン端末で”ボンヤリ”とネット新聞を閲覧していた。

先日、シンジから渡米するというメールを貰ったので、何かしら掲載していないかと検索していたのだ。

何気に瞳に映った小さな記事を読んだリツコは、余りの衝撃に顔から血の気が一斉に引いてしまった。

彼女の見た記事の日付は、ちょうどシンジがアメリカに到着する8月5日未明であった。

ボストン市警がプレス発表したテロリストによるこの事件は、

 空港付近で巻き込まれた身元不明の日本人2名が無残にも殺害されてしまったという内容だった。

金髪の女性は、慌てて2年前にお礼として貰ったPDAを取り出し、シンジ宛にメールを出した。


……そして、15分が経った。


心配するリツコは、なかなか来ないシンジからの返事を待つ時間の”長さ”に耐えることが出来ず、

 立ち上がって図書室を出ると、廊下の窓越しに見えた噴水の変わりゆく様を落ち着きなく見ていた。

「…ぅ? あらぁ、リツコじゃない? どーしたのよ? 廊下でボーっとしちゃってさ?」

(ミサト? こんな時に…)


……彼女が窓から瞳を向けると、一番側にいて欲しくない人物が”ニコニコ”と笑顔で歩いて来る。


努めて冷静に答えようと、リツコは顔の筋肉を動かさないように静かな口調で言った。

「なんでもないわ、ミサト。 それと、何度も言っていると思うけれど、私は先輩なのよ?」

「てへへへ、気にしない、気にしない。 小さいことに拘ると、小皺が増えるわよん♪

 あ、そだ! これから合コンがあるんだけどぉ…ちょっち、人数が足んないのよねぇ。

 リツコぅ、たまには付き合って出てくれないかしらぁ?」


……ミサトは2年生になっても、縁を深めるのは勉学ではなく酒類であった。 


(…ふぅ。)

相変わらずの適当な性格にリツコは、肩でため息をつく。

彼女の冷静な頭脳は、まぁ実害がなければ決して悪い人間ではないのだろう、

 と”先輩”として真面目に付き合おうとしたが、相手である彼女はフランクな”友人”として接してくる。


……これからもリツコのため息の回数は増える一方であろう。


ミサトが更に口を開こうとしたその時、リツコの手にしていたPDAからメールの着信音が鳴った。

”ピピッ”

その知らせに、彼女はミサトの存在を忘れてしまったかのように、図書室へと駆け込んで行ってしまった。

「な、なんなのよぅー …あんなに慌てて。 あ、まさか、男? はぁー…しゃ〜ない、他を当たるか。」

リツコの慌てた姿を見て漏らしたミサトの呟きは、

 ある意味間違ってはいないが、彼女の想像できる相手ではあるまい。


……まさか、大学きっての秀才のメールの相手が幼年の男の子とは。


図書室の窓際のパイプイスに座り、リツコはシンジのメールを読み始めた。


《 こんにちわ、リツコ姉さん。 心配を掛けてしまったみたいで、ゴメンなさい。 僕は無事だよ。

 僕たちは、あの事件の被害者よりも先に現地に着いていたんだ。

 今回の事件は、どうやら例の組織が動いてテロを起こしたようだね。 

 アメリカ市場という場所で経済戦争を仕掛けている碇グループの人間は、

 目立つ行動を起こさないように会社から厳重に周知させていたんだけれど。

 それを無視したあの二人は、現地警察に独自に保護を依頼して目立ってしまったみたい。

 …残念だけどね。

 僕はこれからマユミ姉さんと2年間アメリカで暮らす事になったんだ。

 しばらく会えないから、メールで連絡を下さいね。

                          P.S.僕が行く大学はMITだよ。 》

金髪の女性は、弟である男の子の無事が分かり”ほっ”と肩の力を抜いて安心した。

しかし、冷静になった頭脳に引っかかった”マユミ姉さん”という単語に、彼女は”ピクッ”と反応した。

リツコは、シンジがアメリカのボストンに行くことは事前に聞いていたが、詳細を聞いてはいなかったのだ。

(マユミさんって? …ああ、あの誕生日の夕食会にいたシンジ君のメイドさんだったかしら…

 それにしても、姉さんってどういう事? シンジ君?)


……疑問をそのままにして置けないリツコは、再び男の子にメールを出した。

 
そして、その返信メールで初めて、シンジが今アメリカ国籍になりマユミと家族として登録されていて、

 リカイというファミリーネームを使っている事を知った。

(…し、シンジ君、言ってくれれば私がアメリカで保護者をしてあげたのに〜!!)



………京都。



「そうか、やはりシンジは無事であったか。 ふぅ。 …で、その被害者は、誰だったのじゃ? 有馬?」

玄は庭園をゆっくり歩きながら、季節を忘れてしまった木々や花を見ながら傍らに立っている男に訊いた。

「はい、碇グループ通信会社の2人ですが、実際にはあまり役に立っていた人物ではありません。」

玄は、振り返って目を細めて有馬を見た。

「はい、そうです。 玄様のお察しの通りです。 

 碇家が復活した2年前の戦略会議の際、IITの代表職を降ろした男とその秘書です。

 突然、解雇し無職にする訳にもいかず、閑職にまわしたのですが、

 アメリカ進出に向け準備を完了した碇グループの先陣とは別に、功名心から勝手に渡米したようです。

 IIT総務部から警告を受けていたようですが、

 報告ではそれを無視し、現地警察に保護を依頼したようです。

 その結果、彼らの情報がゼーレの末端テロ組織に漏れてしまい標的となったようです。」

歩き出した玄の後ろに付き従い、有馬は歩調を合わせてゆっくりと歩く。

「シンジと同じ日、同じような到着時間であったから、少し焦ったわ。

 しかし、まだ影響力が弱いからかのぅ。 ついに直接的な手段に出てきか。」

「はい、玄様。 現地にいらっしゃるシンジ様の安全確保の為、米国政府に保護を要請しましょうか?」

「いや、必要ならシンジから連絡が来るじゃろ? なに、あの子は大丈夫じゃ。」

玄は空を見上げて、男の子の笑顔を思い浮かべた。



………MIT。



ボストン郊外のまるで英国を匂わせる、閑静で古臭い町並みが至る所に残る住宅街の一角のマンション。

シンジは、マユミに付き添われて、マンションの玄関から出てきた。

その玄関の前に、目立つような特徴のない、中古の白い普通乗用車が停まっている。

この車は、現地に着く前に用意していた彼らのアメリカでの足だった。

渡米した空港からマンションまで、アメリカの普通免許を取得していた姉の運転で移動したのが最初だった。

爆破事件が起きたあの時刻、シンジはすでにマーケットで生活用品、消耗品などの買い物をしていた。

後日、メールを貰った時もシンジは両手に食料品を抱え、

 車に向かって歩いていた、というタイミングだったのでリツコへの返事が少し遅れたのだった。

彼らはこの車で、これから行われる特別編入試験の会場である大学へと向かうようだ。


〜 学び舎 〜


再建された大学のキャンパスの正門から見える芝生は、同じ高さに刈り込まれており、

 管理の行き届いた深緑と真っ白い校舎のコントラストは青い空に浮かぶように栄えている。

駐車場から出てきたシンジとマユミは、その緑に浮かぶタイルの歩道を歩いて管理事務所に向かった。

姉が受付を終えると、彼女とやり取りをしていた事務員が男の子に声を掛ける。

「では、シンジ・リカイさん、私が案内をしますので付いて来て下さい。」

「じゃ、行ってくるよ。 マユミ姉さん。」

「頑張ってね、しんちゃん。」

姉に見送られた男の子は、廊下や窓から見えるキャンパスをキョロキョロと見ながら足を進める。

「こちらです。」

木製のドアの前で立ち止まった事務員は、男の子を促すように横にどいた。

男の子は、ドアをノックして窺うように入ると、その部屋にはすでに試験監督の教授が座っていた。

教授は廊下から入って来た子供を見て、一瞬だけ眉を吊り上げたがその表情を変える事なく挨拶をした。

「おはよう。 君が編入希望者かね?」

「おはようございます。 はい、シンジ・リカイです。 よろしくお願い致します。」

「うむ。 では、席に着きたまえ。」

この小さな部屋の中央に用意されていたイスに座った小さな子供は、

 地元の子らしいネイティブな英語を流暢に話した。

教授は彼の喋り方を聞いて英語圏内で生活する地元の子かな、とシンジを見たが、

 国連特例条例適用者ということを思い出すと、ふと疑問に思った事を訊いた。

「ところで、君の生まれはどこかね?」

試験用紙を受け取りながら、男の子は答えた。

「はい? 日本です。」

「日本? ほう…とても英語の発音が自然だね。」

(あ、そうか、不自然だったかな?)

