ようこそ、最終使徒戦争へ。

第二章

第十話 転校生

presented by SHOW2様


戦後処理−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−





………第323シェルター。



最後の地震から20分が経った。

先程の揺れはここに入ってから一番大きな振動であったが、幸いな事にケガ人はいなかったようだ。


……このシェルターに連れてこられて何時間が経ったのだろうか。


妹がケガをした、という連絡を受けた少年が慌てて小学校に向かっていたその町中に、

 サイレンが鳴り響いたのは……太陽がじりじりと照りつける昼の事だった。

それは第3新東京市民となって、初めて訓練ではない己の命を護るための本当の避難行動であった。

(……それにしてもハラ減ったのぉ。)

退屈そうにしている少年は、自分のスニーカーをヌンチャクのように靴紐で結んで首にかけていた。

”ぐぅぅううゥゥ〜……”

「もう!お兄ちゃん、恥ずかしいでしょ!そんなに大きなお腹の音立てて!」

クラスメートとお喋りをしていた女の子は勢い良く振り向いて、黒いジャージを着た少年を睨みつけている。

彼女のボーイッシュな黒髪は、兄を叱った身体の動きに併せてサラサラと舞うように動いていた。

「そやかて、ナツミぃ…ワシは昼メシ喰っとらんのや。そっからワイら…何時間ココにおるっちゅ〜んじゃ。

 全く、ロボットやら怪獣やら避難やら…そんな話聞いた事あらへん。ドンパチなんぞ、物騒な街やなぁ。

 大体、おとんとおじぃの仕事やっちゅうて、こんな街に越してきたんがそもそも間違いの元なんじゃ。」

トウジは指にシップを貼っている妹を見て答えたが、お腹の中に燃料が無いので言葉にいつもの元気がない。

ナツミは体育の授業中にプレーしていたバスケットボールの試合で、突き指をしてしまった。

小学校からそんな連絡を聞いた位で、中学校を早退してまで自分を心配して来てしまう兄に、

 呆れたというより少しイヤそうな視線を投げながら、女の子はピシャリと言った。

「食べ損ねたのは、自業自得よ。お兄ちゃんがこんなケガくらいで学校を早退しちゃうのがいけないの!!」

小学校6年生のナツミは多感な思春期に入り、精神的な成長が加速している時期であった。

…やだぁ子供ねぇ…と、そんな周りの目が気になる彼女は、過保護すぎる兄に恥ずかしい思いを感じている。

「そやかてなぁ……」

「あのね、お兄ちゃん…私はもう子供じゃないの!」

トウジは目の前で憮然とした表情をしている妹を見やり、

 全く、いつからこんな風に自分に”トゲトゲ”しい態度になってしまったのかと少し戸惑いを感じていた。

(…ちーとばかし前まで”お兄ちゃん、お兄ちゃん”ってワシにじゃれ付いてきよったのに……。)

少年がそんな事を思って天井をボンヤリと眺めた時、女性のアナウンスがシェルターに流れた。


”ピンポンパンポ〜ン”

『…特別非常事態宣言が解除されました。市民の皆様は案内表示に従って下さい。…繰り返します。……』


トウジが首にかけていた紐を解いて靴を履き始める。

「やっと帰れるんかいな。…ふぅぁああ…くぅぅ〜、ナツミ、帰ろうや。」

立ち上がって大きく伸びをしながらトウジは妹を見た。

「はいはい、判っているわよ。…じゃね〜みんな、また来週。」

ナツミは友達に手を振って挨拶をすると、兄の横を歩いてシェルターの出口に向かって行った。

「なんや、また来週って?」

「さっき先生が明日は学校、休校だって言っていたのよ。」

「ほんなら、ワシらもか?」

「そんなの知らないよぉ。家に帰ってから電話で誰かに聞けばいいんじゃないの?」

「…ま、それもそやな。」

約9時間に渡って拘束されていた市民は、疲れたようにぞろぞろ歩いて地上に向かっている。


……そんな中、どこの世界にも”我先に”という身勝手な輩がいるものだ。


後ろから無理矢理人混みをかき分けて、次々と人を追い抜いてきた男が、

 順序良くゆっくりと階段を上っていたナツミとトウジの背中に思い切りぶつかって、そのまま走り去る。

”ドン!!”

「キャ!」「どわぁっ!」

「邪魔なんだよ!ガキが!!」

弾かれるように壁にぶつかる女の子。

「…くぅぅいてて。なんちゅう失礼なヤツや!!待てや!!……っておい、大丈夫か?ナツミ!」

トウジは無理矢理割ってきた男を追いかけようとしたが、うずくまっている妹を見て断念した。

「…いったぁ〜」

ナツミはシップを貼っていた右手の人差し指を握っていた。

「大丈夫か?」

「うん、平気。壁に指ぶつけちゃったけど。」

「ちょっと見してみい。」

トウジが見た彼女の指は赤く腫れていた。

「新しいシップ貼っても酷くなるようやったら明日、医者んトコに行こう、な?…ナツミ。」

「平気だってば…大丈夫よ、これくらい。」

またいつもの兄のお節介が始まったとナツミは少しイヤそうな顔になる。

その雰囲気にトウジは頭の中で、こんのぉ〜ガキんちょのクセに!…と思ったが、

 頑固な妹にこれ以上しつこく言ってもダメだと諦め顔になると、再び階段を上って夜空の下家路についた。



………NERV本部。



「あ、いけない。…ねぇ、シンジ君…携帯電話を持っていて欲しいんだけど、いいかしら?」

ジオフロントから地上に向かって伸びる長大なエスカレーターに向かっていた時、
 
 司令達との交渉を一応終わらせた弟を送ろうと一緒に歩いていたリツコが、ふと思い出したお願いをした。

「それはNERVの決まりですか?」

歩みを止めたシンジは右側を歩いていた姉を見る。

「まぁ、そう言う事ね。」

「でも、ワザワザ聞くっていう事は?」

「EVA独立中隊に戦術作戦部も技術開発部も命令権は無いわ。

 要請っていう言葉には、拒否権があるのよ。」

「う〜ん……持ってもいいですけど、それって発信機が付いているんですよねぇ…。」

「え?…そんな機能付けていないわよ?」

そんな事するワケないでしょ、と常識的な事を疑われたように感じた姉の視線が自然とキツくなるが、

「へ?」

 その睨まれているような視線の先にいたシンジは、リツコに”ポカン”とした表情を向けてしまった。

「あ!…まさか、もしかすると”前”はそうだったの?」

「えぇ、そうだったんです。」

「呆れた。…何なのかしらね、シンジ君の前の世界って。」

リツコはシンジの経験してきた世界に、NERVに呆れ果ててしまった。

彼女は再び歩き出した弟を横目で確認すると、”すっ”と右に沿うように歩幅を調整して歩いた。

「…そうですね。きっと何かが……何かが狂っていたんですよ。」

少し考えるような顔をして歩いていたシンジは、下に落としていた瞳を遠くにやって答えた。

レイは彼の心が揺れたような気がして、シンジの左手を握っていた自分の右手に少し力を込める。

そんな彼女の気遣いに、”きゅっ”と優しく握り返してシンジは左を歩いている少女に顔を向けた。

『ありがとう。…大丈夫だよ、綾波。』

『…そう。』

『そう言えばさ、綾波は携帯電話って持っているの?』

『…ええ。出向から戻ってきた時にお姉さんから貰ったわ。』

姉は白衣のポケットから徐にそれを取り出してシンジに見せて聞いた。

「シンジ君、コレにはそんなモノは付けていないわ…持ってくれるかしら?」

「ええ、いいですよ。」

シンジは差し出された黒いストレートタイプの携帯電話機を受け取った。

”ピリリリ、ピリリリ…”

「あら…”ピ!”…はい、赤木です。」

リツコは白衣のポケットに入れていた自分の携帯電話を手に取って右耳に当てた。

「あら、副司令。どうなさったんですか?」

『…すまないが、今から私の執務室に来てもらいたいのだが、いいかね?』

「ええ、判りました。」

”ピ!”

「…ゴメンなさい、シンジ君。副司令に呼び出しを貰っちゃったから、残念だけど…ここで失礼するわね?」

「判りました。それじゃ、また明日。」

「シンジ君、明日の実験は夕方の6時からだから。…よろしくね?」


……断らないでね?というニュアンスを込めた表情で確認を取った姉に、シンジは”ニコッ”と笑った。


「ハッ。EVA独立中隊…隊長碇シンジ、確かに了解しました♪」

リツコは敬礼と笑顔で答えてくれた弟に、微笑みを込めた頷きを返すとそのまま踵を返して戻って行った。

「姉さんは相変わらず忙しそうだね。」

「…そうね。」

スタスタ歩いていたシンジは、地上に戻るエスカレーターの乗り口を通り過ぎる。

左腕に少し引きずるような抵抗を感じたシンジは、足を止めて左に振り向いた。

「…碇君、エスカレーターはこっちよ。」

「ふふっ…綾波、もういいんだ。もう使徒戦争が始まったからね。前史をなぞる為の行動はもうお終い。

 これからは僕達のために僕達が好きなように行動するんだ。だから…今はコッチだよ、綾波。」

そう言って、また歩き出した彼の横を黙ってレイは歩く。

シンジは左にいる不思議そうな表情をしている少女の顔を見て、悪戯っぽく笑った。

「ねぇ…今日から一緒に住もうよ、綾波?」

”コクッ!”

その言葉を聞いたレイは”パァァッ”と顔を綻ばせると迷う事なく即座に頷いた。

「じゃ、荷物を取りに君の部屋に行こう?……コッチだよね?」

シンジの向かう先を理解したレイは返事の代わりに、彼に愛情の全てを込めた満面の笑みを返した。



”コォォォォォ……”



エレベーターに乗っている白衣の女性は、右手に持たされた紙の束に視線を落とすと詰まらない顔になる。

(……まったく、ロジックじゃないわね。)

携帯電話で呼び出されたリツコはシンジ達と別れた後、まっすぐに副司令の執務室を訪れた。

そして、冬月から”…では、よろしくな。”と頼まれてしまった仕事に”ふぅ”と大きなタメ息をついた。

”ォォォォォォ…チン!…ガァァ。”

スライドして開いた扉の先から、生暖かい風が彼女のブロンドに脱色した髪を擽るように吹き過ぎていく。

左手で”さっ”と髪を掻き揚げて、白衣を翻しながらリツコは足早に廊下を進んで行った。



………暗い部屋。



セントラルドグマ、レベル30にある……この部屋は暗かった。

照明が点かないのか?…いや、どうやらこの部屋の中にスイッチは設置されていないようだ。

どんなに大きな叫び声を上げても周りに聞こえぬように、ここの壁にはカンペキな防音処理が施されている。

この部屋には、イスを兼ねたベンチのようなベットが無味にあるだけだった。


……ここは所謂、懲罰房である。


濡れていた赤いジャケットはすでに乾いていたが、乾いた冷却用LCLが粉になっていて気持ち悪そうだ。

何時間たったのだろうか……音も光もないこの空間にどれ位いるのか、ミサトには判らなくなっていた。

(はぁ〜疲れたわね………何でここにいるんだろう……私は。)

彼女は”のそっ”と身体を起こして暗闇に慣れた目で周りに視線を巡らせた。

(それにしても…まさか、ココに入れられるなんてね……やっぱ、暗いのは苦手ね。)

”カシュン!”

「…ミサト?少しは落ち着いたかしら?」

”……カシャン”

突然と扉が開き、廊下の眩しい光が遠慮なくこの部屋に注がれて、再び閉まる。

同時に、蛍光灯に電気が流れると煌々と眩しい程の光が灯った。

闇に慣れた目には攻撃に等しい刺激だ。ミサトは声の方に顔を向けるが、瞳を開ける事は出来なかった。

「……なによ?」

リツコはぶっきらぼうに返事をした彼女に顔を向ける事なく足を進めて、

 さっさとこの頼まれ事を終わらせようと、ミサトの目の前の壁に収納されている机を開錠し展開した。

そして手にしていた紙の束を机の上に置くと、振り返って説明を始める。

「副司令からの恩情…かしら。」

「あによ、それ?」

ミサトはリツコの置いた紙の一枚を不機嫌そうな表情のまま、乱暴に手にした。

その手に握られた紙には、懐かしい作文用紙のようなマス目が整然と印刷されていた。

「あなたが反省文を提出し、それが副司令に認められれば3日間の懲罰を2日間短縮してくれるそうよ。」

リツコはこんな雑用の為に、貴重な時間を消費してココに来なければならない理不尽さにイライラしている。


……彼女は初の使徒戦で得られたデータの分析・解析をしなくてはならないのだ。


「なによ、それ〜。私は学生かってぇの…何考えているのよ、副司令は?」

「…そうねぇ。ま、副司令は元々教授だったから、こういうのが好きなんじゃないかしら……。

 イヤなら3日間ここに居ればいいだけのことよ。…無理強いはしないわ。」

「そ、そんなぁ…リツコぅ、冷たいんじゃなぁ〜い?」

「あなたねぇ、私は忙しいのよ?マヤが纏めているデータの解析、武装の開発……時間が勿体無いわ。」

ミサトを見るリツコの目は冷たい。…大事な弟に対して彼女の稚拙な対応は許せるレベルではなかったのだ。

「ねぇ〜ん♪、リツコぅ♪…手伝ってぇ。」

…何故か同性のリツコにシナを作るミサト……残念ながら目標たる彼女にそのケはない。

「…あなた、なにをしているの?」

白衣を羽織った女性の冷静で哀れみを込めたイタいモノを見るような視線が、容赦なくミサトに突き刺さる。

「え、なにって、(アセアセ)……ねぇ〜ん♪、リツコぅ♪」


……ネタの入った引き出しの少ない彼女は、時間を戻したように同じ仕草を作る。


日向であれば間違いなく決め手になるであろうミサトの色気は、リツコに不快感しか与えていなかった。

時間の無駄ね…と感じた技術開発部長は、”クルッ”と踵を返して重営倉の出入り口に向かって歩き始める。

「ちょっと、ちょっとぅ〜リツコぅ。」

”カシュン!”

「…時間はタップリあるんだし、苦手な書類仕事がゆっくりできるイイ機会じゃない。

 作戦報告書も作成しなければいけないんだから、なるべく早くここから出たほうがいいと思うわよ?」

ミサトに行かないで!と懇願されている女性は廊下に踏み出した足を止めて、止めを言うと去ってしまった。

”…カシャン”

…瞬時に閉じた自由への扉。見捨てられたミサトが何かを叫んだようだが、その言葉は誰にも届かなかった。



………ジオフロント。



ジオフロントにある幹部職員用の官舎。

シンジが公式にレイのマンションを訪問したのは、今回が記念すべき第一回目である。

”カチャ”

ドアを開けたレイがオレンジ色のボストンバックを手にして、マンションの廊下に出てきた。

「お待たせ、碇君。」

廊下で待っていたシンジは、当然のように少女のバックを自分の手に持って彼女に柔らかな笑顔を向けた。

「…じゃ、いこっか?」

”コクリ”

「…正面ゲートに行こう、綾波。…マユミさんが迎えに来てくれるハズなんだ。」

「ありがとう、碇君。」

レイは少年の左手をやおら握ると、正面ゲートに続く道を彼に寄り添うように歩いて行った。



………正面ゲート。



(え、なに!…おいおい、ちょっと待ってくれよ!!)

ゲートの暗い影にいた男は慌てて携帯電話を手に取った。

世界中から有りと有らゆる資材を集めて建設された第3新東京市に限って言えば、

 携帯電話システムというインフラは地上地下を問わず、完璧に機能していた。

これは技術開発部長の提唱した、EVAパイロットの非常召集システムの一環である。

”…キキィィ!!”

