ようこそ、最終使徒戦争へ。

第一章

第五話 綾波レイ

presented by SHOW2様


戦略自衛隊−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−





………2010年。




”…ヴォゥゥゥン!”


暗闇を満たす空気が揺れた。

『…葛城ヒデアキの娘だと?』

『左様、我らゼーレのシナリオに組み込むのだ。』

『葛城ミサトか… 果たして、役に立つのかな?』

『何れにせよ、彼女は目立ち始めた。 影響の出ない内に組織に取り込んでおけば管理も容易かろう。』

『ふん。 それにしても、戦略自衛隊所属とはね…』

『またしても日本とは… まったく、結構な事だな。』

『…何処の国だろうと構わないだろう。 しょせん…我らにとってはただの駒に過ぎんのだからな。』

『そのとおり。 使えなければ、切り捨てればいいだけの事。 …結構ではないか。』

『…左様。 我らのシナリオ、この遂行こそ全てに於いて優先されるのだよ。』

『…だが、計画はすでに遅延を始めている。 この状況は、喜ばしい事ではない。』

『時間だ。 …碇への回線を開くぞ。』



………暑さ変わらぬ4月。



葛城ミサトは防衛専門学校の教練課程を修了し、東部方面軍の第一師団へ配属となった。

彼女に貸与された緑色の迷彩戦闘服に、三尉の階級章が輝いている。

ミサトは格闘能力を高評価されて、師団の第二特殊部隊に任官されていた。


……雲のない太陽高い正午。


照り返しの強い、蜃気楼揺らぐ地上。

そのアスファルトの上を、軍靴の音を響かせぬように緑色の軍服が一陣の風のように走り去っていく。

(…はぁ、はぁ、はぁ… ふん。 やっぱ、こっちはハズレか。)

バックパックを背負い戦闘服に身を包んだ女性が、重装備をものともせずに走ってしゃがみ込んだ。

今、道路わきに辿り着いたこの女性兵士は、コンクリートのブロック塀の陰に隠れると息を潜めた。

道路を挟んだ後方、12mの建物の陰に待機している部下2名にサインを送ると、その安全確保を行う。


”…ザッザッザッ、ザァァ!!”


彼女の指示通り疾風のように走り、滑り込んでくるのを葛城三尉は照準サイトから目を離さず音で確認する。

二手に分かれてターゲットを捕捉する作戦を立て、

 開始から10分が経った今、仕留めるべき相手まであと一歩、という処まで歩を進めていた。


……そして、静まり返った白昼の世界に音が蘇る。


”ダララララララッ!”

(チッ! 意外と早く気付いたわね… こっちはまだ舞台の上にも上がっていないのに!)

「よし、あんた達、私をバックアップして! ブラボーが殺られる前に、奴さんを一気に片付けるわよ!」

相手が立て篭もっているだろう5階建てのコンクリートビルを見やり、ミサトはその影から中に駆け込む。

ミサトが身をさらし無防備に走って進撃する距離を、

 部下の一人が彼女の前方の安全を確保するように支援し、もう一人が後方警戒をする。

3人が順番に侵攻、支援、安全確保を交互に繰り返しビルを昇っていく。

仕掛けられていたブービートラップを解除しながら、突き進むミサト。

そして、この救出劇の舞台はヤマ場となるビルの5階に移り、

 ミサトは、階段の壁から様子を窺うようにゆっくりとした動作でCCDカメラを持った左手を少し出す。

そこに映った画像は…


”ガガガン! …ガガガガガガン! …ガガガガガン!”


(ふぅ〜ん。 …あれが最後の4人か。 おっ! 人質を確認。 …さ〜て、どう料理しようかしら。)

ミサトが腕のモニターで確認した相手は、

 廊下の右斜め前方にある一番大きな部屋を占拠していて、下に向けて発砲を散発的に繰り返していた。

今は別班の陽動に食付いていて、こちらには一切気付いていない。


……読みが100%当たっている。


自分の思惑どおりの状況に、この女性は嬉しそうに口の端を上げてCCDカメラを乱暴に仕舞った。

そして、階段の踊り場に立つと右手に握っているライフルを置いてバックパックを降ろし、更に軍靴を脱ぐ。

彼女は素足になると、ゆっくりと腰に装備されていたコンバットナイフを右手に持って後ろを振り返る。

「…私が突っ込むから、10秒でもカタが付かなかったらダッシュで援護。 …分かったわね?」

無言で頷く部下を見てミサトは”にこっ”と前を向く。


……息を整え、まるで猫のように柔らかな足捌きで一気に詰め寄る。


(…いくわよ!)

蛍光灯に照らされた廊下の先。 その部屋にいた4人は人質を一人確保して、この建物に立て篭もっていた。


”…ひゅんっ”


それは空気が揺れる音。 この部屋に舞った一陣の風。

違和感を覚えた敵兵士が後ろに頭を向けた瞬間、彼の首筋を熱いモノが一閃した。

縛られた人質がその有様を理解する暇もなく、残りの3人も次々に崩されるように屠られていく。

この部屋が無音に支配された時、ミサトはナイフを静かに鞘に収めた。

10秒経った…と、後方で待機をしていた2人の部下が時間どおりに動き出すと、

 周囲の電柱に設置されていたスピーカーから放送が流れた。

”…ガピッ!”


『…訓練終了! 訓練終了! …各員は速やかに作戦本部まで集合せよ。』


ミサトは、訓練用のゴムナイフで切り刻まれた跡が残っている仲間に手を差し伸べた。

「へっへ〜ん♪ …今日のお昼は何にしようかしらぁ?」

「くそ〜 …あと10分持ち堪えれば勝ちだったのになぁ。

 はぁ、ちくしょう。 でも、汚ね〜よ! …完全に気配消す為に靴まで脱ぐかよ!」

「あら、勝つ為に手段を選ばないのは、と〜ぜんでしょ? 残念だったわね♪」

ミサトは、市街地戦での要人奪取を想定した強襲訓練を終えた事よりも、

 同僚との昼食の賭けに勝った事を喜んでいた。


……そして訓練終了後のブリーフィング。


「だいぶ強引な作戦ではあるが…葛城君、君の戦闘、格闘技能は評価に値する素晴らしいモノがあるな。」

人質救出を主目的とした訓練を監督していた隊長から、珍しくも労いの言葉があった。

「は、有難う御座います。」

その高評価に、ミサトはパイプイスから立ち上がって姿勢を正し敬礼した。


”…ガチャン!! カッカッカッカッ!”


師団長が、このブリーフィングルームに突然と入って来ると、

 この部屋にいた参加部隊兵士全員が脊髄反射的に素早く立ち上がって、一斉に敬礼をする。

”ザッ!”

無駄のない動き。

統率のとれたそれを満足そうに見ながら静かに返礼した師団長は、髪の長い女性を見た。

「うむ、ご苦労。 楽にしたまえ。 …葛城ミサト三尉、後で私の執務室へ来るように。」

ミサトは、一歩前に出て敬礼し返答する。

「…は、了解しました。」



………師団長執務室。



”コンコン…”

「葛城ミサト三尉、出頭致しました。 入室、宜しいでしょうか?」

『…うむ、許可する。』

”カチャ”

ドアノブが静かに回ると、女性士官が現れる。

「失礼します。」

「さて、早速ではあるが、君に出向を命じる。」

執務用机の目の前で敬礼したミサトは、責任者の言葉に目を少し大きくした。

師団長は、そんな彼女を見ることなく書類に目を向けたまま言葉を続ける。

「…有能で最前線向きの女性士官を出向させるようにと、統合幕僚会議から通達が届いた。

 どうやら国連からの要請らしいのだが…」

(統合幕僚会議… 国連軍…)

ミサトは男の言葉を頭の中で無意識に繰り返していた。

「ま、我が部隊の損失ではあるが、戦略自衛隊の代表として君にドイツに行って貰いたい。」

「…質問を、宜しいでしょうか?」

「ふむ。 構わないが、この決定は覆すつもりはないぞ?」

「…私以外にも女性士官は沢山いると思いますが?」

せっかく評価が上がり始めたのに…

ミサトは突然のドイツ出向に納得が出来なかった。

「そうだ、確かに女性士官は君以外にもいる。 女性士官ならな…

 ふむ。 これから私が喋る事は独り言だ。」

「は?」

「それを偶然君が聞いても処罰の対象にはならんが、他言すれば話は別だぞ…いいな?

 ドイツの出向先はいわゆる国連軍ではない。 ある特殊な超法規的国連軍事研究機関だ。

 その組織は、これから襲来してくると予測されたモノから人類を護る為の国連直轄の準備組織らしい。

 半非公開組織なので詳細は不明だが…

 そのモノとはどうやら、あの”南極の事件”に関わるという事だ。
 
 確か、君は実父をその事件で失ったと聞いておる。

 君自身にしてみれば…これは敵討ちのチャンス、では無いのかね?」

師団長は窓の外に目を向けると、温くなったコーヒーを一口飲んだ。

先ほどの彼の言葉は彼が考えたものではない。 上層部から通知されたものだった。

さらにそれを通知した統幕会議も、要請した国連も真の理由は知らされていない。

南極の事件の真相を知るのは、それを起こした組織だけである。

しかし、そんな事はミサトに関係はなかった。

上官の言葉に彼女の心の裡に黒い感情が久しぶりにもたげる。


”憎いなら滅ぼせ”


まるでスイッチが入ったかのように、同じ言葉が心の裡から吹き出てくる。

そして、彼女の腹部に在る傷跡が熱を帯びたように疼いた。

ミサトは、それを無視するように口を開く。

「…それは、いったい…」

「私の独り言に質問はナシだ。 さて、君の出向は6月と決定した。 必要な準備をしたまえ、いいな?」

「…ハッ! 謹んで拝命いたします。」

ミサトは敬礼し執務室を後にしたが、彼女の瞳は暗い色で濁っていた。

(”アレ”が再びやって来るってぇ〜の? …ふふっ いいわ、”私が”殲滅してやる。)



………京都。



「失礼します、マスター。 ゼーレが葛城ミサトを前史と同じように利用する事と決定したようです。」

「葛城ミサト? ふ〜ん、そう。 …やっぱりね。」

男の子の傍らにいるマユミが、アールグレイの紅茶を淹れると、テーカップからゆらゆらと湯気が立つ。

そのベルガモットの香りを乗せた柔らかな風がテラスを撫ぜていく。

今は、テラスの白いイスに座って楽しむ3時のティータイムである。

PDAに答えながら、シンジはザッハトルテにフォークを入れた。


……口の中を満たす、チョコレートの芳醇な香りと濃厚な味。


『…やっぱり、パイロットにある程度の負荷を掛けて、依り代に必要な自我を欠けさせる為だよねぇ…

 それと対外的に、ちょこっとだけ見栄えが良いもんねぇ。』

そう波動を出した幼女が、シンジと同じチョコを羊皮紙の中で口一杯に頬張った。

『…むぐっ…』

次の瞬間…欲張りすぎたのか、幼女は少し慌てたように紅茶を流し込んだ。

「お待たせしました。 シンジ様、どうぞ。」

にこやかな笑み。 甲斐甲斐しく世話するマユミが、シンジの前に白いティーカップを静かに置いた。


……ウッドテーブルに置かれた白い陶器から程良い香りが立ち昇る。


男の子は、湯気をじっと見ながら、まるで独白するように言葉を紡いだ。

「…セカンドインパクト唯一の生還者。

 奇跡的に生き残った少女が苦難を乗り越え成長し、再び訪れた人類存亡の危機に立ち向かう。

 キャッチコピーはそんなところかな。 

 まあ、そんな国連のプロパガンダ、CMに…この国際情勢下で価値があるとは認められないだろうね。

 ゼーレにとっては、もっと単純に…

 あの事件の関係者、いや首謀者の娘であるなら、

 逃がさず躾の行き届く組織内部に組み込んでしまった方がいい、と考えたんだろうね。

 それに、今更…何かを思い出されて不用意に騒がれても困るし…

 過去に施された彼女の治療が単純で安易なモノだったのも、これを見越していたからかもね。」



………6月。



ミサトはドイツへ出向する為、必死に語学を学んで何とか日常のドイツ語をマスターする事が出来た。

彼女は、今までこれほど真剣に努力をした事は無かったが、全て父の敵討ちという名の復讐の為であった。

今、ミサトはやっと明確な”人生の目標”を得たようだ。

例え、それがどれだけ走っても辿り着けぬゴールだとしても。


……彼女にとって、それは問題ではないのだ。


さて、5月中旬に正式な辞令を発表されたミサトは、上官から渡された書類に目を落としていた。

”ゲヒルン・ドイツ第三支部”

守秘義務を課せられる、非公開組織…出向先を記した書面には、そんな文言も一緒に印刷されている。

出向辞令の交付という儀式を終えた彼女は、廊下に出ると頭の独単語のインデックスを引っ張りだした。

(…”GEHIRN”って? ゲヒルン… たしか、頭脳? 変な名前…)

そして、出向の任に当たりミサトは二尉に昇任された。

この異例とも言える人事に対して自衛隊からの手向けであったが、

 彼女は単純に自分の優秀さから当然だと勘違いをしていた。

(ま、ドイツと言えば…やっぱ、ビールよねぇ! うふふふ♪)

彼女はドイツの北西部に位置する都市の一つ、ハンブルクにある第三支部へ向かった。





シンジ、潜入−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−





………8月。



満月の夜。

大きな月から染み渡るような蒼銀の光輝が、京都の屋敷に降り注ぐ。

今日は、風の流れがとても優しい。

夜空に浮かぶ雲は静かに在り、まるで一枚の写真か絵画のようだった。

それを屋根の上で見ている男の子は、この静かな世界を満喫していた。


……紅い本をポケットに…そして、左手にはPDAを持って。


「…やっとだ。 いよいよだね…」

シンジは蒼銀の明かりに照らされる身体の裡から、溢れる歓喜の波動を抑える事が上手く出来なかった。

『うん。…後、1週間だね。』

幼女は、主人の歓喜の波動を少しだけ複雑な想いで感じていた。

なぜなら、”彼女”が復活すれば、彼の関心の大半は彼女に向かってしまうから…

「マスター、やはりお迎えに上がるのですか?」

ドーラは、その波動を素直に喜んでいる。

「もちろん、そのつもりだよ。 この”綾波の心”を彼女の魂に届けに行くんだ。 

 でも、僕が”あそこ”に行く事を、あの最深部へ行く事を、

 とうさんにも…かあさんにも、リツコ姉さんにも言わない。

 僕は、彼女の誕生に…その復活に立ち逢いたい。

 だから、”僕だけの力”で行きたいんだ。 何があっても、絶対ね…」

シンジが、コアリリスを優しく右手に包み込む。

彼の”僕だけ“という言葉のニュアンスの小さな変化。

その違和感に、2人が”ピクッ”と反応する。

「…マスター?」

『…しんちゃん?』

「ん? あ、うん…もちろん君たちは僕と一緒に来てもらうよ。

 周りのヒトに気付かれる事なく一番奥まで行かなくちゃならないからね。

 だから、協力してね? …お願いだよ?」

「イエス、マイマスター!」

『もちろんだよ♪ しんちゃん!』


……彼女たちは、協力をお願いされて無性の歓喜を覚える。


「いくら大規模な工事中だからと言って、全く監視の目がない訳じゃないからね。」

シンジはその後、二人と計画を練るのに2時間を掛けた。



………第3新東京市。



雲の中に月が埋もれている。 今日は、星もなく月明かりも弱弱しい。

そんな幽光の8月12日、シンジは深夜の第3新東京市を訪れていた。

彼の瞳に映るのは、至る場所に重機が置いてある建設ラッシュの都市。


……まるで、子供が遊び途中で帰ってしまった公園の砂場のようだった。


さすがに深夜である今の時間では、一つとしてライトを点けて稼動している重機はない。

男の子は、頭に黒い帽子を被って背に黒いザックを背負い、闇に溶けるようにゆっくりと歩いていた。

彼の腰の右にはPDAがあり、左足の腿にあるポケットに紅い本が入っている。

服装は一見、作業着のように見えるが、それの色合いは上下ともに真っ黒いモノであった。

(…あそこだね。)

道路の照明灯に照らされた男の子の影が、頭を上げた。

いわゆる街灯ですら疎らにしか無いこの道路をどれだけ歩いただろう。

彼の向かう目的地は、この街に数多く建造された超大型の特殊換気設備の一つだった。


……ドーラの調査に由れば、この設備が稼動するのは1日3回、1回の換気時間は5分間らしい。


設定時刻は朝10時、夕方の18時、そして、深夜である今…午前2時だった。


”…ガシャン!! ガァァア…”


シンジの目線の先にある3階建てのビルから、何か大きな機械が動く音が響いた。

屋上部分のシルエットが動き始める。

音と共に、覆蓋のように横に閉じていた20枚の巨大フィンが垂直に動いて開いていく。

(チョット、急ごう。)

音もなく軽やかに走り出すシンジ。

そして、500m程の距離を走ると、彼は足を止めずにスピードに乗った勢いのまま地面を思い切り蹴った。

ビルに向かって飛び上がった彼を、ちょうど雲間から出た月の明かりが照らす。

シンジは、2階部分にある外壁の小さな突起部分を利用して更にジャンプをすると、

 踊るように”くるん”と、しなやかにビルの屋上に到達した。


”…ブゥッオオオオオォォォォォ!!”


その屋上で激しく動いているのは、空気。

まるで気体の流れがハッキリと見えるような、凄まじい換気量だった。

吸い込まれていく空気の流速に鋼鉄製のフィンが”ビリッビリッ”と震動している。

シンジが下を覗き見ると、先の暗い奈落の底へ向かう圧倒的な空気に簡単に体が持っていかれそうになる。

(…ととっ! う…チョット危ないかも。)

男の子は、傍らに用意されている点検用のハッチを開けると、

 壁際の一番近いフィンの軸受け部にザックから取り出したフックを掛けてザイルを投げるように垂らした。


”ヒューシュルルルゥ…”


次々に闇に消える縄。 投げた先は、何処までも呑み込んでいってしまうような暗闇だった。

ドーラが手に入れてくれた設計施工図によれば、ここの高さには十分足りる長さのはずだ。

そう思っていると、ようやくロープが落ち着く。

それを見た男の子は、次に黒い手袋を取り出して嵌めた。

きゅっと軽く手を握り、開く。

感触を試すようにそれを3回ほど繰り返すと、閉じていた瞼を開ける。

現れた紅い瞳には、力強い光があった。

(…最初の踊り場まで、約170mだった。 …さあ、行こう!)

シンジは、一定の速度で降下するように設定したディセンダーを先ほど投げ入れたザイルに取り付けると、

 闇への降下を開始した。


”…シュ−−−−”


(結構、広いんだね。 …さて、久しぶりのジオフロントだ。)

シンジは比較的ゆっくりとした速度で降下していると、上方のフィンが閉じ始め、空気の動きが変わる。


”オオオオオオゥゥゥゥ… ガシャァァン!”


鋼鉄製のフィンが閉じると今まで台風のようだった騒乱が嘘のように消え去った。

しん、と静かになった広大な空間には、一定速度でザイルが通る下降器のボビンが回る音だけが響く。


”シュ−−−”


(…よし、着いた。)

シンジは、身体の固定に使っていたザイルを解いて、

 ダクト点検用の踊り場から誘導灯の薄いグリーンの光が遠く点在している周りを見た。

この広い空間を無限に反射するような、無音の独特な音色が木霊する。


……そんな何とも言えない圧迫感に、男の子は自然と周りに耳立てた。


『ねぇ、リリス…”あの時”って何時だっけ?』

『…うん? あの時? えっとね、しんちゃん…前史では、6時37分25秒だったよ。』

『そっか、じゃその前に、大体6時30分には着かないといけないね。

 そうすると残り時間は、ざっと4時間10分位か。 よし、さっさと行こう。 ドーラ?』

シンジが時計を確認して、PDAを右手に持つ。

主人の呼びかけに、瞬間的に起動するPDA。

その画面のバックライトは、使用環境に最適となるように最小限の明るさにチューニングされているが、
 
 それでもこの暗闇に慣れた目には、かなり明るかった。

ドーラは、彼の求める情報を素早く表示する。

画面に詳細な地図が表示されると、進むべき潜入ルートが緑色で描かれた。

(赤色の扉は開かない。 あ、監視されているんだね。 第305番ダクトを使って、立坑に出る、と。)

シンジは、ドーラのマッピングとナビゲートを確認するように、ゆっくりと歩く。

そして、広かった空間は次第に木の枝のように細かく分かれていき、

 最終的には、子供一人が通れるほどの幅になってしまった。

シンジは、埃で薄汚れたダクトのナンバーを確認する。

(305、これか…)

彼は、背負っていたザックを降ろして右足に引っ掛けるように固定すると、ダクトに侵入した。

シンジは、ほふく前進でこの狭い空間を進んでいく。

(…フッ フッ フッ 子供の体でこれだと、大人は無理だね。 ここを右かな?)