「そうでしょうか?」

「まぁ、良いだろう。 …さて、試験を始めようか。」

突然、日本から無理やり編入しに来た5歳児の子供が受験したテストは、

 現役の優秀な大学生すら解けないレベルの問題ばかりだった。

これは、原則として編入を認めていない大学側が、

 当たり障りなく断るために建前で用意していたモノだったからだ。

100%無駄な時間になるだろう、

 と思っていたMITの教授達は、男の子の試験結果を聞いて大きな驚きと喜びで支配された。

なぜなら、シンジの解答用紙にはミス一つなかったのだ。

そして、この素晴らしい男の子をマスコミや世間に公表したかったが、

 特例条例の規定に触れるので情報公開が一切出来ないという状況に、彼らは心底落胆した。

こうして、8月10日に実施された試験をパスしたシンジは、目的どおり無事に大学生となる事が出来た。


……弟の編入試験合格の知らせが、あのテロ事件で影を射していたマユミの表情を明るくした。


「おめでとうございます、しんちゃん。」

「ありがとう、姉さん。 でもまだ、喋りが丁寧だよ?」

「うぅ、上手く切り替えられなくてすみません。 …もっと、がんばります。」

「ま、いいんだけど。 ところで、マユミ姉さんは僕が大学へ行っている間、何をしているの?」

「はい。 私は、キャンパス内の学生食堂のアルバイトをしますわ。」

「え、お金ならあるよ? …姉さんがしたいこと、して良いと思うけど。」

「ええ。 ですから学食にいますわ。」

「そ、そう。 …わかった、がんばってね。」

シンジは、単純に暇を持て余すのが嫌なのだろうと考えたが、姉の考えは違うようだ。

先日テロ事件があったばかりだ。

彼の安全を第一に考えるマユミ・リカイは、

 なるべく大事な弟の近くにいようと、学食のアルバイトを希望したのだ。

その後、MITで男子学生たちの話題をさらったのは神秘的な子供が編入してきた事よりも、

 学食の新しい女性アルバイトの方であった。

「綺麗な子だよなぁ。 彼氏いるのかな?」

「いるに決まってるじゃん。 …あんなに可愛いのに男がほっとくか?」

「いてもいいや。 …俺、アタックしよっ♪」


……交際の申し出は毎日のようにあったが、それらは、あっさりと断られる事になるのであった。


教室にいる女子大生たちは、白い男の子を見ていた。

その子はとても小さかったが、柔らかな雰囲気で休み時間はいつも紅い本を読んでいた。

そして、本を見る神秘的なルビー色の紅い瞳は、時折、楽しそうに笑っていた。


……MITの飛び級制度を利用し、

 たった2年弱で主席卒業した男の子の偉業は決して公表される事はなかったが、

  学生達の間でいつまでも語られる”伝説”となった。



………2007年。



青く澄み渡った空から眩しいほどの日の光が照らすキャンパスの片隅。

シンジは、その木陰にあるベンチに座って、

 マユミに作って貰ったお弁当を食べながらPDAに入って来たメールを確認していた。

(え〜と、あ、姉さんからだ。)


《 シンジ君、元気に過ごしているかしら?

 今度のMITミーティングに研究論文を発表しにそちらに行く事になったわ。

 6月2日にボストン空港に着く予定なの。 時間が合えば食事でもしましょう。

 返事を待っているわ。

           あなたの姉リツコより        

                         P.S.まだ、ホテル予約していないのよねぇ。 》


……少し考えたシンジは、後日、マユミと空港へ迎えに行くと返信したのだった。



………空港ロビー。



マユミとシンジは、自販機コーナーで飲み物を買って屋上に出るとフェンス越しに青空を見上げた。

大きな白い雲が形を変えてゆく様を見ながら、

 リツコが乗っているであろう飛行機が、上空から降りて来るのを待っていた。

「ちょうど、一年振りだね。 ん? …あ、アレかな?」

「そうね。 もう、一年近く経つのね。 私たちがアメリカに着てから。」

シンジたちが見守る中、無事に滑走路に降りた旅客機が駐機場に移動する。

そして、屋上から2階のロビーに降りて、入国審査を受けているリツコを待っていたその時だった。


”ピ−ッ! ピ−ッ!”


男の子のPDAが突然、警報音を鳴らした。

その音を聞いたシンジは、マユミの手を掴み、振り返ることなくその場を素早く離れる。


……非常口階段の扉を開いて、そのまま階段を下りたシンジは、踊り場で足を止めた。


男の子は、階段の下を覗き込むように、人がいない事を確認する。

「…はぁ、はぁ。 …どうしたの、しんちゃん?」

手を引っ張られて走っていたマユミが、大きく肩で息をしながら足を止めて周りを警戒している弟に問う。

「…ふぅ。 ドーラが緊急事態だって教えてくれたんだ。 …ドーラ?」

シンジはベルトに留めていたPDAケースから”ドーラ”を取り出し訊いた。

「はい、申し訳ありませんでした、マスター。

 リツコ様の近くにゼーレの監視員が付いていました。

 今、マスターとリツコ様の関係を晒すのは危険と判断し、避ける為の処置でございました。」

「そっか。 …じゃ、リツコ姉さんに連絡しよう。 監視員が付いているんじゃ、迂闊に会えないね、

 さて、どうしようか?」

『…ねぇ、しんちゃん。 監視員と言うよりもガードに近いかも、だよ?

 単独の一人で行動しているみたいだから、

 リツコさんに空港からボストン市に向かうバスに乗ってもらって、

 途中で突然降りてもらえば、旨く撒けるんじゃないかな? …どぉ?』

『そうだね、リリス。 うん。 危険は少なそうだし…あ、でも結局、

 ”うち”に泊まる予定なんだからバレるんじゃないかな?』

『…それなら、ドーラに適当な宿を予約してもらおうよ! …うんうん。』

「マスター、リリスの案でよろしいでしょうか?」


……この二人は、主人の為なら何とか協力できるようになったようだ。


それでも彼女たちの雰囲気は、まだまだ大分”とげとげ”しかったが。

『…よし。 じゃあ、ドーラは姉さんへ連絡とホテルの予約をお願いね。

 リリスは、マユミ姉さんに車を出してもらうから、

 バスに乗ったリツコ姉さんの場所を、波動を補足しておいてね。』

「畏まりました、マスター。 …では、行って参ります。」

『……了解♪ しんちゃん、この階段で地下2階まで下りて、そこから駐車場に出てねぇ〜

 うっし! んじゃ、行ってみよぉー♪』

元気いっぱいの幼女。 そのお気楽っぽい波動を受け取った男の子は、姉の顔を見た。

「よし、マユミ姉さん、行こう!」

「あ、はい! 分かりました、シンジ様。」


……緊迫した空気に、この場の緊張の為か、マユミの口調は日本でのメイドの時に戻っていた。


その頃、リツコは、入国審査が終わって、そのまま1階に来るとカーゴから荷物が出てくるのを待っていた。

ウエストポーチの中に仕舞っているシンジとおそろいのPDAは、着陸の際に電源をoffにしていた。

しかし、不意に”ピピッ”と起動音がしたので、リツコは少し不思議そうな顔をしてPDAを手に取った。


《 リツコ様、ドーラでございます。

 リツコ様は現在、組織の人間に監視されております。

 この状態のままでは、シンジ様とお会いいただくことは出来ません。

 そこで、当初の予定を変更させていただきます。

 市営バス乗り場”63”番へ移動し、ボストン市内行きのバスに乗車して下さい。

 その後、4つ目のバス停で降りて下さいませ。

 またその際は、組織の人間を撒く為に、ギリギリのタイミングで行動するようにお願い致します。

 その後、マユミ様の運転する車でお迎えに上がります。 

 なお、私の方で市内の宿を”2週間前に”予約しましたので、後の監視の目はそちらに向かいます。 》


……メールを読み終わったリツコは、PDAをポーチに仕舞うと、

 自分の荷物を受け取って、自然な足取りでゆっくりとバス停の方へ歩いて行った。



………ドイツ。



キールは、自分の執務室で先ほど届いたばかりの報告書を読み、その内容に苛立ちを隠せなかった。

この一年弱という短期間で、

 ”あの”碇グループはアメリカ市場での経済基盤を磐石なものとする事に成功していた。

老人は、アメリカ第一支部から送られてきたその報告書を、

 マホガニー製の机にぞんざいに投げてイスに座ると、牛革で出来た柔らかな背もたれに身を預けた。

そして、彼は深い息を吐いて天井の明かりを見上げた。

(碇 玄…神と成る”我”の邪魔をするのか。 再び…)

キールの脳裏に、遠い過去とあの日本人がよみがえる。


……この男は、ある特殊な病魔に犯されていた。


体調の変化に気付いたのは、1975年の冬の事だった。

二の腕が痺れて、動きが非常に鈍くなったのだ。

最初の頃は、すぐに回復したから大したことではない、と楽観して医者にも掛からなかった。

しかしある時、車を運転していると、突然両腕が動かなくなり、危うく事故を起こしそうになった。

身の危険を感じた彼は、その当時最高の医者の戸を叩いた。

彼のためにあらゆる設備と方法で診察してくれた医者は、彼の希望を打ち砕くように力なく首を横に振った。

キール・ローレンツの病気は、原因不明の難病であり、その結果、当然と治療方法は見付からなかった。

しかも、その症状は時を追うごとに酷くなり、段々と全身に廻っていくように拡がっていった。

だから、男は、生きるために決断した。

当時の技術の粋を集め、役に立たなくなってしまった自身の四肢を順次マシーン化し、

 その動かなくなった手足を、最終的には大半の臓器までも捨て去ったのだ。

人工皮膚で機械の腕や脚を飾る様を見た彼は、己の心でさえも人間ではないものになっていく気がして、

 ”まるで化け物だな。 …いや、ヒトの身を捨てた人類より先に進んだのだ…”と自嘲的に笑った。

それから彼は、生きることに喜びを感じることがなくなってしまった。

ゼーレという組織のナンバー2であり、腐るほど金を持っている彼は、世界を自由に出来る力があった。

他人を自由に操れるのに、自分の体は自由に出来ない。

機械の身体で生きている自分を見る度に、何をしても、心の空虚を満たすことはなかった。

79年の終わり、絶望の淵にいた彼は、ある文書を発見し、解読させたその内容に久しぶりに心が躍った。

いや、狂喜した、という表現の方が正確かも知れない。

彼は、目を輝かせて確信した。

これで、私は本当にヒトを超えた存在…本物の神になれる、と。

80年のゼーレ会議にて、

 彼は情熱的にその計画を提唱したが、小さな島国の男に異を唱えられ、否決させられてしまった。

(バカ者が…)

キールは、この素晴らしい計画を理解出来ないのは自分と同じゲルマン人ではないからだと考えた。


……だから、自分の計画を理解しない、詰らない男に用はない…と早々に舞台から退場願ったのだった。


そして、組織を自分の支配下に置く事に成功した89年、その計画を再度提唱し実行したのだ。

90年から独立した研究所を立ち上げ、より詳細に文書を解読させ、

 その記載どおり、94年には死海から槍を発見し、98年には南極の白き月で最初の巨人を発見したのだ。

だが、順調だったのはそこまでだった。

発見された文書の解読が、章を進む毎により困難になったのだ。

複雑で難解な文章を残した先史第一始祖民族が、どのように儀式に必要な高次元エネルギーを得たのか?

