ようこそ、最終使徒戦争へ。

第二章

第十三話 保険

presented by SHOW2様


霧島マナ−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−





………9月2日、NERV本部。



赤木博士の執務室にある4台の大型サーバと手製のパソコンの電源は、ここ1ヶ月の間入りっ放しだった。

”カタカタカタ”

女性特有のしなやかで細い指先が、休む事なく踊るようにキーを叩いている。

”カタカタ…タン!”

(これでよし、と。シンジ君に頼まれたモノは何とか間に合いそうね。)

リツコの瞳に映るモニターには新兵器の設計図と、その開発状況が表示されていた。

”ピリリリ、ピリリリ…”

机の充電器に置いてあった携帯電話が鳴る。

”…ピ!”

「はい、赤木です。」

彼女は電話機を耳に当てながら、イスを”クルッ”と回転させて背もたれに体重を預けた。

『…伊吹です。センパイ、これから零号機のベークライト除去作業を開始します。』

リツコは後輩の声を聞きながら、疲れ切った目の疲労を和らげる為に、左手で優しく瞼を揉みながら答えた。

「ふふっ、そう。…やっと第2実験場の準備が終わったのね。マヤ、どれ位掛かりそうなのかしら?」

自分の右腕である可愛い部下に任せていた仕事の報告を聞くリツコの表情は、柔らかいモノであった。

『…はい。現在の状況から、起動実験再開までの最短日程は1週間後の9日か、翌10日になる予定です。』

「最短で1週間…ね、分かったわ。私も後であの管制室の状況を確認するから。」

『あ、はい。…宜しくお願いします。私は発令所にいますので。』

「…マヤ、ご苦労様。あなたも少しは休みなさいね。」

『はい、ありがとう御座います…センパイ。』

「じゃ、切るわね。」

”ピ!”

(…再起動実験か。レイちゃんの零号機…シンジ君の言った使徒襲来に間に合うのかしら。

 !…あ、そうだわ。戦自研の試作陽電子砲の借用、司令に言わなくちゃいけないわね。)

彼女は通話を切った携帯電話を充電器に戻しながら、ふと先日交わした弟との遣り取りを思い出した。

”ピンポーン♪”

早速とリツコが書類に埋もれている内線電話機を手に取り、

 司令に連絡を入れようとした…その時、この部屋のインターフォンが鳴った。


……その机のモニターに映っていたのは、赤いジャケットを着た女性だった。


(ミサト?…何しに来たのかしら?…ま、多分暇つぶし…という処でしょうね。全くしょうがないヒトね。)

白衣の女性は、呆れた視線をモニターに向けながらドアのロックを解除して、入口を開けてあげた。

”プシュ!”