携帯を手にしていた男のすぐ横に、色は会社の営業車のような安っぽい白で何とも特徴の無い車が、

 ラリーカーのような激しいスキール音を響かせながら急停車してきた。

「よし、追跡するぞ!」

正面ゲートから白いリムジンで出て行ってしまった最重要人物に、保安部は慌てて車を用意して追跡した。

「目標は?」

「目立つ車だからすぐに見付かるだろう。…目標は白いリムジンだ。」

「そいつは判り易いな。」


……NERV本部正面ゲートから街の中心部へは市営のバスが定期的に運行している。


ガードを兼ねた監視を実行していた保安部員は、

 ジオフロントの駅に向かわなかった彼らは、当然それを利用するものだと思っていたのだ。

暫くすると、道の先に白い車が見えてくる。

「”ピ!”こちら、16号車。目標を発見。これより追跡を開始する。」

『こちらNERV保安部、了解。』

白い車が交差点を左に曲がっていくのが見えた。

「どうやら、総司令の息子さんは郊外に住むようだな。」

「ふむ。この道の先には閑静な住宅街しかないからな。」

道なりに急ぐ事もなく静かに走る白い高級車。その200mほど後ろを保安部の車が追走していた。

「”ピ!”サードとファーストを運んでいた目標は、私有地内へ侵入。指示を待つ。」

『”ピ”了解。そのまま交代要員が到着するまで監視を継続せよ。』

「”ピ!”16号車、了解。」



………第3新東京市郊外。



保安部の車が停まっている。…熱せられていたエンジンは止められ、今ではすっかり冷えてしまった。

白塗りのリムジンが入ってしまった塀の外で、

 監視と護衛を続行している保安部員は変化の無い世界に、交代要員が早く来ないかと”ぼ〜”としていた。

この白い塀は幅が300m程の四角形で、その中の建物は2階建ての品の良い洋館のような佇まいがあった。

(……静かだな。)

神経を尖らせて周囲の変化を観察していた、その集中力も最早なくなってしまった男が、

 こんな感想を漏らすのも仕方のない事かもしれない。

ここは閑静な住宅街ではあるが、

 所謂お金持ちブロックとでもいうのか、この一角の一戸一戸の敷地面積は一般的な住宅よりも大きかった。

”ガチャ!”

「おっ!…どうだった?」

周囲を偵察に出ていた男が助手席に戻ってきた。

「あ〜ダメだ。この周辺にこの屋敷の中を見れるような木もなければ、塀も無い。

 登れる所からでは、屋敷の壁しか見れん。」

「では、中の監視は無理だな。」

「ああ、報告して上の指示を待とう。」



………NERV本部。



保安部長から連絡を貰った副司令は今自分の耳に入った情報に驚いていた。

「…何、それは本当かね?…あぁ、判った。……取りあえず、監視を続行させておきたまえ。」

その報告を受けた冬月は、

 総司令官執務室を訪れたが部屋の持ち主は委員会の審議に出ており、この部屋にはいなかった。



………特別審議室。



この部屋は総司令官執務室の1階下、司令部のあるフロアにあった。

ホログラムを利用した審議会、出席者は人類補完委員会の根幹たる幹部達だ。

(何とも陰湿だな。)

委員会の呼び出しに応えたゲンドウがこの部屋に入ってから、既に5分経過している。

”チカ…チカ”

(ふん、漸く始まるか。)

部屋の輪郭がやっと判る位の光しかなかった暗闇の部屋に予告なく浮かんだ光点は、

 ゲンドウが座る席より左に2ヵ所、右に2ヵ所、そして正面に1ヵ所にあり、

  形が見えぬ角を切り落とされた長方形、まるで細長い八角形の机があるように、今ライトが灯り始める。

そして、ホログラムの映像信号を送信してきた回線が繋がったようだ。

”ボォォ……”

(…悪趣味な色だ。)

ゲンドウは、うんざりしてしまった自分の表情を隠すために、机に肘をつき白い手袋の手を顔の前に組んだ。

徐に青い光に照らされたロシア代表の委員が話し出す。

『使徒襲来か。余りに唐突だな。』

黄色の光に包まれたフランス代表の委員が当然のように応える。

『15年前と同じだよ、災いは何の前触れもなく訪れるものだ。』

赤い光に照らされたイギリス代表の委員がゲンドウを見ながら皮肉を放った。

『幸いとも言える。我々の先行投資が無駄にならなかった点に於いてはな。』

『ソイツはまだ判らんよ。……役に立たなければ無駄と同じだ。』

ココにいる黄色人に蔑む様な目をやりながら、皮肉に皮肉を返したロシア代表の顔は歪むように笑っていた。

『左様、今や周知の事実となってしまった使徒の処置、情報操作、

 NERVの運用は全て……適切かつ迅速に処理してもらわんと困るよ。』

(…やれやれ。)

ゲンドウがその感情を出さないように静かに答える。

「その件に関しては、既に対処済みです。…ご安心を。」

緑色の光に照らされたアメリカ代表の委員が片肘を机につきながら問い質す。

『ま、そのとおりだな。…しかし、碇君。

 報告にあった……君の息子、あの戦闘データ、シナリオと違うのではないかね?』

カギ鼻に掛かっている眼鏡を光らすように反射させた、フランス代表もその意見に口を揃える。

『左様、想定されていた修理代…その予算を大分抑えてくれたようだが、あの戦闘力…異常ではないかね?』

『聞けば、あのサードチルドレンは国連軍のトップエース…A・Oだったと言うではないか?』

ゲンドウは委員の問いに一切の変化もなく無表情に答えた。

「……問題ありません。EVA初号機を起動させ、死海文書に記載された使徒をシナリオ通りに殲滅する…。

 …仕組まれたチルドレンとしての役目に変わりはないのです。
  
 むしろ、戦闘に慣れているという点については都合がいい位だと考えますが。」

『ふん…まぁいい、だが君の仕事はそれだけではあるまい。』


……机のモニターに《人類補完計画 第17次中間報告》と書かれた報告書が映し出される。


『人類補完計画……これこそが、君の急務だ。』

『左様、その計画こそがこの絶望的状況下における唯一の希望なのだ。……我々のね。』

白い光に照らされた正面の最高責任者たるキール・ローレンツが、漸くその口を開いた。

『何れにせよ、使徒再来における計画スケジュールの遅延は認められん。予算については一考しよう。』

『…では、後は委員会の仕事だ。』

『碇君、ご苦労だったな。』

”ボォォォ………”

正面に座る議長を残し、ホログラムが消え去る。

『……碇、後戻りは出来んぞ。』

”ボォォォ”

最後の確認を取るような事を言って消えたキールの表情は、バイザーで隠されて読み取る事は出来なかった。

そして静寂に包まれた暗闇に、ゲンドウの声が小さく響いた。 

「……判っている。あなた方老人には時間が無いようだ。」

ゲンドウは机の映像送信スイッチを切ると、ゆっくりと立ち上がり自分の部屋に向かった。



………総司令官執務室。



”…プシュ!”

この部屋に勝手に入る事が出来る人物、それはレベル7のセキュリティカードを持つ冬月とリツコだけだが、

 その一人、ロマンスグレーの髪をオールバックに整えた初老の男がソファーに座っていた。

「ん、なんだ?…冬月。」

総司令は特に気にする事もなく自分のイスに座った。

「碇、委員会はどうだったんだ?」

いつも通り手を組んだ男を横目で見ていた冬月は審議会の首尾を聞く。

「…ふん。いつも通りのイヤミを言う……それだけが彼らの仕事だ。」

ゲンドウは自分の特殊端末を起動させながら、冬月の質問に答えた。

「初号機パイロット、シンジ君については?」

「A・Oとシンジが同一人物だからと言っても、サードチルドレンというファクターに変わりは無い。

 それは委員会も十分に承知している事実だ。」

「それもそうだな。そうだ、先程レイ君がシンジ君の家に上がったという報告が保安部から入ったぞ?」

副司令は先ほど保安部から入って来た情報を思い出し、ゲンドウに対応を確認をする。

「…構わん。」

その意外な答えを口にした彼を見る冬月の目は、訝しげに細まる。

「いいのか?…碇。」

「綾波クンには”ファーストチルドレン”として絶対の協力を我々にしてもらう代わりに、

 ある程度の自由を約束しているのだ。……冬月、リリスの魂である彼女は我々の切り札なのだ。

 彼女がどこで何をしようが、真の目的が達せられればそれでいい…。」

手を組んだゲンドウは、冬月を見た。

「……そうだな。我々の真の計画に支障がなければ構わんか。では、通常どおりガードのみとしておくか。」

冬月は立ち上がると手を腰にやり、広大な部屋の虚空に目を向けた。



………自宅。



白い洋館に帰宅したシンジは、マユミたちメイドが用意してくれた少し遅めの晩御飯を食べていた。

「ご馳走様。…とても美味しかったよ、マユミさん。」

「ありがとう御座います。あの娘達にも、そう伝えておきますわ。」

碇家の当主とその伴侶の世話をするために京都から来たメイドは、マユミを含めて6人であった。

この5名はマユミが直接指導し、鍛えている肝入りの弟子達である。

「シンジ様、お風呂になさいますか?」

「ねぇ、この家の風呂って……」

「はい、もちろん京都のお屋敷と同じ、源泉を引いておりますわ。」

マユミは”ニコリ”と微笑みながらシンジに答えた。

「へぇ〜…やっぱりそうなんだ。…じゃ、さっさとお風呂に入ってゆっくりしよう。」

シンジはマユミに案内されて風呂場に向かう。

「それでは、ごゆっくり。」

風呂の入口を静かに閉めたマユミが振り向くと、廊下の先にレイが立っていた。

「あら、レイ様。…何か御座いましたか?」

「…お願いがあるの。」

「どうぞ、仰ってください。」

マユミは答えながら柔らかく笑って少女に歩き寄った。

「…………練習したいの。」

なぜかモジモジと少し恥ずかしそうにしているレイに筆頭メイドは、なんだろうと耳を近づける。

「………まぁ!!それはシンジ様が大変お喜びになると思いますわ!…ぜひお手伝いさせていただきます。」

少女の願いを聞いたマユミは主人の喜ぶ姿を想像し、全面的な協力を約束した。

「……これは、秘密にしてほしいの。」

「そうですわね。でしたらシンジ様がご入浴されている、この時間くらいしか有りませんわね……。」

「明日、18時から碇君は実験のためNERVに拘束されるわ。」

「でも、余り離れてしまってはシンジ様がレイ様を心配してしまいますわ。お任せ下さい、大丈夫です。

 来週の月曜日には間に合うように教えて差し上げます。」

「……マユミさん、私に知識はあるの。唯、経験が無いだけ。」

「では、きっとレイ様の上達は早いと思いますわ。」


……その頃、お風呂では(…綾波、入って来ないのかな?)と残念がっている、ちょっとHなシンジがいた。


シンジにとってゆっくりと身体を伸ばして温泉に浸かるのは、約一年ぶりのことだ。

「ふぅ〜。」

(…暖かくて気持ちいいねぇ。…あの調査船は海水をろ過してたけど、シャワーだけだったからねぇ。)

ATフィールドを微弱に張り大きな湯船にたゆたっているシンジは取り留めのない事を思いながら、

 手足を伸ばして温泉を満喫していた。

(…おっと、そろそろ出ないとみんな入れないよね。)

1時間ほど温泉に浸かっていたシンジは、何気に長湯をしてしまったとバスタオルで体を拭いた。



「どうしたの?」

リビングに戻ったシンジは、焦っているような波動のレイを見た。

「……な、なんでもないの。私もお風呂に入ってくるわ。」

誤魔化すようにソファーから立ち上がったレイは早口に言いながら、リビングから風呂場に行ってしまった。


……夢中になっていたレイはシンジが風呂から上がった事に気付くのが遅れ、慌ててこの部屋にきたのだ。


「マユミさん、何かあったの?」

慌てるなんて珍しいな、と主人はリビングに来たマユミに顔を向ける。

「シンジ様、少しだけレイ様の好きにさせておいて下さいまし。

 シンジ様の心配なさるような事はしておりませんから。」

マユミが自分に嘘は付かないという事を理解している少年は、この件については黙認しようと決めた。

「う〜ん…良く判らないけど、綾波のしたい事をしているんだよね?」

「はい、シンジ様のために…ですわ。」

「…そう。じゃ、もう聞かないよ。」

「ありがとう御座います。」

マユミはそう言いながら、風呂上りのシンジに冷たいジュースを手渡した。



………レベル30。



この部屋では、2時間ほど女性のうめき声というか叫び声というか、そんな大声が防音壁に吸音されていた。

「あぁぁ!!!ふぉォォォォォオゥゥ!!!…やってらんないわよぉぉぉぉ!!!」


……右手に持つエンピツが折れそうである。


「くぅぅぅぅぅ!!きっと今頃みんなで戦勝祝賀会とかいって飲んでんだわァァ!!

 ぷりーず、びーる!!!……プリーズ、ビア!!!……ギブミー…プリーズ!!」

見れば用紙はまだ白紙だ。先は長そうである。

机に向かってイスに座らず、気味の悪い踊りのように”くねくね”と体をせわしなく動かしている作戦課長。

もちろんNERVでは戦勝祝賀会など行われていないし、パイロット以外誰も帰ってすらいない。

使徒との戦闘を終えた、初の後処理に掛かりきりになっているのだ。

整備部や、技術開発部などは戦争に使用するEVAや武装に人員の全てを以って当たっている。

戦術作戦部もマコトを筆頭に敵性体の分析、現状の第3新東京市で出来うる戦術などの検討をしていた。

最大人員を誇る保安部に至っては戦闘後のEVAが回収された瞬間から、使徒の自爆した周辺を封鎖し、

 開放された市民が入らぬように目を光らせ、その傍ら現在は調査のための大規模テントを設営していた。

ミサトと違い、遂に始まってしまった未知の敵との戦争に誰の頭の中にもアルコールの事など無かったのだ。

皆、疲れが溜まっているその表情は暗かったが、ある部署だけは待ちに待ったこの瞬間に嬉々としていた。


……それは、広報部であった。


今、広報部長が承認の決済をした紙には、シナリオB−22と記載されていた。



………寝室。



NERVの大人たちが徹夜を覚悟していた時、シンジの寝室には風呂から上がったレイが来ていた。

「あの、綾波。そのカッコで寝るの?」

…彼女にとって同衾は当然で自然の事らしい。

”コクリ”

「楽だもの。」

「…そ、そう。…ま、まぁいいけど。」

彼の見たレイの姿は、最高級ランジェリーの上にシンジの大きな白いシャツだけであった。


……白いシャツに下着の桃色が透けているのをシンジはちゃんと見ていたりしている。


また、マユミ達が用意したこのベットはキングサイズよりも大きい特注品であった。

部屋に入り、ベットの横に立っているレイは気になっていた事を彼に聞いた。

「碇君、学校はいつから行くの?」

「え?…えっとねぇ、確か転入届には10日の月曜日からって書いてあったね。」

「……そう。」

レイは寂しそうな顔をして少し俯いてしまった……なぜなら、明日はまだ平日の金曜日で学校があるのだ。

そんな時、ベット横のカウンターテーブルに置いてあったPDAが起動する。

『レイ様、ジオフロントのマンションに電話が入っております。こちらに転送しましょうか?』

『…お願い、ドーラ。』

”リリリン、リリリン。”

間髪入れず、ベットの近くに設置されていた電話機が鳴り響く。

”チャ”

「…はい。」

『あ、夜分遅くすみません。綾波さんのご自宅でしょうか?』

その声を聞いたレイは少しだけ意外そうな表情になった。

「…洞木さん?」

『あ、綾波さんね?よかった、無事だったのね。学校指定のシェルターにいなかったから心配しちゃった。』

「…ごめんなさい。」

『ううん、いいの。無事って判ったから。今シェルターから戻ってきたんだけど、

 先生からシェルターにいなかった人に、明日の事を伝えるように言われたから電話をしたの。

 こんな遅くにゴメンさいね?』

「…構わないわ。」

『え〜と、その連絡っていうのは、今日の騒ぎのせいで明日は学校が休校になるからって。』

「…そう。」

ヒカリの情報を聞いたレイは、

 いつも通りの静かな抑揚の無い声で返事をしたが、シンジには彼女の波動が喜色に包まれたのを感じた。

『うん。だから来週の月曜日まではお休み。3連休になっちゃったわね。』

「…そうね。」

『じゃ、伝えたから。…遅くにゴメンなさい。それじゃ、また来週ね、綾波さん?』

「…ええ。また来週。」

”カチャ”



(さて、次は……鈴原か。)

ヒカリは若干の緊張を感じながら、ダイヤルしようと電話機に指を掛けた。

今日の早退の理由を知っている学級委員長は、トウジがいつも馬鹿をしている時には想像も出来ないような、

 自分の妹や弱い立場の人間に対して、真っ直ぐな優しさを持っているという事を知っていた。

優しい一面があるんだな、と知ってしまったヒカリが初めて意識した異性であった。

”プルルルル、プルルルル…カチャ”

『はい、鈴原です。…もしもし?』

「夜分遅くすみません、洞木と申しますが鈴原トウジ君はいらっしゃいますか?」

『あ、はい、お兄ちゃんですね……ちょっと待ってください。』

(…よかった、鈴原も妹さんも無事だったんだ。)



電話を切ったレイは、徐にシンジのベットに侵攻を開始する。

”ギシッ!”