ゼーレより研究を任された学者たちは、その頭脳を休ませることなく悩み続けた。

そんな時だった。 日本の学者が、ある論文を発表したのは。

論文のタイトルは、”スーパーソレノイド理論によるエネルギーの発生と回生”というものだった。

この通称”S2理論”は、学会で荒唐無稽だと一笑に付されたが、組織は、その理論に大いに着目した。

そして、ゼーレが派遣したエージェントが接触した日本人教授は、葛城ヒデアキと名乗った。

生涯を賭けた論文が学会で認められず、失意の底にいた彼は、

 多大な資金と設備を提供するという怪しげな男の言葉に、疑うことを知らぬ馬鹿のように簡単に乗った。

文書の解読は不完全であったが、葛城教授の理論を利用して行った実験の場所は、南極だった。

人生に於いて挫折を味わったことがないキールは、この”儀式”の成功を信じて疑わなかった。

しかし、彼の楽観的な予想に反し、人間ではない誰かが創造した巨大な槍を使った儀式は失敗してしまった。

コントロールを失って暴走した巨人は、その巨躯を光そのもののように高次元エネルギーへと変換し、

 元に戻そうとする人間の努力をあざ笑うかのように、無情に解放した。

その放たれた力は、南極を消し去り、地球の地軸を捻じ曲げるほどのものだった。

だが、キールは諦めなかった。

  
……その後の世論操作の為、ゼーレは人類補完委員会を表の顔とし、それを国連最高意思決定機関とした。


また、02年に第二次調査団を結成させ、表向きは国連主体の南極調査を行わせた。

調査隊に同行したキールは、吹き飛び瓦礫の山と化したかつて実験施設の在った場所で、希望を見付けた。

それは、地下実験場の調査中に黒く焦げた槍の傍らで発見された1cm位の小さな塊だった。

陸海空を問わず微生物でさえも存在しない、変わり果てた南極圏で唯一の生命反応を出したモノ。

かつての光の巨人、”アダム”の欠片だった。

小さく脈動する物体、”コア”を発見したキールは、極秘にドイツへ持ち帰ることに成功した。


……その調査後、人類補完委員会は南極条約を改正し、かの地を”封地”と決定した。


それ以来、南極圏には誰も近付くことすら許されなかった。

ドイツに帰ったキールは、更に解読と研究を進めさせた。

その結果、文書を解読したとおり、極東で”黒き月”が発見され、

 また、飛び散ったアダムの因子、つまり使徒と呼ばれるモノの襲来が起きることが判明した。

ゼーレは、再び行う”儀式”を必ず完遂させるため、また使徒襲来などの万難を排する為に、

 有能なある男を研究所の長と任命した。

キールを筆頭に、ゼーレとしては、その男が東洋人ということが非常に気に入らなかったが、

 彼は、おおむね期待通りの仕事を成果として残した。

そして、2003年。

ドイツの研究所を引き継いだ財団法人、人工進化研究所”ゲヒルン”が国連直轄組織として日本に誕生した。

そう、今まで彼の計画は概ね順調であったのだ。 


……あの男が復活さえしなければ。


(…碇 玄よ、…貴様は、再び我の邪魔をするのか…)



………マンション。



リツコは、忘れていた用事を思い出したかのように、突然とバスを降りた。

空港を出発してから4番目のバス停に降りた彼女は、

 自分以外には誰も降りずにバスが走り去るのを見て、知らずに入っていた肩の力を抜いた。


……ドーラに言われたとおり、どうやらタイミング良く降りる事に成功したようだ。


そのまま5分ほど待っていると、

 対向車線から白い乗用車が近付いて来てクラクションを二度だけ軽く鳴らした。

「久しぶりだね、リツコ姉さん。」

助手席の窓が下がると、愛しい弟が顔をひょいと出した。

「あら、シンジ君、久しぶり♪」

「さ、姉さん、後ろに乗って。」

「わかったわ。」

シンジに促されたリツコは、久しぶりに見た男の子に笑って答えた。

そして、後部座席に座りドアを閉めると、白い乗用車は静かに発進した。

移り行く窓の景色を見たリツコは、小さく呟いた。

「でも、まさか私に監視が付いているとはね…」

彼女の生活には、今まで縁も所縁もなかった裏社会の人間が、知らぬ内に自分の近くにいた、

 という事実がその表情に影を落とす。

「もう直ぐ、ナオコさんの理論が完成しそうからね。 

 ゼーレとしては、今、あらゆる妨害工作から、赤木博士の家族を保護するという意味で、

  監視員…まぁ、ガードかな、それを付けていたんだろうね。」

「そう、そうね……私が攫われて母さんが組織に敵対や離反するのを防ぐ為、か。」


……リツコにとっては、母親の立場を改めて確認したような出来事であった。


客人は、マンションに着いてシンジたちの住まう空間へ案内される。

そして、金髪の女性をもてなしたのは、弟の楽しい会話と、マユミの腕によりをかけた夕食だった。

「あら、もうこんな時間…」

リツコが部屋の時計を見ると、夜も更けて日付が変わりそうになっていた。

心地よい時間は瞬く間に過ぎ去るものである。

翌朝、MITで開催されるミーティングへ参加するリツコは、

 シンジと一緒に行くことは出来ないので、マンションで別れとなる事を非常に残念がった。

少し肩を落とした姉を見たシンジは、大学卒業の見込みを話してあげた。

リツコは、あと1年足らずで日本へ帰ってくると知ってそれを喜んだ。

「飛び級とはね。 さすがね、シンジ君。 あなたなら間違いなく卒業できるわ。

 本当に聡い子…うふふ、”姉さん”は鼻が高いわ♪」

マユミは、リツコが何度となく”姉さん”という単語を強調する度に、

 頬が”ぴくっ”と動くのを止めることができなかった。 

(……今のしんちゃんのお姉さんは、この私です!) 

姉は、主人であるシンジの手前、客に失礼は出来ないと顔で笑って心の中で泣き叫ぶだけで我慢していた。

男の子のポケットに入っている幼女は、悟っていた。

『うふふ、勝手に争っていなさいな♪ ふふん…私はしんちゃんの恋人、パートナーだもんねぇ♪』


……貴方たちとは、レベルが違うのよ、と勝ち誇っている顔をしているが、果たしてそうであろうか?




さて、世の中は常に動いている。

人がいるところに経済ありと言うべきか、逆に物資が動く所に人が集まるのか…

ここ数年、変わらず好景気に沸く日本には、世界中から物資と多様なヒトが集まっていた。

その人の世界の流れに乗るように、

 9月1日、正式に国連本部がアメリカから日本の第二新東京市へ移される事が決定となった。

その日、同じ紙面に発表された情報がもう一つあった。

それは、セカンドインパクト第二次国連調査団が、

 未曾有の悲劇、セカンドインパクトを引き起こした原因の正式な見解の発表だった。


”隕石による衝突と爆発である”


この発生から時間が大分経ってしまった彼らの調査結果は、だれも驚かないようなモノであった。

しかも、この記事が掲載されていた紙面には、

 先ほどの国連本部移転のニュースが三段抜きで大々的に飾られていたので、全然目立たなかった。

あらゆるメディアが同じ様な扱いをした”今更”のニュースに大多数の人間は気に留めることはなかった。


……ゼーレの世論操作は的確に機能しているようだ。



………2008年、1月。



……気候は変わらないが、正月休みは変わらず存在している。


その休みが明けた、雲に隠れた薄い日の光が射す第二新東京市。

その街の中心部より少し離れた場所の再建されたキャンパスに、ある一人の男がいた。

彼は、入学式からだいぶ時間が経っているはずなのに、不思議な事に余り勝手を知らないように見える。

(へぇ、全く呑気なもんだねぇ。 …その日食べる事すら間々なら無い世の中だってのに。)

男は、この平和な第二新東京大学の空気に軽蔑にも似た色を二つの瞳に浮かべて、

 ズボン後ろのポケットに両手を入れたまま”ぶらり”と足を動かしている。

(で、ここにいるんだってなぁ。 あの惨劇の起きた場所からの唯一人の生還者、葛城教授の娘が。)

彼の髪は、しばらく切る事を忘れたように少し長めで、

 彼の服装は、遊び人のようにだらしのない格好であった。

(学食によくいるって話だったな。 ん、アレか? おっと、こりゃ結構美人じゃありませんか?)