「どぉもぉ〜…おっ疲れぇ〜♪」

リツコは振り返って、呑気な声を出し片手を上げて”へらへら”笑っているミサトを見た。

「何の御用かしら?…ミサト。」

暇つぶしに来ました、とは言えないミサトは先程マコトから仕入れた情報…非番だった昨日の話題を振った。

「ねぇねぇリツコぅ。昨日、UNの戦闘機がたくさん来たって言うじゃない。何だったのよ、一体?」

まるでゴシップ記事でも書く記者の様に楽しげな表情をしている友人を見た金髪の女性は、逡巡なく答えた。

「昨日?…ああ、国連軍の総司令官がNERVの視察に来たのよ。」

白衣の女性は立ち上がると、黒い子猫の絵が描かれている白いカップに保温してあったコーヒーを注いだ。

「…へ。それってマズいんじゃ無いの!?…ウチは非公開組織でしょ!!」

ミサトは、この執務室に勝手に置いてある自分専用のカップを取りながら怪訝な顔になった。

「モチロン特別にって事よ。…国連軍の最高責任者にNERVを”見て”もらうのはメリットがあるし。」

リツコは答えながら、彼女が差し出したカップにコーヒーを注いであげた。

「何でよ?…ッ!あちっ…ふーふー」

ミサトは予想外に熱かった黒い液体を冷ましながらソファーに座った。

「……要は秘密にする相手を間違えるなって事よ。憶測は無用な敵を作るわ。

 第一、あなた…作戦立案者でしょ?…少しは頭を使ったら?」

リツコは自分のイスに深く座り足を組むとコーヒーを一飲みして、ソファーに座っている女性を横目で見た。

「あによ、それ…何のイヤミ?」

ミサトは存外につれない言葉を”サラリ”と言ってくれた、この友人の横顔を”ジロッ”と半眼で睨んだ。

そんな視線を受けたリツコは、ウインクをする様に片目を閉じると、更に軽い口調で言葉を続けた。

「次の使徒戦、無様な指揮を執ったら外されるんでしょ?

 …ラストチャンスに向けて普段からもう少し思慮深くなりなさいな。これは友人としてのアドバイスよ。」

「ふん!そいつはどぉ〜も!…ところで、チルドレンは?…今日、見かけないけど?」

子供のようにムクれた表情のミサトは分が悪いと判断し、話題の転換を試みた。

「ああ、シンジ君たちは、国連軍の演習に参加しているわよ。」

予想外の答えにミサトは驚いた。

「へ?…何やってんのよ!そんなのNERVに何の関係もないじゃない!

 まったく、遊んでいる暇があったらEVAの訓練でも実験でもやらせておきなさいよ!」

リツコは若干冷たい視線を投げて、彼女の怒気を受け流した。

「さっき言った事を理解していないのかしら?

 メリットが有ると判断して、チルドレンを参加させたのは碇司令よ。

 …そのお陰でNERVと国連軍の連携が取りやすくなったんじゃないかしら。」

「連携ぇぇえ?…はんっ、国連軍なんて戦力にならないじゃない!…使徒を倒せるのはEVAだけでしょ?」

リツコは馬鹿にしたような表情を浮かべているミサトに呆れてしまった。

「貴方、本気?…確かに使徒を倒せるのはEVAだけかもしれない。でもサポート・支援は出来るでしょ?