……シンジは先程確認したルートに従い、分岐点の右側に身体を押し入れて行った。


そして、そのまま280m程進むと、このダクトは前触れもなく終わってしまう。

男の子が切り取られたかのような壁際から先を確認すると、ここは巨大な丸い筒のような空間だった。



………ドイツ。



現在の時刻は、18時を少し回っている。

仕事を終えたミサトは、活気溢れ陽気な声が響く歓楽街を訪れていた。

彼女は、煌びやかなネオンで彩られたビアホールに入っていく。

店内の奥、四角い木製のテーブルに案内されて、

 椅子に腰かけた彼女が”今日の一押し♪”と書かれたメニューを手にしていると、目の前に男が現れた。

「お待たせ…」

ミサトの正面に、後ろ髪を束ねた男が楽しそうに二人掛けのシートに腰を落とす。

「いやはや…まさか、戦自のエリート将校様が葛城だったとはねぇ。 …意外と言うか何と言うか。」

「…あのねぇ、私だって加持君がドイツのゲヒルンに居るって知ってりゃあ…こんな所、来なかったわよ!」

ミサトのジト目が鋭く彼を射す。

その攻撃に等しい眼光に、少し引きながら彼はタイミング良く運ばれてきた大ジョッキを彼女の前に置く。

「…とと、まぁまぁ。 これも何かの縁って事で二人の再会を祝し、ビールで乾杯っ! ほら?」

「ふん、ま、ここはアンタの奢りだからね。」

女性は、ゴクッと喉を鳴らしてビールを一気に流し込む。

大学時代と変わらぬ豪快な呑みっぷりにリョウジの目が細くなる。

「なぁ、葛城……

 俺を振った原因の好きになったって言っていた彼と、超遠距離恋愛になっちまったな?

 …まだ、続いているのか?」

「ッ! …そんなこと、加持君には関係ないでしょ。

 それと言っておくけれど、仮によ? 仮に、もし上手くいってなかったとしても…

 私、何があってもアンタとヨリは戻んないかんね。」

「あ〜らら… こりゃまた随分嫌われたもんだねぇ…」

先ほど彼女が言ったように、彼は卒業した後、内務省の指示どおりゲヒルンに入社する事に成功していた。

そして、その所属先は偶然にもドイツであった。

加持リョウジは、大学の卒業式の前日、当時付き合っていた葛城ミサトから突然と一方的に振られたのだ。

彼としては、気の合うミサトとの付き合いは、非常に短い期間の仮初めの学生生活の中ではあったが、

 かなり大事に想っていたので、表情には出さなかったが結構ショックを受けていた。


……加持は、緩んだネクタイを更に緩める。


「ま、偶々今日ベルリンの第4支部から出張して来てみりゃ、懐かしい顔と会えたんだ。

 ふつう、再会の一杯でも…って思うだろ? …な?…………おっと、ダンケ!」

加持はミサトのつっけんどんで取り付く島も無さそうな態度にもめげず、

 店員が両手に持ってきた追加の大ジョッキを見ると、やおら受け取って片方を彼女に渡す。

「ほい、それじゃ…改めて乾杯!」


”…カチンッ…ゴキュ! ゴキュ! ゴキュ! ゴキュ…ダンッ!”


「…ップゥッファァァ〜! くっうぅぅぅ! …やっぱ本場ねぇ! …ビールが旨いわ♪」

ミサトは、半分以上飲んだジョッキを机に勢い良く置く。

ある程度の”燃料”が入れば、彼女の機嫌は大抵良くなる、

付き合っていた頃と変わらないその様子に、加持は自然と顔が綻んだ。



………立坑。



加持が懐かしさを感じているその時、シンジは自身が這って来た狭いダクトから立坑の下を覗いていた。

…残り3時間45分。

(流石に深いね。 でも、ここを降りれば、直接ジオフロントへ入れるみたいだね。)

PDAを見て情報を確認する。

『マスター、この立坑の監視用ITVカメラの映像をダミーに切り替えました。』

『了解。 …リリス、人の波動はある?』

『う〜ん、この立坑には居ないみたいだね。 一番近くてここから下に405m、東に652mだね。』

『ありがとう。 よし、移動を開始しよう。』

シンジは、右足に固定していたザックを手に取ると、左に見える5m先のキャットウォークに投げた。


”ひゅん……ドサッ”


そして、腹這いにしている身体を丸めるように起こすと、ダクトから半身ほど身体を乗り出す。

さらに左腕で体重を支えながら、その壁際を右足で思い切り蹴って、手すりに向かって横にジャンプした。


『…ッ! 危ないっ!』

『…ッ! マスター!』



シンジの伸ばした左手は空を切る。 目標としていた手すりは目測よりも遠かったようだ。

男の子はさらに手を伸ばすと、ギリギリでキャットウォークの足場に左手を引っ掛けることが出来た。

ぶらり、と彼の体が数回振り子のように揺れて、止まる。

下を見れば闇。 …落ちれば流石にシンジとて怪我ではすまないであろう、その高さ。

『…ふぅ。 だ、大丈夫だよ。 それっ!』

男の子は、身体を数回振って、”くるっ”と反時計回りに回転すると、

 身軽にふわっと手すりを飛び越えてザックの置いてあるキャットウォークに無事着地する。

(…今のはチョット危なかったね。 …気を付けなきゃ。 …さて、急ごう。)

シンジは、先ほど投げたザックを手に取って背負うと、

 壁に取り付けてある設備点検用のタラップに向かって走った。

彼は、これから高さ20mのタラップと幅95cm、長さ15mの点検用通路を交互に通って、

 この立坑の丸い外壁をグルグルと回るように、底へ向って降りて行く。


……この垂直のタラップは20を数えたので、この縦孔の深さは410m程である。


(あー 面倒くさいから、次から飛び降りよう…)

シンジはタラップを5回普通に降りた後は、通路から下の通路へ昇降用の降り口から飛び降りた。


”タタタタタ…スタン… タタタタタ…スタン…”


そして、巨大な円形の底に着いたシンジは、休むことなく東の方角へ疾走する。

男の子は、誘導灯に照らされたドアにスッと近付いてノブをゆっくり回した。

小さな隙間から廊下の照明が溢れる。

さらにドアを開いて、シンジは目を細めてその先を見た。

『ねぇ、リリス。 さっき言っていた下にいるヒトって?』

『うん、しんちゃん。 このフロアレベルにいるよ♪』

『あの、えっと…だから何処に?』

『あ! ごめん。 えっとね、この通路の先…だいたい350m位先の右に居るよ。』

ジオフロントへは、この機械室に繋がる通路からしか進めなかった。

(よし、一気に行こう。 …残り時間は…)


……残り時間3時間24分。


”キィ…”

全身を黒に包んだ男の子は、ドアをゆっくりと開けて蛍光灯の明かりが眩しい廊下に入った。

彼はなるべく音を出さないように、静かに進む。


……暫く進むと十字に通路が交わる処、その右手から小さな音が聞こえた。


シンジは、曲がり角に近付くとそっと窺うように覗き込んだが、人影は確認できない。

『リリス、ヒトって何人?』

『…しんちゃん、一人だよ。 波動の位置は変わってないね。』

『…マスター。 彼らは無線での定時通信でフロア全体の安全確認をしているようです。』

『ふーん。 そっか…じゃ、気絶させちゃうとばれちゃうかも、だね…』

シンジはPDAを再び手にして、最短潜入ルートを確認した。

その道は、ヒトのいるこの廊下の交差点を右であった。

シンジが忍び足でしばらく進むと、ゲートの受付所のようなカウンターが見えてくる。

聞こえていた音が徐々に大きくなると、どうやら警備員は待機部屋の中でテレビを見ているようだ。

『テレビ? もしかしてテレビ見ているの? 何て言うか…職務怠慢だね。 受付口は僕の頭よりも上か…

 よし…ドーラ、監視カメラにダミーとあの人が見ているテレビにノイズを10秒くらい混ぜて。』

シンジはゆっくり屈むようにして受付に近付くと、中から怒鳴り声が聞こえてきた。

「んあっ!? くそっ! 良い処だったのに!」 

男は、カウンターのイスから立ち上がると砂嵐になってしまったテレビの方に向かう。

「何だ? 壊れちまったか? 急に映んなくなったぞ…」


……文句を言いながらテレビを叩く警備員。


シンジは、その間に警備室を走り抜けた。

”…カチャ”

男の子は、見えてきたコーナーを左に曲がって”給排風機制御機械室”と書かれた部屋に入った。

(ふう、見付からずに済んだ。 次は、この先の点検用扉…あれだね。)

シンジは、大きな機械とそれに繋がるパイプを避けながら先に進む。

『…ドーラ、お願い。』

彼の目の前には、頑丈そうな大きな金属の扉があった。

エアロックされているその扉の脇には、カードを通すスリット付きの施錠装置がある。

それは赤いLEDランプが灯っており、”LOCK”と表示されていた。

『イエス、マスター。』

”ピッ”と音がし、ランプがグリーンに変わると”UNLOCK”と表示が変わる。

”プシュ−”とエアが抜ける音と共に扉が自動的に左にスライドした。

シンジが扉を抜けると、薄暗い空間に出た。

ここは樹木や草花が生い茂っていて、今までの無機質で人工的だった空間とはまるで違っていた。

男の子が顔を上げると、ここの天井は遥か高くにあり……周りを見渡せば、広大な地下空間が拡がっていた。



………ジオフロント。



シンジは無造作に植林されたような、うっそうとした森の中を進む。

男の子は、歩きながら周りを窺うように見回したが、特に人の気配は感じなかった。

『…リリス?』

『…うん、人はいないね。 大丈夫だよ、しんちゃん。』

その場でPDAのマップを確認すると、背後から不意に音がした。


”…ガサッ!”


シンジは、反射的に3m上の樹の枝にジャンプした。

音の方向に素早く目を動かして、観察するように息を潜めると…

 その茂みから出てきたのは、小さな猫だった。

プリプリと尻尾を振って、”てててててっ”と走っていく。

(…ほっ。 なんだ…)

シンジは深く息を吐いて、肩の力を抜いた。

改めてPDAで現在の位置を確認すると、

 ピラミッド型の建造物まで4km程の距離がまだ残っており、残り時間は3時間10分だった。

そして、まだジオフロント全体に監視装置は設置されていないようだ。

(…時間が少ないから、走ろう。)

彼は、身軽に枝から飛び降りると、多少の音が出ても構うことなく茂みの中を疾走する。

しばらく移動すると突然と視界が開けて、アスファルトで舗装された道路が交差する場所に出た。

(ジオフロントの地下湖か…)

照明設備がまだ完全ではない空間。

そこを進むシンジの目の前に現れたのは、薄暗い湖面。

その水面は、まるで鏡のように静かに佇み、時間が止まってしまったかのようだった。

男の子が、瞳を湖の先に向けると、薄い暗闇の中にあの三角の構造物の頂が見えた。

シンジは立ち止まる事なく、湖の脇を走って第103番ゲートに向かう。

目的のゲートの手前まで近付くと、男の子は植え込みから静かに辺りを窺った。

『…しんちゃん、ゲート先に人の波動はないよ。』

『マスター、ロックを解除しました。 監視カメラを確認しましたので、ダミー映像を流します。』

『了解。』

(…残り2時間58分。)

PDAを仕舞ったシンジは、彼女が解除してくれたゲートに滑るように侵入した。


……中に入ると工事中という雰囲気ではあるが、そこは見覚えのあるマーキングが施された廊下だった。


(ルート5か…)

シンジは、完成に向けて急ピッチで作業が行われている廊下を見渡した。

養生されているその廊下の壁面や天井は、あらゆる所で化粧パネルが外されていて、

 その中からケーブルや配管、ダクトなどの支持材料がそこかしこに散らばっている。

シンジは、足元に気をつけながら先を急いだ。

彼は、エレベーターを使って下層へ下りる計画だったので、西側のホールに向かった。

シンジの耳に予定外の報告が入ったのは、目的のホールまであと少し、というタイミングだった。

『ッ! マスター、ターミナルドグマのエレベーターのセキュリティが解除されました。

 カメラで人物を確認。 …現在、最下層に冬月氏が向かっているようです。』

シンジは、足を止めてPDAを見た。

『冬月、コウゾウ…』

画面には、エレベーターの監視カメラの画像が送られている。

『マスター、先日説明したとおり、

 これから利用する予定のセントラルドグマ直通エレベーターは特殊キーが無ければ動きません。』

『うん、そうだったね。』

『現在、それを使用できるのは、ゲンドウ様と冬月氏のみです。

 御覧のように、現在冬月氏が目的のエレベーターを利用しセントラルドグマへ降りてしまいました。

 …ですので、マスターがこのままエレベーターを呼んでしまいますと、

 冬月氏、若しくはゲンドウ様のどちらかが不法侵入に気付き、対処すべく動く可能性が懸念されます。』

『そうか…不審に思って、お互い連絡を取り合ったら、ばれちゃうね。 どうしよう…』


……PDAの画面がフロアの地図に切り替わる。


『マスター、多少の時間をロスしますが、反対側の北Aブロックに同じ直通エレベーターがあります。』

ドーラの描いたルートは、本部の外周部を複雑にぐるっと回っていて、その距離は優に15kmはあった。

『う〜ん。 …ドーラ、距離が遠すぎるよ。 それに、これじゃ間に合わない…』

『…あっ! …そーだ! ねぇねぇ、しんちゃん!』

突然、リリスが波動を出す。

『なに?』

『ケージだよ! ケージのLCLを利用すればいいんじゃないかな?』


……紅い本の意図を理解したPDAが素早く反応する。


『なるほど、リリス。』

ドーラのように理解できなかったシンジは、戸惑いの波動を出してしまった。

『えっと…ケージって?』

『あ、申し訳ございません。 マスター、ここより3階層下のケージに満たされているLCLを利用すれば、

 直線的に進むことができ、移動距離は1kmほどに抑えられます。』

新たに描かれたルートを確認したシンジは、大きくうなずいた。

『なるほどね。 …ありがとう、リリス。 助かったよ。』

『ふふっ…良いって♪良いって♪』

『じゃあドーラ、引き続き、案内をよろしくね。』

『イエス、マスター。 ルート20のエレベーターを使用して下さい。 ケージへの直通ルートです。』

シンジは10−20と案内板に書かれたエレベーターホールに移動した。

その中からR−20と書かれたエレベーターの前に立つと、待ち構えていたかのようにドアが自動的に開く。

この完璧なタイミングに、シンジはPDAに感謝した。

『ありがとう、ドーラ。』

男の子は箱の中に入ると、操作パネルを見た。

(…? 開閉ボタンだけだ。)

直通エレベーターなので、パネルには開閉ボタンしかなかった。

(…あ、このエレベーターって……)

ふと何かを思い出したシンジ。

『しんちゃん?』

動きを止めた男の子に、幼女が不思議そうな波動を出した。

『あ、うん。』

シンジが閉ボタンを押すと、エレベーターは静かに動き出した。

蛍光灯に照らされている静寂な箱の中は、定期的に下降している振動しか感じられない。

偶然と乗り込んだこの箱に、シンジは少し遠い瞳でミサトに送られた”あの時”を思い出していた。


……何もしなかったら、あたし、アンタを許さないからね!


『…勝手だよね、結局あの人にとって、僕は”都合の良い駒”だったんだ。』

何を言いたいのか…それを感じ取った紅い本は、少し慈しみを含めた波動で相槌を打った。

『…そうだね。 結局…あの女は、しんちゃんの求めた家族でも、仲間でもなかったモンね…』

PDAの彼女も、主人の久しぶりの哀しげな波動を感じて気遣うように接する。

『…あの、マスター、そろそろ着きます…』

二人の波動に、シンジはいつの間にか下を向いていた顔を上げた。

『ごめん…今はそんな下らない感傷に浸る時ではないね。』

”チン”

『…さ、行こう。』

扉がスライドすると、男の子は先へと進んだ。

複雑な造りの廊下をナビのとおり右へ左へと進むと、ようやくEVAのケージに続く廊下が見える。

シンジは一番手前の第8ケージの扉を開けた。

照明の落とされているそこは、闇に包まれている。

普通の人には感じられないほど微量の血に似た匂いがシンジの鼻を擽った。

(…LCLの匂いだ。)

アンビリカルブリッジの中央に立つと、男の子は防水加工された袋の中に紅い本とPDAを仕舞った。

(…0番ケージへ向けて北側に延びる水中ルートを約1kmか。 …残り2時間43分を切った。)

シンジはAブロック手前にある第0番ケージに向かう為に、LCLに向かって飛び込んだ。

”どぼん! ……ごぼ、ごぼぼぼ。”


……小さい頃に溺れた記憶が蘇る。


(溺れるワケはないんだけれど…)

シンジは、リリスの知識を得た時に泳ぎ方をマスターしていたが、

 実際に身体を動かして泳ぐのは、今回が初めてであった。

感触を確かめるように、男の子は少し緊張した体を伸ばすようにゆっくりと大きく動かす。

(……大丈夫、だね。)

水中の感覚を馴染ませると、シンジは下へ潜った。

そして、水深20m付近で目的のLCL循環用の配管を見つけ出す。

男の子は、幅1m程のパイプの中へ向けて力強く足を蹴った。

シンジは、休むことなく身体を動かし続けるが、

 ザックと服が抵抗になってあまり素早くは移動できない様子だ。

現在、使用されているケージは初号機の上半身が拘束されている第0番と、

 零号機が先日搬入された第3番ケージの2箇所であった。

そして本日、零号機はその素体に開発した特殊装甲の組み込みを行う予定であった。

バイパス管を通って200mほどの直線を進むと、シンジはある変化に気がついた。

(あれ? なんだ?)


……徐々にLCLが動き始めたのだ。


彼の小柄な身体が、その流れに引っ張られる。

『これって? …流体の速度変化が起きてきたって事は、圧送ポンプが動いたんじゃ?』

シンジは、この先にポンプがあるのを想像し、インペラーに巻き込まれる自分を思い描いてしまった。

『大丈夫ですよ、マスター。 ポンプ設備はここよりも下層のEブロックに設置されています。

 そこからLCLを循環させるのに加圧を開始したようです。』

『そうなんだ、よかった。 思わず変なことを考えちゃったよ。』

『…あと780mほど進みますと、北側第0番ケージに到達します。』

『ありがとう、ドーラ。 先を急ごう。』



………第0番ケージ。



設定したタイムリミットまで、残り2時間30分。

第0番ケージには、巨大なヒトの上半身が固定されており、それは佇むように静かにあった。

シンジは、ちょうどその腹部の高さのLCL循環口から流れに乗って出てきた。


……照明が点いていなくても、その圧倒的な存在感や巨大さは感じる事が出来る。


シンジは何年振りかの愛機を見上げた。

(久しぶりだね、初号機。 かあさんは元気かな?)