おなかをさすって満足そうな顔の女性。

彼女の学食の出席率は、100%であった。

今日も今日とておいしい食事を満喫した彼女は、学食から出た廊下で声を掛けられた。


……幸か不幸か、こうして世界の片隅でまた新たなカップルが一組誕生した。



………3月4日。



日本にいるリツコが、メールを打っている午前11時。

その時、アメリカにいるシンジは、風呂からあがってマユミに髪を乾かされていた。

「ねぇ、ぼく、自分で出来るよ…」

「ダメです。」

これは、毎日のように繰り返される言葉だった。 

大事な家族である男の子の体調管理は、保護者である私の責務。

だから、風邪を引かないように風呂上りの濡れた髪を乾かすのは、姉である自分の役目である。

そう言って、ドライヤーを譲ってくれない姉に、

 男の子は小さく肩を落として、彼女のされるようにされていた。

その姉は、弟の絹糸のように柔らかで神秘的なその白銀の髪に触れて、手櫛で梳く事に喜びを隠せなかった。

(…はぁ、何て手触りが良いのでしょう。 とても気持ちいいわ。

 でも後、数ヶ月しか出来ないなんて。 ふう、どうにか日本でも出来ないものかしら…)


……その楽しみは、あと数年で蒼銀の少女が楽しむ事になるのだが。


”ピピ”

「マスター、リツコ様からメールが届きました。」

シンジは、グリーンの絨毯の上に胡坐を組んで、パックのジュースにストローを刺して飲んでいた。

《 そちらの時間では、こんばんわ、になるわね。 

 こんばんわ、お久しぶりね シンジ君。 もう寝てしまったかしら?

 前にシンジ君から聞いていた男に今日会ったから、一応、報告しておくわ。

 ミサトの彼として紹介されたんだけれど、

 聞いていたとおり、初対面なのに随分と馴れ馴れしい、軽い感じの男だったわ。
 
 ミサトに頼まれていた卒業論文に必要な資料が揃ったから、彼女に渡そうと探していたのだけれど、

 ここ1週間ほど姿が見られないから少し心配していたの。 でも、ただのサボりだったみたい。

 人にモノを頼んでおいて、自分はサボるなんて信じられない神経の持ち主ね。 心配して損したわ。

 ま、そんな事は如何でも良いのだけど…

 今日、母さんが長年研究していた有機体基礎思考理論が完成したって連絡を貰ったわ。

 秘密よって言われたけれど、シンジ君なら知っているのだから、かまわないわよね?
  
 その理論を応用した第7世代に当たるスーパーコンピュータをこれから構築するらしいわ。

 わたしも、今度の4月からゲヒルンで働くから、母さんの仕事の手伝いをすることになるわね。

 でも、入社試験が無かったというのは、あの組織が私を知っている、という事かしら?

 そう言えば、今日届いた入社案内に添付されていたIDカードにはE計画勤務って記載してあったわ。

 学生生活が終われば、これまでのようにシンジ君に逢えないのね…姉さん、寂しいわ。

 それでは、体に気をつけて早く日本に帰ってらっしゃいね? 待っているわ。 リツコより。 

              P.S. これから母さんに手紙を書くけれど………メールじゃないのよ。 》



………ジオフロント。



”プシュッ”

大きいと言うより広大なという言葉が相応しい、この部屋に入って来たのはやや疲れた様子の男性。

オールバックに整っていたロマンスグレーの髪は、少し乱れていた。

「…碇、やっと工事工程調整会議が終わったぞ。」

彼は、来客用のソファーに身を投げて言葉を続けた。

「これで、今度の6月までには第2次整備計画の要、第一発令所が何とか完成しそうだ。

 工事機材の搬入、施工を極秘に行なうのはやはり効率が著しく低下するな。

 それと、ナオコ君から思考理論完成の報告書が上がってきたぞ、ようやくな…

 スケジュールに遅延が生じているものの、地上と天蓋都市の基礎部分もだいぶ進んできているぞ。

 地層に埋める特殊装甲板も仕様がほぼ決定したしな…」

「…そうか。」

窓の外に目をやる男に答えたのは、報告書類を見たままの男のただの一言だった。

(もう少し、組織の長として労をねぎらうことは出来んのか…まったく。)

その言葉に、小さく肩を落としてコウゾウは呟くように言った。

「これで、例の人工生命体の実験も進んでくれると良いのだが…」

その呟きに、ゲンドウは書類に落としたままだった視線をソファーの方へ向けた。

「冬月。 あの”白”は今のまま継続だ。」

現在、ゲンドウ達が主に仕事の場としているのは、地下深いジオフロント。

将来、NERV本部と呼ばれる、あのピラミッド型の建物の内部も整備されつつある。

「あのままでいいのか?」

04年のリリスの基礎細胞培養実験の成功時から開始していた、人工生命体創造実験。

その内容から極秘中の極秘とされていた実験を知る者は、ユイを除けばここ所長室にいる2人だけであった。

「ああ。 あのままでいい。」

ゲンドウの言葉に、冬月は目を細める。

(あのままでいいとは。 なぜだ? なぜそう言える?)

現在の”ターミナルドグマ”と呼ばれる場所で行なわれているその実験の状況は、”白い物体”が、

 変わらずゆっくりと成長しているだけであった。

「しかし、碇…あのままではとても成功するとは思えんよ?」

コウゾウは、地下深くで行われている作業の状況を思い出す。

ユイの接触実験を赤木ナオコ博士が調査・検証した結果、

 人の精神はLCLを利用してパターンとして記録、保存がある程度できる事が立証された。

それを基に極秘に創られたのが、

 前史では”CLONING HUMAN PLANT”と名付けられた部屋だった。

その部屋の上部には、まるでヒトの脳髄を思わせるような太い配管が複雑に入り組んでおり、

 管の中には常に電荷されたLCLが満たされていた。

”脳髄”の中心部から、一本の筒状の特殊ガラスが降りていて、

 その中に満たされているLCLの中に”白”は浮かんでいた。

「なあ、碇。 やはり現在の人工生命体創造実験は中止にして、他の方法を模索するべきではないのかね?」

「…ユイを失ったあの接触実験で可能となった精神のパターン化。

 それを利用して、”白”に定着する現在の実験は、継続だ。

 冬月、ゼーレもアダムベースで同じ実験を行なっているのは知っているだろう。

 我々の真の目的のためには、切り札となるリリスベースの人工生命体は必要不可欠なファクターだ。

 未だ、EVAのコントロールは取れてないのだ。

 自我を持つ”白”……それを利用して、初めてコントロールが可能となるのかも知れんのだ。」

ゲンドウは、揺るがぬ意思を込めた目を冬月に向けて言った。

 

………6月10日。



7年後に迫った人類の存亡を掛けた戦争の最前線となる第一発令所。

この施設を管理、運用するシステムに求められる能力は非常なまでに高かった。

なぜならば、映像、音声処理は言うに及ばず、あらゆる事象を同時に並列、

 分散処理を多重に計算実行しながら、更にある程度の要因判断まで行なう必要があったからだ。

どの組織も持ち得ない超高性能なシステムの制作、構築が赤木博士の理論を基にしてスタートした。

そして先行して施工していた、処理装置を最大限に活用すべく設計された戦争用の発令所の躯体が、

 本日、ようやく完成したのだ。

ゲンドウは照明を最小限に落とした発令所のオペレータ用の席に座っていた


……竣工したばかりの発令所を静かに見やり、シンジの教えてくれた戦いに思いを馳せていた、その時。


ゲンドウは、背後にヒトの気配を感じた。

ゆっくりと席を回転させ、近寄る人物を確認するように顔を上げると、ナオコが薄暗い影から出てきた。

「…漸く完成ね、ここ。」

「ああ。 後は君の処理装置だけだな。」

「実験機の成績はかなり良いわ。

 …あとは”01””51””91”の3系統のシステムをどれだけ小型化できるかって言う処かしら。」

そう言ったナオコは、一歩一歩とゲンドウの傍に足を進める。

「ふむ、世界初の第7世代型の計算処理装置の誕生か。 量子コンピュータ以来の飛躍的な進歩になるな。

 予定どおりとは言え、素晴らしい事には変わりがない。 あと、滞っているのはEVAの実験の方だな。」

「そうね。 ユイさんの残した生体実験や理論の実証。

 要であるE計画を始め、どれもほとんど進んでいないのが現状ね。

 …ねぇ、やっぱり後悔しているんでしょ? …ユイさんの事…」

「…自分の仕事に後悔はしていない。」

ナオコは更にゆっくりと近付いてくる。

「うそ。 なら、なぜ私を受け入れて下さらないのかしら?」

ナオコは、そう言いながらゲンドウの頬に優しく手を添えた。


……その手を掴み、ゲンドウは立ち上がって言う。


「いつか、絶対に取り戻す妻に顔向けできん事はしない。 君が計画し、失敗したサルベージ方法だけが、

 ユイを取り戻す最後の方法だとは、私は考えていないからな。」

ゲンドウは、ナオコの手を優しく払うように離して、そのまま発令所を出て行った。

その発令所の最上段の扉から出来上がった躯体を見学しに来ていたリツコは、その一部始終を見ていた。

(…シンジ君のお父さんって一本気な人なのねぇ。 …母さん、無様よ。)


……リツコが人を無様、と評したのはここが”お初”であった。




………MIT。



若い男性教授は、プレッシャーの為か落ち着きなく身体を動かし、その顔は緊張していた。

今日は、ある生徒の卒業論文の評を出して、彼の卒業後について相談する日だった。

生徒は沢山いるが、その人物は特殊の特別であった。

まるで、底知れぬ知識の海を持っているかのような深い理解力と、

 質問に対する答えを用意する逡巡の時間を彼は持っていないと思わせるほど速い頭の回転。

その生徒の担当教授は、学長はもとより、アメリカ理科学会名誉教授連盟から、

 この国の未来のためにMITに…最悪でもアメリカに永住させるように、と厳命を受けていた。

「ふぅ…」

彼は、生徒を待つ間、自身を落ち着かせるように何度となく深呼吸を繰り返していた。

”こんこん”