 通常兵器に何も意味が無いのなら、第3新東京市に兵装ビルなんて建造しないわよ…葛城二尉?」

彼女の理路整然とした言葉とますます冷えた視線を受けたミサトは、

 落ち着きを取り戻すためにコーヒーを一口飲んで、頭に上った血を何とか下げる事に成功した。

「”ごくん…”う、ま…まぁ、それもそっか。それに…あの子たち元々国連軍に居たんですものね。」

「そうよ。それに国連軍にとっては象徴的な存在みたいね。」

「なによ、それ?」

「人気者って事よ、あの二人は。」

「ふぅ〜ん。」

ミサトは”ぶすっ”と詰まらなそうな表情で、手に持っている温くなってしまったコーヒーを飲み干した。



………つくば。



戦略自衛隊技術研究所…それは、筑波山の西側にある男体山の南東側、海抜475mにあった。

政府から潤沢な資金を得て造られた研究所の敷地面積は広大だった。

通常の出入口は一ヶ所で、多数配置された兵士の周囲を見張る油断の無い眼が24時間体制で光っていた。

また、研究員が長期間”下山”する事なく快適な生活が送れるように、

 一つの大きな街の様に設計された生活ブロックには娯楽設備なども充実していた。


……ここまで厚遇されるのには理由がある。


いくら自衛隊という母体があったとは言え軍事組織を再建するのだ。

規模も国を護る為に不足無いものにしなくてはいけない。…もちろん、他国を出し抜く技術も大事だ。

そしてここは、その第一線である技術研究所なのだ。


……また、情報とは”力”である。


情報漏えいの防止徹底がどれだけ重要か…などは人類史の始めから記載されており、今更で誰でも判る話だ。

ならば、なるべく機密を知る研究員を縛り付けておかなくてはならない。


……そして、戦略自衛隊は”情報分析”に長けねば生き残れない。


多くの分析官を国連軍に吸収されるというカタチで失ってしまった戦自は、

 政治的取引を使って、逆に国連軍から人員の補充などを行わなければならなかったのだ。

この事態は、戦自の首脳部が可及的速やかにクリアしなくてはならない”課題”だったので、

 分析官を取り戻すために”取引”をするなど、正に彼らにとって苦渋を味わうような決断であった。



………第一分析室。



さて、戦自の首脳部にとってはしたくも無い取引の成果である、

 優秀な分析官…霧島マナ一尉は国連軍から出向して、この研究所の特殊情報分析班に所属していた。

彼女が国連軍を出向してから、もう1年と半年近く経っていた。

「じゃ、分析結果のデータを土井一佐の端末に送信しますね。」

「相変わらず早いなぁ、霧島一尉。」

少女から分析データを受け取った男は、彼女がココに来た時の事を思い出した。


〜 一年半前 〜


当初、刻々と送られてくる外部の情報を正確に分析する、という重要な仕事に対して、

 研究所の分析官は大いに不足していた。

そんな状況の中、研究員たちは新たな人事で国連軍から優れた分析官が来る、と聞いて大いに期待していた。

もちろん、他組織の士官に戦自の技術的な機密について触れさせる事は出来ないが、

 今は猫の手を借りたいほどの忙しさだ。

優秀な分析官なら、喉から手が出るほど欲しい…というのがここの実情だった。

しかし、彼らの目の前に現れたのは小柄な茶色い髪の……唯の少女だった。

肩透かしを食らったようなこの人事に研究員たちは、

 当初…こんなガキに何が出来る…と肩をすくめて小馬鹿にしていた。

しかし、マナに対する評価は3日もすると一変した。

彼女は情報分析に関して、先任の大人たちの3倍近い働きをして見せたのだった。

実際、上官に叱咤されたのは少女ではなく、その娘を馬鹿にしていた大人のほうであった。


……マナは、その年齢には相応しくないほど高い地位に恥じぬ仕事を確りとしていた。


情報分析、情報統括ネットワークを構築し、今では情報分析班の責任者に意見を述べるまでになっていた。

そしてここ最近、彼女が掛かりっ切りになっている仕事があった。

それはEVAとNERVについての詳細な分析であった。

”カタカタカタ”

マナの指がキーボードの上を素早く踊るように動く。

(EVA…エヴァンゲリオン………極秘の紫色のロボット…そして今回の戦闘、白い筒の外にいるのは…)

”カタカタ…タン!…ピュン”

少女の叩く端末の画面に、新しいウィンドウが開いて一枚の写真が表示された。

その画素の荒い写真は超望遠で撮られた何処かの偵察写真だった。

(この中学校の制服を着た蒼い髪の女の子……この娘って、間違いなく綾波さんだよね…。)

そして次の写真を表示させる。

”ピ!”

(この白い筒ってコックピットなんだ。そこから救助された青い服の人。

 ……この特徴的な色……これって絶対シンジ君だよね。…そっか。EVAのパイロットなんだ。)



………空港。



大涌谷での演習に参加したケンスケが脱落した頃。

(久しぶりの故郷、日本か。……フッ、この平和ボケな空気は相変わらずか。)

男性は、旅客機から降りる人々の流れに乗って入国手続きを行っているゲートに向かって歩いていった。

(さ〜て、アスカへの土産は何にするかな。

 まぁ、あのお嬢さんの事だ。……何を渡しても間違いなく文句を頂戴する事になるんだろうな。)

ズボンの後ろに手を入れて散歩をする様に歩みを進めながら、加持は取り留めのない事を考えていた。

「はい、次の方。」

入国許可を下す審査官である中年の男が見たのは、手荷物すら持っていない…だらしの無い格好の男。

「いや〜混んでいますなぁ。」

男は”にやにや”しながらヨレたシャツの内ポケットから旅券であるパスポートを取り出して差し出す。

中年の男はそれを無造作に受け取り、中の確認を始める。

「…まぁ、日本は相変わらず景気が良いからね。…キミは日系ドイツ人か。…入国目的は?」

「観光ですよ。…先祖のいた日本のね。」

入国審査官は詰まらなそうな顔のまま、彼のパスポートに入国証明である印を乱暴に押し付けた。

”ダン!”