シンジはゆっくりと上方へ泳ぐ。

装甲の施されていない素体には、紅い球があった。

男の子は、何気なくコアに触れてみた。

すると、まるで主人に答えるように1回”どくんっ!”と大きな鼓動音が起きた。

(…あれ? あ、そうか…前と違って、かあさんは覚醒しているんだもんね。)

『マスター、ユイ様からメールが届きました。』

『なに?』

『はい、読み上げます。

《 今、不思議とシンジを感じた気がしたの。 …もしかして、近くに居るのかしら? 》

 以上でございます。』

『ドーラ、返信をお願いするよ。

《 かあさん、ドグマに行く必要があって、確かに近くにいるよ。

 とうさんには内緒で来ているから秘密にしてね。 》

 以上だよ。』

『畏まりました。 送信します…返信がきました。』

まるでドーラの一人芝居のような波動に、シンジはタラリと汗をかいた。

『失礼します。

 《 どうして、ドグマに行くの? 何かあったのかしら? 母さんに出来ること、ある? 》

 以上です。』

シンジは、コアを見詰めた。

『ドーラ、もう一度お願い。

 《 …僕の力が戻る時が近いんだ。 後で頼み事をするから、その時はお願いだよ… 

 ここの用事が済んだら、また京都に戻るから。 》

 …以上だよ。』

『はい、畏まりました。』

シンジはそのまま水面まで浮上すると、アンビリカルブリッジのタラップに手を伸ばした。

シンジは体を濡らすLCLを手早くタオルで拭うと、腕時計で時間を確認してケージを後にする。

(…あと、2時間か。)



………ゲヒルン本部。



最高責任者は、本日装着が予定されている零号機の特殊装甲の仕様書を執務室で読んでいた。

この部屋に備え付けられている時計の針は、4時25分を示している。

リツコが提出した製作仕様書は、零号機の色は開発機なので警告色で仕上げると記載してあった。

(休むとするか…)

ゲンドウは眼鏡を取って疲労した目を目薬で癒すと、しばしの休憩を取る為に仮眠に就いた。



………Aブロック。



第0番ケージを出たシンジは、

 地上やジオフロント上層部とは比較にならないくらい格段に厳しくなったセキュリティを、

  ドーラに全て無効にしてもらって、中継地点であるセントラルドグマへと向かっていた。

セキュリティレベルが高くなるほど、無人となっていく。

彼は、今いるレベルから下層には警備員などの人間がいないことを確認していた。


……ケージから北へ走る事5分、目的のエレベーターホールに出る。


『ふぅ、やっと着いた。 予定時間まで1時間54分か。 思ったよりも時間がかかったね。』

ドーラにエレベーターを用意して貰っている約10秒の間、シンジは深呼吸をした。

『あ、ねぇ? しんちゃん?』

『どうしたの、リリス?』

『…レイちゃんが復活した時の服って用意したの?』

『あ、う、うん。 えっと、用意しようと思ったんだけど…そうすると、僕の潜入がバレると思って、
 
 結局、とうさん達が着ているのと同じ白衣を用意したんだ。 もちろん新品だけどね。

 それを身体に羽織ってもらって、とうさんに服を用意させようと思うんだ。』

『…お待たせしました、マスター。 エレベーターが着ます。』

『ありがとう、ドーラ。 …エレベーターに入る前にPDAのバッテリーを交換しよう。』


……ドーラは今回の潜入で正に自分が役に立ちまくっている事に大満足であった。


『私にとっては当然のサポートでございます。』

さも当然とした風ではあるが、嬉しそうな嬉々とした彼女の波動は、周りに駄々漏れであった。

シンジは、ザックから取り出した予備バッテリーを手にすると、ほぼ使い切ったモノと交換した。

彼は、NERVの深部へ人知れず潜入するには、

 PDAは常に必要となるだろうし、フル稼働になるだろうと考えて5本の予備バッテリーを準備していた。

その為、彼女は電力消費を気にする必要がないので、波動で会話をしている。


……幼女も要所要所で自分の的確なアドバイスが彼の役に立っているので、非常にご機嫌だった。


”チンッ”

扉を開けたエレベーターに乗ると、それは今までのモノと違い、大人が4人も乗れないほど小さな箱だった。

(妙に圧迫感があるね…)

シンジはしげしげと見ていた視線をパネルに移し、閉ボタンを押す。

そして小さな箱は、音もなく扉を閉めると下へ緩やかに加速し始めた。


……彼との再会の刻が近付いているのが分かるのか、胸に抱くコアリリスも温かい。


”…カチン、カチン、カチン、カチン…”


エレベーターが動き出してから15分が経った。

一向に変化のない世界に、さすがのシンジも果たして何処まで続くのか? と思うほどだった。

どうやら、この仮設エレベーターは前史で乗ったモノと違って、降下するスピードが非常に遅いようだ。

そして更に25分が過ぎると、ようやく減速を始めた。


”…チン…”


味も素っ気もない音だったが、幼年の男の子はようやくセントラルドグマ北側の下層まで辿り着いた。

現在のジオイド深度は3000m。

これほど深く潜っても、ターミナルドクマ最下層までは、まだ4000mも残っていた。

腕時計を見れば、残り時間は1時間13分。

このセントラルドグマの下層は、未だ建造中といった様子だった。

多くの巨大クローラークレーンなどの重機がそこかしこに点在している。

『…前も確かに建設中だったけれど、目立っていた工事は天蓋の地上都市の方だったな。

 て事は、本部内は結構突貫工事で造っていたんだねぇ…』

数え切れない溢れるほどの重機を見て、シンジは何となくそんな感想を抱いてしまう。


……ここは広大な地下空間のさらに地下空間ではあるが、基本的には南北に延びる巨大な廊下のような場所。


『申し訳ありません、マスター。』

ものすごく、しゅん…とした波動だった。

『どうしたの? ドーラ…』

『今、気付いたのですが…

 冬月氏がジオフロント上層部に戻るために中央エレベーターに乗っています。

 エレベーターシステムのログから、あと15分でこのレベルに到着すると思われます。

 マスター、すみません。 …この報告が遅れたことをお詫びいたします。』

深々と腰を折る女性が画面に映る。

シンジは首を横に振った。

『いや、謝らなくてもいいよ。 …中央エレベーターか。 それを降りると、彼はどっちに向かうだろう?』

『冬月氏は非効率的な行動を嫌うと思われますので…』

『じゃ、こっち側に来るんだね。』

『はい、そう予測できると考えます。』

『じゃ、反対側へ移動していた方がいいね。』

シンジは、今いる北側から反対の南側までの必要距離を確認してPDAを仕舞うと、一気に駈け出した。



………数刻前。



深夜、冬月が足を向けた場所は、第3分室と呼ばれている施設だった。

この部屋は、ターミナルドグマに秘匿されており、一握りの人間しかその存在を知られていなかった。

彼は、ここで数年前からある実験を密かに行っていた。


……人工生命体の創造である。


(…今日も変化なし。 …見事なまでに、な…)

男は、力なく肩を落とすと自嘲気味な表情になった。

何故ならば、数多の研究を行っているゲヒルンの中で、

 これだけが唯一、成果と呼べる進展や新しい発見がなかったからである。

周りは順調に成果を上げているのに……自分だけが取り残されて行くような感覚に焦りを感じる。

まるで自分を嘲るようなこの状況に、内心、彼はかなりのイラ立ちを内腑に秘めていた。

(EVAのコントロールの要、と考え研究していたのだが…)


……先日、ついにEVAのコントロール法が赤木ナオコによって見出されてしまった。


…あのような非人道的な方法は許されないだろう、と冬月は額に手をやった。

EVAのコアに親の魂を入れ、その子供をパイロットにするなど…

 いくら人類を守るためとは言え、許される話ではない。

そう。 もし、この人工生命体が時期早々に成功していたなら…

”それ”が自分の提唱していたEVAコントロール法になったはずなのだ。

口には出さないが、自分は確かな功績がほしかった。 人類史に名を残せたのに…

それを考えると悔しさに身を焦がされる思いだった。

誰にも気づかれぬ深夜、

 彼がここに訪れているのは、何某かの変化を期待し、または何か出来ないか、と考える為にいたのだ。

彼が顔を上げると、照明に照らされた円筒型のガラスがあった。


……その液体に満たされた中には、白い物体が静かに浮かんでいるだけだった。


しかも、LCL以外では細胞活動すら継続できないとは…


ゲンドウが言っていたように、この物体に自我が芽生えればと、

 ヒトの基本精神パターンを送射し続けて、いったいどれほどの時間が経っただろうか?


……正直な処、彼は諦めかけていた。


しかし、同僚でもある最高責任者は、強硬にこの実験中止を拒んでいる。

一体、どうしたものか…

疲れ果てた体を労わるように、冬月はパイプイスに腰を下ろした。

そして、深い思慮の海を静かに泳ぐように取り留めのないことをボンヤリと考えていた、そんな時だった。



”……どくんっ!”



彼を現実の世界に呼び戻したのは、一つの鼓動音だった。

ハッとした冬月は、慌てたようにガラス管に目を向けるが、彼の期待とは裏腹に何の変化もない。

(ふっ… 気のせいか。)

首を小さく振った冬月は、やれやれと立ち上がって管理端末の画面を操作した。

(なに!? …これは!)

彼は驚いた。

リアルタイムに描かれるトレンドグラフの4時25分の処に、

 先程の”何か”が有ったという事を示すデータが記録されているのだ。

彼は何年も何もなかった変化が突然と現れたことに、情けなくも数瞬の時間、放心してしまった。

そして次の瞬間、我に返ると、無我夢中であらゆるデータを検索し始める。

冬月は7分ほどの時間を費やして、変化した全てのデータを収集し保存した。

(これを検証せねば! あの非人道的なコントロール法を止められるかも知れん!)

知らず興奮し、身体の中から噴き出るような熱を感じると、男は白衣を乱暴に脱いでイスに投げた。

そして、計画の遂行者であるゲンドウに見せる為に、部屋を後にした。

右腕に抱えたデータシートを見る冬月の顔は、僅かに紅潮している。

余程嬉しいのだろう。

いつも憂鬱そうに歩く…

 徒歩20分もの長い道程を感じさせぬほど、エレベーターに向かう彼の足取りは軽いものがあった。



………セントラルドグマ南側終端。



シンジは、冬月が乗っているエレベーターが、あと3分で到着する事をドーラから教えてもらった。

ターミナルドグマヘ通じるこのホールは、隠蔽工作が見事に施されており、

 非常に目立たない、工夫されたものであった。

(…こ、これなの?)

そのエレベーターの扉は普通の会議室などのドアと同じ形状で、ホールは廊下の続きであった。

この廊下を歩いていても、

 まさかこの扉から更に4000m下の最深部までエレベーターで通じているとは想像出来ないだろう。

少し瞳を大きくしたシンジがドアの脇を注意深く見ると、

 さりげなくスリット付きの施錠装置があり、その上にはアイリス認証用の小型カメラも設置されていた。

『これ、セキュリティカードのスリット? これはカメラか…』

『マスター、カメラの下はマイクも設置されています。』

(…なるほど、これを見れば、このドアに対するセキュリティの高さを伺えるな。)


……この扉を開くには、IDカード、網膜チェック、その後の音声認証を経て開錠となる仕組みのようだ。


しばらくそれを見ていたシンジは、その隣のドアに手をかける。


男の子は、鍵を開けて会議室に入ると、隣から出てくるだろう冬月がここから去るのを静かに待った。

シンジの見るPDAの画面に、エレベーターの状況が表示されている。

(…着いた。)


”カチャ…コッ、コッ、コッ…”


男の子の耳に、扉が開いて大人の男性が歩く靴音が小さく聞こえた。

その音が廊下の先へと小さくなっていくと、シンジは様子を確認するためにドアを少しだけ開く。

そこから見えた冬月は、ワイシャツ姿で白衣は着ていなかったが右手に紙の束を持っていた。

廊下に僅かだったが、小さな声が聞こえる。

その声の主は、冬月だった。 彼は、頻りに何かを呟いている。

「…これで… …それならば… ……いやいや………」

その男は考え事に捕われているのか… 男の子の存在に気付くことなく歩き去っていった。

シンジは、そっと廊下に出ると、隣のドアノブに手を伸ばした。

『…ドーラ?』

”……カシュン”

『はい、ロック解除、セキュリティ解除。 …マスター、どうぞ。』

彼女にとって前述のセキュリティ装置など何の意味もなさない。

男の子が扉を引いて開けると、そこは先程乗った箱と同じくらいの小さなエレベーターだった。

シンジは、素早くその中に入って、奥にある操作パネルの閉ボタンを押そうとした。

『お待ちください。 そのボタンは、指紋認証が必要です。』

彼女がそう言うと、閉ボタンのランプが点灯する。

すると、間を置かず、ドアと箱の僅かな隙間に箱の壁と同じ色の白い間仕切りが音も無く現れた。

(なるほど、もしエレベーターが下に降りている時に、

 不正に開けられたとしても壁しかないように見せるわけか…)

そして、僅かな振動と共に静かに下降を始める。


地下へ………地下へ……その奥へ。


シンジは腕時計を見た。

このエレベーターが彼の望む最下層へ降りるには、かなりの時間を必要とした。

その所要時間を考えると、時間が余り残っていない事に少しだけ焦りを感じてしまう。

ドグマに着くまで、あと、39分30秒かかる。

何事もなければ、到着する時間は6時18分くらいだろう。

そうすると、当初、予定していた到着時刻まで、残り12分しかない。

(…間に合うかな…)

シンジは、時計を見ていた瞳をエレベーターの天井へ上げる。

僅かではあるが、主人の不安を感じとった二人は、それぞれ波動を出した。

『…大丈夫だよ。 絶対間に合うって! だから、最後までがんばろうね。』

『リリスの言うとおりです。 マスター、間に合います。 …いえ、必ず間に合わせます。』

『うん。 ありがとう、2人とも。 …分かっているよ。 君たちが協力してくれているんだ。

 だから、間違いなく間に合うってね。 このエレベーターが着けば……もう、すぐだ。』





綾波レイ−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−





………ターミナルドグマ。



…ここは”黒き月”の中心部。

人の辿り着いた最深部には、前史のシンジの知る施設が変わらぬ様子で存在していた。

地下数千メートルとは信じられないほど広大な空間。

まるでセカンドインパクト後の南極を連想させる紅い海のような水面があり、

 その周囲には、巨大な塩の柱…というよりは塔と呼ぶ方がふさわしいものが点在していた。

ヘブンズドアと呼ばれる巨人サイズの重厚そうな扉には、

 小さな札でLCL生産工場と読める小さな札が掛けられていた。

その鋼鉄製の扉の奥には、7つ目の仮面を付けた白い巨像がキリストのように白い十字架に磔にされている。

また、このフロアには、人造人間エヴァンゲリオンの基礎生体部品培養施設と、

 表立っては知らされていないが、数多の失敗作の廃棄施設があった。  

そして、人工進化研究所の極秘プロジェクトの多くは、このフロアの実験棟で行われていた。

その中の一つ。 数千人働くこの場所で片手にも満たない人間しか知らない施設が存在していた。

それが、人工進化研究所、第3分室。


……その奥で行われているのは、人と同等以上の人工生命体を創り出すこと。


”……ォォォォォオオ、ピン。”


男の子を乗せた小さな箱は、

 途中止まる事も速度を変える事もなく4000mの距離を下降し切ると、小さな音と共にその扉を開けた。


……その中から黒尽くめの小さなモノが勢い良く飛び出す。


残り時間は、だいたい10分程度だった。

このターミナルドグマは、エレベーターが止まった南側から北西へ廊下が延びていた。

その通路を200mほど移動すると、

 前史でレイが零号機に乗り、リリスの成長を制御するために槍を運んだ巨大空間に出る。

この通路を単純に廊下と呼ぶには余りにも巨大な空間は、南北に延びておりその全長は1500mあった。

そして、その先には、紅い海の空間が続いている。


……黒の塊は廊下を駆け続けて、この巨大空間に躊躇せずに突入していく。


侵入に対する警報装置は数え切れないほど用意されていたが、眠っているかのように一つも動作しなかった。

これは、ドーラがエレベーターの中で事前に解除していたからだった。

もう残り時間が少ない。

綾波の… 

魂の…

自我の生まれる瞬間に立ち逢いたい…

図らずも逆行時に離れてしまった、この彼女の心を届けたい…

シンジは、コアリリスを手に包みこんだ。


……わき目も振らず全力疾走する男の子。


今、シンジの心を占めているのは、愛しい少女のことだけであった。

彼は、この時を6年も待ったのだ。



………秘密の抜け道。



『マスター、入口です。』
 
『どこ?』

ドーラの波動に、シンジはこのフロアレベルに来て初めて足を止めた。

『そのまま25歩先です。』

男の子は、その指示どおり歩く。

シンジは壁を見たが、それはこれまで700m以上走ってきた風景のまま、何の違いもなかった。

『何もない、ただの壁みたいだけれど…』

『しんちゃん、中にはいろいろな波動があるみたいだよ?』

(確かに…)

リリスの言うとおり、奥に感じる波動はある。 つまり壁の向こうには空間があるということだ。

『マスター、解除しました。』

”ガゴンッ!”

壁に走る縦のつなぎ目のラインに沿って、シンジの目の前の壁面が上にスライドし始めた。

”ゴゴゴゴ…”

『珍しく少し時間がかかったね。』

『ここは独立システムなっておりまして……時間のない中、申し訳ありませんでした。』

『謝らないでよ。 ありがとう、ドーラ。』

『しんちゃん?』

『あ、うん。 時間がないから行こう!』

道が開けると、男の子は再び走り出した。

その廊下は、さらに照明が暗くなっており、

 男の子の走る足元を僅かに照らすライトが点々と設置されているだけだった。

薄闇の空間である。 通常のヒトならば、この通路の幅を知るのが精々の明るさであった。

さらに僅かではあるが、この通路は徐々に上りになって緩やかな坂になっていく。

どんな変化があろうとも、男の子は速度を落とすことはなかった。

しばらくすると前触れもなく道は平坦となり、廊下は緩やかなカーブを描くように左に曲がっていた。

距離感が掴み辛いが、どうやら先程の巨大空間の先にある、紅の海の外周を廻っているように思える。


シンジは左にカープする廊下に入ると、そこは無機質な扉がいくつもあった。

『マスター、この先です。』

『了解!』

8mほどのゆったりとした通路の真ん中をシンジは突き進んでいった。


……そして、誘導灯に照らされた実験室の入り口を幾つ過ぎたろうか……


シンジは、40m間隔に照らされた入口の20枚目のドアの前で止まった。




………秘匿された実験室。



シンジは、幾分緊張した手付きでドアの開閉ボタンに触れた。

”…ピピ! …プシュッ…”

ドーラにより主人が押す直前に解除された第3分室の鋼鉄製の扉が左にスライドする。

残り時間はたったの3分だった。

(よし、間に合った。)

腕時計を見たシンジは、安堵から少し肩の力を抜いた。


……前史と同じ時刻であれば、約10分後にレイの自我が芽生えるはずだ。


一歩、部屋に足を踏み入れると、そこはまるで満天の星空のような空間だった。

それは、この部屋に設置されている機器の動作を示すLEDの放つ人工の星であった。

”かちっ”

スイッチを入れると、実験室と思われる部屋の全容が見られた。

「あれ?」

前に見た部屋ではない。

『どうなさいました、マスター?』

「え、あ、いや…僕が想像していた部屋は、確か中央に円柱のガラスがあって…」

シンジは目的地に着いた安心感から、自然と波動ではなく声が口から出ていた。

『…しんちゃん、その部屋はここの奥だよ。』

『マスター、憶測になりますが、後に違う入り口が造られ、そちらから直接入ったのでは?

 取り敢えず、人工生命体創造実験室のセキュリティを解除、警報装置も解除しました。』

「あ、そっか。 全ての施設が完成しているわけじゃないから、ここの状態も記憶と違って当たり前だね。

『さ…マスター、右手奥でございます。』

「あ、あの扉だね。」 

シンジは、OA机やイスの上から洪水のように零れている書類に気を付けながら、

 慎重に奥の扉に向かっていく。

そして、男の子は逸る気持ちを抑えて一つ深呼吸をすると、この計画に協力してくれた二人に感謝した。

「ありがとう、2人とも。 君たちのお陰で無事に最深部まで侵入することができた。

 …本当に、本当にありがとう!!」


……さあ、これから主人の特別で非常に大切な時間が訪れる。


それは、最愛の恋人との逢瀬。 もはや余計な言葉や波動をかけるほど、彼女たちは無粋ではなかった。

シンジの目の前には、非常時に下される金属製の分厚い隔壁のような扉が厳とあった。

”ピッ!”

PDAの小さな電子音が鳴ると、どうやら準備が整ったようだ。

男の子は、指紋認証装置にそっと指を載せてみる。

”ピピピッ!”

赤いランプのLOCKを示していた表示は、緑色のUNLOCKと変わる。

”ガシュッ! …ゴゥン!”

厚みは5cmあるだろうか、金属製の重厚な扉が上下左右に割れてスライドしていく。

”ゴゴンッ!”

およそ実験室の扉の開閉音ではなかったが、物々しい音と共に最後の扉は開かれた。


……そして、シンジはその奥の部屋に進むため、一歩足を踏み入れる。


(…あやなみ …あやなみ …やっと君に逢えるんだね。)

彼の瞳に映ったのは、前の彼女たちが崩れ亡くなった部屋と全く同じであった。

紅く照らされたこの部屋の上方には、ヒトの脳髄を思わせる不思議に複雑な配管が入り組んでいて、

 周囲壁面の特殊な湾曲状のガラスに囲まれた中央には、上の配管に接続された筒状のガラス管があった。



………復活の部屋。



シンジは、まるで夢遊病者のように一歩、一歩、どこかフラフラした足取りで、

 中央に鎮座しているガラス管に近寄っていった。

(あれが、あやなみ…なの?)

薄暗い照明に照らされている60cmくらいの白い物体が、

 ガラス管の中に満たされたオレンジ色の液体に小さく揺れるように、静かにたゆたっていた。

男の子は両手の黒い作業用の手袋を外してそれをリュックに仕舞うと、その中から紅い本を取り出した。

『ねぇ、リリス。 あとどれ位だと思う?』

その問いかけに、幼女は意識を白い物体に向ける。

『…ん、ん、ん? ありゃ? もしかして、前の時よりもちょっと早いかも、だよ?