彼女の歓喜に沸く波動を感じる少年は笑顔で迎え入れた。

”…ギュゥ〜!”

シンジの胸の上に頭を乗せたレイは、彼の定期的な鼓動音を心地良さそうに聞いている。

”トクン、トクン、トクン”と聞こえる音に暖かさ感じる満ちた時間。

そんな時、シンジはEVAとの初シンクロを思い出ていた。

「どうしたの?」

少女は頭を持ち上げ、彼の真紅の瞳を見詰めた。

「初号機とシンクロした時の事を思い出したていたんだ。」

「……聞かせて。」

再び彼女が少年の胸の上に頭を乗せると、シンジはレイの柔らかな髪を撫ぜて話を始めた。



………エントリープラグ。



『双方向回線、開きます。』

(さて、いよいよだね。)

シンジは自分の意識をコアに集中させた。

コアに対する直接シンクロ。

シンジの意識がまるで青い海のような暖かな空間を漂う。

そして青い世界に居る少年が自分の目先に意識を向けると、ボンヤリと光に包まれたようなヒトがいた。

『!…あなた、誰?』

その意識だけの存在は何日か振りの環境の変化に驚いたように思念波を投げてきた。

『…やぁ、母さん、久しぶりだね。』

『え!!シンジ?……シンジなの!?』

少年がその光の人に意識を向けると、ゆっくりと輪郭がハッキリしてくる。

母親、とは思えないくらい若い女性。その白衣を着た女性のダークブラウンの髪がこの世界に揺れている。

嬉しそうな表情を顔一杯に表現した母は、少年が反応出来ないくらいの速さで抱きついてきた。

『シンジ、あぁシンジぃ。…こんなに大きくなって。……可愛い私の子。』

『うわ!ちょ、ちょっと…母さん。』

『あなたがココに来たって事は、ついに始まったのね?』

『そうだよ。やっと始まったんだ。……終わりの戦争が。』

シンジは抱き付いている母親の肩に手を乗せて、少しだけ身体を離した。

『私はどうすればいいの?』

『母さんは何もしなくていいんだよ。初号機の生体コンピュータには、ドーラがいるんだし。』

『でも、私も何かしてあげたいわ。』

『ありがとう。その気持ちが一番大事なんだ。』

『あ、そうだったわね。……でも、シンジだったら、直接動かせるんじゃないの?』

『コアに魂がある場合は出来ればしたくないね。だって母さんの魂、自我を消す事になるから。

 だから母さんをここからサルベージして出すまでは、親子の絆を利用したシンクロになるよ。』

『…そ、そうなの。』

予想外の事実に消されなくて良かったと、少しユイは顔を青くした。

『じゃ、私はいつ外に出れるの?』

『もうちょっと先になるよ。』

『……そうなの。』

『ゴメンね、母さん。』

『いいのよ、シンジは頑張っているんですもの。私は応援しているわ。……と、こ、ろ、で。』

ユイの優しげな表情が変化してくる。

『う?』

シンジは母の変化に?と首を傾げたが、

 その傾きは彼女の両手が少年の顔を包むように触れると力強く”ぐっ”と真っ直ぐに修正されてしまった。

『怒らないから…』

『へ?』

『しんちゃん、母さんは怒らないから正直に仰いなさい?』

その鬼気迫るような素晴らしく気合の入った迫力のある言葉に、シンジは”じわっ”と冷や汗をかく。

『……な、何?』

『レイちゃんと……したの?』

『!!…な、な、な………何言ってんのさ!!!!』

シンジの顔が”ボッ”と音を立てたように真っ赤になった。

『しんちゃん!!』

語気を荒げたユイの鼻とシンジの鼻はくっ付きそうな位に近い。

『ぼ、僕…もう行かなきゃ!!またね、母さん!』

『あ、待ちなさい!!』

ユイは彼を抱こうと腕を急いで回したが、少年は霞むように消えてしまった。

(…もう!……しんちゃんたら!………でも、あの様子だとマダね。ふふふ。)

ユイは頬を膨らませていたが、その表情の最後の方は怪しい笑いに変わっていた。



………寝室。



「って言う感じだったんだ。……母さんは元気だったよ。」

「……そんな時間があの時にあったの?」

彼の左腕を枕にしていたレイは、シンジに時間に干渉したのか?という質問をした。

「コアの時間は、現実の世界と速さが違うんだ。

 早さの差は現実12分に対してコアは1秒って言うところかな。

 EVAに取り込まれた母さんは、まだあの実験から5日と12時間程度しか経っていないんだよ。

 だから、その時間の流れるスピードをあの時だけ逆にしたんだ。」

「…そうだったの。」

「そう言えば、さっきの電話って何かあったの?」

シンジの腕枕から少し身体を起こして、レイは嬉しそうに答える。

「…明日の学校は休校になったと、洞木さんが言っていたわ。」

「そっか。ねぇ綾波、それなら明日は街に出て買い物でもしようよ。実験は夕方だし。」

「…そうね。」

「ふふっ…僕って、幸せだ。こうして綾波がいてくれる……嬉しいよ。」

「私もよ。……碇君は疲れている…だから、もう寝た方がいいと思うわ。」

「そうだね……もう寝よう。お休み、綾波。」

「お休みなさい、碇君。」

”チュ”

シンジはそっと彼女の唇に軽く触れるようなキスをすると、ゆっくりとまどろみの世界に入っていった。



………翌朝の爆心地。



サキエルが爆発したその中心に調査用の大型テントが設営されていた。

周囲400m程を封鎖されている中心地、小さなクレーターのようにえぐれた地面を調査していたリツコが、

 サンプルを採集したケースを持ってテントに入っていく。

「よいしょっと。……ん?」

彼女の瞳にオレンジ色の防護服に身を包んだ、濃紺色の髪をポニーテールに結っている女性が映った。

(…いつの間に来たのかしら?……というよりも、頭のケガ治ったの?……ま、いいけど。)

リツコは自分の仕事を思い出し、ケースを開けてサンプルのビンを整理し始めた。

暑さにだれている女性は、ヤル気無さそうに右手に持ったウチワで”ぱたぱた”と涼を取っていた。

その彼女の視線の先にはテレビが映っていた。

今映っているそのチャンネルは、昨日の事件の特番として組まれたニュース番組だった。

『……昨日の特別非常事態宣言に対しての政府の発表が今朝、第二新……』

”ピッ!”

『……今回の事件には……』

”ピッ!”

『……在日国連軍ですが……』

”ピッ!”

「ふぅ、発表はシナリオB−22かぁ。またも事実はヤミん中ね。」

調査隊として昨日の戦場に派遣された技術部のスタッフがせわしなくテントに出入りしている中、

 リモコン片手に半眼でテレビを見ているミサトはウチワを扇いで呆れたような顔になっていた。

『…はい、爆心地における汚染の心配は有りません。

 使徒のサンプルはEVAに付着していたもの以外は、まだ何も……。』

女性スタッフが電話でしている報告を聞きながら、リツコは採取した土のサンプルを手にとって返事をした。

(私に話し掛けたのよね……ふぅ。)

「広報部は喜んでいたわよ。やっと仕事ができたって。」

『…そうです。MAGIのシュミレーションのとおり、その99.9%以上は蒸発したものと思われます。』

「うちもお気楽なもんねぇ〜。」

「どうかしら、本当はみんな怖いんじゃない?」

「あったりまえでしょ……。」

返事をしたミサトはテレビの先を睨みつけるように瞳に力を入れて呟いた。



………みっつの路上。



「もう!大丈夫って言ってるのにぃ〜。」

青いジーパンを履いている女の子はピンクのシャツを着て、ボーイッシュな髪を揺らして歩いている。

「ナニ言うてる!一晩でこんなに腫れたやないか。もしかして、骨折しとるんちゃうか?」

その隣を歩く少年はいつもの黒いジャージ姿。

「動かせるわよ、ちょっと痛いけど。」

「あかん!ナツミ、動かさんほうがええ!」

第3新東京市立総合病院に続く道を少年と女の子が歩いていた。



「じゃ、行こう。」

明るい茶色のストレートジーンズに白いYシャツを着た少年は、

 白いスカートに縦に薄いブルーのストライプが入った白いブラウスを着た少女に言った。

仲睦まじく手を繋いで出掛ける二人。

「シンジ様、レイ様…いってらっしゃいませ。」

「いってきます、マユミさん。」

自宅から左に400mほど歩くとバス停が見える。

「え、と…あと5分くらいで市内行きのバスが来るね。」

時刻表を確認してベンチに腰掛けてバスを待つ。

第3新東京市は今日も青空で太陽の光は強いが、まだ午前中なので空気は爽やかだった。



調査開始から数時間後、サンプルの採集を終えた調査部隊は何台もの大型トレーラーで移動を開始した。

ここからNERV本部までの道中にある第3新東京市の信号機は、

 MAGIの制御により黄色く点滅させて、このトレーラーを最優先として運用されている。

途中で停められる事なく進む調査隊、その先頭車両《UN 00517》に陣取っている女性は、

 タンクトップ姿で適度に冷やされた車内の空気に満足そうな顔をすると、心地良さげな表情で言った。

「ふぅ。…やっぱ、クーラーは人類の至宝……科学の勝利ねぇ。」

「ちょっといいかしら、ミサト。」

「…あに?」

心地良さげな顔のまま目線だけをリツコに向けるミサト。

「あなたがここに居るっていう事は、反省文を副司令に提出し、認められた……という事よね?」

「…そうよ。」

詰まらない事を思い出したという表情のミサトを見たリツコは、思わず意外そうな顔になってしまった。

(ミサトってマトモに文章かけたのね……これは意外な発見だわ。)


………これはリツコの勘違いである。


昨夜遅くに提出された書類を受け取った副司令は、その紙に目を落として思考を停止してしまった。

自分の予想範囲を遥かに超えた文章…いや文字。

彼は情熱というか、怨念というか……用紙一面に”でかでか”と書かれた力強い迫力のある文字を見た。

《ごめんなさい。》

単純明快な文字は汚い書体ではあったが、それを見た冬月は元学者という事もあってか深読みする質だった。

短いその言葉の裡に込められた彼女の気持ちを無理にでも…勝手に想像して、

 反省する気持ちを感じ取った冬月は、呆れながらも”やれやれ”と彼女を重営倉から解放したのであった。

では、ミサトは本当に反省をしたのであろうか?……本当の処は少し事情が違うようだ。

色々文章を考えていた事は確かであるが、纏まらぬ考えにイラ立ってやけっぱちで提出したのが本当である。

「何よ、リツコ。」

まじまじと顔を見られていたミサトは目を細めた。

「…何でもないわ。」

窓の外に目をやったリツコは、頭を夕方に行う実験に切り替えた。



………第3新東京市立総合病院。



『…鈴原、ナツミさん…鈴原ナツミさん…中へどうぞ。』

「ホンマに付いて行かんで、ええんか?」

「いいから。……もう、ここに座って大人しく待っていてよ、お兄ちゃん。」

「ワシぁ子供か!」

そう言いながらも心配そうな顔をしている兄を見て、軽く肩でため息をついた妹は診察室に入って行った。

待合室で待っているトウジの横に、同じように家族の診察待ちをしているおばさんが座ってきた。

「…あら、木村さん。」

「まぁ…五十嵐さんもなんですか?」

トウジを挟んでおしゃべりを始めたその二人は近所の知り合いなのか、顔見知りのようだった。

「…やっぱり引っ越されますの?」

「ええ。…まさか本当にここが戦場になるなんて、思ってもみませんでしたから。」

「…ですよねぇ。うちも主人が子供と私だけでも疎開しろって。」

「疎開ねぇ。…いくら要塞都市だからって言ったって、何一つあてに出来ませんものねぇ。」

「…昨日の事件。思い出しただけでも、ゾッとしますわぁ。」

ナツミを待つトウジは、”ぼぉ〜”と自分の前を飛び交う主婦達の会話を聞くとなしに聞いていた。

(……やかましぃのぉ、話すんのやったら別な場所に行かんかい。)

だんだん不機嫌になってくるジャージの少年は、割と短気のようだ。

トウジが我慢しきれなくなって”ガタッ”と立ち上がると、目の前の扉がちょうど開いた。

「お!!ナツミ、どやった?何やて?」

開いた先の女の子は右手の人差し指に包帯を巻いていた。

「小さなヒビが入っていたって。」

「すぐ治るんかいな?」

「1週間くらいでくっつくから安静にしてなさいって、お医者さんが言ってたわ。」

「ほれみぃ、兄ちゃんの言うとおり病院に来てよかったやろが。」

「まぁ、ちょっとはね……」


……兄がどれだけ調子づくのか手に取るように判るナツミは、あまり素直に感謝することは出来ない。


「ほれほれ、もっと素直に感謝せんかい。」

にんまりといやらしい笑いを受けべる兄を見たナツミは、無視して会計を終わらせようと歩いていった。

「ちょ、待てやぁ〜…ワシが金持っとんのやぞ!!」

”ぷいっ”と振り向きもせず歩いていってしまう妹に、トウジは慌ててついて行った。



………工事現場。



《 第25誘導兵器システムビル(甲−H型) 》

施工者は特例341、特令3により秘匿とされている兵装ビルの近くで調査隊の先頭車両は停まっていた。


……リツコの乗るトレーラーに便乗していたミサトは、自分の愛車の近くで降ろしてもらっていたようだ。


”ピッピッ……ピッピッ……ピッピッ……ピッピッ”

”グォォーーーーン………グォォーーーーン”

クレーンの吊り荷を誘導する作業員の笛の音が、喧騒の中に響いている。

濃紺の長髪を風に揺らして立っている女性は赤いジャケットを片手に持ち、

 その近くで行われていた新兵器であるパレットライフルの兵装ビルへの搬入作業を見ていた。

「EVAとこの街が完全に稼動すれば、イケるかも知れない。」

トレーラの窓からその言葉を聞いていたリツコは、呆れたような口調で答えた。

「使徒に勝つつもり?……相変わらず楽天的ね。」

「あら?…希望的観測は、人が生きていく為の必需品よ。」

”ガダダダダダ、ガダダダダダ……”