(フッ…この程度の偽造を見抜けないのも相変わらずだな。)

加持は受け取ったパスポートを見て”ニヤッ”と口の端を上げた。



………駐車場。



NERVが空港に用意していたのは炎天下の中、誰の目にも風景と同化してしまいそうな特徴の無い白い車。

空港のロッカーから車のキーと暗号の書かれた紙を受け取った加持は、手ぶらのまま運転席のドアを開けた。

”ガチャ!”

彼はタバコをくわえながらシートに座り、無造作に鍵を差し込み捻る。

”キュルル、ブォォン!”

(うぉ…あちぃ〜…文明の利器、エアコンは最大にっとね。)

”ブォォオーー”

うだるような暑い車内に冷えた空気が出てきたのを感じた加持は、

 見た目はくたびれて古くても整備の手がキチンと入っているこの自動車の状態を見て、

  思わず”ニヤッ”と満足そうに笑ってしまった。

(ここら辺がドイツの整備部とは違うねぇ。…っと休んでいる暇はナシか。サラリーマンの辛いところだ。)

”シュボ!……”

加持はタバコに火を点けて一息深く吸うと、

 紫煙を吐き出しながらシフトレバーを”D”に入れて、そのままアクセルを踏んだ。

(ふぅーーー…さて、目指すは茨城にある筑波山か。)



………NERV第2実験場。



”チュィィィイーーーーーーーン、チュィィィィイーーーーーーーーン”


照明をつけていない薄暗い実験場。

特殊ベークライトを削る重機のアームが休む事なく動いている。

破壊されたままの実験管制室に、二人の女性が居た。

リツコは巨大な十字架の様に見える停止信号プラグを挿入された巨人のシルエットを見て、

 あの起動実験を思い出すと無意識に被験者たる妹の事を口にしていた。

「…綾波レイ14歳、マルドゥックの報告書によって選ばれた最初の被験者…ファーストチルドレン。

 エヴァンゲリオン試作零号機、専属操縦者。過去の経歴は白紙。…全て抹消済み。」

(…神の寵愛を受けし者…ある意味この世界の行く末を決められる少女…そして私の大切な弟の恋人。)

白衣の女性は、連日の忙しさから少し”ぼぉー”として眼下の作業を見るとなしに見ていた。

その隣に立つ女性は疲れ切っている友人の様子を見る事なく、目の前の零号機を観察しながら口を開いた。

「…で、先の実験の事故原因は如何だったの?」

その声でリツコは”ハッ”と意識をミサトに向けると、小さくかぶりを振って答えた。

(いけない…ぼぉっとしていたわ。)

「……今だ、不明。…但し推定では操縦者の精神不安定が、第一原因だと考えられるわ。」


”グィィーーン”


実験場の床から《00》と記載されたエントリープラグが、ゆっくりとクレーンで持ち上げられる。

「精神的に不安定?…あのレイが?」

いつも表情を変えない冷静沈着な少女…というイメージしか持っていないミサトが、驚いたように聞いた。

「ええ。…多分、あの娘の精神的ストレスがピークに近い状態だったと思われるの。」

「は?…ストレス?」

白衣の女性の話に、ミサトは”ポカン”とした表情になってしまった。

しかし、リツコは零号機を見ながら真剣な表情で答えた。

「そう、ストレス。…あの時のレイちゃんは、シンジ君と一年近くも離れていた時期だったのよ。」


”チュィィ、チュィィィイーーーーーーー、チュィィィィイーーーーーーーーン”