 この”前神の因果律の肉体”には、しんちゃんの”設計図”の一部が組み込まれちゃっているみたい…』

これは予想外の言葉だった。 

『え!! …因果律は間違いなく僕のじゃないよね?』

一体何のために時を遡ったのか… 何のために彼女を待っていたのか…

シンジは少し瞳を大きくして、観察するように”白”を見詰めたまま幼女に聞いた。

『うーん… うん、大丈夫。 しんちゃん、この肉体は前より”力”が上がっただけで由来は前神だよ。』

『…そう、よかった。 じぁ、あとは彼女が無事に復活するのを見守るだけだね。』

男の子は、右手をすっと伸ばして、慈しむように優しくガラスに触れた。


………そして、数瞬。


彼にだけ分かる微細な変化が起こる。

『…? ッ! …時間だ!』

左手に紅い本を持つ彼の心が、大いなる歓喜に震えた。

彼の胸に仕舞われている”コアリリス”も急速に熱くなっていく。





”…ど、くん…”





”とくん……とくん……とくん……とくん”

”とくん……とくん……とくん”

”とくん……とくん”

”とくん…”



力強い脈動が一回。 そして、生命の息吹が吹きこまれたかのように小さな鼓動が始まった。

”白”は震えるように、その楕円に近かった丸いカタチを少しずつ変えてゆく。

とても柔らかく、しなやかに。

やっと与えられた自由を楽しむように、それは大きく伸びたり、縮んだり…

 さきほどの鼓動のゆったりとしたリズムに合わせて伸縮を繰り返している。

シンジはその様子を静かに眺めていた。

(ん?)

”くくっ”という小さな違和感。

不意に彼の胸に仕舞われていたネックレスが動き始める。

それは、ゆっくりと音もなく何かに引っ張られるような動きだった。

ペンダントに収められている紅玉…コアリリスは、

 シンジの黒い作業着の首元から出ると、彼の目の前にあるガラスに向かって浮かび上がる。

”チャリ…”

細やかなチェーンの擦れる音が、小さく耳に響いた。

紅玉は、ガラス管の白へ誘われるようにシンジの頭上へと運ばれていく。

それは、規定どおりと言えばいいのか…、まるで定例的な儀式のように迷いのない動き。

男の子が、自然と引き寄せられるようなその動きを静かに見守っていると、

 紅玉を護るためにデザインされた、折り重なっている一対の銀翼がまるで生きているように動き出した。

光を反射するその翼は、シンジの目の前でゆっくりと羽ばたくように微動すると、大きく開かれていく。


……この部屋の仄暗い光に浮かぶように煌くプラチナの翼が、ふわっとたおやかに美しい翼を広げた。


そして、その刹那。

”…ヒュン!”

翼の上に浮かんでいた優美な曲線を描く涙形の紅い玉は、まるで戒めを解かれたかのように、

 弾かれたような凄まじい速さで、厚いガラス管を無視して”白”の中に飛び込んで行ってしまった!


”…とくん …とくん …とくん  ッ!! と・く・ん…”


今まで一定のリズムで鼓動音を刻んでいた白は、紅玉を受け入れると、

 痙攣するように震えて、その伸縮していた動きが不規則に止まってしまう。


”…ドクンッ!!”


そして、”白”が一つ大きな脈動を起こすと、その白のカタチがゆっくりと変化していく。

鼓動する度に、徐々にカタチを形成していく様子を優しい眼差しで見守っていた男の子。

彼が身体の内面に違和感を覚えたのは、そんな時だった。

(…ん? なんだ?)

異変は突然に… そして、彼の予想を超える規模で襲ってきた。

(…あっ!! …うっ!!! な、ん …がッ! …う、ぬぅぅ …ぐぐぐ、がぁぁあああ!!!…)

…突然だった。 前触れがない、とはこういうことを言うのだろう…

シンジは、彼女と共に失った自分の”力”が一気に戻ってくるのを感じ取った。

ダムの決壊と言えばよいのか… これは、まるで止められない自然災害だった。


……圧倒的に巨大な暴力と化したこの圧力に耐えるのに、シンジはぎゅっと瞼を閉じた。


そのまま硬い床に”ガクッ”と崩れ落ちるように膝をついた彼は、

 左手に持っていた紅い本を床の上に落としてしまう。

ガクガクと震える自分の身体を抑えつけようと、両腕に有らん限りの力を込めて二の腕を護るように抱く。

彼の力は、持ち主の様子など無視するように、小さな身体の内側から溢れては楽しそうに踊り続けた。

それは、貯め込まれたダムが決壊して全てを洗い流す無慈悲な水の流れのように…

尽きることのない強大な奔流となって、彼の身体を乗っ取っていく。

(…だ、め、だ…)

男の子の意識は、電源を落とされたテレビのように…”ブッ”と消し飛んでしまった。



”…………ドサッ…”



倒れた拍子に彼が被っていた黒い帽子が、コロコロと力なく硬い床に転がっていく。


……それ以外、動くものはなかった。




…どれほどの時間が経ったのだろう…




……白銀の髪が薄暗い照明に照らされている。


男の子の瞼が微かに震えた。


(…ん、うん…)


彼は自分の意識が、深い眠りの海の底からゆっくり浮上するような心地良い感覚に身を委ねた。


小さく開いた口から、吐息が漏れる。

「…う、ん…」

(暖かい… 違う、温かい。 温もりだ… …とても、温かくて気持ちいい。 ここは、どこ?)


……男の子は、自分を包み込む心地良い、柔らかな温かさを感じた。


覚醒に向かって浮上を続ける意識。 

(もっと…このまま…)

そんな彼の望みを無視するように、だんだんと覚醒の境界線に近付いていくと、世界は眩しくなっていく。


シンジは、小さく瞼を開けた。

「う、ん…」


シンジの体感時間では一瞬のようであったが、果たしてどの位の時間が経ったのだろうか?

(アレ? ここ、どこだっけ?)

それほど、男の子の意識は白濁としていた。

ぼんやりとした瞳から入ってくるのは、薄暗い照明の頼りない光。


そして、視界のほとんどは”白色”だった。

(なんだろう、これ?)

ほんやりとした脳は、あまり上手く働いていないようだ。 自分の状態も良く分からない。

(えーと、なにか、大事なことを忘れているような気がする…)

シンジは、何とか首を動かそうとするが、余り動かすことができなかった。

それでも何とか自由になりそうな方向へ…右側にゆっくり捻ると、現れたのは紅い瞳だった。

男の子が、次に認識できたのは美しい蒼い色。


……どうやらシンジは、気を失って倒れた後、復活したレイに膝枕をされていたようだ。


彼が覚醒して、最初に見たのは彼女のお腹だったのだ。



レイは、優しい色を瞳に湛えたままシンジを覗き込んで、

 たおやかな腕で男の子の頭を優しく抱くようにしていた。

待ち望んでいた彼。 今は動かない彼。 しかし、彼女は彼を何物にも勝る宝物のように抱きとめていた。

そして、どれほどの時間が経ったのだろうか…

…彼の呼吸が少しだけ乱れた。

そう。 それは、シンジの意識が戻る兆候だった。



シンジは、意識を取り戻すと、何度か瞬きを繰り返した。

レイは、その様子を邪魔することなく、静かに見入っている。

(…よかった。 気がついたのね、碇君…)

彼は、ゆっくりと首をひねって、私の方を見た。

気だるそうな横顔から見えたのは、彼の澄んだ真紅の瞳。

(いかりくん…)

私は視線が合うと、おもむろにごく自然な仕草で、彼にゆっくりと顔を近付けた。

温かい男の子の頬に手を添えて、そして、瞳を閉じて…

まだ覚醒しきっていない、どこか”ボンヤリ”としている愛しい彼の唇を塞いだ。



”……チュ…”



(美しい蒼銀、 …蒼い綺麗な髪 …あっ?)

シンジは、ゆっくり近付いてきた蒼色をボンヤリ見ていたが、

 唇に触れた温かくてとても柔らかな感触に、ようやく意思をハッキリさせた。

『…あやなみ、れい。 …やっと逢えた。 …無事に僕の元に戻ってこられたんだね。 …逢いたかった。』

愛しいヒトを実感したシンジは瞳を閉じると、その瞼から澄んだ液体がつぅと静かに零れ落ちた。


……その頬を伝い描かれる一筋の線が、その静かな流れがレイの添えた手に優しく触れる。


『……いかりくん ……碇くん ……碇クン 碇君…』

再会するのに6年の歳月が流れていた。

そして、見た目だけは幼年の男女の逢瀬を邪魔するモノはいなかった。



互いの存在を確かめるようにしていた唇をそっと離すと、2人の間に銀色に光る柔らかな橋が1本架かった。

少し顔を赤くした男の子は、それでも微笑みながら彼女の薄桜色の唇に触れると、優しく拭ってあげた。

彼は、そのまま彼女の柔らかな頬にそっと触れて、”じっ”と彼女の美しい深紅の瞳を見詰めた。

シンジの視線に、レイは少しはにかんだ顔を下にして彼に触れられている頬を紅くした。

「…綾波?」

彼の声に、彼女は顔を上げて、透きとおった微笑みを浮かべる。

「…碇君。」


……シンジも彼女の微笑みを見て、自然と太陽のように温かで柔らかな笑顔になった。


…満ち足りた時間。 静かで温かな時間…


そのまま二人の時間を堪能した男の子は、彼女の太ももに預けていた頭をゆっくりと上げ、上半身を起こす。


「…あ、碇君、大丈夫?」

「うん、大丈夫。 平気だよ、綾波。」

「でも…」

気を失っていたのよ、と彼女の瞳が言っていた。

「うん、まさか…自分の力の復帰が、意識を失うほど強烈だとは考えもしなかったよ。

 せっかく君の復活に間に合わせてここに来たのに、結局、見守る事ができなかった…」

”…ふるふる…”

「…いい。 説明するから…」

女の子は、小さくかぶりを振って応えると、先ほどの顛末を彼に伝えた。

「…私の魂は、反次元虚数海に捕われてしまった。」

「あのディラックの海だね…」

「ええ。」

「綾波の意識は、あったの?」

「碇君の力に護られた私の意識は、あったと思う。」

シンジは、彼女に向き合うように座りなおした。

「…でも、とても曖昧な感覚だった。

 一瞬のようでもあり永遠のようにも感じた。 時間の概念を失ったのかもしれない。」

シンジは、あぐらを組んだ自分の足に目を向けて、彼女の話を静かに聞き入った。

「そして…呼ばれた気がしたの。」

レイは、シンジの力によって消滅から護られていた自分の”魂”に、

 結晶となり彼の側にいたその”心”が戻ってくるのを唐突に感じた。

そして、今の時代に生まれた魂の意識である自我と融合して自分の”カタチ”を再構成する事が出来た。

「それは…感覚がハッキリしていく、とてもすっきりとした感じ。」

「うん。」

「そして、私は構成した身体をチェックしたわ。」


……レイは、身体の違和感というものを覚えた。


この身体が前と違い、さらに力あるモノに成っているのを感じたのだ。

つまり、愛する少年の力が加えられているのだと。

(…あ、碇君が近くにいる。)

自分の近くに彼がいると感じた彼女は、喜びと共に瞼をゆっくり開けて、この世界を初めて視認した。

しかし、喜びに溢れた紅い瞳が最初に映したのは、微笑みを浮かべて自分を見てくれる彼ではなかった。

彼女の瞳が映した光景は、あろうことか…

 愛する男の子がもがき苦しみ、まるで糸の切れた人形のように崩れて、喘ぎながら倒れる姿だった。


(…え?  ッ! …えっ! だ、だめ!!! …い、碇君! …碇君! いやっ! 碇君!!)


……想像もしていなかった場面に、レイは一瞬頭が真っ白になってしまった。


そして、自身の瞳に映る映像をようやく咀嚼できたレイは焦った。


普段、冷静な彼女には似つかわしくないほどの動揺。

過去と言えばよいのか…

前史、ダミープラグの開発やその他諸々の実験のため、

 膨大な時間を過ごしたこのガラス管から出る術が頭の中から消え去るほど、

  彼女の意志は散り散りに乱れていた。

(だめ、だめ…)

床に倒れ、ついに動かなくなってしまった彼。

(…碇君…)

それを見たレイは、LCLに涙を溶かしながら、
 
 無力な子供のように何度も何度もガラス管を叩いて彼の名を呼び続けるしか出来なかった。



さて、主人が倒れてしまったのに、あの二人は何をしているのか…と言うと。

マスターのサポートに使命感を燃やすドーラは、シンジが倒れたことに動揺してフリーズしており…

彼の面倒をみることに至福を感じるリリスは、彼の乱れた波動に向かって何とか干渉をしようとしていた。


それでも最初に動いたのは、いち早く冷静さを取り戻したドーラだった。

(レイ様?)

彼女の瞳となっているPDAのカメラにレイが映っていた。

ドーラはこの部屋のシステムに侵入すると、一瞬で制御の主権を奪い取ってガラス管のLCLを排出させる。

”ごぽんっ”

ガラス管に響く音に、レイは彼を見詰めていた瞳を上に動かした。

液面が見る見る下がっている。

自分ではない誰かがLCLを抜いてくれたようだ。

それを頭で理解すると、彼女は足元にある操作スイッチに手を伸ばした。

(排出速度を最大に…)

身体に多少の負荷が掛かるが、そんなことは言っていられない。


”ごぼごぼごぼ…”


あっという間に液体がなくなるとレイは次のスイッチに触れようとしたが、

 彼女が操作する前に円筒形のガラスは上方へスライドしていった。

(だれか、いるの?)

蒼銀の女の子は、一瞬だけ周りに目をやったが、人影は認められなかった。

(碇君!)

次の瞬間、レイは彼に向かって全力で駆けていた。

(碇君!)

間近で彼を見る。 白銀色の髪、白すぎる肌。 少し眉根を寄せ、苦しんでいるかのような表情。

”ぽたっ”

おずおずと伸ばした彼女の手からLCLが滴る。

それが彼の頬を濡らしたが、シュ…と煙のように消えてしまった。

ここのLCLは冷却用やエントリープラグ用のLCLとは精製方法が違い、

 空気に触れるとまるで蒸発するように乾燥していく。

”…ぴとっ”

レイの手が彼の頬に触れる。

(あたたかい…よかった。)

彼は生きていた。 ほっと胸を下ろすと、レイの中で張り詰めていたモノが弾けた。

(あ…)

心を強く動かしたそれは、まるで津波のように彼女を翻弄させると、その瞳から止め処なく涙を溢れさせた。


(…う。 …うぅ。 …ぅ…ぅ…ぅ…)


PDAに戻ったドーラが見たのは、

 蒼銀の髪をした幼年の女の子が倒れた男の子に泣きながら縋るように抱き付いている光景であった。


レイは涙を流したまま、愛する彼の名を口にする。

「碇君…」

彼は、その呼び掛けに応えることはなかった。

女の子は、意識を失っている男の子の胸に耳を当てて、彼が生きている証である心臓の鼓動を聞いた。

(温かい…)

定期的なリズムを刻むその音を聞きながら、彼女はそっと瞳を閉じる。

10分ほどだろうか、短いとも長いとも思えない時間。

シンジを感じてやっと落ち着いた彼女は、むくっと上半身を起こした。

今の彼の表情は、先ほどの苦しむような色はない。

レイはそれを見ると、男の子の頭を静かに持ち上げて太ももの上に優しく導いた。

男の子の顔を自分の腹の方へ向けさせると、そっと包み込むように抱いた。

愛しいヒトが目覚めるまで、あらゆるモノから護るように。

”ぎゅ…”

(もう、離さない。)

レイは知らず、彼の頭を包む腕に少しだけ力が入った。



「…そして、碇君が目覚めた。」

「ごめん。」

「なにが?」

「いや、心配させちゃって。」

「…いい。 どれだけ碇君が大事か、再認識したもの…」

レイは、ポッと頬を染めて下を向いてしまう。

そんな彼女をシンジは顔を上げて嬉しそうに見たが、ふと我に返る。

(アッ! …あ、ああ!!)

「あっ あの! …ご、ごめん!!」

バッと音が聞こえそうな勢いで、突然と男の子は顔を背ける。

レイは、顔を上げて彼を不思議そうに見詰めた。

「…どうしたの?」

「あ、え、と…」

男の子は、顔だけではなく身体も捻って彼女に背を向けると、どこか慌てた様子でリュックをあさり始めた。

「…碇君?」

チラッとシンジが振り返ると、蒼銀の幼女はどこか不安げな表情だった。


……今のレイの容姿は、紅い本の幼女と全く同じであるが、もちろん全裸である。


「あ、あのね…あ、あった!」

シンジは、リュックの中から白衣を取り出すと、彼女を見ないように顔を横にしたままそれを差し出した。

「…こ、これを着てよ、綾波…」

それを、”じー”と見るレイは小首を傾げる。

「…なぜ?」

なぜ、服ではなく白衣なのか? 言葉が少なくてもシンジにはちゃんと伝わった。

「その…ちゃんとした洋服を持って来たかったんだけどね…

 とうさんは別にいいとしても、冬月さんとかが不審がると思って。

 だから、白衣ならいいかなって。 ごめん、こんなモノで… でも、その…」

「…そう。 分かったわ。」

彼の差し出した白衣を受け取って、レイは立ち上がった。

シンジは顔を赤らめたまま、着替えている彼女の方を見ないようにそっぽを向いている。


……なにを今更、と思うが。


レイは畳まれた白衣を一度解くように広げると、それを羽織って袖に腕を通した。

(ん? あれは…)

そっぽを向いているシンジは、壁際のパイプ椅子に使い古された白衣を見付けた。

先ほど冬月が脱ぎ捨てたものである。

(…あれを回収すれば辻褄が合うね。)

男の子は、すくっと立ち上がると、

 パイプイスの上に無造作に放置された白衣を適当に畳んで、ザックに仕舞った。

(着替え終わったかな?)

ちらっとレイの方を向くと、彼女は”じっ”と自分を見ていた。

(ん?)

それは、どこか寂しげな表情だった。

(どうしたんだろう?)