工事作業の音は絶える事がない。

(……あなたの場合は度が過ぎる気がするけどね。)

そんな事を思いながら、リツコは返事をした。

「…そうね、あなたのそういう処だけは助かるわ。」

「なによ、”だけ”って。……ま、いいっか。……じゃ。」

リツコに手をヒラヒラと振ったミサトはボッコボコのルノーに乗り、自宅へ帰って行った。



………繁華街。



”プシュー”

少年に手を引かれた彼女がゆっくりとバスから降りてくる。

「何を見ようか?」

陽の光がまぶしい青空の下、蒼銀の髪を揺らす少女に嬉しそうに顔を向けた少年が聞いた。

「…ここの地下街を見てみたいわ。」

「うん、了解。…じゃ行ってみよう。」

そのままシンジはレイの手を握り直して歩を進めた。


……第3新東京市の中心部に造られた地下街は周りのオフィスビルに勤務するサラリーマンや、

 生活する市民の要望に応えるように多種多様な店構えを拡げていた。


カップルは寄り添って、ゆっくり地下街を探索して行く。

前史の時、シンジはココに殆ど来た事がなかった。……もちろん、レイは一度も無い。

そんな彼らはお互い新鮮な気持ちで右へ左へ、

 ゆっくりとあらゆるジャンルを網羅したような地下空間のウィンドウショッピングを楽しんでいる。

1時間ほど歩くと地上に上がる階段口が見えてきた。

「綾波、あそこから地上に上がる?」

「そうね。…碇君、のど渇いた?」

「そうだねぇ、少し渇いたかな…何か買ってこよっか?」

”ふるふる”

「私が買ってくるわ。…何がいい?」

「そう…じゃ、冷たい紅茶がいいな。」

「ソコで待ってて。」

レイは100m程戻った所にあったコンビニまで小走りで向かって行った。

(何も走らなくてもいいのに……ま、いっか。)

白いスカートを翻して走っている少女を見ていたシンジは、階段の下でレイを待つ事にした。

「きゃぁあぁ!!」

突然の叫び声。

少年がその声の方に振り向くと階段の上から女の子が落ちてきた。



………3分前の繁華街の路上。



「昼は何食おうかのう。」

兄妹は病院で会計を済ませた後、今日は他の用も特にないので散歩がてら繁華街を歩いていた。

「そんな事言って、お金持っているの?お兄ちゃん。」

ナツミは外食すると言った兄に訝しげな視線を投げた。

「おお、病院に行くっちゅうて、おじぃからお昼代も貰ったんや。」

「じゃ、久しぶりにレストランがいいなぁ。」

瞳を輝かせた妹の提案に、兄は詰まらなそうな顔で答えた。

「なにぃ、レストランやと?…あかん、ワシはラーメンがいい。」

「レストランにもあるわよ、ラーメンくらい。」

「あほぉ!…マズイに決まっとるわ、そんなもん。」

判っとらんなぁ、とちょっと小馬鹿にしたようなトウジに、ナツミは必死に食い下がる。

「…えええぇ〜。ヤダヤダ……レストランがいい、ね〜お兄ちゃん?」

「美味いラーメン屋があるらしいんや。……そこでええやろ?ナツミ。」

「お兄ちゃんなんだから、妹の為に我慢してレストランにしてよぉ…外食なんてめったにしないんだから。」

「兄ちゃんの言う事に文句付けるんか?

 ……ワシが病院に行こうっち言わんかったら、今頃ナツミは痛い思いをして、家で昼メシ食うとる処や。

 つまり、今外でメシ食えるんもワシのお陰っちゅうことや、判るな?」

「なによ、それ。」

女の子は余りに乱暴でお子様なトウジの理論に、呆れよりも怒りが湧いてくる。

「ふふん、だからラーメン屋に決定や。」

これで決定!と、にんまり笑って満足そうなトウジを見たナツミは更に怒気を高めた。

「もういい!!お兄ちゃんとなんて一緒にいたくも無いわ!!」

そう言った女の子は、兄を睨み付けながら発作的に走り出した。

”ダダダッ…スカッ!”

トウジの瞳に映ったのは、地下街への入口階段に吸い込まれるように消えていく妹の姿であった。

「な、ナツミィィィィ!!」

呆然とその場で叫んだ兄は、足がすくんでしまったかのように一歩も動く事が出来なかった。



………邂逅の階段。



”…スカッ!”

(え?)

足元の感覚が無くなったナツミは兄を見ていた瞳を慌てて前に戻した。

彼女を支えるモノの無い空間。スピードに乗った女の子はその勢いのまま階段上の空中にいた。

「きゃぁあぁ!!」

彼女の視界がまるでスローモーションの様にゆっくりと流れていく。

ナツミは諦めて、ぎゅっと瞳を閉じた。

(あぁ…私、死んじゃうんだ。…………え?)

(女の子が降って来る!?って助けなきゃ!)

シンジは徐にジャンプして彼女を空中で優しくキャッチすると、そのまま階段の中ほどに着地した。

暖かく柔らかな感触に、一体自分がどうなってしまったのかとナツミが瞳を開けて見えたのは、紅い瞳。

(…きれい。)

女の子は、その真紅の瞳に縫い付けられてしまったように見入ってしまった。

その瞳が優しく笑う。

「クス…大丈夫?」

「……え。」

”ぼぉぉっ”としていた女の子の意識がやっと現実を認識した。

自分は階段の中ほどで男の人に優しく抱きかかえられている。

「大丈夫かい?」

その男性は優しく笑いながら、ナツミをそっと階段の上に降ろしてあげた。

「あ、は、はい。あ、あの…ありがとう、御座います。」

恥ずかしかったのか、”ペコッ”とお辞儀をした女の子の顔は真っ赤である。

「ケガ、ないかな?」

「あ、はい。」

シンジの顔から視線を外さず、ナツミはただ素直に首を縦に振る。

「…な、ナツミィィィ!」

その声に女の子が振り返ると、階段の上から黒色の少年が転げ落ちそうな勢いで駆け寄って来た。

「お、お兄ちゃん。」

「ケガ無いか、大丈夫か?」

ジャージの少年を見たシンジは少し瞳を大きくしてしまった。

(と、トウジの妹さんだったんだ。……トウジ、久しぶりだねぇ。)

「この人に助けてもらったから、大丈夫だったの。」

それを聞いたトウジが初めて妹の側にいる背の高い男性を確認した。

「えらいスンマセンでした!!…ナツミを助けていただいて、ホンマにありがとう御座いますゥ!!」

90度に身体を曲げてお辞儀した少年に苦笑しながらシンジは答えた。

「いいえ、妹さんにケガが無くて本当に良かった。」

背の高い少年は屈んで女の子に”ニコッ”と微笑むと優しく頭を撫ぜてあげた。

「ナツミちゃん、っていうのかな?」

「あ…は、はい!」

ナツミは耳まで赤くなっている。

「お兄ちゃんと仲良くね。」

そう言ってシンジは階段を下りて行った。

「格好えぇ……漢や。」

トウジは呆然と彼を見送っていたが、その先に見えた人物に目を大きくする。

(あ、ありゃ、綾波やないか!ちゅう事はあん人は綾波のお兄さんやったんか……紅い目も同じやしのぉ。)

「はぁ、カッコいい……あんな優しそうな人がお兄さんだったら最高だなぁ…ふぅ。」


……素直な感想を漏らすナツミの顔は惚けたように紅く染まっていた。



紅茶を買ってコンビニから出たレイは、いるハズのシンジが階段下にいなかったので慌てたように走った。

そして彼女が階段の先に視線を向けると、愛しい彼はちゃんといてくれた。

(…いた、碇君。よかった。…?ジャージ?あれは鈴原トウジ……。)

シンジが階段の中ほどから下りて来るのをレイは静かに待っていた。

「ごめん、待たせちゃったね。」

「…ううん、私は平気。碇君、何かあったの?」

「トウジの妹さんが転びそうだったから助けてあげたんだ。」

「…そう。…はい、紅茶。」

「ありがとう。反対側から地上に上がろうよ。」

「……構わないわ。」

「綾波、これ飲む?」

シンジは自分の飲んでいた冷たい紅茶のペットボトルをレイに差し出した。

”こくっ”

少女は嬉しそうに受け取ると、そのまま二口、三口、飲んでいた。

(一本しか買ってないみたいだったからね。)

シンジ達はそのまま地上に向かった。



階段を上り、路上に出るとトウジがすまなそうに口を開いた。

「兄ちゃんが悪かった。…ナツミ、レストランに行こうや。」

「ううん。…いいよ、お兄ちゃん。ラーメン食べたいんでしょ?」

「ええんか?」

やっぱり食べたかったんだ、とナツミは”クスッ”と笑った。

兄は久しぶりに妹の楽しそうな笑顔を見た気がした。

「さっきのお兄さんに、”お兄ちゃんと仲良くしてね”って言われたからね。」

「な、なんやそら!」

(子供ねぇ…お兄ちゃんは。)

「お兄ちゃんも頑張ってあの位カッコいいお兄さんになってよ。」

「あ、ああ。確かにさっきの人は漢の中の漢っちゅう感じやったのぉ。」

「あれ、珍しいわね〜。お兄ちゃんがヒトの事そこまで褒めるなんて…。」

「うるさいわい!…ほれ、ラーメン屋に行くぞ!」

「…はいはい。」

トウジとナツミは噂のラーメン屋を探して歩いて行った。



………コンビニ。



(さぁ〜てぇ…一日振りのビールよん♪パァ〜とねぇ!…ふっふぅ〜ん、意外とコレいけるのよねぇ♪)

”ドサッ、ドサッ……ドサッ”

カゴに次々と入れられるレトルト食品と缶詰、ツマミにビール。

会計を済ませて、助手席に真ん丸く膨らむまで詰め込まれたコンビニのビニール袋を投げるように置く。

(そ〜だ、ちょっち距離あるけど、アソコに行ってみようかな。)



………NERV本部、14時。



カフェテラスの窓際のカウンター席に座っているマヤは、遅めのランチを摂っていた。

”もぐ……もぐ”

彼女の食べるスピードが遅いのは、テーブルに置いたノートパソコンの画面を見ながら、だったからである。

左手に持ったサンドイッチは中々減らない。

”……もぐ”

「…マヤ、行儀が悪いわよ。」

いつの間にかリツコがトレイを持って立っていた。

「隣、いいかしら?」

「あ、センパイ!…どうぞ。」

「食べる時は食べ、休む時は休む。そうした方が効率的よ。」

「そ、そうですね、すみません。」

行儀が悪かったなと、恥ずかしかったのか…少しマヤは頬を染めて”パタン”とノートパソコンを閉じた。

リツコはコーヒーを飲み、皿に盛られたスパゲティカルボナーラに手を付けた。

「センパイ、NERVの食堂ってどれも安くて美味しいですね。」

「…司令がこういうのに五月蠅いのよ。」

「え、司令が…ですか?」

マヤは意外な事を知ったという少し驚いた顔をリツコに向けた。

「ふふっ…意外だったかしら?」

リツコはコーヒーを飲みながら悪戯っぽく笑った。

「あ、いえ。そんな事はないんですけど。

 ……私、何年もNERVにいるのに、一度も司令が食事をされている所を見た事がなくて。」

「それはそうよ、執務室に届けさせているんですもの。」

「え?……デリバリーサービスなんてやっているんですか?」

マヤはそれはぜひ利用したい、と期待に瞳を輝かせるがリツコの答えはその期待に応えてくれなかった。

「やっていないわよ。…特別に、って事。」

「なんだ、やっぱりそうなんですか。」

ガックリとしょんぼりな顔になった後輩にリツコは慰めの言葉はなかった。

(…この娘って意外と食べ物スキよね。)

「マヤ、15時からシンジ君の実験準備をするわよ、良くて?」

優秀な後輩は顔を持ち上げ、頭の中を切り替えた。

「判りました。」

「最初に私の執務室で実験のガイドラインと概要を説明するから。その時はあなたも居て頂戴ね。」

「はい、今日のテストは何をするんですか?」

「初回だからシンクロテスト、ハーモニクステスト…それぞれに就いてね。」

「判りました。テストプラグは何番を使うんですか?」

「00番はレイちゃんのだから、01番ね。そうだ、シンジ君のプラグスーツの状況を確認して頂戴。」

「あ、はい。じゃ、ちょっと行って状況を確認してきます。」

食べ終わったトレイとパソコンを持ってマヤは立ち上がった。

「…頼むわね。」

リツコは再びパスタを食べ始めた。



………繁華街。



シンジ達はイタリアンレストランでパスタとピザを食べていた。

「ふぅ、お腹一杯。…綾波もお肉、殆ど平気になったね。」

「…軍隊生活で矯正したもの。」

「そうだったね。」

口をナプキンで拭きながらシンジは懐かしそうな顔になった。

「みんな元気にしているかなぁ?」

「…判らないわ。」

「今日は久しぶりのデートだから、リリス置いてきちゃったしね…さて、行こうか?」

”コクン”



………再び、路上。



「ふぅ、食った、食ったぁ……せやけど、噂ほどやなかったのぉ…まぁまぁちゅうとこか。」

「やっぱり噂って実際よりも大げさに伝わるんだよ。」

「…そやなぁ」

それでも腹が満たされたトウジは満足そうだった。

「あ、あれって。」

ナツミが見ている方向にトウジが目をやると、道路を挟んだその先にシンジとレイが歩いていた。

「羨ましいなぁ。」

”ぼそっ”と呟いた女の子の視線の先には、

 背の高いカッコいい男性の左腕に右腕を組んで、嬉しそうに柔らかく笑っている蒼銀の美少女。

「綾波……あないな顔できるんかい……。」

無表情の彼女しか見た事がないトウジは驚きに口を開けて、少女の表情に視線が釘付けになってしまう。

「え、あのヒト、お兄ちゃんの知り合いなの?」

「あ、ああ。あの女は綾波レイっちゅうて、ワシと同じクラスや。」

「あんな顔って?」

「う?…アイツは学校にいるときは無愛想っちゅうか、無表情っちゅうか。

 男とは一切話もせんし、女子とも最低限度しか喋らん女なんや。だから、あないな顔は初めて見るんや。」

「あんなに嬉しそうな顔しているのに?……ぜんぜん想像出来ないわ。」

「やっぱ、兄妹は特別っちゅう事やろ。」

「兄妹なのかな?」

「見てみい、あない背も高いし…

 さっきも思うたんやが貫禄っちゅうか器がデカイっちゅうか。ま、兎に角…目上のヒトっちゅう感じや。」

「…そうねぇ。」

曲がり角の先に消えて行った彼らを追っていた視線を戻すと、ナツミは兄を見た。

「…なんや?」

「私は腕なんて組まないからね?」

「あ、アホ言うな!こっちから願い下げじゃ!!」

トウジは我知らずに顔を赤らめて怒鳴り返した。

「くすくす…さ、ウチに帰ろう?…お兄ちゃん。」

何ともウブで素直な反応をした兄を見て、ナツミは可笑しそうに笑ってしまった。



「姉さん達に何かお土産買って行こうよ。」

「…そうね。」

「ケーキなんてどうかな?」

「…いいと思うわ。」

シンジは携帯電話を取り出すと、ダイヤルボタンや通話ボタンを押す事なく耳に当てた。

「ドーラ、ケーキの美味しいお店を探して欲しいんだけど、頼めるかな?」

『はい、お待ち下さい、マスター。』

そして、程近い場所にあったお店に寄って、

 忙しいであろう姉へのお土産を手に、シンジ達は電車に乗ってNERVに向かった。



………執務室。



時計の針が16時を回った頃、シンジとレイはリツコの執務室に続く廊下を歩いていた。

「あれ、シンジ君とレイちゃん…もう来ちゃったの?」

特徴的な容姿のカップルを見た童顔ショートカットの女性、伊吹マヤがドアの前に立っていた。

「…お土産買ったんで、実験前に食べてもらおうと思って。…ですから、少し早めに来ました。」

「え!…お土産?」

書類を抱えていたマヤの視線が、シンジの右手に持たれた箱に集中する。

「じゃ、早速センパイの部屋に入りましょう?」

「そうですね。」

シンジの返答よりも早くマヤがインタフォンを押していた。

”ピピ……プシュ!”