暫く無言の時間が過ぎて、手持ち無沙汰になったミサトは再び下方の切削作業を見ていたが、

 やはり納得出来ないのか、それとも単に気になるのか…横目でリツコを見て聞いた。

「…何よ、それ?」

ミサトの疑わしそうな視線を感じた白衣の女性は、”ついっ”と顔を向けて答えた。

「あら…恋する乙女なのよ、あの娘は。長い時間…愛しい人に逢う事も出来ず、

 地下深いNERVで連日の実験じゃ、ストレスも溜まるんじゃないかしら。」

(確かに、あのシンジ君ベッタリのレイじゃ…イライラして実験どころじゃないか。それじゃ……。)

当時の少女を想像した赤いジャケットの女性は、

 自然と導き出す事の出来た答えの確認をしようと、少し呆れた表情を友人に向けた。

「ふ〜ん…じゃ、今回は?」

「…高確率で、起動実験は成功するでしょうね。」

「えぇ〜そんなもんなのぉ?…意外と単純ねぇ〜EVAって。」

本当の事を言えないリツコは、ミサトの馬鹿にしたような視線を無視して言葉を続けた。

「単純では無いわ。…EVAはパイロットの精神とリンクするのよ。A系神経節を介してね。」

「え〜と、確かA10神経……だっけ?」

「そうよ。」

「…ところで、リツコぅ。」

「ん、何かしら?ミサト。」

「何でここ電気つけないのよ?…暗いじゃない。」

暗闇が苦手なミサトは、責めるような視線をリツコに向けた。

「あぁ、ワザとなのよ。あの切削アームの先端に、赤外線を検知できる高感度カメラを搭載しているの。

 そして重機のオペレーター席には、その熱映像を詳細に解析して映し出すモニターが設置されているわ。」

「それって所謂、サーモグラフィーってヤツ?」

「そう。EVAとベークライトの境界線を明確にする為にね。

 だからこの実験場の照明をつけると、それらが余計な熱源になるから大幅に切削作業効率が落ちるわ。

 先ほど、零号機の再起動実験は10日と決定したの。時間的な余裕は無いのよ…ミサト。」



………つくば。



生活ブロックを歩いている少女は、満足そうにお腹を擦っていた。

マナと一緒に歩いている男は、軍服の上に白衣を着ている。

「相変わらず、良く食べるな。」

「へへへ、美味しかったです。」

マナに夕飯を奢らされたのは、この研究所の所長である土井マサル一佐だった。

彼は、32歳という若さでこの重要な研究機関の長を任されている。

この異例とも言える人事はそれだけ彼が優秀であり、その実力をこの組織に認められているという証である。

事実、マサルは理化学に通じた優秀な研究員であり、柔軟な発想力から数多くの発明を生み出していたのだ。

長身である彼と並ぶマナは、着任当時から何かと自分に気遣ってくれる兄のようなこの男性に懐いていた。

マサルは、出向してきた年若い女の子を見て、その年齢に合わぬ地位を手にしているこの少女の苦労を、

 いつの間にか所長という地位にさせられてしまった自分の境遇に重ね合わせると、

  周りの大人からのやっかみ…理不尽な扱いを受けぬように、何かと少女に対して気を配っていた。

「やっぱりマナは、まだ花より団子か。好きな男の子…なぁんてのはいないのか?」

仕事以外では下の名前で呼ぶように!…と彼がマナに注意を受けたのは、

 たまたま食堂で居合わせた時に食券を奢ってやり、相席で夕飯を共にした時の会話で言われた事だった。

そう、思い出せば…この女の子は、初めての食堂で上官に奢ってもらったご飯をおいしそうに食べながら、

 …仕事中は霧島一尉、オフはマナ、きっちり切り替えしましょう…と、したり顔で言ってくれたのだ。


……彼女に言わせると、ケジメらしい。


マサルは年上でここの責任者である。そんな自分にでさえ、臆する事なく言うべき事は確り意見を言う。

そんな裏表のない正直な態度を取る、

 この快活な少女を見た時、思わず”ほぉ…”と彼が感心させられてしまった出来事の一つであった。

戦自研の責任者…所長である土井一佐は、それなりに端正な顔立ちで長身だった。

しかし、女にモテそうな彼には今まで浮いた話は一切なかったので、

 この少女とよくいる処を見られると、戦自研では次第に彼のロリコン疑惑が浮上していった。