女の子は、シンジと目が合うと彼を見ていた視線を足元に落とした。

(我儘だって、分かっている。 けど…)


……時空、時間、次元を乗り越えてやっと逢えたのに、もう帰ってしまうのか…という想いであった。


そんなレイの心の波動を感じたシンジは、微笑みながら言う。

「綾波、確かに前史では僕と君が逢うのは、さらに数年先になっちゃうね…」

”ビクッ”

男の子の言葉に、彼女の小さな肩が少し震えた。

少しだけ顔を上げて男の子を見る彼女の深紅の瞳には、悲しみの色が混じっている。

「…NERVで使徒と戦う時、僕らが動き易くなるようにちょっとした事を企画したんだ。

 そこにある紅い本…リリスと、初めまして、だったよね? …PDAのドーラに協力してもらってね。」

シンジはレイの方に歩み寄りながら、床に落としてしまった紅い本を拾って、

 紅い本と腰のベルトに付けていたPDAを彼女に見せた。

シンジから本を受け取って開くと、そこには腕を組んで立っている幼女がいた。

『…改めて、お久しぶりね。 レイちゃん、私のこと憶えている?』

『ええ、もちろんよ。 あなたのこと、憶えているわ。』

リリスの挨拶に、レイはこくっと頷いて答える。

紅い本の彼女は、少し硬いものがあった。 なぜなら…

シンジとの恋のライバルを自称するリリスは、

 どうやって挨拶をすれば自分が有利になるのか、ここ最近ずっと頭を悩ませていたのだ。

しかし、さっきシンジが倒れた時に、そんな事は綺麗サッパリと消えて、必死に彼に波動を送っていた。

そして、主人を必死に呼び掛けていれば、いつの間にかレイがいて…

あっという間に、二人だけの世界を創られてしまった。

彼女の創り出す雰囲気は、まるでATフィールドよりも強力な絶対不可侵領域のようであり、

 そんな場面にリリスは何も出来ずに、どうしようと考え込んでしまったのだ。

(まだ挽回できるもん。 見てなさい…)


……リリスは取り敢えず、ここでは休戦を選んだようである。


シンジは次にPDAをレイに手渡した。

『初めまして、レイ様。 …ユグドラシルシステムが一部、ドーラでございます。』

『…初めまして、ドーラ。』

レイは、PDAから出る礼儀正しい波動を感じて、先ほどの事を思い出す。

「…あなたね? 私をあそこから出してくれたのは…」

「はい、そうでございます。 …対応が遅れ、申し訳ございませんでした。」

”ふるふる”

謝らないで、とレイは首を横に振った。

紅い本とPDAと挨拶を交わしたレイは、それをシンジに返すと、先ほど彼が言っていた事が気になった。

「碇君…」

一歩近付いた女の子は、男の子の作業着のような黒い上着の袖を掴んだ。

「うん?」

レイは少し顔を上げて彼の瞳を見た。

「…企画って?」


……現在、男の子は女の子よりも頭一つ大きく成長していた。


「あ、うん。 前はあやふやだった階級をちゃんと手に入れようと思ってね。

 …今年の10月にスタートする国連軍のプログラムに参加するのさ、君もね。」

彼女の真っ直ぐな瞳を受け止めたシンジは、レイの腰にそっと腕を回すと優しく抱きしめる。

「あ…」

男の子は、女の子の肩に顔を埋めるようにした。

「ねぇ、綾波?」

耳に彼の吐息がかかると、彼女は少し擽ったそうに応えた。

「ん。 …なに?」

「これから君が覚醒した事を、とうさんに知らせる。」

その言葉に、レイは驚いたように顔を上げる。

「…え!?」

前の生活を思い出した彼女は、少し瞳を大きくしてシンジを見た。

「ふふっ。 …大丈夫だよ、綾波。 …僕が還ってからの歴史は、もう前と違うんだ。

 とうさんは、僕がヒトではない”力あるモノ”っていう事も、

 君が僕の大切なヒトって言うのも知っているし。

 何よりも、かあさんを失ったあの狂気に支配されていないんだ。

 だから、君を束縛したりはしないよ、絶対に。

 …かあさんは、前史どおり初号機のコアに魂としていて貰っているけどね。

 そうしないと、僕とNERVの関わりが弱くなっちゃうからね。

 とうさんには、使徒戦争時のタイミングを見て、サルベージするって約束しているんだ。」


……レイはシンジの言葉から、”今”を少しだけ理解した。


「これからマルドゥック機関が創られて、君が最初のチルドレンとして登録されるのは、前史どおり。

 でも、死海文書のシナリオに沿って…前みたいに、

 数年間、この第3分室と実験施設を往復するような生活にはならないし、そんなこと…僕がさせないよ。」

「碇君…」

レイは彼の言葉に、知らず耳を染めた。

「さっきも言ったけれど、10月から国連軍へ出向してもらう。

 ”国連軍次世代特別将校養成プログラム”って言うのに参加するんだ。 …僕と一緒にね。」



………執務室。



”プシュ”

ドアが横にスライドすると、ロマンスグレーの髪をオールバックに整えた男が入って来た。

その人物は、書類に目を落としたまま歩いて片隅に用意されている応接コーナーに足を向けた。

そこには彼の予想どおり、大柄な男がソファーの上で仮眠をとっていた。

(確認せずともお互いを知る仲、か。 この男とそういう関係になるとはな…)


……冬月が一瞥したこの部屋は、ブラインドが降りていて薄暗かった。


時刻は6時45分。 ゲンドウが仮眠してからまだ2時間30分も経っていなかった。

「碇、おい、碇。 起きろ! …やっとだ! やっと変化の兆しを見せたのだ!!」

冬月はソファーの男を強引に揺すって強制的に覚醒させた。

「…ぐ…ぬ? …ふ、冬月?」

起こされた方は、前後不覚といった様子だったが。

「…な、何だ?」

「見てくれ! …あの”白”に変化が訪れたのだ!」

コウゾウはそう言うと、右手に持つ書類の束をゲンドウにやや乱暴に渡す。

強引に渡された書類に、寝起きの男は訝しげな表情で目を落とした。

「…よく分からんな。」

コウゾウはやや呆れたような顔で、小さく肩を落とした。

「…おい、碇、眼鏡はどうした? ん?」

「む、分かっている、冬月。」


……どうやらゲンドウは寝惚けていたようだ。


「分かるか、碇? この数年という時間、全く変化の兆しさえなかった実験データが突然的に動いたのだ。

 まだこれから詳細は分析しなければならんが、その結果によっては大きな収穫になるかも知れんぞ。」

静かに書類に目を通す男に、冬月が説明を加える。 その彼の瞳は歓喜に満ちたモノがあった。

「…先生は、自我が… あの”白”に意識が芽生えたとでも?」

「それは、まだ分からんが… 

 間違いなく、ナオコ君が見出したLCLによる精神パターンの送信、それに因る影響だと思うがね…」


”…ピピピ、ピピピ、ピピピ…”


目覚まし時計の音に似ているが、この電子音はゲンドウの端末に新たな情報が入ったという知らせだった。

サングラスの男は、取り敢えずその書類を応接用のテーブルに置くと自身の机に向かった。



………ドグマの部屋。



ゆっくりと、柔らかな蒼い髪を梳く。

その優しい感触に、女の子は瞳を閉じて心地良さ気にしていた。

…今、彼らは寄り添うように座っている。

欠けていた心を満たすような優しく柔らかな時間。

確かに感じる幸せ。

シンジは何となくではあるが”本当の補完”とは、こういったモノなのではないか、と思ってしまう。


……何時までも、こうしていたいのが正直な気持ちだったが、シンジはドーラに母宛のメールを頼んだ。


「ドーラ、”白”に変化あり、覚醒したって、とうさんにメールするように、かあさんに伝えて。」

「畏まりました。」

シンジは、レイの腰にやった腕に力を入れて、彼女を再び抱き寄せた。

「あ。」

男の子は立ち上がると、彼女に手を差し伸べた。

「…さ、綾波。」

レイの指が彼の手に触れる。

「また、直ぐに逢いに来るよ。」

シンジは、彼女の手を包むように優しく握ると、女の子が立ち上がるのを助けながら言った。

「それじゃあ…また、後でね。」

男の子は、優しげな瞳で彼女にそう言うと、彼女から数歩離れた。

そして、彼の身体の輪郭が次第に淡く光りだす。

レイは、静かにシンジを見詰めていたが、彼を止めるように”ボフッ”と勢いよく抱きついた。

「…いや。」

意識はなかったが数年間という時間、彼女は彼の胸にずっと抱かれていたという感覚を確りと憶えていた。

その何物にも代え難い甘く温かで幸せな感覚を知った彼女にとって、シンジと離れるという事は、

 例えそれが僅かな時間であろうが、簡単に看過できる話ではないようだ。

そんな彼女の心の裡を知らないシンジは、少し困惑してしまう。

「…あ、綾波?」

”ふるふる”


……頭を振るレイは、彼の背に回した腕にぎゅっと力を込めた。


「ん…でも、あとちょっとで…とうさんと、たぶん冬月さんがここに来ちゃうよ?」

時計の針は9時に届きそうである。


……この二人は、2時間近くも何もせずに”まったり”とした時間を楽しんでいたようだ。


実際、彼の言ったように、あと10分ほどの距離をゲンドウと冬月は並んで歩いていた。

「…碇君は?」

「え?」

「…平気? …いいの?」

レイは、男の子の胸に埋めていた頭を上げる。

「綾波…ぅ…」

上目遣いで少し潤む深紅の瞳が彼を捉える。

「…うぅ。 もちろん僕だって…もう綾波と離れるのは嫌だよ?」

「なら…」

さらに潤むルビー色が、一緒にいて…と訴える。 それに抗えるシンジではなかった。

「…うん、分かった。 …じゃ、僕は綾波の後ろにいるよ。 それでいい?」

”…コクリ”


……やっと納得してくれたようだ。


後ろに立つと言ったシンジは、徐々に空気に溶けるように霞んでいく。

(そこにいるのね…)

目に見えなくなってしまったが、彼の存在と温かな波動は、確りと背に感じることが出来た。

レイは、瞳を閉じて彼に背を預けると、大人たちの到着を静かに待った。


……しばらくすると、閉じられていた扉が動いた。


”ガシュッ! …ゴゥン!”


そして、隣の第3分室からこちらを窺う人の気配を感じる。

(この感じは、碇司令?)


……レイは、波動で人の位置や感覚が掴めるようになっていた。


黄色い眼鏡を掛けた男性は部屋全体を窺うように、慎重な足取りで人工生命体創造実験室に入って来る。

「これは…」

呟いた男の後ろから初老の男性の声が漏れた。

「碇… …どうした?」

驚きに瞳を大きくしたゲンドウは返事をしない。 …いや、正確には、出来なかった。

なぜなら、中央のガラス管が普段と違っていたからだ。

(開いているぞ…なぜだ?)

ガラス管は破壊されたわけではない。 ちゃんとスライドして空いている…

LCLも漏れた様子がない、ということは、排出口から吸い出されたということだろう。

冬月がそれをしたはずはない。 彼は先ほど変化が起きたということしか報告しなかったから。

…では、誰かがシステムを不正に操作したのか?

空になっているガラス管から瞳を動かし、薄暗い照明に照らされている部屋を見渡す。

(それに、あの白はどうしたのだ?)

そして、右側の壁際に置いてあったパイプイスの横に、影の中に白衣が立っていた。

(なっ!!)

初めて自分たち以外のモノがいると知ったゲンドウは、驚きに瞳を大きくした。

そして、彼が見たのは、息子と同じような紅い瞳だった。

「俺も部屋に入るぞ…どうした、碇?」

部屋に入ったコウゾウは、男の視線を追うように首を動かす。

「な! これはっ!!」

彼も口を開いて目を大きくした。

それは、周りの暗さから浮き出るような白い肌。

「おまえは…何者だ?」

一歩近付いて、よく見ようと目を細めるように凝視したゲンドウの出した声は、

 口が少し動いただけで、音として空気を震わせる力はなかった。

だからか…男の瞳に映る蒼銀の小さなヒトガタは、当然のように何の反応も見せなかった。

さらにゲンドウは近付く。

自分に近付く人影を始めて認識したのか…その女の子は、初めて顔を動かした。

ゲンドウは、そのまま数歩…ゆっくりと引き寄せられているかのように足を動かす。

彼女の顔を確認できるほどの距離で男は立ち止った。

(…? この顔は?)

「きみは? …だれだ?」

ゲンドウは、どこかで見たことがあるというデジャブを感じる。

「…きみは? だれだ?」

突然、目の前の幼女が口を開いて、ゲンドウの言った言葉を繰り返した。

その女の子の声は抑揚がなく非常に小さな音だったが、冬月コウゾウは驚きを隠せなかった。

「なっ!」

(言葉を学習したのか? いやいや…音を真似ただけだろう…)

そう考えながら、コウゾウはゲンドウの横に立って女の子を見る。

「碇、これは…」

「ああ…」

二人の男は、お互いに思案に暮れるような眼を交差させる。

「…なに?」

「「!!」」

言語を理解しているという事実にゲンドウもコウゾウも揃って驚いた。



大人たちの驚愕に満ちた視線の先のレイは、誰にも見えない後ろの彼に優しく抱き締められている。

『…ねぇ、ちょっと驚かせてあげようよ、綾波?』

つい先ほど、彼にこう波動で囁かれたので、彼女は少しからかうように言葉を発していたのだ。

ゲンドウが驚こうか驚くまいが如何でも良いのだが、シンジの望みを叶えるのに否やはない。


……そんな息子の悪戯に踊らされているゲンドウの頭はフルスロットルで回転中であるが。


(どうすれば良い? …落ち着け。 …彼女はあの白の巨人なのか? 本当に言語を理解したというのか?)

ゲンドウはどうすればいいのか必死に考えていたが、横の老人が無用心に喋ってしまう。

「碇、この子は、あの白なのか? こんな短時間で何という変化… 有り得ん…

 まさか! …あの白い巨人、リリスなのか?」

(…くっ! 相手がこちらの言葉を理解できるかも知れんのに不用心すぎるぞ、冬月!)

ゲンドウは心の裡で舌打ちをするが、その”リリス”という単語を聞き、熱した頭が急速冷却される。

(り、リリスだと? リリス! …そうか! 見た事があると思うのも当然ではないか!

 過去に見せてもらったシンジの本の娘にソックリではないか。 …と、言うことは…この娘が!)

「い、碇? どうした? 何を”ぼおっ”としている? これが白だとすれば、色々調べんといかんぞ?」

「…ああ。」

「それに…上手くすれば、我々の計画に必要なEVAの適格者と成り得るかも知れん。」

コウゾウは興奮しきりであった。


……ゲンドウは、小さな女の子を見たまま言葉を選ぶように少しゆっくりとした口調で喋り始めた。


「…冬月先生、まずは落ち着いて下さい。 …この娘は、間違いなく”神の約束の巫女”でしょう。

 先生の仰るとおりの適格者であるならば、我々の計画を遂行する上で非常に重要なファクターとなります。

 そして、彼女を上手く育成することが出来れば、予見された使徒との戦争に間違いなく役立つでしょう。

 ゼーレの老人達には、”最初の適格者”が見付かったと報告して、

 情報操作のために、非公開組織を結成するように提唱します。

 いずれにせよ…この娘は、間違いなく我々の切り札となるでしょう。」

ゲンドウは、シンジに教えもらった前を思い出して、様々なシナリオを描きながら冬月に喋っている。


……男の視線の先にいる女の子は、シンジと他愛のないお喋りをしているのだが。


『綾波って、演技が上手だねぇ。 僕、知らなかったよ。』

『…演技、知らない。』

『でも、僕が言わなくても、とうさんをアソコまで混乱させられるんだもん、大したものだと思うよ?』

『…そう、良く分からないわ。』

『…ふふっ。 …聞いていると、どうやらマルドゥック機関を創るようだね、歴史どおりに。』

『…碇君、どうすれば良いの?』

『そうだね〜 とうさんは冬月さんが”リリス”って言った単語で、”キミ”に気付いたみたいだね。』

『そうなの?』

レイは、ゲンドウを見て少し小首を傾げた。

『さっきさ…”神の約束の巫女”とか”最初の適格者”ってわざわざ考えながら言っていたじゃない?

 もしかすると、僕が前に言った事を思い出したのかな…』

『…言ったことって?』

透明なシンジは、彼女を優しく包みながら波動での会話を続けた。

『うん、冬月さんの実験は僕の大事な娘の為に、絶対に継続してもらうってね。

 まぁ…その結果は、彼の望むものではないけど。

 さっきも言ったけれど…とうさんは、君の事をある程度、僕から聞いているんだ。

 将来を約束した娘のために、僕が時間を遡ってきた事と…

 そして、その娘は第18使徒リリンのルーツであるリリスの肉体から誕生するという事を。

 とうさんは、もしかしたら僕がこの部屋に居ることすら気付いているのかも知れない。

 …さすがに頭の回転が速いね。』


……僅かな時間ではあったが、しん、とした静寂。


それを破ったのは、ゲンドウの言葉から思慮に暮れていたコウゾウだった。

「…ふむ。 この部屋の状態から、ほぼ間違いなく彼女が先ほど変化を見せた白なのか…

 データの報告に上に戻ったばかりに、それを見る機会を逸するとは……」

どのように白が女のヒトガタへ変化していったのか見られたのに、と冬月はがっくりと肩を落とした。


……その隣のゲンドウは、彼女が彼女であると分かったので、ここにシンジがいるのではないかと感じた。


(この娘は、アイツが自分の存在理由のように大事に想っている娘のハズだ。

 という事は、間違いなくここに居るのであろう…

 見えないという事は、隠れているというワケではあるまい。

 彼女と共に失ったという、シンジの力。 …自分本来の神の力を取り戻したということだろう。

 となると先程のメールは、ユイからというよりは、シンジだろう。 …この部屋に私を呼んだのは。)

ゲンドウは、女の子を見ていた視線を冬月に向けた。

「…基礎的な精神パターンのデータを利用してヒトガタを形成したのかも知れませんが、

 今は”神の意思”と理解しておきましょう。

 我々は老人達と違い、神に祝福されているのかも知れませんよ、冬月先生?」

「碇、お前は無神論者ではなかったかね? …そんなお前が、これを神の意志と言うのか?」

「先生、私は目の前で常識では計れない事象が起きた時、次元の違う存在の可能性を考慮しただけですよ。」

ゲンドウは冬月との遣り取りを終わらせて彼女たちに向いた。

「…名前はあるのか?」

「碇、なにを言っている? あるわけなかろう?」

初老の男性は、バカバカしいといった表情で黄色のメガネの男を横目で見る。


……しかし、目の前の女の子は、冬月の言葉を無視して口を動かした。


「…綾波、レイ。」


「「!!!」」


彼女の鈴の転がるような声に、二人とも驚く。

ゲンドウは右手の中指でメガネを掛け直しながら言った。

「…では綾波レイ、私と一緒に来なさい。 …君が生きるために必要なものを用意させよう。」

『…碇君、司令はあなたに気付いているわ。』

『そうみたいだね。 じゃ、一緒に地上に戻ろう、綾波。』

コクリ、と女の子は小さく頷いた。

「…いいわ。」


返事を受け取ったゲンドウは、この部屋を一瞥すると、隣の冬月に耳打ちした。


「…冬月。」

「ん、なんだ?」

「上に戻ったら最優先で実行してもらいたい事がある。」

コウゾウはゲンドウに向いた。

「何だね?」

「まず、彼女の出生についての問題を解決しなくてはならない。」

「ふむ。 彼女の戸籍を偽造するのだな?」

「その偽造データの作成にあたっては、彼女の情報漏えいに繋がる余計な経歴など一切不要だ。」

「それで大丈夫なのか?」

「最初から経歴がないと考える人間はいないさ。」

「つまり、抹消されたものだと思わせるのだな?」

「ああ、そう勘違いさせておけばいい。 それを以って最初の子供として登録する。」

「EVAの適格者、発見される、か…」

冬月は腰に手をやり、女の子を見た。

「…それで老人達は、納得するのかね?」

冬月の問いに、ゲンドウは口の端をわずかに上げた。

「それこそ、彼らはシナリオの遂行に都合が良い報告だと判断するだろう。

 老人たちは、自分たちのシナリオを確実に実行するために、

 人の意思を反映できる人造使徒を欲しがっている。

 だから、アダムベースではあるが…ここと同じ実験をドイツで実行しているのだからな。」

ゲンドウは、顔を女の子へ向ける。

「待たせてしまったな、綾波レイ。 では、行こう。」

歩き出した男の背を見て、レイは彼らの後ろについた。





マルドゥック機関−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−








………部屋。



地下から戻ったゲンドウたちは、職員に見つからぬように所長室へ戻っていた。

そして、彼女を所長室の隣にある控室へ通した。

そこは突然と変容してしまった息子のために、ゲンドウがユイと共に病理設備を整えた部屋であり、

 また、シンジがかつて逆行した直後の数ヶ月間だけ生活した部屋でもあった。

「綾波レイ君、キミはしばらくの間、この部屋で過ごしたもらう事になる。」

女の子は部屋の中へ数歩入ると、窓の外に目をやった。

”キィ…パタン。”

その様子を見てコウゾウとゲンドウはドアを閉めて、所長室の応接セットに座った。

「碇、私はこれから戸籍データの作成をする。 だから…」

「…ああ、彼女のデータの収集はすぐに実行する。」

「…よし、では頼んだぞ。 くれぐれも取りこぼしのないようにな…」

「分かっている、冬月。」

初老の男性は立ち上がると、いつものように腰に手をやり自身の執務室へ戻って行った。

彼がどこか詰まらなそうな雰囲気だったのは、彼女の生体データの抽出や分析を自分で行えなかったからだ。

自分の実験の成果とその延長なのだから当然自分でする、と頑なに異を唱えていたが、

 まずは対外工作を、とゲンドウに説得され渋々とその役を彼に任せたのだ。

所長室のドアが閉まるのを見たゲンドウは、肩の力を少し抜いた。

(ようやく行ったか… じいさんはしつこい。)

小さく首を横に振って、男は再び控室に入って行った。


”コンコン…カチャ…”


控室のドアを開けて中を見ると、予想どおりの人物がいた。

「…久しぶりだな。」

息子だった。 彼女と並ぶように彼はベッドの傍らに座っている。

「…やっぱり気付いていたんだね、とうさん。」

「ああ。 シンジ、彼女がお前の言っていた娘なのだな?」

「うん、そうだよ。 僕の大事な人…綾波レイ。」

”僕の大事な人”