「マヤ、実験手順書は持ってきたわね?」

「はい、センパイ。」

リツコはマヤだけが入室しているものと思い、端末の画面に向けた視線を上げる事無く会話をしていた。

「…あの、お邪魔しています。」

遠慮がちな少年の声を聞いた部屋の持ち主が、ゆっくりと頭を上げる。

「あら、いらっしゃい。シンジ君、レイちゃん、早いわね?」

正面に座っていたイスを回転させて、リツコは笑顔で彼らを迎え入れた。

「お土産を買ってきました。…どうぞ、姉さん。」

リツコはシンジから箱を受け取り、中を見ると顔を綻ばせた。

「まぁ、美味しそうね。…レイちゃん、紅茶を淹れてくれるかしら?」

「…はい。」

「マヤ、そこの机の上を整理して、お茶が出来るようにスペースを作りましょう。」

「そうですね、センパイ。」

レイが紅茶を淹れている時間、

 リツコとマヤは実験レポートなどで散らかっていた応接用のテーブルと格闘していた。

「センパイ、これは?」

「えぇ〜っと、あぁ、それはシュレッダーに掛けて頂戴。もう要らないわ。」

(……綾波の方へ行くか。)

シンジは邪魔にならぬように、そっとその場を離れた。

廊下の給湯室にいるレイの周りには、なんとも良い香りが立ち込めていた。

「良い香りだね、綾波。」

後ろから優しく抱き締められた少女は嬉しそうにした。

「そう。…ありがとう。…お姉さん達は?」

後ろの少年に体重を預けるように、レイは彼に寄り掛かかる。

”きゅ” 

「…今、テーブルの上を片付けているよ。」

甘く柔らかな少女を抱き締める腕に少し力を込めてシンジは答えた。



流しのぞうきんを取りに来たマヤは固まっている。

(あ、う、え、と。ど、どうしよう?…ぞうきん取れないよぉ。)

彼女は”ひょこっ”と、曲がった先にいたシンジ達を見て、思わず隠れるように後ろに下がってしまった。

まさか、少年が少女を包むように抱き締めているとは思いもしなかった、マヤの顔は赤い。


……それでも、そっと覗いてしまうのは人のサガだろうか?


(うわぁ〜レイちゃん、嬉しそうな顔。なんか、あの子達って不潔っぽく見えないのよねぇ…どうして?)

「…あなた、何しているの?」

突如、背後から聞こえた声にマヤの肩が”ビクゥ!”と痙攣したように震える。

「ぅわ!、せ、センパイ!」

「ぞうきんは?マヤ?」

「あ、それが…」

どう説明したら良いのか、マヤがオタオタしているとリツコの反対側から声が掛かる。

「何しているんですか?…紅茶が入りましたよ。行きましょう?」

マヤがもう一度振り返ると、先程まで覗いていたカップルが立っていた。

「あ、え、と…ぞうきんを取りに行かなきゃ。」

「…持っているわ。」

少女の右手には、よく水切りされた布があった。

「あ、はははは。」

マヤは笑うしかなかった。……その声は大分乾いていたが。



「……あぁ。美味しかったですゥ♪」

マヤはケーキを3つ食べた。

シンジはゆっくり紅茶を飲んでいる。

レイはショートケーキに続いて、今はチーズケーキを食べていた。

「以上が、シンクロテスト、ハーモニクステストの概要よ。」

リツコは説明しながら甘さを抑えたビターなチョコケーキに手を伸ばしていた。

「姉さん、お願いがあるんですけど。」

「…ん。…何かしら?」

姉はケーキに落としていた目線を弟に向ける。

「パレットライフルっていうの、開発したんですよね?」

「えぇ、先程…兵装ビルに搬入したわ。それがどうかしたのかしら?」

「使用する弾丸って劣化ウラン弾ですか?」

「違うわ。当初の計画は確かに劣化ウラン弾を使用する予定だったんだけど、司令が変更命令を出したの。

 現在装てんされているのは、主材料を炭化タングステン合金で製作したタングステン弾よ。

 コストは掛かるけど、国連組織として第3新東京市の環境に配慮した……と言う処かしら。」

「そうですか、父さんが。」

(…多分、使徒戦争後を考えてくれたんだね、ありがとう……父さん。)

「お願いっていうのは、その事かしら?」

「あ、そうだったんですけど、もう二点ほど有ります。」

「いいわ、聞かせて頂戴。」

リツコは紅茶を飲んでいたカップを机に置いた。

「EVAと使徒の戦いの多くは近接戦闘になります。その為の武器を充実させて欲しいんです。」

マヤがその話を聞いて、シンジに質問をする。

「どうして、そう言えるの?シンジ君。」

「ATフィールドです。」

リツコは合点がいった、と深く頷いた。

「…なるほど、ATフィールドを中和する為には近付く必要がある。

 そして中和できる距離では遠距離の武装は意味が薄いわね。

 …それに通常兵器が通用するなら、態々EVA用に造る必要性がないわね。

 普通のミサイルや戦車で十分に事足りる、という事になるでしょうから。」

「そのとおりです。飽くまでもパレットライフルは牽制が主になりますね。」

「でも、日本刀のようなモノを創ったとしても、

 EVAの振り回す力に耐えられず、折れてしまうんじゃないかしら?」

姉は頭の中で開発シミュレーションを行っている。

「大丈夫ですよ。戦闘中はATフィールドでコーティングしますから。」

「プログナイフのように超高速振動機能もいらないの?」

「はい、その方が安上がりでしょ?」

「そう、そうね。判ったわ、今開発している武装と平行させて造りましょう。…で、残りの一つは?」

「え〜と、そのエントリープラグなんですけど……。」

「何か、不具合でもあったのかしら?」

「違います。え、と。タンデム用のインテリアとエントリープラグを造ってほしいんです。」

「理由を伺ってもいいかしら?」

「僕と綾波であれば、同時に多数のATフィールドを展開できると思います。」

レイは物凄く嬉しそうな顔で何度も頷いている。

マヤの顔はなぜか赤い。

リツコは冷静に考えを纏めている。

「興味深いデータが取れそうね。いいわ、司令の許可が下りれば造りましょう。後で稟議書を作るわ。」

”ピピピピ!”

「あら、時間だわ。じゃ、シンジ君…実験場に行きましょう。」

「判りました。」



………18時、郊外。



ガタガタのルノーはこれ以上壊れないようにゆっくりと峠道を登っていた。

”バタン!”

対使徒迎撃要塞都市を一望できるここの景色は、今正に夕日が沈み込み、開けた大空は紅く染まっていた。

第3新東京市を囲むような山々はまるで失われてしまった季節、秋の紅葉のように美しく輝いていた。

”クァッ…クァッコァッ……クァッ…コァッコァッ”

鳥の鳴き声が人気のない駐車場に響いている。

(……時間だわ。)

”ウウウウゥゥゥゥゥゥ…………”

ミサトが手すりに身体を預けて目をやっていた都市に警報音が鳴り響いた。

”…グウィィィーーーン!ゴウゥン!!”

定期訓練の為、その街のあらゆる場所で地下に収容されていたビルが地上に戻ってくる。

(何度見てもスゴイわね。……ビルが生えていく。)

先程まで高層ビルの一つもなかった田舎臭い街は、

 アッと言う間に超高層ビル群の乱立する近代的な大都市に変貌していった。

(これが、使徒迎撃専用要塞都市…第3新東京市。私達の街……そして、NERVの護った街か。)



………同じ18時、NERVの実験場。



01番と書かれたテストプラグにシンジは搭乗した。

『…LCL注水します。』

マヤの事務的な声がプラグに響く。

『プラグスーツはどう?シンジ君。』

「はい、キツくもなく丁度いいですよ。」

そう答えたパイロットの頭の中は、全然違うことを考えていた。

シンジは姉の執務室を出た後、更衣室に向かっている道すがらレイが先に帰る、と言った事に少し驚いた。


……自分はこれから行う実験に数時間は拘束されるだろう。


その時間、特にやる事もなく待たせているだけというのも悪いな、と思い了解を告げて更衣室に入ったのだ。

「碇君、実験が終わったら電話して。」

「うん、判ったよ。バスで帰るの?」

「…マユミさんに電話をしてみるわ。」

「そう、じゃ、気を付けてね。」

「…碇君も。」

「ありがとう、じゃ後で。」

”コクリ”

(…綾波、今頃なにしているんだろう?…もしかして、昨日の夜の事かな…マユミさんはああ言ったけど、

 やっぱり気になるなぁ…僕の為って言っていたっけ……一体なんだろう?)



モニターに映るシンジは集中しているのか、まるで瞑想しているように少し頭を下げて静かにしている。

「では、シンクロ開始。」

「はい、双方向回線開きます。……えっと、シンクロ率12%」

「え!?…たったの12%?…おかしいわね?…プラグスーツに問題があるのかしら?」

「センパイ、やはり模擬体とEVAでは違う、という事でしょうか?」

「う〜ん…何とも言えないわね、直接パイロットに聞いてみましょう。」



『シンジ君………?シンジ君?……ッ!!ちょっと、大丈夫!?…マヤ!!精神汚染は!?』

呼びかけに反応しないシンジを見たリツコは、何某かのトラブルかと慌て始めるが、

 呼ばれた方は、”ぼけっ”とした返事を返してくる。

「あ、はい…スミマセン、ちょっとボケッとしてました。実験始めます?」

バーチャルモニターに映るリツコがシンジをまじまじと見詰めてきた。

『ふぅ。シンジ君、大丈夫?疲れているのかしら?』

「いえ、大丈夫です。」

『そう、余り驚かせないでね。…EVAの実験は精神汚染とか色々危険性があるんだから。』

「スミマセンでした。」

『まぁ、いいわ。…では、リスタート。』

(え?リスタート?って、もしかして始まってたのかな……実験。)

シンジは”たらっ”と冷や汗をかいてしまった。



「リスタート準備終了。いけます。」

「では、再度シンクロ開始。」

「双方向回線を開きます。…シンクロ率99.89%、ハーモニクス98%」

その数字に”ニッコリ”と嬉しそうな顔で、リツコはマイクのスイッチを入れる。

「すごいわね……正に天才。…”カチッ”シンジ君、どう?」

『はい、プラグスーツのお陰でしょうか、昨日の時より感覚がハッキリしているような気がします。』

「……そう。マヤ、プラグ深度を10下げて。」

リツコ指示の下、様々なデータを収集する今日の実験が終わったのは3時間後の事であった。



『お疲れ様、シンジ君。今日はこれでお終いよ。』

「お疲れ様でした。」

『更衣室で着替えたら、そのまま帰って貰って結構よ。』

「判りました。」

『次回は、インダクションモードの調整をしたいの。出来れば来週の水曜日辺りでお願いできるかしら?』

「綾波の実験はあるんですか?」

『同じ水曜日に予定しているの。…フフッ…帰ったら伝えておいてね。』

最上級職員であるリツコは保安部からの報告で早速、シンジとレイが同居したという事を知っていた。

「あ、は、はい。」

何とも照れたように白い頬を紅くした少年を見た実験場の女性スタッフが、

 初めて知ったパイロット同士の同棲生活を想像し、羨ましい!!と身悶えていたのは別の問題だろう。



………コンフォート17。



”ぷしゅー”

「たっだいまぁ〜」

返事のない、その暗い玄関の明かりをつけたミサトはコンビニ袋を片手にリビングに向かう。

(ちょ〜っち…散らかってるわね、ははは。…ま、いっか。)

ミサトの見た自宅マンションのリビングは缶ビールの空き缶や多種の酒瓶、

 ツマミのカス……どう形容していいのか、ここに人が住んでいるとは認めたくないほどの有様であった。

着替えを終えたミサトは、無造作に手にしたコンビニ弁当を電子レンジに入れてスイッチを押した。

”ブゥゥゥ〜……チンッ”

「いっただっきまぁ〜す!」

”カシュ!!…ウグ…ウング…ウグ…ウグ…ゴキュ!”

「ぷっはぁぁぁ〜〜はぁ!くぅぅぅぅう!」

”ダン!”

「やっぱ人生、この時の為に生きているようなモンよねぇ〜!!」

”ガラ!”

ミサトの正面、トイレや風呂のある洗濯場のドアが開く。

”ブルブルブルッ!”

濡れた身体の湯水を切る為、まるで犬のように乱暴に頭を振っているのは、オスの温泉ペンギンであった。

「あら、ペンペン…お風呂に入ってたの?」

黄色いくちばしと赤いトサカに緑の目、

 その背に背負うバックパックから胸にかけたプレートには《BX293A PEN2》と書かれていた。

「クェ!(ほっとけ!)」

彼は、ミサトに一瞥もくれず、自分の冷蔵庫の部屋を開けるスイッチを”にゅっ”と伸ばした爪で押した。

「なによぉ〜…ペンペンったら。」

他の動物と違い、知能の少し高いペンペンは彼女のことを余り飼い主とは思っていないようだ。


……良くて同居人、というレベルの認識なのかもしれない。


彼から見れば、自分はキレイ好きで自分の部屋は快適空間である……が、一歩外に(リビング)に出ると、

 ゴミ屋敷のような劣悪な環境を作り出している人間のメスがいる。

不快感が募るばかりの生活であった。

そんなペンペンは、いつかこの家を出て自由になろう、と固く心に誓っていた。






転校生−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−






………8月10日、月曜日。



早朝の第3新東京市……シンジとレイは手を繋いで道を歩いている。

「ねぇ、綾波。ちょっと気になっていたんだけど、指輪は指にしないの?」

同衾するようになってから気付いたことであったが、彼女はいつも婚約指輪をネックレスに通している。


……その事を思い出したシンジは、ふと聞いてみた。


少年の問いかけに少女は、穏やかな表情を彼に向けて答えた。

「学校では余り目立たないように、碇君が通学するまで指輪をネックレスに通してシャツに入れていたの。」

「そうなんだ。」

”コクリ”

「…このネックレスは、リツコお姉さんが誕生日にくれたプレゼント。」

レイが制服の上から胸の上に手をそっと当てた。

「…けっこう高かったんじゃないかな。」

ちょっと心配そうな顔になるシンジ。

「私も断わったの。……でも、技術開発部長になって更に給料が多くなってしまって、

 使う暇も無いから気にしないでいいのよって言われて……結局、断れなかったの。」

「そっか。」

シンジは彼女の話の内容に、あれ?と質問した。

「え〜と、綾波…今日から僕は第壱中に通うけど、ネックレスのままなの?」

レイは足を止めて、シンジの瞳をジッと見ると僅かに頬を染めて言った。

「私は碇君に、………首っ丈なの。」

予想外の答えにシンジは、”ボッ”と顔を紅くしてしまった。

「あ、ありがとう。」

”フルフル”

顔を真っ赤にした彼を見た少女は嬉しそうにかぶりを振った。



………第3新東京市立第壱中学校。



「な、なぁ、見たか?」

男子生徒達は蜂の巣を突付いたような騒ぎになっている。

「誰だよ、アレ!」

「オレの綾波さんと手を繋ぐとは!!」

「あれだろ、多分、兄妹とか!」

「違うって!親戚さ。」

「あ〜、なるほどねぇ。」

「そ、そうだよなぁ〜」

数人の男子生徒達が齎した情報は、かなりのスピードでこの中学校に伝播していった。

この中学イチの美少女、今までどんな男子生徒にも一瞥もくれなかったクールビューティー。

紳士協定を結んだわけではないが、彼女の雰囲気にただ遠巻きに見て満足していた男子生徒達。

その彼女が今朝方、何と男と仲良く手を繋いで学校に登校していた、というではないか。

自分達の心の平穏を取り戻すため、少年達は彼女の兄妹説、親戚説などの勝手な話を創造していた。

”カララ”

スタスタといつも通りの足取りで席に向かう、蒼銀の美少女をクラスの男子と女子は注目していた。

”キーンコーンカーンコーン”

ホームルーム開始ギリギリに入って来た為、男子はおろか女子でさえも彼女に問い質す事は出来なかった。

2年A組の担任である老教師がゆっくりした足取りで教壇に立った。

「起立…礼!…着席。」

ヒカリの号令で、いつもの朝が始まる。

「はい、みなさん、お早う御座います。…えぇ、今日はホームルームの前に、我が校に転入してきた、

 新しいお友達を紹介いたしましょう。」

先生の言葉に男子生徒の頭の中から、兄妹説が消えて親戚説に支持が集まっていく。

「はい、それでは入ってきて下さい。」

”カラ!”