……もちろん、彼にはそんな趣味はなく、

 浮いた話が無いのは、単純に心に秘めた女性がいて、尚且つただの奥手…というのが事実であったが。


「好きな男の子?…ハッ!…まさか土井さん、私を狙っているんですか?…ダメですよぉ〜もぅ。」

マナは悪戯っぽい表情で、右側を歩く男の顔を見上げるとからかうように言った。

「ば、バカか!…何度も言っているだろう、オレにロリコンなんて趣味は無いと…。」

眉を八の字にした男は、”ジロッ”と茶色い髪の少女を軽く睨んだ。

「あっははは。…その話って何度も聞いていますよ〜。」

「フン…で、いないのか?」

「ちゃ〜んと、いますよ。」

「へぇ、どんなヤツだ?」

「何でそんなに知りたがるんですか?」

「だってそりゃ〜…マナは色気より食い気な女の子だからなぁ。」

「む〜しっつれー!」

少女は口を”への字”に曲げて男を睨んだ。

「はははっ…ごめんよ。…で?」

「ふん!秘密です…教えません。」

”ぷいっ”と男の反対側に悪戯っぽい顔を向けた少女の表情が、”スッ”と真剣なモノに変わる。

(…まさか、EVAパイロットの碇シンジ君です!…なぁんて、ココにいる限り言う事は出来ないわよね。)

マサルは、そんな少女の変化に気付くことはなかった。

マナはそのまま暫く歩いていたが、何気に自分の目に映った戦闘帽を被っている男を見て…瞳を大きくした。

(うん?…どっかで見た事ある……あれ!?…確かNERVドイツ支部の人?)

「どうした、マナ?」

マサルは、黙り込んでしまった少女の顔を覗き込むように聞いた。

「ッ!え…何でもないです。今日もお疲れ様でした。…私、あそこの本屋に寄って部屋に戻りますので。」

左側を見てボンヤリとしていたマナは、少し驚いたような表情でマサルに答えた。

「あ、あぁ…そうか。余り夜更かしするなよ。」

「子供じゃないんですから。」

「子供だろ。」

「いぃ〜だ!」

なんとも子供っぽい表情で答えたマナは、土井マサルと別れて左横の通りに向かって足を進めた。



………その1時間前、某所。



”キィ…バタム!”

暗闇の雑木林に囲まれた空き地に1台の車が停まった。


……何も動くモノのない、静かなこの空間に聞こえるのは虫の音だけ。


その夜、ドイツから偽造パスポートを使って日本に戻ってきた男は、夜空に浮かぶ月を眺めていた。

(碇司令の特命任務か。…久しぶりに腕がなるなぁ。…最近はだらけた仕事が多かったからな。)


……暗闇に紛れ込むように佇む男は、周りに同化し何人にも気配を感じさせる事はない。


(戦略自衛隊の軍事研究所に潜入せよ、ね。…さてさて、一体何が出てくることやら。)

だらしなく伸ばした髪を1本に結っている男は、目元に笑みを残したまま…ゆっくりと歩き出した。

その男の歩く先に、周囲の暗闇を照らす明るいヘッドライトを灯したジープが走ってくる。

”ブロロロロ…キッ”

ジープから降りてきたのは、何故かこの闇でもサングラスを外さない男。

加持が空港で受け取った暗号文には、この場所で諜報部と合流し、次の指示を受けろと書いてあったのだ。

「お待たせしました。ドイツ第3支部…特殊監査部所属、加持一尉。」

諜報部員はトランクを手に取り、タバコを吸っている男に歩み寄る。

「オレは男とデートする趣味は無いんだがなぁ。」

右手で頭を無造作に掻いた男は、気楽な口調のまま…徐に左手でIDカードを渡した。

そのカードを端末に読み込ませた男は、画面の内容を確認すると無表情に答えた。

「…はい、存じております。」

カードを返してトランクを自分の前に置き、

 機械のように迷いなくロックを解除する男を黙って見ていた加持は、紫煙をゆっくりと吐き出した。

「ふぅ〜…キミは詰まらんヤツだな。」

仕事以外の会話が頭に入力されていないかのように、諜報部員は彼の言葉を無視した。

「これが、今回のミッション…潜入に際しての道具です。」

「はいはい。ありがとよ。」

加持はトランクの中に入っていた戦略自衛隊の迷彩服を手にした。

「で、具体的にオレは何の情報を掴めばいいんだ?」

「はい、こちらです。」

男は小さな紙を黒い背広の内ポケットから出して、加持に渡した。

”シュボ!”