その言葉を聞いたレイは少し俯いてしまう。 

よく見れば、彼女は照れているのか、ほんのりと頬を染めて嬉しそうな顔であった。

「シンジ、確認だが…この娘をお前の教えてくれた未来のとおり最初の適格者として良いのだな?」

「うん、構わないよ。 …でも、今年の10月から国連軍に出向させて。」

「国連軍だと?」

父親の問いた気な視線に、シンジは手でストップという仕草で答える。

「…あ、詳しい内容は、後でメールするから。」

ゲンドウは頷いて、話題を変えた。

「そうか、分かった。 …冬月の期待する”適格者”となった彼女のデータは、どうする?」

「綾波のデータは、ドーラに用意させるよ。 基本的には地下のと同じだけどね。

 ああ、そっか。 アレもか…」

瞳をつぶった息子に、父ゲンドウが言う。

「…ダミーシステムの開発はゼーレによって、すでに決定されている。」

「そう…もう計画されているんだよね…」

シンジは少し考えた。

「ダミーシステムの開発は適当なデータをドーラに作ってもらうよ。 それをゼーレに渡せばいいさ。」

「それでいいのか?」

「うん。 どうせ向こうも向こうで開発しているんだろうし…構わないと思うよ。」

「そうか。 あとお前に必要なことはあるか?」

「うーん… さっきの部屋でもう一度リリスの細胞を培養しておいて。

 それがあれば、ダミーシステムのことも諜報の目も誤魔化せるでしょ…」

レイは、この遣り取りをしているゲンドウを静かに見ていた。

(…違う。 碇君の言ったとおり… この人、私の知っている司令ではないわ。)


……彼女は瞳を閉じると、横に座っている男の子の肩に凭れ掛かった。


彼女がやおら体重を預けると、シンジは彼女の細い肩に腕を回して優しく抱き寄せてあげた。

「…どうしたの、綾波?」

レイはシンジの肩に顔を埋めるように”ぴたっ”と頬を寄せた。

「…ちょっとだけ、疲れたの。」

「…じゃあ、横になった方が良いんじゃない? 僕と、とうさんは隣の部屋にいるから。」

「…ううん、碇君はここにいて。」

「…そ、そう?」

蒼銀の幼女の様子を心配そうに気遣う息子を見た父は、何となく二人の邪魔をしているような気がした。

「…シンジ、私は隣の部屋にいる。 ……詳しい話は、追って端末に送信してくれれば良い。」

そう言ったゲンドウはクルッと踵を返して、この部屋を出て行ってしまった。

二人きりになった部屋。 シンジはレイの顔を覗き込んだ。

「どうしたの、綾波? 大丈夫?」

「…不思議な感覚。 …知っているのに、知らない碇司令…」

「でも、間違いなくあれも碇ゲンドウだよ。 綾波が感じている違和感は、たぶん心だと思う。

 ま、人間の心っていうのは、状況によっていくらでも変わってしまうものなんじゃないかな?」

「そう…そうね。」

「僕たちの事、とうさんには言ったけれど副司令の冬月さんには一切話していないんだ。

 …だから、何か困った事があったら僕かとうさんに相談してね?」

「ええ。」

シンジは、レイの白衣を見て彼女に提案をした。

「ねえ、綾波?」

「なに?」

「いつまでも白衣ってワケにもいかないよね… 入院患者でもないんだし。」

「そうね。」

「キミの着る服をネットで注文しようよ?」

「いいの?」

「もちろんだよ。」

シンジは、遠慮がちな目で自分を見る彼女ににっこりとした笑顔で答えると、PDAを手にした。

「さっそくドーラに頼もう… ってさっきから頼み事ばかりだね。 大丈夫かな? ごめんね、ドーラ?」


……主人の言葉に、PDAが瞬間的に反応する。


その画面に映ったのは、にこやかな大人の女性。

「いいえ、マスター。 その程度、私にとっては少しの負担にもなりません。

 ではまず、レイ様の洋服をお選びいただいている間に、偽装データの案を創ります。

 マスターの確認と修正、決定を得ましたらゲンドウ様に送信致します。

 それ以外に、何かございますか?」

「あ、うん。 それでお願いするよ。」

主人の了承の返事に、ドーラはさっそくPDAの画面に通信販売のサイトを表示していった。

それは見た事もない、かなり高級そうな洋服ばかりだ。


……表示される洋服を二人はしばらく”じっ”と見ているが。


「碇君、どれが良い?」

「え? う…う〜ん。 僕、洋服ってよく分からないんだよね。」

思わず苦笑するシンジ。 それを見たレイも少し眉根を寄せた。

「私もよく分からないわ…」

さらに画面を展開させると、シンプルというよりはかなり上品で清楚な感じの洋服が溢れる。


……ドーラの選んだショップは、全てレイにマッチするであろう洋服ばかりを取り扱う店ばかりだった。


「これも、これもいいんじゃないかな? …う〜ん。 これ全部、綾波に似合うと思う…」

シンジは、隣の幼い容姿のレイと画面に表示されている洋服を頭の中でイメージする。

「うん、どれ着てもとっても可愛くなるんじゃないかな…」

そんなことを言った彼の顔は、知らずとても幸せそうな顔になっていた。

「な、何を言うのよ…」

彼女はそう言ったが、その表情は満更でもなさそうである。

しばらくPDAの画面を見たシンジは、妙案を思い付いた、と顔を上げた。

「ねぇ、綾波?」

「なに?」

「リリスに手伝ってもらおうよ。」

「リリスに?」

「うん。 ねぇ、リリス? 綾波の洋服を選ぶのを手伝って欲しいんだけれど…」

『ふぅ、いいわよ。』

紅い本は、どこか呆れたような、やれやれと言った波動であった。

『さ、レイちゃん、私と選びましょう。 残念ながら、こういった事にしんちゃんは戦力にならないわ…』

そんな彼女は今までとは少し雰囲気が違った。 どこか頼れるお姉さん風の口調、というか波動。

どうやら、レイをライバル視していたリリスは方針を転換したようだ。

…どうも大好きな彼の妻的なポジションは無理そうである、と。

ならば、その妻を指導できる家族…出来ればシンジの姉というポジションへ。 

そんな帰結に至った紅い本は、ふわっと浮かんでドーラの画面が見られる場所へ移動した。


……主人の力の復帰に伴い、彼女の力も元に戻ったようだ。


『さてと…ドーラも手伝うんだからね。』

「ええ、もちろんですわ。」

ドーラもバックグラウンドでシンジに頼まれたデータを作成しているはずであるが、にこやかに答えた。

レイは、シンジからPDAを借りて画面に触れた。

「…これ、どう?」

女の子が選んだ服に、コーディネーターとなった紅い本とPDAが採点と修正を加える。

『う〜ん、そうね。 それに合わせるなら、こっちかな…』

「色彩が派手になりすぎます。 レイ様、こちらの方が色のバランスが良いと思います。」

「そう。 …ではこれは?」

ページを捲っていくと、洋服から下着のコーナーになっていく。

『下着はねぇ…』

「これはいかがでしょう?」

PDAに表示されたものを見て、レイは少し頬を紅くしリリスは感嘆の息を漏らした。

『ほぉー やるわね、ドーラ…』

負けていられないわ、とリリスはレイを促してPDAの画面を変えていく。

(し、下着…)

シンジは、その様子を静かに見ていた。 いや、ちらりとしか見られなかった。

「…これは?」

レイの声に、思わずシンジは画面を視界の端に入れた。

(ぴ、ピンクだ…)

「レイ様、それに合わせるのでしたら、こちらはどうでしょうか?」

『いやいや、ドーラ、それならこっちでしょー』

画面が次々に入れ替わり、まばゆい貴金属のページになっていく。

『こういうのを、さり気なくワンポイント入れるのが重要なのよ…』

「そういうものなの?」

「はい、レイ様。 こういうものは付け過ぎると厭味が勝ってしまいます。」

『それより、もう少し服が欲しいわね… ドーラ、違うサイトを検索して。』

リリスの提案にドーラが首を縦に動かす。

「ええ、そうですわね。 では、レイ様、このサイトはいかがしょう?」

また新たな画面が展開した。

どうにも止まらない… これが通販の魔力なのか…

いつの間にやら、この部屋はきゃいきゃいとした女の子の空間に変わってしまっていた。


……もはやシンジに居場所はない。


(…う。 そ、そうだ…今のうちに、とうさんの所に行って話とかなきゃ…)


シンジは彼女たちの邪魔をしないように、そっと隣の執務室に移動して行った。

”…パタン”

父親は書類を作成しているのか、端末に目をやってキーボードに指を走らせていた。

シンジは、ゲンドウの方へ歩きながら、最初の適格者として報告する内容を、

 レイの事をどのように上部組織に報告させるか…じっくりと考えていた。

そんな小さな物音にゲンドウが反応する。

「…む? シンジか。 …いいのか? せっかく逢えた彼女の側に居なくて…」

「…うん、今はね。」

父親の若干からかうような言葉に、息子は彼女たちが部屋でしている事を思い出して少し苦笑した。

「あ、そうだ。 とうさん?」

「…なんだ?」

「明日か明後日になると思うんだけれど、ここに荷物が届くから受け取っておいて欲しいんだ。」

「荷物?」

「うん。 彼女の生活用品とかね… あ、もちろんお金は僕のだから、支払いとかは特にないから。」

「……よかったな、シンジ…」

「え?」

僅かにだが優しげなゲンドウの言葉は、目的の女の子が無事で…というのが抜けていたが息子には伝わった。

「…うん。 本当によかったよ。」

「そうか。」

若干顔を赤らめた男の子は、父親の目の前に立つと話の転換を図った。

「とうさん、ゼーレへの報告なんだけど…」

「ん?」

真面目な顔になったシンジの言葉をゲンドウは静かに待った。

「…これからのパイロットの基本となるように、こういうシナリオでお願いしたいんだけれど。」

シンジはゲンドウに機関創設のシナリオと、こちらの掴んでいる情報を織り交ぜ報告するように説明した。

「彼女のデータは僕の時に出した情報を加工するよ。 実際、彼女は地下のリリスより”力”あるしね。」

「ふむ、なるほどな… 分かった。 それでは冬月が戻る前に報告は済ませてしまった方がいいだろう…」

そして、秘匿回線が開かれた。



………ベルリン。



”プルルルルル…プルルルルル… カチャ”

『…人工進化研究所ゲヒルンの碇様から秘匿回線で通話が入っております。』

「…繋げ。」

『議長、報告でございます。』

「秘匿回線でとは、よほどだな? …いったい何事だ?」

『…はい。 本部で実験していました人工生命体の創造…その自我形成に成功しました。』

「何!? それは… うむ。 …で、どうなのだ?」

『はい、リリスベースの実験体は女性体として誕生しました。』

「ほう…女性体? どのような状態なのだ?」

『…容姿は幼子のようです。』

「子供だと?」

『はい。 また直ぐにこちらの言語で会話を行いましたので、知性はかなり高いと思われます。』

「それはコントロール可能なのか?」

『…現在、彼女についてあらゆる調査を行っております。 現段階の報告によれば、

 彼女の意識レベルはまだ低いので、洗脳等のコントロールは十分に可能と考えております。』

「そうか。」

『議長…』

「なんだ?」

『彼女は、エヴァンゲリオンの最初の適格者になります。

 対外的な情報操作のため、パイロットを選出するダミー機関を創設することを提唱いたします。』

「パイロット選出のためのダミー機関か…」

『はい、その組織を我々で操作する事で、計画を遂行するに都合の良い人選が可能となります。

 また、国連軍にちょうど都合の良い計画が有りましたので、

 それを存分に利用して必要なパイロットとしての教育を彼女に施すことを具申致します。』

「…よし、分かった。 次回のゼーレ最高会議に提案し、議決してやろう。

 碇、そちらのデータを全てこちらに送れ!」

『議長……先程、ヤツは覚醒したばかりなのです。

 これからソレのデータの収集に当たりますので…申し訳ありませんが、報告書類は少々お待ち下さい。

 私からは以上です。』

「碇、今回の君の働きには感謝しよう。 …よくやった。」

『…はい、ありがとうございます。』

「それと、先日の会議で議決した事項について、詳細データを送っておく。 確認しておけ。」

『了解しました。 それでは…』

”…チン”

「くっくっくっくっ… そうか、むこうは成功したか。 そのデータを元にすれば、

 こちらのはただ成功するだけでなく…より性能が上がるだろうな。 …くっくっく…」

キールは久しぶりの吉報に口の端を歪ませ、肩を揺らしていた。



………女子部屋。



”コンコン…”

「…綾波、入るよ?」

”チャ…”

シンジは父との話を終えて、彼女の部屋のドアノブを回した。

「…あれ?」

少しでもドアを開ければ、姦しくも愉しげな声が漏れ聞こえるだろう…そう思っていた彼の予想は外れた。


……一切の物音が聞こえない。


「?」

この部屋を支配しているのは、水を打ったかのような静けさ。

あれだけ楽しげにお喋りをしながら、通販に勤しんでいた女子3名はどうしたのだろうか?

不思議に思ったシンジは、部屋に入って中の様子を見ると、

 紅い本は備え付けの机の片隅に隠れるように”置いてある”し、PDAはスリープモードになっている。

「綾波?」

彼女は変わらずベッドの上にいた。

上半身を起こした状態で顔を俯けていたレイは、彼の声にピクッと小さく肩を震わせる。

それはまるで、何か悪いことがばれて怒られる前の子供のような反応だった。

「…ど、どうしたの? 綾波?」

シンジは、余りにも異様なこの部屋の雰囲気に眉根を寄せ、若干早足で彼女の許へ駆けよった。

レイは彼から顔を背けるように斜めに俯いて、ベッドの掛け布団に置いた手を”ぐっ”と握る。


……まさか、拒絶?


シンジは彼女の態度に驚きとそれ以上に心を乱してしまったが、表情を変えないように努めて冷静に訊いた。

「…あの、綾波?」

「ごめんなさい。」

小さな、というかそれはとても弱弱しい声だった。

「…え?」

彼は突然彼女に謝られて混乱したが、そのまま小首を傾げて、女の子の顔を覗きこんだ。

「ねぇ、どうしたの? …何があったの?」

間近に感じる彼の視線。 女の子は観念したように、彼の真紅の瞳に目だけをチラリと合わせた。

「…あの、…」

「うん…」

とても言い辛そうなレイ。 急かすことなく待つと、しばらくして彼女は、ぽつりぽつりと説明してくれた。

そして、この事態の顛末を聞いたシンジは、思わず安堵の息をついた。

「ホッ …本当にそれだけ?」

「ええ…」

「ふぅ。 なんだ… そんな事だったの。 そんなの全然気にしないでいいよ? 綾波…」

「…でも。」

「本当にいいんだよ、大丈夫だから。 ねっ?」

「あ…」

男の子はそう言うと、女の子を安心させるように彼女の頭を優しく撫ぜてあげた。


……さて、一体…彼女達に何があったのか?


少しだけ時間を巻き戻してみると…

3人の娘さん達は、シンジの退室もしばらく気が付かないほどオンラインショッピングに夢中になっていた。

レイも初めて体験する通販の便利さに、その面白さにただ感心し夢中になった。

そして、主の伴侶たる女性に品格を求めるドーラが表示したアイテムは、その全てが超高級品ばかりである。

厳しい審査をクリアしたセレブであれば、

 顧客として享受できる会員制オンラインショップのサービスと品は、その格と質がまるで違った。

必要なデータさえ入力すれば、お客のフルオーダーに即日対応する特別で格式高い店舗ばかりであった。

リリスは基本的に楽しい事に夢中になると深く考えないし、細かい事は気にしない。

ドーラも主人の口座にある数字から見れば大したことはないと、次々にブラウザを立ち上げていった。

この3名は、ランジェリーからアクセサリーまで…それこそ朝の起床から彼とのデート、そして就寝まで…

 あらゆるシチュエーションを楽しむように、購入ボタンを乱打しドーラにより自動的に決済されていった。


……その結果。


一通りの処理を終えたドーラが、明日届く品数の多さに驚き…

リリスは、ドーラの波動の変化に気付いて冷静な目で見たその総額に驚き…

レイはそんな二人の波動を感じ取って、確認した品数と初めて見た高額な数字に固まってしまった。

お買い上げ金額、なんと…57,067,500円。

オーダーランジェリー1つ10万以上、フルオーダーの洋服上下で100万程度…

経験に裏打ちされた職人の技術の粋が光るアクセサリーやバッグなど、枚挙にいとまがない。

女の子一人分の買い物とはとても思えない、とんでもない通販になってしまった。

シンジはその金額を聞いた瞬間…さすがに冷や汗が出たが、

 しゅん…としているレイに、余計な事を言ったり間違っても彼女を咎めるなんて事は出来なかった。

(…だって、たぶん綾波にとって初めての買い物だっただろうし…)

「さて、ドーラ?」

彼女の蒼銀の髪を優しく撫ぜていたシンジは、PDAに声をかける。

「はい、マスター。 申し訳ございませんでした。」

「…いや、良いんだけれど、僕のカード…スイスからの支払いは1回にしておいてね?」

「はい、元よりそのように処理しております。」

毎度暴走するリリスのブレーキ役を自認していたドーラも、今回は流石に落ち込んでいた。

もう一人のリリスは、主人から怒られないように、まるで置物のように静かにしている。

「…で? リリス?」

”びくっ!!”

シンジがジロリと見た机の上の紅い本が、彼の声に器用に震えた。

『…う、あの… その、ごめんね? しんちゃん…』

「怒ってないよ、リリス。 違うんだ…」

『え?』

「…ありがとう、綾波の服とか色々一生懸命に選んでくれて…」

紅い本がおずおずと浮かび、シンジの許へ様子を窺うように飛んでいく。

男の子は、その本を受け取るように手にすると、適当なページを開いた。

『…でも、しんちゃん、あの… 平気なの?』

「うん、大丈夫。 平気だよ。」

リリスが見たのは、優しい風のような心地良い主人の笑顔。

怒られないと分かった瞬間…というより、

 むしろ感謝されていると分かると、リリスの波動がころっと変化した。

『ほっ… よかったぁ…』

リリスは、胸に手を当てて安堵すると、早速シンジをからかうようにニンマリとした笑みを零した。

『…ふふ♪ じゃ〜荷物が届いたら、レイちゃんのファッションショーだね♪

 可愛い服からちょっとアダルトなものまでいっぱぁ〜いあるからね♪ しんちゃん、うれしいでしょ〜?』

「ぅ… そ、そうだね… うん、嬉しいよ。」

その遣り取りを見ていたレイは、彼に視線だけ向けていた顔をやっと上げた。

「ほんと? 碇君、いいの?」

それでも、やっぱり申し訳なさそうにレイが聞く。

「うん、僕が洋服を買ってあげるって言ったんだし。

 それに、綾波の私服って、僕…あんまり覚えてないから、それが見られるなんて嬉しいよ。」

シンジはレイに向けて暖かな波動で包むように微笑む。

「…あ、ありがとう、碇君。」

「ふふっ… どう致しまして。」

彼の嬉しそうな波動を感じたレイは、自然と微笑みが零れた。


……この日、シンジが京都に帰宅したのは夜22時を回っていた。


ドーラが作成した偽装データは、ほとんど修正を必要としないほど完成度が高かった。

シンジはそれに目を通してゲンドウに送信すると、その後は彼女と和やかで愉しい時間を過ごしていた。

二人きりの空間。 お互いを感じながら時間がゆっくりと動いていく。

そして、時計の針が20時を過ぎる頃になると、シンジの瞼は次第に重たくなってきたようだ。

首がこくり、こくりと小さなリズムを刻む。

男の子は、昨夜から休むことなくフル稼働状態で彼女に逢いに来ていたのだ。

シンジは、彼女のベッドでうつらうつらと船を漕ぐとそのままパタッと寝てしまった。

レイは嬉々として彼にやおらタオルケットを掛けると、そっと彼の背中に抱きついた。

そのまま彼の胸に腕を回してピトッと密着すると、彼の首筋に顔を埋める。

(碇君の匂い…)

初めての同衾にレイは至上の喜びを感じた。

(碇君、あたたかい…)

だれにも邪魔をされたくない幸せな空間。

(このまま、ずっと…)

レイは、そう願って静かに瞳を閉じた。



”コンコン…”



しかし、数分も経たずドアをノックする音がこの世界を崩した。

歓迎されざる人物。 それはシンジの父、碇ゲンドウであった。

『綾波レイ、少し良いか?』

”フルフル”

気怠げに瞳を開けた女の子は、小さく蒼銀の髪を揺らした。

「…だめ。」

『む… し、シンジはそこにいるか?』

(碇君は疲れているの。 だから…)

「…いないわ。」

『ぬ? では…ド、ドーラちゃんはいるかね?』

(これ以上、私が動いたら碇君が起きてしまう…)

「知らない。」

『くっ… …では、入っても良いかね?』

「だめ。」

レイは、ぎゅとシンジを抱いた。


……流石にレイの不愉快な波動を感じたシンジは、眠そうに起きてしまう。


「あぅ? …どうしたの? …綾波?」

「…ぁ 何でもないわ。」

レイは、身体をもぞもぞと動かして起きようとしている男の子の腕を引いた。

「起きてはダメ。 碇君はとても疲れている。 だから、まだ寝てて…」

「…うん、分かったよ……ん。」

レイは、ずれてしまったタオルケットを彼に掛け直した。

女の子と同衾しているのに、それを感じないほど寝惚けているシンジ。

そんな彼が再びベッドに身を委ねてまどろみの中に入ると、レイは再び男の子にきゅっと抱き付いた。

しかし、明るい色調のウッドドアの前に立つゲンドウは、救いの”神”の存在に敏感に反応する。


……実はレイの応対にかなりヘコんでいたのだ。


「その声は!? …シンジ、いるのか? …すまないが話がある。 …そこから出て来てくれんか?」

”どんどんどん!”