「ど、どうぞ。」

「…失礼します。」

入って来たのは、MITで”ホワイト”と呼ばれ、大多数の学生に可愛がられている小さな男の子だった。

その姿を見た教授はどうにか”にこり”と笑って、彼にイスを勧めることが出来た。

「やぁ、ホワイト。 …今日は君の卒業後について、君の考えを聞かせて欲しいんだ。」

明るい色合いの木製の大きな机の前に用意されたイスに座り、正面に座る教授を見る紅い瞳。

「はい、先生。 僕はこの学校を卒業したら、日本に戻り違う学校へ行こうと思っています。」

「ほぉ。 まぁ、君はここの主席だから、何処の学校の研究室も欲しがるだろうな。

 …で、何処に行くんだい?」

「えぇ、第二新東京市にある学校を予定しています。」

「第二新東京大学か。 …確か、今年、あの赤木リツコ君が卒業した学校だね?」

「え? あの、先生…」

「ん?」

「…僕が通う学校は、第二新東京市立第三小学校ですよ?」


……アメリカに居て欲しいと、どうやって説得しようか考えていた教授の思考は、”ぱたっ”と停止した。



………第一実験室。



PCに向かうナオコは、先程のゲンドウの言葉が頭から離れなかった。

(私の考えたサルベージ以外の方法なんてあるのかしら…

 今、ユイさんの魂と肉体は自我境界線を失って量子状態で初号機のコアに取り込まれている。

 だから私は、コアの中の変化したパルスパターンを強制的に、接触実験前の状態に上書きしようと考えた。

 …それにより、コアの内に在る余分な差分情報であるユイさんの、データを…それを…)
 
”プシュ”

ナオコが、思慮の海に深く沈むように考え込んでいた時、金属製の扉が開く音が聞こえた。

「…あら、りっちゃん、どうしたの?」

「今日も、泊まり? 母さん、大丈夫? …疲れているんじゃない?」

「私は大丈夫、疲れてなんて無いわ。 あ、そうだ。 ねぇ、りっちゃん…」

「なに、母さん?」

「母さん、今度EVAと接触実験をしてみようと思うのよ…」

「え?」

ユイが初号機に取り込まれてから、久しく感じていなかったモノ。

先程、ゲンドウの拒絶を切っ掛けに久し振りに感じてしまったあの女への、暗い感情。

世界の誰もが成し得なかった、次世代スパコンの開発ですら、

 …それですらも今”存在していない女”に、負けているような気がしたのだ。

そして、自分と彼女の差を明確にする為に、彼女の失敗した実験を成功させようと思って出た言葉だった。

彼女は、娘にそう言うと早速実験計画要綱を作成し始めた。


……その計画は時を経ず、ドーラによりシンジの知る所となる。


シンジは、これから行うナオコの実験の”失敗”時にEVAのコントロール方法を仮説立てられるように、

 ゲンドウへメールした。

そして、シンジの考えを理解したゲンドウは、ナオコの実験を許可するのだった。



………6月30日、マンション。



卒業証書を無事に授与され、卒業式を終えたシンジは、自宅に戻るとマユミと共に出国準備をしていた。

大学の同窓は今頃、学校側が準備をしていた盛大なパーティーに、騒ぎ楽しんでいる頃であろう。

シンジ・リカイももちろん招待されていたが、丁重に断った。

「頼む、ホワイト! 君が来てくれれば女子が大幅に増えるんだ。 それと、マユミを連れて来てくれ!」

「ゴメンなさい、用があって参加できないんだ。 それに、姉さんのことは僕に頼まないで直接言ってよ。」


……調子のいい友達を思い出していた男の子は、机の上のPDAを手にした。


「ドーラ、かあさんにメールをお願いするよ。」

「かしこまりました。」

《 かあさん、久し振り。 ぼく、今日大学を無事に卒業したよ。 

 これから日本に観光ビザで入国して、その後、特例条例を解除してもらって国籍と名前を元に戻すんだ。

 あと少しすると、ナオコさんが母さんのコアに接触する実験をするみたい。

 EVAのコントロール…シンクロシステムの基礎になる発見を促したいから、

 とうさんと協力して芝居をしてね。

 その実験の1週間前に第二新東京市の小学校に僕の足跡を残すよ。

 EVAのパイロット候補として組織の目は第二新東京市に向かうだろうけど、

 その頃には、また消息不明になる予定さ。 あの組織は混乱するだろうね。

 それじゃ、かあさん、よろしくね。 
  
                  P.S.僕だけじゃなく、とうさんにもメールしてあげてね? 》



………7月。



リカイ姉弟は、日本へ観光旅行に出掛けた。

白い乗用車は、空港に向けてマンションを緩やかに出発した。

2年前と現在は、まるで状況が違っている。

男の子たちが米国に”帰国”した時に爆破事件を起こしたテログループは、

 2日と経たず彼の情報により潰されていた。

今、アメリカ経済の過半数のシェアを獲得しているのは、碇グループとその提携企業である。

そして、偽装されたアメリカ人”リカイ”の姉弟をマークする組織は2年の間、皆無であった。

それもあり、今回の出国に使用する飛行機は、他の乗客も搭乗している普通の状態となった。

「じゃ、ねえさん、飛行機に乗ろうよ。」

姉は、小さな弟に手を引かれてもその足を動かすことはなかった。

自然と突っ張る腕の感覚に、シンジは振り向いて彼女を見た。

「あれ? どうしたの?」

「な、なんでもないわ。 …2年間って、あっという間だったわね。」

「…そうだね。」

マユミは、日本に戻ればシンジと家族ではなくなってしまう事に寂しさを感じていた。



………後に総司令官執務室と呼ばれる部屋。



机に肘をつく男性の前にショートカットの女性が立っている。

ゲンドウは、ナオコが作成した実験の計画書を読んでいた。

先日シンジからもらったメールを父は思い出す。

この計画を利用した”こちらの計画”…それを知らぬナオコには悪いが、利用させて貰う。

ゲンドウは渋る演技をしていた。

「…所長。 その計画どおりに実施させていただければ、必ず成功しますわ。」

「むう。 …しかし、だな。」

「ユイ博士の時と違い、微に入り細をうがち、コアの調査を行っていますわ。」

「…分かった。 そこまで言うなら、いいだろう。 実験を許可する。

 ただし、条件がある。 我々は成功しようが失敗しようが、何かしらの成果を出さねばならん。

 この実験時にEVAと君の精神パターンは当然だが、あらゆる変化をより詳細に記録する為の、

  各種計測機器を不足なく設置する事だ。」

「ええ、分かりましたわ。 では、準備が整い次第実験をしますわ。」

ナオコは自身で計画した実験の成功を疑う事なく、にこやかに笑いながら退室して行った。

その様子を見ていた冬月は、肩の力を抜くようにため息を吐いた。

「ふぅ。 碇、いいのか? その彼女の計画とやら、大丈夫なのかね?」

「ふん、冬月。 彼女の実験など如何でも良いことだ。」

「なに?」

「私は、この実験を利用してEVAのコントロール方法を探る。

 彼女の脳波とコアの反応、あらゆる事象を記録するのだ…」

「い、碇…」

冬月はゲンドウの真の目的を知り驚愕の表情を浮かべた。

「しかし、もしナオコ君が今いなくなったら、例の演算処理装置の構築はどうするのだ?」

「構わんさ。 赤木博士には、彼女と同じくらい優秀な娘がいる。」


……二人しかいない広大な部屋は、何とも言えない沈黙に包まれた。



………京都。



空港から自動車で何事もなく戻ってきたのは、先ほどまでアメリカ人姉弟だった二人である。

「ただいま、おじいちゃん。」

「よう戻ったのぉ。 お帰り、シンジ。 …元気そうで何よりじゃ。」

屋敷に戻って来たシンジを出迎えた玄は、余程嬉しいのか終始ニコニコしていた。

姉であったマユミは、荷物を片付けると2年ぶりに仕事着に着替えていた。

(やっぱり、この服は、しっくりきますね。)

「シンジ、これからしばらくは、ココにいるんじゃろ?」

「うん、8月下旬までね。 …9月1日の2学期から長野の第二新東京市立第三小学校に転入するよ。」

玄は驚いた。 大学を卒業したのに、なぜ小学校に? また長期間離れて暮らすのか?

祖父は、シンジに問うた。

「…ううん、今回は長期間じゃないよ。 僕の生存を証明する痕跡を残すためだけだからね。

 だから、9月8日くらいまでの大体1週間で良いと思っているんだ。」

「痕跡とな?」

「うん、父さんと連絡を取っていてね。 僕が小学校へ行っている時に、ちょうどEVAの実験があって、

 その実験でEVAコントロールの仮説と、その可能性が発見されることになっているんだ。

 それでEVAを操縦できるのが、碇ユイの息子だって分かるんだ。

 …で、組織が僕の事を調査する時には、また僕は消えている。

 まあ、僕が死亡していないって言う事をゼーレに教える為に長野に行くんだよ。」

「例の近親者によるコントロールか。 シンジがEVAパイロットに選ばれる要因となるものか…」

玄はユイの事を考え、複雑な表情になる。

「おじいちゃん、前にも言ったけど、かあさんはちゃんと戻ってくるよ。 だから安心してね。」





第三小学校。−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−





………アパート。



第二新東京市は好景気に沸く経済状況を受けて、

 あらゆる国から生きる為に必要なモノを求める人で、溢れていた。

その町並みのはずれ、郊外にある木造2階建ての小さなアパート。

いつの世にも法の抜け穴を利用する者達がいるし、

 それを利用せざるを得ない日の光に当たる事の無い、人生を歩む者もいる。

加持リョウジは、このアパートに住んでいた。

彼は、セカンドインパクトを経験する前まで一人の家族がいた。

親のいなかったリョウジは中学校にも行かず、その一人の家族の為に毎日必死に働き暮らしていたのだ。

その護るべき人のために自分を犠牲にして、身を粉にして暮らす日々。

それでも、彼はその小さな幸せを感じる事の出来る生活に喜びを見い出していた。

見る度にうれしいと感じた。 …その人が笑う仕草、こまった時の癖。

今でも鮮明に思い出す、その万華鏡の様に”ころころ”と変わる愛らしい表情。
 
その日常を突然と奪い去った、あの天変地異。


……彼はセカンドインパクトでたった一人の肉親、妹を失った。


(…あれから8年になるのか。 いつの間にか、ずいぶん歳取っちまったなぁ。 …ははっ、なんてな…)