ライターの明かりで暗号文を確認する。


《 戦自研の特殊兵器及び戦自の少年兵について 》


「なんだ?…特殊兵器ってなぁ判るが、少年兵?」

「私は存じません。…総司令より第一次報告は、明朝…と指示されております。」

「おいおい、何だ?時間がまったく無いじゃないか。」

(優秀だって認められんのは嬉しいがねぇ。何ともハードルの高い仕事だな……こりゃ命懸けだな。)

「…以上です。では、私はこれで失礼します。」

サングラスの男は、そう言うと加持の乗って来た白い車に乗り込み、何処かへ走り去ってしまった。

(おいおい、チッしょうがない…時間は少ないぞ。…手っ取り早く、行くとしますか。)

加持は服を着替え、階級章を付けてトランクをジープの荷台に投げ入れると、エンジンをかけて走り出した。

そのジープは、戦略自衛隊が一般的に使用するモノと全く同じオリーブドラブ色の無骨な車であった。



………第3新東京市。



「ただいまぁ。」

「…ただいま。」

白い洋館の主の帰宅。…シンジとレイは、マユミの運転する車から降りて出迎えのメイド達に挨拶をする。

「お帰りなさいませ、シンジ様、レイ様。」

「シンジ様、お食事になさいますか?…お風呂になさいますか?」

「レイ様。お荷物をこちらへ…お持ち致しますわ。」

「さぁ、お入りくださいませ。」

「お疲れ様で御座いました。」

それぞれが思い思いに帰宅した主人に嬉しそうに声を掛ける。

「ありがとう。…食事を先に、明日は学校だからね。」

シンジがそう言うと、幸せそうな笑顔を振りまくメイドたちが彼を囲むように移動する。

彼の横を死守するレイは、少年の左腕を強く自分の腕に絡め取る。

「どうしたの、綾波?」

「…碇君、お風呂を先にしましょう。」

「え?…うん、いいよ。判った。…じゃ、お風呂を先にするよ。」

「はい、畏まりました。」



………自室。



少年と少女のプライベート空間、この屋敷のマスターベットルームである自分達の部屋に入ると、

 レイは自分専用の奥の間に入って徐に着替えを始めた。

少年は奥の部屋に入った少女を見やりながら、真っ白なソファーに腰を落とした。

”どすっ”

(ふぁ〜アァ……明日は学校か。…うん、早く休もう。はぁ〜、何だか疲れたな。…明日、がっこ……)

シンジは柔らかく肌触りの良い本皮製のソファーに腰深く座ると、”パタッ”と上半身を倒した。

バックから”もぞもぞ”と出て来たリリスは、シンジの頭の上を”くるくる”回って波動で呼びかけた。

『あ!もう!…だめだよぉ、お兄ちゃん。起きて!…風邪引くよ!…お、き、て!…ねぇぇってば!!』

「すー、すー、くー。」


……主人は転げ落ちるように眠りの世界に入ってしまったようだ。


『ああ!…もぅ!…起きてよぉ…』

”…カチャ”