(ダメ…司令、そんな事をしては碇君が起きてしまう…)

大きな音を出し続けるドアを睨んだ女の子が思ったとおり、シンジの脳は覚醒してしまった。

「…ぅ …? …ぇ、なに? …とうさん?」

『ああ、私だ。 シンジ、話がある、こっちに来てくれんか?』

「…あ。 うん…分かったよ。」

ふぁ、と身体を伸ばして起き上がろうとするが、レイが離れない…

「あ、綾波?」

きゅっと腕を胸に抱く女の子。

「…う。 …あ、あやなみさん?」

「……行ってしまうの?」

「ちょっとだけね…」

「そう…」

まだ納得したという顔ではない女の子に、シンジは尋ねた。

「…それとも、とうさんに部屋に入って貰う?」

「それは…いや。」

二人の空間に異物はいらない、とレイは首をフルフルと振った。

「じゃ、直ぐに戻るよ。 …ね?」

”コクリ”

シンジは姫の許しを得て、やっとベッドから出ることが出来た。


……彼が部屋を出ていく。


その背中を追うように見送ったレイは、改めてこの部屋を見渡した。

たった今まで幸せに包まれていた空間。 それが、自分一人だと急に空っぽな空間になってしまう。

心にぽっかりと穴が開いて、それが急に拡がるような感じ。

そんなレイの目の前にある机の上の紅い本が、ふわっと浮かんで彼女の目の前でページを開いた。

リリスが寂しそうな顔のレイにからかうような波動を出す。

『ふふっ。 レイちゃん、あんまり我が儘だとしんちゃんに嫌われるわよぅ?』

”ピクッ”

リリスを見るレイの深紅の瞳が細くなる。

「碇君が…嫌う 私を?」

有り得ないわ、とレイは一蹴したが、リリスは更に続けた。

『あ〜ら、大した自信ねぇ。 …しんちゃんってば、かなり”もてもて”なのよ〜?

 ふふっ…知らないでしょ? あの人に想いを寄せている異性が多いのを…』

”ピキンッ”

(…他のヒトが碇君を?)

今の今まで考えもしなかった事に、レイは小さく肩を震わせる。

「…それは、誰?」

彼女の声には、その身に秘める力が溢れたような何とも言えない迫力があった。


……想像以上にヒットしてしまったと感じたリリスは、ここら辺が引き際だと悟る。


(ぅ、ま、間違っても…それは私です♪ なんて言える雰囲気ではないわ。 ここは戦略的撤退しなきゃ…)

『い、言わないわ。 だって、今うっかり喋ったらその人たちレイちゃんに殺されちゃいそうだもん。

 …そんな事、しんちゃんは望まないだろうし…』


”コンコン、…カチャ”


ゲンドウに偽装データの説明をしていた男の子が部屋に戻ってきたが、非常に間が悪かった。

「ちょっと時間かかっちゃったね、ごめんね? 綾な…み?」

「…碇君…」

(私、碇君の好みを知らない…)

「うん、なに?」

「碇君は、どんな女の子が好き?」

シンジは彼女の回答拒否は許さないという雰囲気に、思わずゴクッと唾を飲む。

「きゅ、急に…ど、どうしたの?」

「どうして、教えてくれないの…」

(そんな…どうしたの、綾波?)

シンジは彼女の変化の大きさに一体何があったのかと、心の波動を必死に感じ取る。


……その神の全力で感じた彼女の心の裡に湧き上がっていたのは…


理由は良く分からないが、嫉妬のような波動の中に僅かに含まれている不安なモノを感じることが出来た。

(…? なんだろう? この怯えるような不安感… 僕の好み? リリスに何か言われたのかな?)

「僕の好みを言えば良いの? …そんなこと意味がないと思うけれど…」

「どうして、そういう事言うの?」

(…何も言ってくれないの?)


……悲しみにレイは耐えられず顔を伏せてしまった。


「…あ、ごめん。 違うんだ… そうじゃなくて、何て言うか…僕の好みを言う必要があるのかなって…

 だって…僕が好きなのは… あ、愛しているのは、綾波… 綾波レイ、ずっと君だけだから。」

「…ほんと?」

心の準備も何もしていないのに、突然と始まってしまった愛情の吐露というシチュエーションに、

 男の子の心臓は一足飛びに跳ね上がっていく。

「…うん。 ずぅっと…愛しているよ、綾波。」

シンジの告白。 男の子の白磁器のように白かった顔は、火が出たように真っ赤になった。

彼は言わなくても自分の想いは彼女に伝わっているだろうと思っていた。

だって、逆行前に『ずっと一緒にいよう』って誓ったのに…

やっぱり自分の気持ちは、直接言葉にして言わなくてはダメみたいだ。

今の彼女の様子を見れば、それが良く分かる。

リリスに少しからかわれただけで、こんなに不安を抱くなんて…

何はともあれ、彼女の感じる不安を取り除いてあげなければ…

それには、想いを込めて彼女に言葉を贈るしかない。

だから、とてもとても恥ずかしかったが、シンジは何とか搾り出すように声に出して彼女に告白した。

(…!!)

それを聞いたレイは俯いていた顔を上げて、彼を見た。

ただ、惚けたように”ポォ〜”とした瞳で。

そして、彼女は徐々に顔が紅色に染まると、ルビーのような深紅の瞳をじわっと潤ませた。

((〜はうぅ……愛しているのは、君だけ…))

この部屋にいるその他2名は?


……リリスとドーラは、愛する主人シンジのセリフを都合よく聞いて撃沈していた。


シンジはレイの反応を窺いながら、そろりと足を一歩進める。

惚けていた女の子は、突然の愛の告白を受けた衝撃的な歓喜の波を体中の全ての細胞に染み渡らせると、

 弾かれたようにベッドから男の子の胸に飛び込んでいった。

(…愛しているって言ってくれた。 碇君が愛しているって。 ずっと、ずぅっと愛してくれるって…)

「…嬉しい。 …碇君…」

彼の胸に飛び込んだ蒼銀の女の子が顔を上げると、男の子の慈愛に溢れる真紅の瞳に自分が映った。

その自分を見詰めてくれる優しい眼差しに、胸がキュンとなったレイは自然と両腕に力が入った。

”…ぎゅぅ〜”

「私も…私も碇君を愛しているわ。 ずっと…ずっと。 あなたは私の一番大切な人…」

「…綾波…」


……この調子だと、シンジは京都の屋敷に2度と帰れないかもしれない。


胸に埋まるその女の子の独特な甘い匂いにシンジは顔を更に紅くし声が上ずる。

「あ、あの、綾波?」

「…?」

「取り敢えず、そろそろ京都に戻るよ。
 
 おじいちゃんに今日の事を、どんなだったか話す約束をしているんだ。」

「そう…」

「…明日の朝、また来るから。

 それに、やっぱり…綾波もゆっくり休んだ方が良いと思うんだ。」

ジッと彼を見るレイは、先ほど寝込んでしまうほど疲れている彼の状態を思い出した。

彼と離れるのはもちろんイヤであったが、そんな自分の我が儘で彼に負担を強いたくない…

女の子は、ゆっくりと腕を解く。

それを了承と理解したシンジは、彼女の両肩にそっと手を置いた。

「…何かあったら、直ぐに呼んでね? …それじゃ、おやすみ。」

男の子は、女の子のおでこに軽くキスをする。

そして、シンジは、おもむろに両手を紅い本とPDAに向けると、すぅ…と霞むように消えてしまった。

「…碇君、おやすみなさい。」

レイは、彼の消えた虚空をしばらく見続けていた。





国連軍へ−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−





………翌日。



リツコが責任者として初めて設計、製造した人造人間エヴァンゲリオン用の特殊装甲は、

 昨日から試作機である零号機の素体へ組み込みが開始されていた。

「ふむ…数値的には問題なし。 製造もコスト以外は問題なさそうだな。」

設計で示されたデータと実際に製造された装甲のデータを確認した冬月が、男の机に報告書を置く。

「…ああ。 計画されたスケジュールは、ほぼ想定内で推移している。」

「うむ。 今のところ順調と言えるな。」

端末でのシミュレーションの結果を確認したゲンドウが、計画の進捗状況を話し合っていると、

 内線電話が鳴った。

「…私だ。 …なんだ? そうか、構わん。 セキュリティが確保出来次第、ここへ通していい。」

ソファーに座っているコウゾウは、書類に落としていた視線をゲンドウに向けた。

「どうした、碇?」

「…昨日、彼女に頼まれた生活用品が地上の受付に届いたようだ。」

その言葉に冬月は驚いて、思わずソファーから立ち上った。

「彼女に頼まれた? それは本当か? …彼女の理解力と言うか、適応能力と言うか…すごいな!?」

「そうだな…」

「それにしても…おまえもまた、随分と対応が早いな…」

碇ゲンドウは、黄色いメガネを中指で掛け直すと、手を口下で組んだ。

「我々にとって大事な駒だからな。 少しくらいの便宜は図ってやるさ。

 …因みに昨日行ったIQテストの数値は200を超えていた。」

「むう、そうか。 処で今、その彼女は何をしている?」

最高責任者の重厚な机の横に立った冬月は、控室の方に顔を向けながら聞いた。

「綾波レイは昨日からずっと書籍を読んでいる。 …凄まじいスピードで知識を得ているな。」

「…ほう、書籍? ジャンルは?」

「…ユングの深層心理学や我々人類が歩んだ歴史、今の世相が反映されている一般雑誌…」

「随分多岐にわたっているな… 碇、与える情報はこちらでコントロールした方がよいのではないかね?」

「マインドコントロールはするさ。 あれは我々の駒なのだからな…」


……本当の事情を知らない冬月に、実際は息子と楽しく遊んでいますよ、とゲンドウに言えるはずもなく。


”…ピピッ”

机のモニターで入口の人間を確認したゲンドウは、おもむろにドアの施錠を解除した。

「…入れ。」 

「はい、失礼しますぅ。 毎度、しろねこ運輸です。 碇ゲンドウ様宛の品をお持ちしました。

 ただ今、こちらにお持ちしますので、この伝票にサインを頂けますか?」

「…分かった。」

そして、10人の運送業者が20分間出入りを繰り返して搬入した荷物の多さに、二人は少し固まった。


……広大な部屋の一角が、厳重に梱包された荷物で彩られてゆく。


「い、碇、これはすごい物量だな。これ全てが彼女に必要な荷物と言うのか…

 私は詳しくは分からんが、これはけっこう値が張るのではないかね?」

「…ああ、か、構わん…も、問題ない。」

(シンジの金、と言っていたが… しかし、これ程とは…)

「もちろん、おまえのポケットマネーなのだろうが、相変わらず、随分溜め込んでいるようだな…」

じろり…と横目でゲンドウを見た冬月コウゾウの顔は、若干呆れたような表情だった。

「ふっ、何を言っているのですか?」

男の不遜な態度に、初老の男性は目を大きくした。

「な…まさか、経費で落としたのか?」

「…経理の処理に関してはすでに終わっています。 国連の監査が調べても一切分からないでしょう。」

こういったことが躊躇なくできる行動力と判断力がなくてはこの組織のトップにはなれんか…

そう納得した冬月は肩をすくめた。

「お前も得意だな… しかし、いくら数字は誤魔化せても、この荷物は目立つぞ?」

「もちろん、ここに置いておくことは出来ない。 特殊キー付きの倉庫を用意するさ。

 それに彼女も、いつまでも隣に住まわせておくワケでもないからな…」

手を組んだゲンドウに、冬月は今までの雰囲気を霧散させた。

「俺は聞いてないぞ? 彼女をどうするのだ? ここでEVAとの実験に従事させるのではないのかね?」

「…冬月、綾波レイについては10月から国連軍へ出向させる。」

「なに? 国連軍だと?」

ゲンドウは自身の端末を操作して、あるファイルを展開させた。

「そうだ。 これからこの研究所は軍事色を強めていくのだ。

 その要たるパイロットが素人では話にならん。 冬月、これを見ろ…」

男は、モニターを回して冬月に向けた。

「なに? 国連軍次世代特別将校養成プログラム…だと?」

「そうだ。 数年前に極秘裏に決定され、先日発表と実行に移された計画だ。」

コウゾウは、その内容を読んでいく。

「随分とハードルが高いと思うが、彼女はこれをクリアできるのかね?」

「彼女のデータなら、大丈夫だろう。 それに…」

「それに?」

「綾波レイの生体データと、今お前に言った計画はすでにキール議長に提唱し内諾を得ている。」

「キール議長に……俺に相談もなく随分と急だな。」

「もたつけば、余計な情報が漏れるからな。」

確かに、このゲヒルンにも監視を任務とするスパイはいるが…

眉間に深いしわを寄せた冬月は、勝手にコトを進めているゲンドウに確認する。

「外部に彼女を出して平気なのか? 10月と言ったな?

 碇、そんな短期間で彼女をちゃんと御する事が出来るのか?」

「ふっ… 冬月、それは問題ない。

 これまでに採取し分析した生体データ、精神分析等のデータを見ただろう?」

コウゾウはファイルを読み終えると、ソファーに座りこんだ。

「…それにしてもだ。 中途半端なマインドコントロールでは話にならんぞ?」

「昨日、彼女に尋問した際に、すでに洗脳の第一段階である催眠の一種を掛けた。

 それをベースに、私だけが、この世界で唯一ヒトではないお前を保護する事が出来るという、

 インプリンティングを行う。 それを10月まで、繰り返し実行しステップを上げ、強化していく。

 最終的に私のために動く事をレゾンデートル…いわゆる自分の存在価値、

 自身の存在理由となるようにするのだ。」

「…そうか、彼女には気の毒だが、仕方あるまい。」

「”彼女”はヒトではない。 我々のシナリオ遂行のための駒であり、切り札なのだ。 …問題ない。」

実際にそんな事をしたら、シンジに瞬殺されるだろう。

父は、息子と相談したうえで用意していた嘘を言っているのだ。


……ゲンドウは真剣な顔の冬月を見ないように、組んだ手に顔を隠すように俯かせて物語を語っていた。


「…そう言えば…」

「なんだ?」

冬月は、顔を上げたゲンドウを見た。

「私が綾波レイの報告をした際、

 キール議長が将来の戦闘部署にあの”葛城ヒデアキ教授”の娘をこちらに寄こすと言っていた。

 まだ、どういう役職にするかは決めていないようだが…」

ゲンドウはミサトに会った事があった。

最初に見掛けたのは、あの南極の実験場だった。

まだ少女だった彼女の傍若無人さと無知さには、さすがのゲンドウも呆れたほどだった。

そして、2度目は冬月と同じように第二次調査船団の船上で、心神喪失状態の彼女を廊下から見たのだ。

ゲンドウの言葉に、冬月コウゾウも同じようにミサトを思い出した。

「ほお、葛城教授の娘さんか… 確か、赤木君の娘さんと同じ位の年だったな。」



………昼前の控室。



「あ… ねぇ、綾波。 頼んでいた荷物が届いたみたいだよ。」

シンジは、昨日の約束どおり京都で朝食を摂った後、彼女の部屋に来ていた。

もちろん、行き成り訪れては彼女も身支度の時間がないだろうと考えた彼は、

 1時間後の10時に遊びに行くよ、と波動で彼女に連絡をしていた。

朝9時という時間だったので、レイも起きているだろう…と思っていた彼の予想は外れて、

 何度も呼びかけてようやく反応した彼女は、しばらく寝惚けていたが。

『綾波って、朝弱いんだね…』

『…よくわからない。』

『その部屋にシャワーがあるから、浴びてきなよ?』

『知ってる。 昨日使ったわ。』

そんな遣り取りがあった。

「おはよう、綾波…」

時計の針が10時を指したのと同時に、彼がこの部屋に現れた。

「おはよう、碇君。」

そう応えたレイは、ベッドの上に座っておりその手には目覚まし時計があった。

「か、カウントダウンしていたの?」

「碇君…」

「なに?」

「私、身支度に1時間もかからないわ。 だから…」

「もう少し早く来た方がいい?」

”こくり”

男の子は、彼女の隣に腰を下ろした。

昨日、京都の屋敷に帰ってからの事をシンジはレイに話した。

碇 玄という祖父はどういう人物か…

有馬元彦という執事がいるとか…

山岸マユミというメイドが自分にいるとか…

「で、昨日のことをおじいちゃんに言ったら…どうして連れてこないんだって言われちゃってね。」

彼の言うとおり、シンジの話を大いに楽しんだ祖父は、無事に花嫁たる綾波レイという女の子の復活を喜び、

 また、京都へ連れてこなかったことに大いに落胆したのであった。

「…そう。 碇君の家族…」

「綾波の家族にもなるんだよ?」

(碇君の家族が…私の家族に? それって…)

”ぽっ”

自分の花嫁姿を想像したレイは、シンジの言葉に顔を紅色に染めた。


……シンジたちは昨日に引き続いて、静かで和やかな空気を満喫していたようだ。


そして、冒頭のシンジのセリフに繋がる。

「あ… ねぇ、綾波。 頼んでいた荷物が届いたみたいだよ。」

男の子の声に、紅い本が反応する。

『レイちゃん♪ 受け取ってきなよ?』

「そうね。 いいの、碇君?」

ここにいるはずのない男の子が見つかるワケにはいかない。

レイはベッドから降りると、シンジの返事を待った。

「うん、特に準備は必要ないから大丈夫だよ。

 冬月さんが隣にいるみたいだから、ちゃんと消えて見えないようにするから。

 じゃあ、ドーラ、あっちに連絡してくれる?」

「はい、マスター。」

シンジは紅い本とPDAを手にすると、空気のように透明になっていく。

レイは、ドアノブに手をかけると、誰もいないのを確認するように部屋の中を一瞥してから開けた。
  
”カチャ…”

隣の執務室に入ると、シンジの言ったように昨日注文した荷物がドサッと積まれていた。

ゲンドウは女の子がこの部屋に入ってくるのを見ると、冬月との遣り取りを中断した。

「…綾波レイ、君が必要だと言った荷物が先ほど届いた。 不足がないか、確認をしてくれ。」

「おいおい、そんなことは後でいいだろう、碇。」

コウゾウはソファーから立ち上がって腰に手をやると、動物を観察する研究者のような目でレイを見た。

「綾波レイ君、少しいいかね?」

「…何?」

「君の生体データを詳しく調べたいのだ。 これから私と一緒に実験棟の方へ来てほしいのだがね…」

「…いや。」

開口一番の拒絶。

冬月はゲンドウの話から彼女の性格を従順なものとイメージしていたので、この返事に驚いてしまった。

「いやだと? …ふむ。 どうやら、君は自分の立場をよく理解していないようだな。

 いいかね? 君は我々に保護されている。 よって我々の言うことは聞かねばならん。 理解できるね?」

「いいえ。」

小さくかぶりを振った女の子に、冬月コウゾウの片方の眉がつり上がる。

「…何?」

「あなたの言っていること、違うわ。 だって私には、あなたたちの保護なんていらないもの。」

冬月は、女の子の言葉に目を細めた。

そして彼女は、自分に届けられた荷物の方へ歩きながら言葉を続けた。

「…私は、あなた達のルーツ。 言うなれば母たる存在に等しい。」

「キミはいったい何を言っておるのだね?」

「つまり、あなたの意見なんて必要ない。 …そういう事。」

レイは、大小様々な荷物に向けて右手をかざした。

次の瞬間、ゲンドウと冬月は目を大きくして驚きに身体が固まってしまった。

無重力になってしまったと言えばいいのだろうか?

さきほど大の大人が汗水流して運んできた荷物が、女の子の手の先でふわりと浮かび上がっている。

ATフィールドを利用した力。 ヒトあらざる力を目の当たりにした冬月は、何も言えなくなってしまった。

レイは力をコントロールして荷物を一列に並べる。

彼女が視線をやると、まるで待ち構えていたかのように先ほど入ってきたドアが自然に開いた。

女の子は、号令を出すようにドアに向けて右手を指した。

すると、そのまま荷物が吸い込まれていくように部屋の中に飛び込んでいく。

そして、ドアの前で立ち止まったレイは、やおら振り向くと男達に一言だけ宣言した。

「…私は私。 あなた達に私を束縛することは出来ないわ。

 私を裏切らなければ、協力だけはしてあげるけれど。」

”パタン…”

閉ったドアに、口を開けたままだったコウゾウが再起動する。

「…い、碇!? あれはどういうことだ? お前の話よりも随分と自我が確立しているように見えるぞ?