彼は、日本政府内務省調査部の人間になって、もう5年になる。

内務省には調査部という組織は、一般的には存在しないとされている。

なぜなら、いわゆるスパイを擁する組織だからだ。

彼は最初の頃、スパイというより使い捨ての駒同然の扱いで、たまたま裏道で拾われたのだ。

しかし、持ち前の器用さと頭の回転のよさで、ある程度の任務に就けるまでにその地位を高めていた。

第二新東京市にいる彼の任務は、規格外に超長期に渡るものだ。

その内容は、国連組織ゲヒルンと、それを操っている委員会の内偵。

第二新東京大学へいつの間にか”入学していた”加持は、来年卒業して”ある”会社へ入社する予定だった。

ここまで政府が入念に、用意周到に準備をする今回の任務。

普通の若造ならば、その危険度からしり込みしてでもするかもしれない。

しかし、彼は普通の若造ではなかった。

セカンドインパクト。 彼の大事な家族を奪った惨事。

(隕石だって? そんなわけないだろう?)

リョウジは、去年発表されたセカンドインパクトの原因をまったく信じていなかった。

彼は曲がりなりにも内調の人間である。 一度だけ光る巨人の映っている写真を見たことがあったのだ。

残念なことに、自分の権限と力ではそれ以上何も知ることができなかったが。

だから、今回の任務を任された時、危険だと思うよりは、喜びを感じるほどに心が躍っていた。
 
そして、当事者の娘たる葛城ミサトにも、その事について飲み会の時にさり気なく探ったが、

 彼女はその当時の記憶があいまいで、とても役に立つ情報は聞けなかった。

彼は、肩透かしを食らったとずいぶん消沈したが、元来の女好きという性格であったので、

 ノリの合った彼女と数回飲んだ後、流れるように身体を重ねて何となく付き合うようになってしまった。

(ま、焦ってもしょうがないか。 …さて、姫のいる学校に行くとしますかね。)



………そこに程近い場所。



加持リョウジがボロアパートを出て大学へ向かった頃、シンジは第三小学校に来ていた。

木造の歴史在るといえば聞こえが良い、くたびれた2階建ての学び舎。

男の子は、1階の事務室で紹介された1年1組の教師に連れられて、今は教室前のドアにいた。

「始業式ですから、今日はコレで終わりますが、最後に今日から新しいお友達が増えます。

 さあ、碇君、入ってらっしゃい。」

”ガララ”と教室の木製の扉がその音と共に横に開き、黒髪の男の子が入ってくる。

「えと、碇シンジです。 よろしくお願いします。」


……教壇まで歩き黒板を背にお辞儀し、上げた顔に満面の笑みを浮かべる。


それは、まるで向日葵のように輝く温かな笑顔だった。

それを見た教室の女子児童は、しばらく縫い付けられたように魅了されて動けなかった。

(…! …碇シンジ君って、か、かわいい!!)

そして、その波紋は時間を追う毎に全クラスに浸透するように広がって行く。

伝達速度の速い女子児童の噂によく上がるその話題に、

 多くの男子児童は特に気にする事はなかったが、1年3組に在籍していたある一人の男の子は違った。

その子は、くせっ毛の茶色い髪をしており、顔にはそばかすが在った。




小学校1年生の男子にしては、その手の話題に意識するプライドは高く、

 カッコいい自分は何でも出来るという、子供ならではの錯覚を持っている。

その男の子は”隣の隣”に転校してきたヤツの情報を女子の会話から盗み聞いていた。

(ふん! なにが、かわいいだ! 男ならカッコ良くなくちゃ! 僕はカッコいいぞ!)


……シンジは自分の存在証明の為に小学校へ来たのだが、予想以上にくたびれ果てていた。


(つ、つらいねぇ! ……これは…)

授業はどうでもよかったが、休み時間になると男子よりも女子に囲まれてしまう。

その姦しさというか、騒がしさと言ったら…

そして、体育の授業は思い切り手を抜かなくてはいけない。

自分で1週間と決めたが、まだ2日しか経っていない事に、シンジは辟易としていた。


……授業中のリリスとのお喋りだけが、シンジにとって心の救いであった。


『ありがとう。 ホント、リリスがいてくれてよかったよ。』

男の子は、黒いランドセルの中に入れてある紅い本へ感謝を述べる。

本は大丈夫だろうが、PDAは見付かれば没収されてしまうかもしれない。

今回の目的上、そんな事で無駄に目立つのは良く無いと、小学校にドーラは持ってこられなかった。


……その事でドーラは悔しがり、リリスはご機嫌満開であった。 


『ねぇねぇ、しんちゃん。 6年生まで進級して、ちゃんと小学校を卒業しましょうよ〜♪』

『ふふっ…しないよ。』


……予想していた幼女の提案に思わず笑みがこぼれるが、それは彼女も答えが分かっている遣り取り。


『えぇ〜、ちぇ♪ あ、そだ…しんちゃん、気付いてる? …この学校に相田ケンスケがいるよ?』

『え、そうなの? 知らなかったよ。』

『彼からチョット黒い感情の波動を感じるねぇ。 もしかして、生意気にもしんちゃんに嫉妬さん?』

『へ? なんで? 僕まだケンスケとは話もしていないし、会ってすらないよ?』

シンジは黒板を”ぼ〜”と眺めている。

『そんなの簡単だよぅ。 ……今、女の子の話題の中心はしんちゃんだモン。

  自称カッコいいケンスケ君は、自分の人気をしんちゃんに取られたと勘違いしているみたいだよ。』

『そ、そんなぁ。 まったく勝手だねぇ、どうしようか?』

『まぁ、大丈夫だよ。うん…ほっとこ?』

『そうだよね。 リリス、何か不穏な波動を感知したら、また教えてね?」

『りょ〜かい♪』

”…キーンコーンカーンコーン。”

(また休み時間か。 はぁ…)

シンジは、ため息をゆっくり吐いた。


さて、ケンスケは普段から、クラスメートに自分の家がいかに金持ちかを自慢していた。

その彼に、珍しく同じクラスの女子が集まってくる。

おませなケンスケは、6人の女の子に囲まれる、その初めての体験に舞い上がってしまう。

その中でも特に可憐で可愛い女の子が男の子を”じっ”と見詰めて言った。

「ねぇ、相田君にお願いがあるんだけど、聞いてくれる?」

この女の子は、ケンスケが淡い思いを寄せている娘だった。

女の子の何かを期待するような黒い瞳。

そんな雰囲気に慣れていないケンスケは、

 女の子の恥ずかしそうな表情と言葉に、顔を真っ赤にして、ただ”こくこく”と頷いていた。

「相田君って、すごい…………を持っているって言っていたよね?」


……内容も聞かず首を縦に振ってしまったケンスケは自宅に帰って、憤慨していた。


「くっ! なんで! ぼくが! あいつの! 写真なんて撮らなきゃいけないんだ!」

男の子は、ソファーに置いてあったクッションに向けてしばらく”ボスッ!ボスッ!”と拳を見舞っていた。

彼は一体何を女子からお願いされたのか?

そう、それは、1組の転校生の写真を撮ってちょうだいというものだった。

しかも、印紙代を貰うといったら、若干冷たい瞳で”相田君ってお金持ちなんでしょ?”と言われ、

笑いながら”あ、僕の家の倉庫に一杯あったんだ…ははは、勿論、いらないよ”としか言えなかったのだ。


……自腹である。


この何とも言えない、吹き出るような感情にどう折り合いを付ければ良いのか?

”ボスッ!”

小学校1年生のケンスケは、八つ当たりをするかのようにクッションを殴り付けた。

「あ…」

ふとある事を思い付いたケンスケは、”にやり”と笑った。

一枚しか撮らなければ、商売にならないが種類を増やせば商品となり売れるんじゃないか、と。

(そうだよ。 大々的にセット販売すればいいじゃないか! それなら、物珍しさに買うかも知れない。

 知らない人に沢山自分の写真を持たれる。 ふふふっ…気味悪いだろうなぁ。 …フフフフ。)


……しかし準備が整った翌週から、その転校生は学校に一切来なくなってしまった。


ケンスケの思い付いた商売は道を誤り、女子の盗撮へと発展していった。





第二次接触実験。−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−





ナオコは、自分の執務室である第一実験室にいた。

彼女は、イスに座って、

 右手に持っている実験搭乗時に頭部に付けるセンサーを見ながら、これからの事を考えていた。

(…後、1時間後に実験が始まる。 …ふっ、見てなさい。 私はあなたの上を行くわ。)



………実験準備の進む第0番ケージ。



初号機は、その素体の建造を完成させていたが、上半身と下半身は未だ接続されていなかった。

ナオコは、LCLの成分分析と実験の結果、血液に直接酸素を浸透できるという事を立証していた。

つまり、液体に浸かってもそれがLCLならば溺れる事はない。

もちろん、そのままだと衛生面で問題が発生してしまうが。

これは、ナオコの手から”ばたばたっ”と暴れて逃げ落ちたマウスが、

 たまたま実験用LCLの容器に落ちてしまった事で偶然発見されたのだ。


……ユイならば可能性を示唆し実験をしたかもしれないが、

 ナオコの常識から生まれる発想力ではLCLによる肺呼吸実験すら思いつかなかったであろう。


更に微弱な電流を流して電荷させる事で、マウスの神経伝達信号を液体から読み込む事に成功した。

彼女は、その特性を生かした今回の実験で、

 あの時の第一次接触実験と違い、より精細にEVAと接触が出来ると考えた。

その新たな実験の為に、嘗ての白いカプセルは新たに作り直され、LCLを注入する事を前提に設計された。

今回の実験実行の条件なので、ナオコは自分の頭部に脳の働きのデータを送信するセンサーを、

 各身体の生体信号を読み取れるように多数の計測センサーを付けた特殊フィットスーツを着込んでいた。

(………さぁ、行くわよ。)