クラス中の注目が一枚の木製のドアに集中する。

ソコから入ってきた姿は、標準的な白いカッターシャツに黒いズボンという、この中学校の制服だ。

しかし、彼の容姿は何と言って良いのか……華やかさとかではない、圧倒的に惹きつけられるモノがあった。

教壇の横に立ち、クラスメートに向き合った少年は中学生としては長身で、その身長は175cm位、

 また細身ではあるが、その腕を見ると鍛え上げられた強さのようなモノが感じられる。

そして髪は白銀に輝いており、彼の優しげな顔にある瞳は吸い込まれるような綺麗なルビー色だった。

「では、挨拶をしてください。」

「はい、先生。…この度、第3新東京市に引っ越してきました。碇シンジです。よろしくお願いします。」

”ペコッ”とお辞儀をした体を起こすと、少年は”ニコッ”と満面の微笑みを浮かべた。

その天上の微笑みを見た女子生徒達は頬を紅く染めて、熱い吐息を漏らしてしまう。

(((((いやぁぁぁんん!!カッコいいぃぃ……ヨロシクなんて……モチロンよォォォォ!!!)))))

彼女達の熱い視線の先にいるのは、トップモデルが道端の石ころ以下に見えてしまうような神秘的な少年。

(((((素敵ぃ…無敵に素敵よぉぉぉぉぉ!!!!)))))

彼女達は彼を見た歓喜の渦に包まれた。

(((((碇くぅぅぅぅぅん……好きよぉぉぉぉぉ!!!!)))))

シンジが無意識に放ったその微笑みは、

 女生徒達の心の裡に、いつまでも色あせぬ一枚の写真のように刻み込まれる最高の笑みであった。


……レイも惚けたように顔を赤面しているのは、まぁご愛嬌か。


「…はい。では、碇君、席は空いている所に座ってください。」

「判りました。」

このクラスの男子は皆シンジに対して敵対心を持つ事は出来なかった。

いや、嫉妬のような感情を抱く事すら思いつかぬほど、先程の笑みはそこまで魅力的だったのだ。

しかし、このクラスの2名の男子生徒は違う事を考えてた。

(売れる!!売れるぞォォォ!!!撮ってやる!!売ってやる!!!オレはヤルぞォォォ!!!)

方向性を間違えたヤル気を出している相田ケンスケは、相変わらずである。

(…な、ほ、ホンマかいな!!あん人……あん人は、ワシとタメかいな!!)

ポカンと唖然とした表情をしているのは、黒いジャージを着たトウジだった。

シンジはゆっくりとレイの横にカバンを置いた。

「よろしくね、綾波。」

「…はい、碇君。」

レイの嬉しそうな微笑みを初めて見た男子生徒達は、驚きと共に彼女に見惚れていた。

(((((うぉぉぉぉぉお!!!か、可愛いぃぃぃぃ!!!)))))

(((((綾波さぁぁぁぁん!!!!)))))

(何で撮れないんだよォォォォ)

(((((綾波さん、抜け駆けはナシよぉぉぉぉ!!!!)))))

そんなクラスの台風のような喧騒にまったく頓着しない老教師は、

 ホームルームの時間が終わるまで淡々と自分の話をしていた。



………休憩時間。



時間は正確に過ぎ去り、男子、女子生徒達の待ちに待った休み時間を知らせるチャイムが鳴った。

”キーンコーンカーンコーン”

「…えぇそれでは、ここまで。」

「起立、礼、……ちょっと、みんな!!」

ヒカリが振り返ると”ガタガタ!!”と礼をしたままの女子達がシンジに向かって走っている。

ワイワイと女子に囲まれるシンジの机。

「ヨロシクぅ、碇君。」

「…よろしく。」

「ねぇ。碇君って、綾波さんと一緒に登校してきたってホント?」

「そうだよ。」

あらゆる方向から質問を浴びせられる。

「綾波さんと…どんな関係なの?」

一人の少女がした質問に、一瞬にしてクラス中の同級生の耳が大きくなる。

「僕と綾波の関係?」

”チラッ”とシンジがレイの方へ向くと、彼女はシャツを留めていたリボンタイを”シュル!”と解いた。

突然の美少女の行動に男子生徒の視線が集中する。

『え!?…レイ?』

シンジも突然の彼女の行動に、思わず瞳を見開いて名前で呼んでしまった。

解かれたシャツの首下から煌くプラチナのネックレスを取り出して、徐に指輪を外す。

女子生徒達は見た事もないブルーのリングに注目しているが、

男子生徒達は僅かな隙間から見えたレイの雪のように白い肌と鎖骨に集中していた。

やおらその指輪を自分の左手薬指にはめたレイを見たシンジは…そうだよね、と先程の質問に答えた。

「僕は綾波と婚約しているんだ。彼女は僕の愛する大事な人だよ。」

突然の告白にクラスの女子達は数瞬の間、まったく反応ができなかった。

男子生徒は皆…ガクッと頭を落とし、支持した親戚説が断ち消えた事を理解して一様に顔を青白くしていた。


……固まっていた女子達が再起動する。


「「「「えぇぇぇぇ!!!!」」」」

「ホントなの?綾波さん?」

”コクリ”

レイは静かに頷いた。

どう対応していいのか、自分達の予想外の彼らの関係にゆっくりと女子達は席に戻って行った。

そんな女子が”ふらふら”と離れて行った時、黒ジャージの少年がシンジの机の横に立った。

「あ、あの…」

シンジは再びリボンタイを結わえているレイを見ていた視線を、声の方向に向ける。

「あれ、キミってこの前、地下街の階段で会った……」

ガバッとトウジは深々と頭を下げて喋り始める。

「鈴原トウジです!その節は大変お世話んなりましたぁ!!

 ワシ…いや、自分はまさか碇さんが自分とタメ、いや、同い年とは思いませんでしたァ!!

 …じ、自分は是非あなたのようになりたいんですゥ!!

 是非、是非…自分を、弟子にしたって下さい!!」

その唐突な申し出を聞いたシンジは、数瞬の間をとって彼に無表情に答えた。

「……ふぅ、いやだよ。」

その言葉に勢い良く頭だけ上げるジャージ。

その瞳はなんででっしゃろ?という色がありありとしていた。

「弟子なんかじゃなくて、友達になろうよ。ね、鈴原君?」

シンジは瞳に笑みを浮かべて言った。

「わ、ワシとでっか?」

「そうだよ、イヤかい?」

「と、とんでもないですぅ!」

「じゃ、これから僕とキミは友達だ。」

シンジがすっと右手を差し出した。

トウジは無意識に自分の右手を”ゴシゴシ”とジャージの右腿で拭いて、怖ず怖ずと応えた。

「よろしくね、鈴原君。」

「ワシの事はトウジでいいですわ。」

「そう。よろしくね、トウジ。…じゃ、僕もシンジでいいよ。」

「とんでもないです、あ、え、と。……センセ、センセと呼ばせてもらいますゥ!!」

(……前もそう呼んでたねぇ。)

シンジは苦笑をしそうになってしまった。

右手を熱く握ったジャージの少年に、シンジは楽しそうに笑っていた。

その様子を相田ケンスケはじっと見ていた。

(なんだよ、アイツ。折角オレが友達になってやったのに……新人にペコペコしやがって。)

彼のメガネが光っていた。



………お昼休み。



休み時間ごとにシンジの周りには人だかりが出来ていた。

女子達は先程の婚約の話は、まぁ自分達の横に置いておき、
 
 とりあえずシンジと友好を図るという事を優先したようだった。

その為、元々静かな雰囲気を好む性格のシンジは、精神的にかなり疲れていた。


……まぁ、レイのようにATフィールドを張る、という事をしないのは元来の人の良さの表れかもしれない。


『お兄ちゃん、大丈夫?』

『…リリス。うん、何とか。……なんだか第三小学校を思い出すね。』

『にぎやかパワーは中学生のほうが強いけど、雰囲気は同じ、だね。』

『…碇君、第三小学校って?』

シンジはレイの方を見て答えた。

『あぁ、使徒戦争の準備の一つとして、1週間だけ第二新東京市の小学校に行っていたんだ。』

女生徒達は見詰め合っているカップルを羨ましげに見ていた。

”キーンコーンカーンコーン”



「さ〜て、メシやメシ。…ケンスケぇ購買部に行こうや。あ、センセ、購買部の場所教えましょか?」

シンジは立ち上がってトウジに返事をしようと顔を向けた。

(…知っているけど、ね。)

「あ、そうだね。……って。」

”くいくいっ”と袖を引っ張られる感覚に慌てて彼女の方に視線をやる。

「どうしたの?」

「…行きましょう。」

「う?、そう……ゴメン、トウジ。今日はいいや、ありがとう。」

「…そうでっか。ほな、ケンスケ行こうや。」

トウジは残念そうに教室を出て行った。

シンジの手を握ると、レイはカバンを持って教室を出て行く。

そして、屋上の片隅に腰を下ろすと、カバンの中から箱を取り出した。

「あ、綾波?…それって、もしかして。」

シンジはその箱を”ジッ”と見て何とも言えない感情に支配されていく。

「…食べて。」

包みを解いて、レイがそっと差し出した。

「作ってくれたの?綾波が?」

”こくん”

恥ずかしそうに頬を染めた彼女を見て、シンジは歓喜の波動を強めていく。

「ありがとう、頂きます。」

レイも自分の箱を取り出して、包みを解く。

”……もぐもぐ……”

箸をつけた少年は、横に座る少女の少し心配そうな視線を感じる。

「すんごく、美味しいよ。」

シンジの満面の笑みを見た少女はホッと安心したように、やっと自分の弁当に箸をつけた。

彼は彼で、結構夢中になって箸を進めていたが、半分ほど食した時に手を止め、顔を上げてレイを見た。

「…綾波。」

「…何?」

「この為に、僕の実験の時とか先に帰ったりして…練習していたの?」

少女は…なぜバレたの?と上げた顔に、その瞳を少し丸くして固まってしまった。

シンジはそんな彼女を見て、自分に込められる全ての感謝の気持ちを乗せた言葉を述べる。

「ありがとう、本当にうれしいよ。」


……この甘々なカップルを邪魔するモノはこの屋上にいない。


常夏になってしまった日本の昼時、太陽の強い日差しが容赦なく屋上のコンクリートを熱している。

いくら風が涼を運んできたとしても、文字通り焼け石に風である。

愛する彼女を気遣うシンジは、

 もちろん自分達の直上に不可視のATフィールドを微弱に展開し、熱線と紫外線を遮断していたが。

二人は汗一つ流すことない快適な空間と、偶にそよいでいく優しい風に心地良さそうにしていた。

昼休みになって15分。

シンジは、彼女の手ずからの弁当を米粒一つ残さず綺麗に全てを食べ尽くした。

「ふぅ、美味しかった。…ご馳走様でした。」

「クス…お粗末さまでした。」

レイは物凄く満足気に微笑んだ。

彼女は彼の伴侶として感じる満たされた達成感と絶大な喜びに、彼に”ピタッ”と寄り添っていた。

…そんな時。

購買部のパンを2個と牛乳を腹に納めた少年が、ゆっくりと屋上に出る階段を上っていた。

(オレの綾波さんとイチャイチャしやがって!!……碇シンジ、絶対に撮ってやる!)

『お兄ちゃん?』

『う〜ん、この波動……ケンスケだね。』

「ちょっと待っててね、綾波。」

シンジはそう言うと、屋上の出入口に向かって歩いて行った。

(前は知らなかったとは言え、ケンスケって結構ひどいよな。小遣い欲しさに盗撮した写真を売るなんて。)


……盗撮はもちろん犯罪だし、肖像権、プライバシーの侵害である。


前史のケンスケはシンジの写真は撮っていなかったが、レイやアスカの写真は盗撮し販売していたのだ。

ケンスケは首から提げた一眼レフタイプのデジカメを左手に持ち、右手をドアノブに掛けた。

”…カチャ”

ゆっくり窺うように覗き込む茶色いくせっ毛の少年。

(アレ?…綾波さんしかいないな。……ま、いいや……折角だからね。)

彼は望遠レンズを装着させたデジカメを、紅い本を読んでいる少女に向かって構えた。

”……カシャ、カシャ……”

「ちょっと、キミ。」

「うわっ!!」

「盗撮は犯罪だよ?」

誰もいなかったハズの背後から突然声を掛けられたケンスケは、ビクッと身体を震わせて慌てて振り返った。

「あ、あ…転校生。な、なに…いや…その」

余りのタイミングの悪さに、口をパクパクさせて漸く出て来た言葉は意味不明だった。

「そのデータ、消しなよ。」

自分を見ている背の高い少年を牽制するように、彼は手元のデジカメを再生モードにして驚いた。

なんと蒼銀の美少女がちゃんと写っていたのである。

彼女が転校してきてから、

 数え切れぬほどシャッターを切っていたが、マトモに写っている写真はこれが初であった。

「…な、なんでだよ!!」

その喜びと興奮にケンスケは思わず、シンジに怒鳴ってしまった。

癇に障ったのか…突然と語気を荒げた少年の反応に、少し呆れた口調で転校生は答えた。

「肖像権、プライバシーの侵害。それ以前にキミがした盗撮は、立派な犯罪だよ?……知らないの?」

『綾波、ちょっとコッチに来てくれる?』

『…判ったわ。』

ケンスケはシンジを睨み付けてがむしゃらに持論を叫んだ。

「これは、僕の作品なんだ!!著作権は僕にある!!だからお前にそんな事を言われる筋合いはない!!」

「作品って言うのは、許可を取った被写体を写したモノの事だよ?…彼女の許可、取ってあるの?」

「あ、当たり前だろ!!」


……すぐにバレる嘘を付くケンスケ。


彼はレイに気付かれないうちにこの場を去りたいようだったが、そうは問屋が卸さない。

「…何しているの?」

美しくも透き通る鈴を転がしたような声が、すぐ近くから聞こえた。

(げぇぇ、いつの間に!)