 あれで彼女のコントロールは大丈夫なのか? データを再検証した方がいいのではないか?」

「ふん、大丈夫だ、冬月。 私が御する事が出来れば良いのだ。 これから私が確かめよう。

 おまえは、EVAの装甲について赤木君に胸部の強度を上げるように伝えてくれ。」

「本当におまえだけで大丈夫なのか?」

「心配ない、冬月。 それよりも…」

「ああ、分かっている。 仕様変更は早いに越したことはない。 これから直接行って赤木君に伝えるよ。」

冬月はゲンドウから変更仕様書を受け取ると、さらに何か言いたげな様子だったが部屋を出て行った。

ゲンドウは、おもむろにイスから立ち上がり、右側にある木製のドアに近付いていく。

”コンコン…”

「綾波レイ、話がある。 …少し良いかね?」


……………。


「………?」

効果音的な表現だと、しーん、という感じだった。

まったく反応がない。

”コンコンッ!”

ゲンドウは、少し力を込めてドアを再度叩いた。

しーん…

(…な、なにかあったのか?)

緊急事態なのか? そう思ったゲンドウは、強行突破を決めた。

木のドアに大柄な身体を加速させて思い切りぶつける。

”どんっ! …どんっ! ガタン!”

それを二回ほど繰り返すと、ドアの蝶番が壊れた。

そして、男は開け放たれた部屋を見る。

(これは!? ……な、何があったのだ?)

先ほどの大量の荷物も、この部屋にいるべき人物もいない。 

ゲンドウは、思わずポカンと口を開けてしまった。



………京都。



碇家は、昨晩の遅くに齎されたある情報で持ち切りとなっていた。

何でも、シンジ様が意中の女の子を連れてくるらしい…

それは、この屋敷の主である玄があらゆる場所で吹聴して回ったため、

 主人公である男の子が疲れ切った体を癒すために屋敷の温泉に浸かっている頃には、

  この敷地の全ての人に知れ渡っていた。

「楽しみじゃのぉ…」

「明日のことでございますか?」

「もちろんじゃ。」



……孫が経験した事はどんな些細なことも聞いておきたい。


そう願う祖父は、彼の体験談をそこら辺の小説よりも何倍も面白いと感じていた。

玄としては、いつかこの”実話”を”フィクション”としてドラマや映画を制作したいと思う程であった。

「お待たせ致しました。」

「うむ。」

碇 玄は有馬に入れてもらった茶を一口飲んで、先ほどの話を思い返していた。

シンジは疲れているようであったが、ワシのために今日出かけて行った潜入劇を話してくれた。

(シンジ…顔が真っ赤じゃったな…)

孫の顔を思い出すと、玄はニンマリと笑った。

シンジは、愛する娘の復活と自身の力の復帰を伝える時、

 特に意識を失って彼女に抱かれるように護られていた処などは、流石に顔が真っ赤になってしまった。

恥ずかしさは多分にあったが、

 この部屋に呼んだ家族のような人達に、嘘や誠実さを欠くような事は喋らなかった。

「…っていう感じだったんだ。」

「ふむ。 …のう、シンジや?」

今まで静かにシンジの話を聞いていた玄が、扇子をパチンと畳んだ。

「なに? おじいちゃん?」

「明日、その娘をわしに会わせてはくれんかの?」

京都まで連れて来い、という祖父のお願いに男の子は腕を組んだ。

「え? 明日? う〜ん。 …タイミングが良ければ、大丈夫かな?」

『しんちゃん、明日はレイちゃんの荷物が大量に来るよ?

 あの部屋には、たぶん置けないから、この屋敷に置かせてもらおうよ?』

「あ、そうか。 明日、荷物が来るんだっけ…」

シンジは目の前に浮かんだリリスを手にした。

「…荷物? リリスちゃんは何と言っとるんじゃ?」

男の子の言葉を聞いていた祖父は首を捻った。

「…さっき彼女の服とかを通販で注文したんだ。 結構買い込んじゃってね。

 リリスは、彼女のいる部屋は狭くて置けないからここに置かしてもらったらって言っているんだ。」

「ほう。 そうすればいいじゃろ。 荷物の部屋はすぐに用意させるからの。 マユミ?」

「はい、畏まりました。」 

「マスター、配送問い合わせシステムに確認しました処、レイ様の荷物が届くのは11時30分頃です。」

「ほう、昼時か… 一緒に昼食をしたいのう…」

玄は、ニコニコ笑っている。 

「う、う〜ん。 分かったよ。 彼女に連絡するから、ちょっと待ってね?」

シンジはそう言うと、瞼を閉じて右手の人差し指をおでこに当てる。

まるで、何かの気配を探っているような仕草だった。

『…綾波? 綾波、聞こえる? あれ? 寝ちゃったかな? …綾波?』


……その時、レイは3階の窓から見える月を眺めていた。


(? …ん、碇君?)

月明かりに照らされている蒼銀の女の子は、彼の波動をより深く感じようと瞳を閉じた。

『…碇君、どうしたの?』

『…あ、ごめんね? こんな夜更けに…』

『いいえ、構わないわ。 何?』

『あのね…おじいちゃんが綾波に会いたいって言うから、明日の状況が良ければ、京都の僕の家に来ない?』

『…碇君のおじいちゃん?』

『うん、ぜひ会わせろって、ね。』

『そう… 行ってもいいの?』

『もちろんだよ。 どう?』

『私も会ってみたいわ。』

『ありがとう。 …じゃ、おじいちゃんにそう伝えるから。

 …ゆっくり休んでね? それじゃ、お休み…綾波。』

『ええ、また、明日。 お休みなさい、碇君…』


……瞳を開けたレイが、窓を閉めようと手を伸ばすと、さわっと優しい風が部屋の中に舞い込んだ。


シンジが瞳を開けて、玄を見る。

「…うん、彼女も会いたいって。 明日連れて来るから、おじいちゃん。」

「そうか、会いたいと言ってくれたのか…」

玄は瞳を輝かせた。

「おお、そうじゃ、シンジ、疲れているのに、遅くまですまんかったの…」

「? ううん、大丈夫だよ。」

「いやいや、もう今日は早く風呂に入って休みなさい。」

「…うん、そうだね。 じゃ、お休み。」

「うむ、おやすみ、シンジ。」

”すぅ……ぱたん”

シンジが襖を閉めると、玄は有馬とマユミを見た。

「有馬、明日は歓迎会を催すぞ!」

「はい、主様。 では、マユミ…」

「はい、畏まりました。」

一連の話が終わると、有馬とマユミはそれぞれ思う事や、聞きたい事があったが、

 また新たな仕事が出来たので、それを早々に終らせなければと静かに退室した。

そして、今日。

ドーラから連絡をもらった玄は、いそいそと書斎に向かって行った。



………暖かい日の光射す洋室。



京都の屋敷のレイの部屋は、かなり前からシンジの母屋に用意されていた。

マユミは、いつでも使用できるようにメイドたちが準備してきたこの部屋の最終チェックをしている。

(活けたお花も良し、消耗品も大丈夫。 …掃除もちゃんと行き届いているわね。)

部下の仕事の出来に納得した彼女は、大きく頷いた。

そして、部屋を閉めようとドアノブに手をやった時、背後から物音が聞こえた。

”スタッ… どすんっ!”

「え?」

彼女が振り返って見ると、当主である男の子と彼の手を握っている女の子が部屋の中央に立っていた。

「まぁ!」

マユミは思わず口に手をやって、驚いてしまった。

それは突然と現れたこのカップルにではなく、

 部屋に出現した溢れんばかりの荷物に驚いていたのだ。

この部屋は決して狭くはない…と、言うよりかなり広い。

絨毯が敷き詰められた床を占める大量の荷物に、彼女の目は点になってしまった。

それでもマユミは、何とか弟のように可愛い主に向けて、いつものように最高の笑顔で深く会釈をする。

「…お、お帰りなさいませ、シンジ様。」

そして、やおら顔を上げると、主人と仲良く手を繋いでいる女の子…綾何レイに目をやった。

「…初めまして、お嬢様。」

初めて見る京都の屋敷。 その部屋を見ていたレイは、マユミの声に導かれるように彼女を見る。

「…あなた、だれ?」

「綾波、彼女がマユミさんだよ。 山岸マユミさん。 昨日言ったでしょ?

 僕専属のメイドさんがいるって。 僕がアメリカに居た時は、姉さんになってくれたんだ。」

柔らかな光を反射する蜂蜜色のスカートとフリフリが付いた白いシャツを着た女の子の挨拶。

「あなたが山岸マユミさん… 初めまして、綾波レイです。」

それに対して、マユミは深々と頭を垂れて挨拶を交えた。

「…初めまして、綾波レイ様。 シンジ様のメイド、山岸マユミでございます。 よろしくお見知りの程を…

 こちらの部屋は、シンジ様の祖父たる玄様からレイ様のために用意された部屋で御座います。

 お寛ぎ頂ければ幸いでございます。 そちらの荷物は私共で整理致しましょう。

 …シンジ様、宜しいでしょうか?」

「うん、今から綾波をおじいちゃんに会わせて来るよ。 じゃあマユミさん…荷物、お願いしてもいい?」

「はい、畏まりました。 シンジ様、玄様は書斎にいらっしゃるはずです。」

「ありがとう。 行こっか? 綾波。」

「…はい。 マユミさん、お願いします。」

”ぺこり”とお辞儀をしたレイは、そのまま手を引かれて連れられて行ってしまった。

(あれが、シンジ様の想い人… リリスちゃんとソックリだけど、性格は真逆っぽいわねぇ…

 なんだか、深窓の令嬢ぽいっていうか…)

そんな女の子を見送ったマユミは、内線電話を手にする。

(取り敢えず、荷物の整理に5人くらいは必要ね…)
  


………書斎。



「おじいちゃん、入るよ?」

シンジがドアを開け、幼女を中へ誘う。

「入って、綾波。 こちらが僕のおじいちゃん、碇 玄。 おじいちゃん、この娘が綾波レイだよ…」

レイは、シンジの紹介に深くお辞儀をして挨拶した。

「初めまして、碇 玄様。 綾波レイと申します。」

「ほぅ!! なんと、なんと…ユイそっくりじゃのぉ〜 …いや、リリスちゃんか?」

玄は、我が子ユイそっくりの女の子を見て我を忘れてしばらく見入っていた。

「おじいちゃん?」

シンジは玄を促した。

「…あぁ、こりゃ失礼した。 よう来たの… ワシが碇 玄、シンジのジジイじゃ。」

にっこり笑った老人は、嬉しそうに挨拶を交わした。

「綾波レイちゃん、歓迎するぞ。 それにしても…こりゃ、めんこいのぅ…シンジが惚れるわけじゃ…」

「お、おじいちゃん、急に何を言うのさ…」

男の子は、祖父の呟きに少し慌てたように彼女を見た。

「あ、綾波、そのソファーに座って、今お茶を用意するから…」

そう言って電話機を手にした男の子を、小さく笑っていた玄が制す。

「有馬に言うておるから、シンジも座って待っておれ…」

「あ、うん。」

その後、三人は有馬が用意した茶とたわいない話を楽しむ。

家族への紹介が終わったと判断したリリスは、シンジの目の前に浮かび上がると紅い本を開いた。

『…ねぇねぇ、しんちゃん…』
 
「どうしたの?」

『そろそろレイちゃんの荷物の整理が終わったんじゃないかなーと思ったの…』

「確認してみるよ。」

シンジは有馬の方へ顔を向ける。

「有馬さん、彼女の荷物の整理って終っていますか?」

「お待ちくださいませ。」

細身の男は一礼すると、携帯電話を手にした。

「…はい、荷の整理は終わっております。」

「終わっているってさ、リリス。」

『じゃ、レイちゃんの部屋に行きましょう〜よぅ?』

紅い本の提案に、シンジは部屋の置時計を見た。

「…もうすぐお昼ご飯だから、それが終わってからだね。」

男の子は紅い本を閉じて、蒼銀の女の子を見た。

「綾波、そろそろお昼になるから、食堂へ行こうよ。」

”コクリ”と頷く幼女。

「シンジや…」

玄は立ち上がった男の子に手を伸ばした。



………控室。



ゲンドウは誰もいない部屋を見渡すと、

 先ほどまで人の居た形跡がありありと残ったままのベッドを怪訝な表情で見た。

(…どうしたのだ? む? これは…)

ベッドに備え付けられた白いテーブルの上に、一枚の紙があるのを発見した。

それを手に取って目を落とす。

《 とうさんへ。 これから綾波と京都に戻るよ。 何か必要があればいつもどおりドーラに連絡してね?

  あ、それと綾波にもPDAを持たせてね。

  ある程度の自由と引き換えに私への絶対の協力を約束させた…とでも冬月さんに言って、

  余計な詮索をさせないように、安心させておいてね。 シンジ 》

(紙ではなく、メールで教えてくれればよいものを…)

がっくりとしたゲンドウは、紙をズボンのポケットに乱暴に仕舞うと、

 自分が無理やり外して壊してしまったウッドドアを見た。

(く…も、問題ない。)



………ファッションショー。



玄は男の子の手にある、紅い本に手を伸ばした。

「シンジや、リリスちゃんを貸りるぞ?」

「いいけれど…」

祖父は紅い本を適当に開く。

「…リリスちゃんや、何かするのか?」

羊皮紙に描かれた女の子は、にぱっと嬉しそうに笑って、これからの予定を老人に教えた。

「ほう、ファッションショーとは… よし、シンジや…」

「うん?」

「その場所は、東の離れを使いなさい。 …ワシも一緒に見て良いじゃろ?」

「構わないよ。 ね? 良いでしょ、綾波?」

こくりと頷いた女の子は、丁寧な口調で老人に答えた。

「はい、構いません。」

「玄様、シンジ様、お待たせ致しました。 昼の用意が整いました。」

有馬に言われると、シンジたちは新年会に使った大広間に向かった。

今まで大広間が使用されたのは、忘年会、新年会といった行事の時だけだった。

しかし、今ではほぼ毎日、昼食会として使われるようになっていた。

これは、この屋敷で働くスタッフからアイドルのように慕われている男の子がアメリカから戻ってきた際、

 ぜひ皆で昼食をお願いしたい、という使用人たちの願いに、取り纏めである有馬が提案したことであった。

その提案に、シンジは快く二つ返事で快諾したのだった。

それからというもの、当主たる男の子が居る時のお昼は、彼らの座る上座に少しでも近い席を、

 と少しでも自分の仕事が早く終わるように努める使用人が大幅に増えて、

  彼らの能率がかなり上がったのは有馬の狙いどおりであった。

さすがに全ての使用人たちが集まることは許されない。

例えば、この屋敷のセイフティを任されている警備員たちは、通常交代制で勤務しているので、

 そのシフトを変更することは出来なかったし、また厨房で腕を振るう料理人たちも、

  限られた人間しか出ることは出来なかった。

彼らは、涙ながらに悔しがっているのだが、シンジは彼らのフォローもしっかりしていた。

そんな昼食会だったが、今日は皆の集まりが異常に早かった。


……それは、この屋敷の持ち主である玄に原因があった。


老人の情報に、どんな娘が来るのか、スタッフたちの関心は集中していた。

…ワイワイ……ガヤガヤ……ワイワイ……ガヤガヤ…

そんな喧騒に包まれていた。

そして、マユミを先頭にこの屋敷の主たる人たちが大広間に現れた。

彼らが入ってくると、今までの喧騒がピタリと止んで、全ての視線が初めて見る女の子に集中した。


……当主である男の子もはっきり言って特殊な容姿だが、その娘は見た事もない髪の色だった。


蒼銀の髪をした女の子は、フリフリの白いシャツに蜂蜜色のスカートをはいていた。

男の子の手と繋がっているのが余程嬉しいのか…女の子は、周りを見ずにただ嬉しそうな笑顔だった。

シンジたちが上座に座ると、昼食の前に男の子が立ち上がって彼女を紹介した。

「こちらは、綾波レイさん。 みんなよろしくね。」

その言葉に、レイは立ち上がって深くお辞儀をした。

「綾波、レイです。 よろしくお願いします。」

使用人たちは、揃って深々と頭を下げた。



………そして、その昼過ぎ。



マユミを筆頭にしたメイド達が、レイの部屋から洋服、装飾品を東の離れに運び込んでいた。

先ほど届けられたこの荷物を解き、整理していたマユミは、

 この美麗な洋服類に、ただ驚くだけであった。

有馬の指示どおり離れに運び込んだ彼女たちは、そのまま女の子の着付けの手伝いをしている。

どうやら、この洋服を使ったお披露目会をするようだ。

「いかがですか? レイ様…」

マユミは、女の子が自分の全身を見られるように大きな姿見を動かして聞いた。

こくり。

「…行ってきます。」

レイは隣で待っているシンジと玄に見せるために、部屋を出て行く。

襖が開けられると、シンジはお茶を置いて見入ってしまった。

恥ずかしそうな表情で、こちらを窺うように入ってきた女の子。

「い、碇君?」

「…か、可愛い。」

”ポッ”

「ありがとう。」

シンジは、大きく頷いた。

「…うん。 とても、よく似合っているよ。」

その評を聞くたびに、レイは顔を赤らめ”くるっ”と回って嬉しそうに隣の部屋に戻っていく。

彼女のコーディネートを担当しているのは、マユミだけではなくリリス、ドーラも加わっていた。

隣の部屋では、その三人が、あーでもない、こーでもないと、姦しくも楽しそうに選んでいたのだった。

結局、その日の夕方までかかったお披露目会は、シンジを一時たりとて飽きさせる事はなかったようだ。

夕食も一緒に、と玄が誘ったが、シンジはレイと研究所へ戻ると言って断った。

「ドーラ、とうさんに連絡して。 今から戻るって。」



………研究所。



「碇、彼女はまだ戻らんのか? おまえが渡したと言う、その情報端末で呼び出したらどうだ?」

手を組んで座っている男に、老人が苛立たしげな表情で聞いた。

「別に構わん。 この場を離れたからと言って、死ぬ訳でもあるまい。 いいか、冬月。 

 彼女については、先程も言ったように私が全責任を持つ。 あれを御せるのは、”私”だけなのだ。」

「…そうか。」

コウゾウは、ソファーに深く腰を下ろした。


”…ピピピッピピピッ。”


端末に表示された内容を確認したゲンドウは、組んだ手に沈めていた顔を上げた。

「冬月、今…彼女が戻ってくる。 言った通り大丈夫だ。 …何も問題ない。」



………出向と出発。



9月15日。

この日は、10月1日から発足するプロジェクトの為に用意された試験日だった。

無事に合格し全て履修できれば自動的に国連軍の幹部になれるという、

 この魅力的なプロジェクトは非常に狭き門であった。

まず、参加資格を得るための予備筆記試験が実施され、それに一般から227,267名が応募した。

また、その予備試験を免除された参加資格者が365名いる。

軍関係からも多数の参加があったので、このプロジェクトの受験者総数は、25万人を超えていた。



………雲ひとつない澄み切った青空。



京都では、屋敷中の大人たちが集まって、これからしばらく帰って来られない男の子のお見送りをしていた。

「「「いってらっしゃいませ、シンジ様!!」」」

まるで声援のような声の中、玄も有馬もマユミも笑顔で彼を送る。


……男の子は、正門の手前で振り返ると、彼らに笑顔で応えた。


「みんな、行ってきます。」

朗らかな笑顔を残したまま、シンジは霞むように消えてしまったが、

 彼の秘密を共有する屋敷の大人たちは誰も驚く事はなかった。


……その一方。 


箱根の研究所の方でも同じように見送られる子供がいたが、こちらは至って静かなものであった。

「レイ君、良いかね? 我々との連絡を密に取るのだ、必ずな。

 君は先日の12日を以って、マルドゥック機関により最初の被験者として選ばれた事になっている。

 正式に、この組織の一員たる1番目の子供、ファーストチルドレンとして公に登録されたのだ。」

「…そう。」

「冬月、もういいだろう。 彼女も十分に分かっているはずだ。

 綾波レイ、先日取り交わした約束どおり私に協力をするのだ。」

「ええ、分かっているわ。」

「我々への連絡は音声でも文章でも構わん。 何もなくても連絡をすることだ。 分かったな?」

「ええ。」

コクリと頷いて手荷物を持った女の子は、付き添いもなく研究所を出発して行った。




後に”トライフォース”と呼ばれる国連軍のこのプロジェクトは、

 長野県の第2新東京市、国連本部からスタートを切ることになる。






第一章 第六話 「国連軍」へ










To be continued...
(2007.01.27 初版)
(2009.11.08 改訂一版)


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