イスに座っている冬月は、ユイの時より長細くなったカプセルにナオコが乗り込むのを確認し、声を上げる。

「では、これより赤木博士による第二次EVA接触実験を行う。」

スタッフは、その号令と共に手順通り実験のステップを実行してゆく。

この実験に使用されている手順書はナオコが用意した物ではなく、直前に差し替えられたものであった。


男性スタッフがカプセルと連絡を取る。

「赤木博士、ステップ1のチェックが終わりました。 そちらの準備はよろしいでしょうか?」

”ザッ”という無線のノイズがスピーカーを震わせる。

『ええ、大丈夫。 こちらの準備は終わっているわ。 碇所長、ステップ2へ進んでください。』

「わかった。 冬月、LCLを注入し、電荷しろ。」

「よし、LCLの注入を開始しろ!」

副所長の命令が実行され、そのカプセルの内部映像に液体が注入し満たされていく様子がモニターに映る。

”ゴボ、ゴボボボボボボ…”

『げほっ…ごほっ』

ナオコが苦しそうにせき込む様子に、冬月はマイクのスイッチを押した。

「大丈夫かね、ナオコ君?」

『だ、大丈夫ですわ。 LCLを肺に取り込むのは、少しコツが必要ですわね。』


……ナオコは、少し苦しげな表情のまま冬月の問いに答えた。


「…続けてLCLを電荷させろ。」

「LCLの電荷を開始。 計測値をチェック。 神経パルスパターングラフを表示させます。」

各モニターに所狭しとあらゆる情報が表示され、記録されていく。

「準備は良いか、赤木博士?」

ゲンドウは、ゆっくりとした口調でナオコに聞いた。

ナオコは、自信に満ちた顔をモニターに映す。

『ふふ、待ちくたびれましたわ。 …ステップ3、どうぞ。』

「よし、開始しろ。」

「了解、接触開始します。 チェックリスト1223番からどうぞ。」

次々と必要事項のチェックが進み、EVAとの接触が始まる。

「チェック終了! …ボーダーラインまで1.4、1.0、0.6、0.5、0.3、0.1…接触!」

(な、何この感覚は? 自分の感覚が広がっていく? 意識が……大きくなる?)

ナオコの思考は、まるで自分が大きくなっていくような感覚に支配されていた。

「被験者の精神パルスに変化!」

「全て記録しろ! 分析は後で良い! 一切のデータを取りこぼすな!」

ゲンドウの大きな声にスタッフの動きが加速していく。

「カプセルの信号は全て受信できているのか?」

冬月も近くのスタッフに声を掛ける。

「はい、全ての計測機器は正常に作動しています。」

「ボーダーラインより更に進行! …被験者の精神パルス、シナプス共に初号機へと送られ続けています。」

「ラインより深度1.0、1.6、2.4、3.9…4.5近辺で停止。」

「博士の自我、精神共に正常。」

「所長、接触の成功でしょうか?」


……実験の成功を確信したスタッフの顔が、自然と笑顔になる。


しかし、責任者であるゲンドウは、机に肘付き手を組んだまま”じっ”と動かなかった。

「…赤木博士に通信を入れろ。」

「了解! 赤木博士、聞こえますか? 今は、どういった状態でしょうか?」

目を閉じたまま、まるで瞑想するように、ナオコは自身の感覚をゆっくりと独り言のように呟く。

『…自分の意識が…感覚が…拡大しているような…

 ……温かいわ。 とても心地いい、そんな感じ。 なに? …ヒト? かあさん?』

「彼女の脳細胞で活発に働いている部分を詳細にチェックしろ!」

ゲンドウが言った瞬間、落ち着いていた実験風景に変化が訪れる。

『”ザッ! …あ、あぁぁぁぁぁぁぁ!!!』

「ッ! …どうした!?」

「接触深度5.5付近で、被験者の精神パルス及びシナプスを初号機が拒絶!!

 一方的に回線を切られました!!」

「赤木博士!?」

スタッフが慌てるのをゲンドウが一喝する。

「落ち着け! まず状況を報告しろ!」

「はい、生理的データから赤木博士は現在失神状態にあると思われます!」


……冬月が指示を出す為に立ち上がった。


「ここまでだ! 実験中止! 医療班は赤木博士を救出し、ICUまで搬送しろ!」

ゲンドウは変わらず手を組んだまま言う。

「現時刻を以って今回に関わる書類、実験データは全て”AAC”級の情報とする。

 …書類は全て規定どおり破棄しろ!」

ゲンドウの命令により、差し替えられた手順書は焼却となり、

 更に実験データはあるレベルになるとロックが掛かりの全容把握は困難なものになる。



………2日後。



”プシュ”

「碇、ナオコ君の意識が戻ったぞ。」

「そうか。 …冬月、これから極秘に実験を、いや、調査を行う。」

ゲンドウは、机に肘を付いたまま、顔を伏せて言う。

「なに? 調査だと? 一体なにをするんだ?」

「…赤木君の接触実験は、我々に予想以上の成果を齎すかもしれん。」

ソファーに座った冬月は、ゲンドウの顔を探るように見た。

「…実験の報告書が上がってきたのか?」

「ああ。 EVAとの接続時に一番活発に活動していた神経節が判明したのだ。」

「ほう。 どこだね?」

「”A−10神経”だ。」

冬月は男の言葉に、自身の知識の中を探るように目を細めた。

「エーテン神経…たしか…」

コウゾウの言葉を繋げるように、ゲンドウは話を続けた。

「その神経節は、一般的に人への情に関わる部位…つまり、人との繋がりや絆と言ってもいいかも知れん。」

「では、EVAが人を求めたということか?」

「EVAというよりは、コアに取り込まれたユイの魂だろう。

 それを基にEVAのコントロール方法について推測し、一つの仮説を立てた。」

ゲンドウは、ナオコの脳波パターンとその活発に働く脳細胞の様子を再現させた画像と、

 接触時のEVAのコアの変化を心理パターンにデータ変換した映像を冬月に見せる。

「冬月、これは心理学者に言わせると異性への情と言うよりは、親子の情に近いパターンであるらしい。

 我々が一番懸念をしていた、EVAへ被験者が再び取り込まれるという事は幸いにもなかった。

 つまり、コアのパターンが確定さえすれば、EVAは能動的に人を…魂を取り込まないと言うことだ。

 そして、赤木博士は、接触時に自身の感覚が拡大していくと報告している。」

「そうだったな。 まるで自分が大きくなっていくようだと言っていたな。」

「ああ、接触深度を進めるという事は、EVAと被験者のリンケージ…

 感覚の一体化、…いわゆるシンクロという事になる。

 つまり仮定されるEVAのコントロール法は、親子の愛情を利用した脳波コントロール、となるハズだ。」

「ッ! そ、それでは、EVAのコアに親の魂を入れ、その子供がパイロットになる、という事か!」

冬月はその人外な方法に驚き、声を荒げる。

「冬月、我々には時間がない。 アダムの子の襲来は確定的なのだ。

 人類を護る為、仕方の無い事だ。」

「しかし…」

ゲンドウは、左手の中指で眼鏡を掛け直しながら言う。

「…まぁ、納得は出来ないでしょうが理解出来るでしょう? 冬月先生。」

コウゾウは、ゲンドウを見ていた視線を天上へ向けた。

「むう。 人類を護るため、か。 …では先程、お前が言っていた極秘調査・実験とは何だ?」

「EVAのコントロールが親子の情を利用する、としたら果たしてその子供は何歳が適齢なのか?

 そして親の愛情とは、父の方が強いのか、母の方が強いのか、その一般的な傾向のデータが必要だ。

 すでにコアに魂の入ってしまった初号機は、”シンジ”がパイロットになる事は確定してしまったが、

 これより建造される予定のEVAには、必要な調査となるだろう。」

後日、ICUでゲンドウに労われたナオコは、実験成功の副産物として、

 誰も成し得なかったEVAのコントロール法を発見した事を単純に喜んでいた。


……こうして、EVAのコントロールメカニズムが上部組織に報告される事になる。




………2009年。



ゼーレは、日本からEVAの制御方法が見い出されたという吉報に、諸手を挙げて喜んだ。

そして、その組織は初号機のパイロットたるゲンドウの息子をあらゆる手段を持って捜索したのだが、

 ナオコの実験のホンの数日前に第二新東京市の第三小学校にいた、という事実以外なにも分からなかった。


……彼は今までどの様に生活をしていたのか、そしてまた何処に消えたのか?