「あ、綾波。今、彼がここからキミの写真を撮っていたんだ。

 まるで盗撮しているみたいだったから、止めるように言ったんだけど、

 彼は君の許可を貰って写真撮影しているっていうんだ。…本当に承諾したの?」

ケンスケの顔色は真っ青だ。

「いいえ、していないわ。転校初日に言われた時、ハッキリいやと答えたもの。」

「そう、じゃキミは嘘を付いたんだね?」


……白日の下に晒されてしまった真実。


犯罪者の烙印を押されてしまいそうな少年は、突発的に最低な行動に出た。

「う、五月蠅い!!」

”ドン!!”


……転校生はケンスケに突き落とされて、階段最頂部の踊り場から下に転落していった。


”…ドサッ”

「あ、あ、あ、あ。………あ!お、お前がいけないんだ!!」

ケンスケは、突き出した自分の手を見てワナワナ震えると、”バッ”と現実を拒絶するように叫びながら、

 倒れている少年を無視して、階段を飛ぶような勢いで走り去ってしまった。

深紅の瞳に映っている映像が上手く理解できていない少女は、呆然と立ちすくんでいた。

(たおれている……だれが……いかりくんが………どうして………おちたから……ハッ!!!)

「いかりくん!!!」

我に返ったレイは、階下に倒れている少年に向かって転びそうな勢いで駆け寄った。

「…いてて。」

「大丈夫?…ケガは?…痛いところある?…どうしたらいいの?…いかり、くん?」

”ムクッ”と上半身を起こした少年に少女は、気が気でないという心痛の面持ちで矢継ぎ早に聞いた。

「…大丈夫だよ。まさか突き落とされるとはね。ちょっとビックリ。」

”ぎゅ〜!!”

「…いかりくん…。」

シンジの様子にホッと安堵の息をついたレイは、彼にしがみ付く様に回した腕に力を込めた。



”…ドサッ”

何か大きい音が聞こえたな、と偶々廊下を歩いていたヒカリが倒れている少年を見た。

(…え?碇君?)

と思っていたら、飛ぶような勢いで自分の横を走り去っていくクラスメート。

(…相田?)

走り去る後姿を見ていた視線を再び階段の踊り場に戻すと、

 泣きそうな表情の蒼い髪の少女が、上体を起こした転校生に抱きついていた。

(綾波さん?)

「綾波さん!…どうしたの?」

「…洞木さん。」


……レイは学級委員長に今起きた事の顛末を詳しく話した。


シンジは彼女達が話している横で携帯電話でメールを打っていた。

《ドーラ、悪いけど…ケンスケのデジカメデータを消しておいて。》

”ピピ”

即答の返信メールが表示される。

《マスターに何て事を!!…彼の持つ全ての動画、写真、音声…一切合切データをこの世から消しますわ!》

怒り心頭な彼女によって、小学校から収集していた彼のコレクションはこの瞬間…永遠に失われてしまった。



………2年A組。



ヒカリは直ぐに教室に戻ってケンスケを探したが、既に彼はカバンを手に学校を逃げるように早退していた。

「どうしたの?ヒカリ?」

クラスにいた女子は、”フーッフーッ”と肩を上下させている興奮したお下げ髪の委員長に声を掛けた。

「逃げ足が速いんだから、まったく!!…ちょっと聞いてよ、さっき相田がね………」

「……え〜うそ、そんな事したの?やっぱり変態ね、アイツ…」

「信じられない大バカね。」

「碇君は正しい事を言っただけじゃない!!」

「碇君は?」

「ケガは無さそうだったけど…一応、綾波さんに付き添われて保健室に行ったわ。」

「碇君になんて事するのよ!」

「相田ぁ!!」


……転校初日の午前中だけで1年から3年までの女子全員の耳に、麗しの転校生の情報は伝わっていた。


その為、彼にしたバカの行動は素晴らしい速度で認知され、ケンスケはこの日、全女子生徒の敵になった。

その様子を見ていた男子生徒達はその余波を受けないように、メガネの少年との友好を断とうと決心した。

(センセに何ちゅう事するんや!…今度出てきよったら、ワシがパチキかましたる!!)

トウジは右手を力強く握りこんだ。



………保健室。



階段から落ちたという生徒を触診しようとした年若い女性校医は、顔を赤らめてしまった。

(うわっ!スゴイ引き締まった身体……格闘家みたい。)

シャツを脱ぎ、時間が止まったように”まじまじ”と身体を見られているシンジは居心地が悪そうだ。

「あの、先生?」

「あ、ゴメンなさい。じゃ、痛い所があったら言ってね?」

腰や肩、腕など、打ったと思われる身体の各部位を丹念に調べていく女医。


……何となく熱心で丁寧すぎる手付きなのは、シンジの気の所為ではあるまい。


「特に内出血や青アザとかも見当たらないけど、自覚症状はあるかしら?」

「いいえ、特にないですよ。」

「頭は打ってないの?」

「はい、腕でガードしましたから。」

「そう…じゃ、取り敢えずは大丈夫だと思うわ。」

「ありがとう御座いました。」

「…はい、碇君…シャツ。」

「ありがとう、綾波。」

シャツと制服を着てしまった少年に女医は少し残念そうな顔になった。

「じゃ、碇シンジ君、何かあったら直ぐに来てね?」

「はい、じゃ教室に戻ります。」

廊下を歩きながら、シンジはレイと波動で会話をしていた。

『碇君…よかった。』

『ごめん、心配掛けたね。それにしても…なんて言うか、初日から色々あるねぇ。』

『クスッ…碇君は目立っていたから。』

『そうかな?』

『…そうよ。』

『もうすぐ午後の授業が始まっちゃうから、少し急ごう?』

『…そうね。』



………A組。



昼休みがもうすぐ終わるという時、クラスの話題の人物が教室に戻ってきた。

何も無かったかのように平然としている転校生に女子たちが集まってくる。

「平気なの?」

「碇君、ケガは?」

「大丈夫だった?」

「碇君、平気?」

「…センセ!」

シンジは自分を心配してくれていたクラスメートに微笑みながら答えた。

「僕は大丈夫、怪我もしていないよ。心配してくれてありがとう。……ねぇ、みんなにお願いがあるんだ。」

「なに?」

「何でも言って!」

少女達の瞳は一様に輝いている。

「相田君を許してあげてね?」

この発言はクラス中を驚かせた。

そんなみんなの、何で?と言う疑問の視線にシンジは答える。

「相田君は、自分のしていた事が判っていなかったんだ。

 僕が指摘して初めて…彼はしてはいけない事をしていたんだと理解したんだ。

 けど、彼はその時どう対処していいのか、迷って判らなくなっちゃったんだと思う。

 ……だから、突然とあんな事をしてしまっただけなんだよ。

 だから、今度、学校に来た時はみんな普通に彼と接してあげて欲しい。」

シンジの言葉は中学生には相応しくないほど、大人びた感情と対応だった。

(((大人っぽぉぉぃぃぃい!!!……素敵ぃぃ。はうぅ……。)))

その貫禄のある大人の雰囲気に、女子達がまた熱い吐息を漏らした。

(……ま、ケンスケって盗撮をしなくなれば、そんなに悪いヤツじゃないんだからね。)

シンジは皆を見渡すとそのまま自分の席に向かって行ってしまった。

(センセは漢やぁ!!…ケンスケ、お前はこんなお人に何ちゅう事してんのや!)


……ケンスケは直ぐに謝れば良かったのに、逃げてしまった。


謝罪のタイミングを逸してしまった彼は、このクラスでの評価を地の底まで徹底的に下げていった。




さて、現実逃避中の彼は家に着いたようだ。

(クソッ!クソッ!…なんで僕がこんな思いをしなきゃいけないんだ!)

”ガチャ!”

乱暴にドアを開けて家に入った少年は、そのまま誰も居ない静かなリビングのソファーに腰を落とした。

(なんなんだよ、アイツ。クソォッ…オレの綾波さんに。ナニが婚約者だ!)

イラ立たしげに髪をグシャグシャっとすると、気晴らしをしようと自室に行った。

(そうそう。さっきの写真のデータを入れなきゃ。折角撮れたんだからね……ふふふふ。)

1分後。

「……な、なんでだヨォォォォ!!!!」

デジカメのメモリを保存しようとパソコンに電源を入れたが、待てど暮らせど画面は黒いままだった。

なぜならハードディスクのデータは全て消えていたのだから。

「畜生!!!何なんだよ!!」

(…全く、昨日バックアップを作って保存しておいて良かったよ。)

何とか血が上った頭を冷まして冷静になると、少年は不貞腐れながらもOSを再インストールしていった。

そして、起動したパソコンに接続したバックアップデータを見ると。

「はぁぁぁ???」


……彼のデータは消えていた、それはもう…綺麗に。


いやな予感がしたケンスケは、ディスクや色々な媒体でコピーしていたコレクションの確認をした。

「…ぬぐゥゥゥぁぁああ!!!!………うッッそだろぉぉぉぉぉ!!!!」

正に魂の叫びかもしれない………変態の。

小学校から撮ってきたお気に入りの盗撮データ。更衣室のノゾキをしながら撮った動画。

そのあらゆる意味で、秘蔵でお宝な映像や決定的で保存版となるデータは、見事に消滅していた。

呆然とした彼は、最後にデジカメの電源を入れてモニターを見ると、《 No Image 》


……あぁ無情である。


彼は燃え尽きたように、真っ白い灰になっていた。





嫉妬の行方−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−





………2日後の水曜日、その放課後。



(…ケンスケ、今日も来なかったね。)

シンジはカバンを持ち、レイを見た。

「行こう、綾波。」

「はい、碇君。」

「じゃ〜ね、トウジ。」

「あ、あぁ、センセ…また明日。…なぁセンセ、そんな気にせんと…ケンスケは明日は来るやろ。」

「え、あ…そうだといいね。」

少し寂しげな表情をしたシンジ。彼は学校に通い、昔を思い出したように少し内罰的になっていた。

(あの時、僕が”ぼぉっ”としていなければ良かったのかな…。)

そんな彼の波動を感じた蒼銀の少女は、優しく彼の手を握って彼を見る。

『…碇君のせいではないわ。』

『ありがとう、そうだね。彼の判断は彼のもの。僕の判断も僕のもの……判ったよ、もう気にしない。』

彼女と手を繋いで教室を後にした彼を”ジッ”と見ていたトウジは、何も出来ない自分にイラ立っていた。

(ケンスケ、やっぱ…あん人が許しても、ワシは納得出来ん。…出来んのや!)



………NERV本部。



16時にシンジとレイはリツコの執務室を訪れた。

”ピピ”

シンジがドアの横にあるインタフォンを押すと、カメラで来訪者を確認したのか自動的にドアが開く。

”プシュ!”

「お邪魔します。」

「いらっしゃい、シンジ君、レイちゃん。」

正面に座っていたイスを回転させて、リツコは笑顔で迎え入れたが、

 この部屋にはもう一人、左側の壁を背に立っている赤いジャケットを羽織った女性も居た。

「あっら〜ん?…二人揃ってご出勤なんてぇ…もしかして、デートでもしてきたのかしら?」

ミサトはにんまり笑ってからかおうとしたが、

「…学校帰り。」

 レイが無表情な顔と冷たい視線で答えたので、顔に出した笑顔が引きつってしまい後が続かなかった。

「あ、そ、そうよね。」

ミサトは目標をシンジに定めて、からかおうとおどけた口調でフレンドリィに話し掛けた。

「やっぱぁ、アンタたち付き合ってたのねぇ?…もぅラブラブってぇ感じぃ?」


……シンジはミサトを無視した。


「赤木博士、今日は技術開発部のシミュレーターを使ったEVAの調整作業と聞きましたが。」

「ちょっと、何無視してんのよ!」

「止めなさい!…ミサト!あなた彼に謝罪したの!?」

「へ?あによ…謝罪って?」

「あなたが上官であるシンジ君に手を上げたことよ。」

「あれは、生意気な子供を叱る大人として、当然の躾よ!!」

「では、謝罪する気はないのね?」

「ハッ…あったり前でしょ!」

バカバカしいという表情のミサトを見たリツコの目が鋭くなる。

「葛城一尉、赤木三佐として、あなたに退室を命じます。」

「ちょと、ちょっとぉ…リツコぅ!!何でよぉ?」

数少ない親友の毅然とした態度にミサトが慌てる。

「使徒戦後に貴女がした事は、単なる嫉妬から発展した暴力よ。

 それに対して謝罪もせずに友好を図ろうなんて……私には、あなたの思考回路を理解する事が出来ないわ。

 それに、技術開発部としてEVA独立中隊の協力は絶対に必要なの。

 彼らの為に私達が便宜を図り、協力するのは当然でしょ?」

取り付く島のない厳しい表情のリツコに、ミサトは力なく項垂れながら…渋々と部屋を後にして行った。

「ゴメンなさいね、シンジ君。」

「姉さんが謝る必要は有りませんよ。さて、行きましょう。」



………シミュレーター。



『こちらの準備はいいわ、シンジ君。…EVAの調子はどう?』

EVA専用模擬射撃訓練場に紫の巨人が佇んでいる。今、シンジはその初号機の中にいた。

「可もなく、不可もなく。普通だと思います。」

『…それは結構ね。先週渡した資料、EVAの出現位置、非常用電源、兵装ビルの配置、

 回収スポット…頭に入っているわね?』

「はい。」

『では、時間が勿体ないからEVAについての説明は省きます。

 今日シンジ君にしてもらうのはインダクションモードのシステム調整。

 先の戦闘データから使徒を仮想空間に作り出すわ。シンジ君はインダクションモードを使い、殲滅させて。

 ………では、いいかしら?』

「どうぞ。」

”カシュン!フォォォォォ!!”