執務室にあるデスクから電話で遣り取りしている声が聞こえる。

『…碇、お前の息子は一体何処に消えたのだ?』

ゼーレのトップである老人の声は、落胆の色が濃い。

「はい、私もユイの実験時から独自に捜索していましたが、私では消息すら分かりませんでした。

 今回の調査報告書にあるとおり、生存の確認は取れたようですが、消息は不明のまま。

 ゼーレに敵対する組織に攫われたのか… 私には、これ以上子供を捜す方法はありません。」

『うむ。 …赤木博士の功績により発見された操縦方法で、あのEVAをコントロール出来るであろう子だ。

 組織の総力を以って捜索しているが、残念ながら未だに情報がない。

 分かっているだろうが、EVAパイロットは”儀式”の要になるのだ。

 何としてでも発見せねばならん。』

「はい、議長。」

『ドイツの弐号機もタイミングを見て、同様の接触実験を行わせるぞ。

 ”彼女の子”も都合よく2015年に”適齢”になるからな。』

「承知しております、議長。

 先日の報告書でのとおり、900組の被験者から得られたデータが示す事実ですから。

 弐号機にとっては都合の良い事だと判断します。」


……短期間ではあるが、一般的な病院などの公共機関を隠れ蓑に実行した調査・実験の結果。


コアにインストールするべき魂は母親であり、

 A−10神経経由でのEVAとのリンクに適した子供の年齢は13から15歳であった。

その為、この時点で本人のあずかり知らぬ処ではあるが、既にアスカは弐号機パイロットに選定されていた。

そして、彼女の保護及び監視を兼ねた性格育成の誘導を計画し・実行する組織は水面下で動き、

 母親譲りの才能を持っていた彼女はドイツのハンブルク大学へ入学する事になるのであった。


……パイロットである子供の性格育成とは?


表向き組織が必要としているのは、EVAを操り使徒と呼称される敵を殲滅できるパイロットである。

しかし、極一部の人間だけしか知らない条件があり、その必要条件と考えられていたのは、

 ”儀式の贄は、ただEVAを起動させることができる心の欠けたパイロットでなければならない。”

  という事だったので、ゼーレはその為の処置を計画していたのだ。


……シンジの知る”あの”性格のアスカは前史と同様にこうして形作られていく。





………長野県。



さて、第二新東京市に目を向けると、ミサトは青春を謳歌した大学生生活を終えようとしているようだ。

やはり”脳”力不足のせいで退学になったのか、と思えばそうではなかった。

なぜ、彼女が留年も退学にもならなかったのか?

彼女の大学生活が4年間で”無事”に終わってしまうのは大学側のある事情が絡んでいた。

ミサトは、何気なく授業で習った護身術や格闘技のスジがとても良く、

 冗談でエントリーした大会で、あろうことか優勝してしまった。

その後、調子に乗ったミサトは第二新東京大学代表として、

 格闘系の大学大会をほぼ完全に優勝へと導いていたのだ。

剣道、柔道、レスリング等、彼女の運動神経は他を圧倒していた。

第二新東京大学は、体育会系の大学と違って勉学で有名な大学だった為に、この状況に気付くのが遅かった。

大学関係者が知った時、既に彼女はこの大学の顔に近い立場になっていた。
 
そして、その代表者であるミサトの成績は、成績を付ける側が恥ずかしいと思うほど非道かった。

しかし、これだけ名が売れてしまった者が”留年”とは余りにもみっともない。

苦慮した結果、ミサトは全て”可”という、

 彼女の実力では、それでも奇跡的な評価をもらって無事に進級、卒業となった。

リツコが用意してあげた卒業論文資料は、そのまま担当教授に渡しただけだったので、

 1ページ読んだだけで、教授には他人のモノとバレてしまっていた。


……卒論も出さず、野性のカンで格闘技能を上げていったミサト。


また彼女は、卒業後の就職先を都合よく戦略自衛隊としていたので、教授は格闘系大会の功績を強く推し、

 戦略自衛隊の担当官に話をしていた。



………9月、ドイツ。



エルベ川の支流・水の流れが優しいアルスター川の河口にある港湾都市ハンブルク。

その七つに分けられた区域の一つ、

 ヴァンドベック区にある丘高い住宅街の一角に、まだ建てられて間もない綺麗な赤レンガの家があった。

その家に、紅茶色に輝く髪を背の真ん中ほどに伸ばした女の子が住んでいた。

女の子は、この家にパパとママと住んでいたが、ママはパパと違い、仕事に忙しくほとんど家にいなかった。

だから彼女は、ママのお仕事を手伝うことが出来れば、

 ママと一緒にいられるし、ママはもっと家に帰ってこられると思っていた。

相変わらず忙しいママが1週間以上帰ってこなかった時だった。

「ママ、元気かな?」

その時、パパが家に帰ってくると娘に言ったのだ。

「アスカ、ママの大学に行かないかい?」

「大学って?」

「お勉強するところだけれど、そこに行けば、ママのお手伝いができるんだって。

 そこでお勉強すれば、ママと一緒にいられるよ。」

「ホント!?」

「ああ、本当だ。」

「うん、私、行くわ!」

(…私、大好きなママの役に立てるのね!)

その子は、いつも仕事で忙しく家に帰宅する事も稀な母親と一緒にいられると、大学受験に喜んで応募した。

アスカが応募したクラスとは、幼い内から最高の環境の中で学問に触れさせる事によって、

 国の為になるエリートを”育成”するという目的で設立されたものであった。

今年企画されたこのクラスは、

 実際の処、前史での2−Aと同じゼーレの用意したパイロット候補生達の為のものであった。

 
……そのクラスの入学式にアスカは参加していた。


(ふっふ〜ん、ママの子である私があんた達に負ける訳にはいかないわ!)

キラリと瞳を光らせたこの女の子の勝気な性格は、ゼーレの性格誘導も必要ない程だった。



………日本。



4月に戦略自衛隊へ入隊したミサトが、

 その基礎教練を終了し、希望配属先である防衛専門学校へ進んだのは9月の事であった。

そこは卒業をすれば将校として任官される、

 いわゆるエリート士官を輩出するべく設立された学校と呼ばれてはいるが、一つの部隊であった。

本格的な格闘技術を叩き込まれたミサトの技術レベルは格段に上がって、

 既に東部方面軍で右に出る者はなかったという程であった。

(ふふふ、才能ってヤツかしらね〜〜♪)

確かに、基礎教練での彼女の成績は”兵士”としてはかなり優秀であったが、

 指揮官として必要な戦術講義での成績は散散としたモノだった。


……その性格、その考え方、作戦立案能力の低さに戦自の教育担当の士官達は、ため息しか出なかった。



………京都。



樹木の枝葉の間からさし込む日光が、3年前の誕生会で使われた大きな樹のテーブルを照らすと、

 スパゲッティ皿が用意されて、マユミが湯で立てのパスタを運んでくる。

どうやら、本日の昼食はパスタがメインに献立されたようだ。

彼女は、手馴れた手付きで、手早くアマトリチャーナのソースと絡めると、綺麗に皿に盛り付けた。

「頂きます。」

「はい、めしあがれ。」

男の子がフォークを手にパスタを食べる様を、マユミは柔らかな瞳で見ていた。

シンジが、そのトマトベースのソースに舌鼓を打っていると、紅い本から波動が発せられる。

『しんちゃん、お屋敷の周りに諜報員がうろついているよ?』

”…もぐ、ゴクン”

「美味しい。」

「ありがとうございます。」

この男の子の笑顔は、本当に昼の陽と同じくらい温かいな、マユミはそう感じた。

『どうやら、第二新東京市付近の調査が空振りだったから、こっちに来たんじゃないかな?

 僕は、あの時、月曜から金曜までの5日間しかいなかったしね。』

男の子は、波動での会話をしながら、コーンポタージュスープを飲む。

リリスもいつもと変わらず、シンジと同じメニューを羊皮紙の中で食している。

『…どうするの?』

『放っておくさ。…この屋敷の中に入って来ない限りね。』

”…ずずっ”

絵の幼女がポタージュスープを飲んでいると、屋敷の周りにいた25の波動が離れていった。

『行っちゃったみたい、だよ。』

『そうみたいだね。』

”…ずずっ”

この諜報員グループは、有益な情報を全く上げる事が出来ずいた。

彼らは、さらに5人ずつ5班に別れて、細かく日本各地を移動して調査を行ったが、

 数年間という時間を掛けた彼らの調査が実を結ぶことはなかった。



………12月。



シンジの計画どおり、碇財閥の資産総額は世界1位となった。

現在、グループ企業の純利益は、各市場でかなりのシェアを獲得していたが、

 流石に欧州市場は苦戦を強いられている。

正攻法での切り崩しを防ぐ為に、相手は手段を問わず反撃をしてくるのだ。

玄は相手と同じように、”暴力には暴力で”とシンジに言ったが、シンジは首を縦に振らなかった。

「おじいちゃん、組織の影響力が強いヨーロッパ地域で、こっちが暴力を使ったら、

 ただの戦争になっちゃうよ。

 それに、あの地域のヒト全てがゼーレではないんだからね。

 欧州市場は手を付けるだけで良いんだ。

 隙を見せれば直ぐに盗られてしまう、という緊張感と危機感を常に相手に持ってもらえればね。

 そういった状況を長く続けるだけで、ゼーレの組織力は弱体化していくと思うんだ。」

シンジの膝下に置かれていたPDAの画面に女性が現れた。

「…失礼致します。 マスターの仰るとおりだと思います。

 欧州市場を攻め始めて半年以上になりますが、

  その間、各国の市場に置けるゼーレ組織の妨害工作などが、かなり減少しております。」

ドーラが、現状の分析を述べて簡単に補足してくれる。

「ふむ。 なるほどの。 …目的を見誤ってはいかん、な。 ゼーレの影響力を削ぐ、じゃったな。」

「そのとおりだよ、おじいちゃん。

 ま、この状態を使徒戦争まで続けていけば、向こうにとってはかなりの痛手になるでしょ。」


……シンジの言葉どおり、欧州以外のゼーレメンバーの資産は、使徒戦争時には殆どなくなっていった。



そして、世界経済に、超巨大コングロマリット”碇”が君臨した。





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To be continued...
(2007.01.13 初版)
(2009.06.20 改訂一版)


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