インテリアの後ろ側にセットされていた、大型ディスクドライブが回転し始める。

プラグに映されるのは、仮想第3新東京市。…シンジから400mほど離れた場所にサキエルが出現した。

初号機は素早くパレットライフルを構える。

躊躇なく引かれるトリガーによって目覚めた破壊兵器はその口から盛大なマズルフラッシュを焚く。

射出されたタングステン弾がサキエルのコアに命中すると、使徒は爆発して消えた。

『シンジ君、ターゲットサイトがセンターに揃わないうちに撃ったの?』

余りの速さに、調整作業開始の合図をしたままの姿勢でリツコが確認を取る。

「え〜と、射撃訓練を経験していますから。銃の向きで大体判りますよ。」

『それだと、システムの調整が出来ないんだけど。』

「あ、そっか。スミマセン。……あの、提案があるんですけど、いいですか?」

『なに?シンジ君。』

「MAGIの補正方法を変更してください。」

『どういうことかしら?』

「ターゲットをロックせずに、プラグに銃口が向いている場所をポイントで表示するんです。

 そうすれば適当に構えていても当たりますよ。」

『補正方法を逆にするのね?…判ったわ。ちょっと待ってて。』

「マヤさん、聞こえます?」

『は、はい。碇三佐!』

先日の実験終了時にシンジの階級を聞いたマヤは、

 まさか自分より上官だとは思ってもいなかった予想外の事実を知って驚いていた。

「あの、いいですよ?……戦闘中ではないのですから。いつも通りに呼んでください。」

『ごめんなさいね、シンジ君。…って、えと、何かしら?』

子供に気を使わせてしまった、とマヤは謝った。

その横ではキーを素早く叩くリツコがプログラムを作成していた。

「少し時間があるなら、現状のまま射撃訓練をしたいのですが?」

マヤは隣の上司を見ると、一瞬手を止めたリツコが首を縦に振った。

『OKです、ではこれから射撃訓練を始めます。…使徒のコアに5発当てると撃破になります。』

「…了解。」



………管制室。



訓練管制室のモニターに初号機が映っている。

初号機の右側に使徒が出現したが、すっと自然に右腕を伸ばした初号機の放つ弾丸で一瞬にして撃破された。

「ふ〜ん、そう。……マヤ、出現タイミングを30秒、使徒の出現数を5にして。」

自分の創った使徒が瞬殺されたリツコの目が細まる。

「…あ、はい、センパイ。」

初号機の前を囲むように使徒が現れるが、ゆっくりと腕を回すようにした初号機にまたも撃破される。

コアを狙い正確にフルオートモードのまま5発ずつ撃ち込む初号機。

目標である使徒は素早く動いていたが、第3新東京市のビルや家屋に被害はない。

「これは何なの……?…マヤ、初号機はインダクションモードなのよね?」

「はい、現在のモードはインダクションに固定されています。」

動きを制限させられている初号機を見たリツコは、悪戯っぽく笑って後輩に言う。

「ふふっ…じゃ、出現タイミングを10、数を10で距離はゼロに設定して。」


……目の前の敵、1秒に付き1体の計算だ。


そして、初号機の至近距離に10体の使徒が出現した。

驚いたのはシンジではなく、リツコだった。

「そ、そんな、インダクションモードで格闘なんて出来るハズないわ!」

モニターに映っていたのは、初号機の足であっという間に、天高く蹴り上げられた10体の使徒が、

 地上でライフルを構えた紫の魔人が放つ50発の弾丸に、為す術なく殲滅させられる映像だった。

『ふぅ…赤木博士、プログラム、終わったんですか?』

「あ…、ええ。じゃ、一度停めてシステムを書き換えるから。」

シンジのジト目を見た姉は、悪戯が見付かった子供のような顔になってしまった。



「…どうかしら?シンジ君。」

プラグの映像上に十字のターゲットサイトが表示されている。

ライフルの銃口を適当に向けると、そのまま遅れなく追従している。

『いいと思います。これなら大抵の場合、僕と綾波なら当てられますよ。』

「遠い目標だと難しいんじゃないの?」

『その時はバーチャルスクリーンにズームした目標を映して、狙えばいいんじゃないですか?』

「なるほど。応用が利きそうね。」


……この部屋にミサトはいない。


いや…見学に来たのだが、どうせ騒ぐだけの彼女にリツコは入室禁止を言い渡したのだった。

今、ミサトはレイのシンクロテストの管制室に入ろうとしていたが、入口のロックは解除できなかった。

(…なんなのよ!!!もう!!)

彼女はイライラしながら廊下を進むと、エレベーターから降りた冬月が歩いてきた。

「…あぁ、ミサト君。」

「何でしょう、副司令。」

「作戦報告書、もう一度作成し直したまえ。アレでは決済できんよ。」

「うぇ、…は、はい。」

「メールで君に戻しておいたから、今日中に加筆修正してくれたまえ。」

「りょ、了解です。」

ミサトは肩をがっくりと落として、自分の執務室に向かって行った。



………第壱中学校。



……データを失ったケンスケは不貞腐れて、あれから2週間……学校を休んでいた。


「なんや、委員長?」

カバンを机に置き、”ぼけらっ”としていたトウジの目の前に学級日誌を持ったヒカリが立っていた。

「昨日のプリント、相田に届けてくれた?」

「は?…あぁ、行っとらん。」

前史のケンスケと違い、漢らしい漢を目指すトウジは正直に答えた。

「鈴原、相田と仲良かったんでしょ?…2週間も休んで心配じゃないの?」

「もう来んかもしれんのぉ。」

「だって、碇君は許してくれたのよ?」

「漢らしく責任も取らんと、アイツは逃げたんや。…今更、どのツラ下げて来れるんじゃ?」

「ふぅ…ま、そうかもしれないけど。」

「おはよう、トウジ、洞木さん。」

「…おはよう。」

シンジが通学してから、彼に習うようにレイもトウジにだけは挨拶をしていた。

トウジはその変化に気付いてはいない。

「あ、おはようさん、センセ。」

「おはよう、綾波さん。」

シンジ達が揃って席に着く。このクラスでは見慣れてきた光景であった。

”ガララッ”

そんな時、何か乱暴な感じで教室のドアが開いた。

憮然としているメガネの少年、ケンスケが登校してきたようだ。

「ケンスケ……。」

「相田………。」

トウジとヒカリはその姿に、意外なモノを見たという表情で彼の名前を呟いていた。

”ドカッ”と席に座った少年は”キョロキョロ”と辺りを見渡し、シンジを見つけると徐に立ち上がった。

クラスの視線が集まる。…そんな雰囲気の中、特に気にする事無く歩いて行くケンスケ。

そして、シンジの机の前に立った。

皆は静かに見守っていた。ここで彼の邪魔は出来ない。クラスメートは誰しも彼の謝罪の言葉を待った。

「…碇。」

「久しぶりだね、相田君?」

何の害意もない、その真紅の瞳を見たケンスケはワケの判らない言い訳の言葉をシンジにぶつける。

「オレは、お前に悪いことをしたと思っている!…でも、まだ謝れないんだ。

 よく判らないけど、こんな中途半端な気持ちで碇に謝っても……それは違うと思う。

 だから……だから、まだなんだ。」

「そう…そっか。じゃ、ゆっくり心の整理をすると良いと思うよ。」

視線を合わさないケンスケを見ていたシンジは静かに答えた。

「そ、そんな事…言われなくても判ってるよ!……ふん!!」

これは、ケンスケ最大の譲歩であった。

甘やかされて育ってきた彼は、人に謝罪をする…という事をした事がない。

色々考えて計算した結果、彼に媚びず…尚且つ自分のプライドが傷付かぬように、

 考えて対応したのが、先程の会話であった。

その遣り取りを見ていたクラスメートは白けていた…というより、呆れ返っていた。


……彼はこの2週間、一体何をしていたんだろう?


シンジに頼まれているから最低限の遣り取りはするが、必要以上に付き合うことはないな…というのが、

 このクラスの統一見解だった。



”ガララ”

「起立、礼…着席。」

老教師による数学の授業が始まった。……が、15分後には何時もの話が始まっていた。

「あぁ…このように人類は最大の試練を迎えたのであります。

 20世紀最後の年、宇宙より飛来した大質量の隕石が南極に衝突、

 氷の大陸を一瞬にして融解させたのであります。

 海洋の水位は上昇し…地軸も曲がり、生物の存在をも脅かす異常気象が、世界中を襲いました。

 そして、数千種の生物と共に人類の半分が永遠に失われたのであります。

 これが世に言うセカンドインパクトであります。」

居眠りする学生、楽しそうにお喋りしている生徒…のんびりとした雰囲気の教室。

そんな時。

”ピピピ…ピピピ…ピピピ”

シンジのパソコンにチャットの呼び出しが掛かる。

《 :碇君があのロボットのパイロットというのはホント? Y/N 》

シンジが教室を見渡すと、廊下側の席に座っている二人の女の子が手を振って、またキーを叩いた。

《 :ホントなんでしょ? 

  :Y/N? 》
 

……このチャットはクラス中の生徒が見ていた。


(そんなワケないだろ!…どうして子供が操縦できるんだよ……ったく素人が。)

ケンスケはその質問をチャットの話題にした女子をバカにしたような目で見ていた。

(あぁ〜あったね、こんな事。ロボット事件か〜情報操作って上手くいかないんだねぇ。)

シンジは、画面から視線を外してレイを見た。

『ねぇ、綾波…どうしよっか?』

『…碇君の好きにすればいいと思うわ。』


……即答しない時点ですでに怪しまれると思うが。


窓際に歩きながら老教師の話はまだ続く。

「…経済の崩壊、民族紛争…内戦、その後生き残った人々もありったけの地獄を見ました。」


……シンジはゆっくりとキーを打った。


校庭を眺める老教師……彼の話は止まらない。

「…だが、あれから15年、僅か15年で私達はここまで復興を遂げる事が出来たのです。

 これは、私達人類の優秀性もさる事ながら、皆さんのお父さん、お母さんの血と汗と涙と努力の

 賜物と言えるでありましょう。」

”カタ、カタ、カタ………カタ”

[y][e][s] [Enter]

「「「「「「えぇぇーーー!!!!」」」」」」

”ガタガタガタ!”

教室中のイスや机のズレる騒音がけたたましく響く。

最早、老教師の言葉は生徒達に届いていない。

「……その頃、私は根府川に住んでおりましてねぇ。

 今はもう海の底に沈んでしまい………。」

余りの事態に、学級委員長であるヒカリの怒声が教室に響き渡る。

「ちょっとみんな!!まだ授業中でしょ!席についてください!!」

シンジの席に集まっているクラスメートは、それぞれ好き勝手な返事を返した。

「あ〜また、そうやって直ぐに仕切るぅぅ〜。」

「いいじゃん、いいじゃん。」

「良くないいぃ…!」

ヒカリが言うが、誰も聞いていない。

メガネの少年は、嘘だろ…という顔をしていたが、クラス中の生徒が集まっているのを見ると、

 その顔を歪ませる。

(…な、なんで碇なんだよ!クソッ…オレだって遣らせてもらえれば…ヒーローになれるのに!!)

「ねぇねぇ!どうして選ばれたの?」

「ねぇ、テストとかあったの?」

「怖くなかった?」

「操縦席ってどんなの?」

ケンスケもロボット事件については、

 2週間学校をサボっていた時間を使い、ネットのアンダーグラウンドサイト等で調べていた。

元々ミリタリーオタクだった彼は、盗撮された画質の荒い紫の巨人を見た時に感動で震えていたのだ。

漫画の世界のような無敵のヒーロー…自分をソコに投影し、パイロットである自分を想像していたのだった。

悔しさと嫉妬で一杯だったが、ケンスケはメガネに指をやると、

 とりあえず質問に答えるだろう彼の言葉に耳を傾けた。

「あのロボットってなんて名前なの?」

「……秘密なんだ。」

シンジは少し困ったな、という顔で答えた。

「じゃ、必殺技は?」

「…そんなのアニメじゃないからないよ。」

「でも、凄いわよねぇ…学校の誇りよねぇ〜。」

シンジはゆっくりと立ち上がると、周りに集まったクラスメートに申し訳無さそうに言った。

「色々聞きたい事はあるだろうけど、そういう事は機密で教える事は出来ないんだ。

 だから、聞かないでね?」

「…そうかぁ、そうだよなぁ」

「そっかぁ、そうよね…判ったわ。」

集まっているクラスメートは、大変なんだなぁ…という目でシンジを見ていた。

”キーンコーンカーンコーン”

「…でありますから、……あぁ…では今日はこれまで。」

振り返った先生が教壇に戻る。

「起立、礼………ちょっと、みんな最後くらい、ちゃんと!!」

ヒカリが振り向きながら声を張り上げるが、誰も聞いていない。

ケンスケはいい事を思いついた、とシンジの席に向かって足を進めた。

(そうだ、アイツに頼めばパイロットになれるかもしれない。…アイツだって出来るんだ、僕だって!!)

「碇、ちょっといいか?」

「なんだい?相田君。」

「ここじゃ、あれだから…」

「…いいよ。」

言いづらそうに周りに意味有り気の視線をやるケンスケを見たシンジは、立ち上がって教室を出る。

レイは少し心配そうな表情で教室を出て行くシンジを見ていた。

トウジはゆっくり立ち上がった。



校舎の裏側に来たケンスケは、周りに人がいないのを確認するとシンジに近付いて小声で言った。

「知っているんだぜ、オレ。」

「何を?」

シンジは不思議そうな顔をしていた。

「あのロボット、エヴァンゲリオンって言うんだろ?」

「さぁ。…さっきも言ったけど、そう言う事には一切答えることが出来ないよ。」

「僕のパパはNERVに勤めているんだ。だから、僕も内部の人間なんだよ?」

「それは、違うよ…相田君。キミのお父さんは関係者かもしれないけど、キミは違うよ。」

(何だよ!コイツ。オレに説教か?)

「なぁ、碇。オレもパイロットになりたいんだ!…何とかならないか?」

「え〜と、それがココに僕を呼び出した用件なの?」

「そうだよ。」

ケンスケは当たり前だろ、という顔で答えた。

「…どうしてさ?」

「僕はヒーローになりたいんだ!」

「…死ぬよ?」

そう言ったシンジは、真紅の瞳に哀れみを込めた。

「お前、イヤなんだろ…僕に負けるのが!」

指を差して自分を睨んでいるメガネの少年を見たシンジは、呆れて…もう話をしないほうが良いと結論し、

 クルッとターンして教室に戻ろうとした。

「ちょ、ちょっと待てよ!」

ケンスケはシンジの肩に手をやり強制的に自分の方に向ける。

「相田君、僕はキミと友達になりたかった……でも、」

「と、友達?…僕と友達になるだって?」

「そう……でも無理っぽいね。」

「そんな目で僕を見るな!…畜生!何なんだよ!お前ばっかり!!」

激情に身を任せたメガネの少年は拳を振り上げてシンジの左頬を殴りつける。

”バキンッ!”

殴ったケンスケの頭の世界では、無様に吹き飛ぶ転校生が瞳に映る予定であった。

しかし、現実では転校生シンジはケンスケの一撃を微動だにせず受け止めていた。

まるで、静止画のように止まってしまった自分の拳を認識したケンスケは、相手の反撃に備えようとした。

「これで、君の気が済んだの?」

シンジの静かな声は、校舎裏にいたトウジの耳にも聞こえた。

「…僕は教室に戻るから。…じゃ。」

「畜生!…なんなんだよ!見下しやがって!」



シンジが下駄箱に戻ると、レイが立っていた。

「綾波。」

彼女はシンジの少し赤くなっている頬に手を添えた。

「…痛そう。」

「大丈夫だよ、こんなの。」

”ふるふる”

かぶりを振ったレイは静かに呟いた。

「碇君の心が…」

その言葉を聞いたシンジは、次の瞬間…彼女を胸に抱いた。

『…ありがとう、綾波。…本当に人の心は変化の連続だね。』

『でも、相田ケンスケのあれは彼の本性。』

『…そうだね、前史では友達だと思っていたけど。』

『打算の産物だわ。』

『僕の近くにいれば、キミやアスカの写真が撮りやすいとか?』

『…そうね。』

『でも、何であんなに攻撃的なんだろう?』

『多分…前と違って碇君は彼の欲しいモノを全て持っているから。』

『…そうか、全く。』

シンジは彼女の蒼い髪に顔を埋めた。

『僕はキミが側にいてくれるだけでいい。』

『私はずっと側にいるわ。』

”ピピピピ、ピピピピ”

「…あ、電話だ。」



”バキッ!”

「何するんだよ、トウジ!」

地面に転がった少年が叫んでいた。

「センセが許しても、ワシはお前が許せんのじゃ!」

「関係ないだろ!」

ジャージの少年は倒れているケンスケの胸倉を掴んで乱暴に引き上げた。

「あん時、突き落とされたセンセは、お前が逃げても…お前を許すって言ってたんじゃ!

 それなのに、お前は何じゃ…」

トウジの鋭い視線に耐えられずケンスケは膨れたように横を向いた。

「何でセンセを殴ったんや?」

「そんなの、どうでもいいだろ!」

”バキッ!”

「救いようのないやっちゃの、オノレは。……センセにスジを通すまでワシはお前と絶交じゃ!」



”ミーンミンミンミンミンミン、ジィーーーー”

(なんだよ!オレが何をしたって言うんだ!…クソッ!)

トウジが歩き去って行く音を聞いたケンスケは、地面に横になったまま真っ青な空に浮かぶ雲を見ていた。


……そんな時だった。


”ゥウウウウウゥゥゥゥゥゥゥーーーーーーーー!!!”

第3新東京市に2度目の避難警報が鳴り響いたのは。







第二章 第十一話 「被害者」へ










To be continued...

(2007.06.02 初版)
(2007.06.09 改訂一版)


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