蒼銀の美少女は、厚く硬い布地で縫製された軍服を脱ぎ、着心地の良い部屋着に着替えて出て来た。

『リリス、何しているの?』

少女がリリスの波動の方を見ると、紅い本は白いソファーで横になっているシンジの顔の上に浮かんでいた。

『あのね、お兄ちゃんが寝ちゃったのよぉ!…だから、起こさなきゃって。

 だって、お風呂に入らなきゃ…汗掻いているんだもん、気持ち悪いんじゃないの?』

『…そうね。』

頷きを返したレイは、ソファーで寝ているシンジに近付いて彼の顔を覗き込んだ。

彼女の深紅の瞳に映った彼の顔は、安心しきっているような…無防備で穏やかな表情だった。

レイは”怖ず怖ず”と伸ばした右手で”そぅ〜”と彼の左の頬に触れる。

”ぴとっ”

彼の温かで滑らかな白い肌は、きめ細かくて触り心地がとても良かった。

”…ふに、ふにふに”

少女は、彼のほっぺたの弾力を確かめるように、人差し指で優しく押してみる。

”…ふにふにふに”

彼女の悪戯にも少年は眉一つ動かさずに寝入っていた。

「くーー、すーー。」

(…ふふふ、碇君…可愛い♪)

慈しみの情が入った柔らかな表情で彼の寝顔を見る少女は、時間という概念を忘れたように見入っていた。

暫く待っても変化のない空間に痺れを切らした幼女が、遠慮がちに波動で呼び掛ける。

『あの…レイちゃん、起こす気…ある?』

『…っあ…も、もちろんよ。』

うっとりと自分の世界に浸っていたレイは、幼女の声に”ハッ”と瞳を大きくして気まずそうに返事をした。

「碇君、起きて。…碇君。」

レイは優しく彼の肩を揺すった。

「くーー、くーー。」

(ダメ…そう、ダメなのね。……仕方が無いわ、作戦変更。)

まったく起きる様子のない彼を見て、なぜか嬉しそうに立ち上がる少女。

(…碇君。まず家に帰ったら、着替えをしなくてはいけないわ。)

彼女は彼のクローゼットから着替えを用意した。


……いつの間にか浮かんでいる紅い本の上にデジカメが乗っかっている。


そのデジカメは勝手に電源が入り、まるで誰かが操作をしているように撮影モードが適切に設定されていく。

レイは彼の上着のボタンに手を掛けて、一つ一つゆっくりと外していった。

”ゴクッ”

なぜか、喉を鳴らす音が3つ聞こえた。

『ドーラ、ちゃんと撮るのよ♪』

『言われなくても判っていますわ、リリス。うふふっ…マスターの無防備なお姿の写真が撮れるなんて♪』

『…私にも頂戴。』

『畏まりました…レイ様。』

少女は微弱なATフィールドを利用して、優しく…飽くまでも彼を起こさないように気を付けながら、

 シンジを浮かべてゆっくりと上着を脱がせる。

”…ぱさっ”と床に上着が落ちる。

そして、次なるターゲット…レイの視線は少年のズボンに移った。

”ゴクッ”

紅い本がベストアングルを求めて飛び回る。

流石に少女の頬が赤く染まり出す。

意を決したレイは、そろそろと手を伸ばした。

彼のベルトは無段階の調整が効くバックルが付いている。

それを外す為には、一度締める方向にベルトを動かさなければ、ロックが外れない。

「…う、う〜ん。」

シンジは柔らかかったソファーの感触を求めるように無意識に寝返りを打った。

(あ…どうしよう。)

彼は少女に背を向けるような姿勢になってしまった。

暫く考えたレイは、彼の背中に抱き付くように両腕を回してバックルを掴んだ。

”カチャカチャ…カチャ…”

(う…う、ん?)

シンジはお腹にくすぐったい様な感覚を感じて、夢心地でそこを見た。

(…見えないから、巧く外せない。)

少女は少し苦戦している。

(…う〜ん?)

薄っすら瞳を開けると、

 ボンヤリした視界に映ったのは白い手が必死に動いてベルトのバックルを外した動作だった。

”カチャン”

(へ?)

(外せた。…次。)

やっと成功したレイは自然と笑顔になった。

”ぼけっ”としている少年を無視して、白い手はそのままズボンのボタンを外した。

(は?)

”じーーー”

白い手によって、チャックがゆっくりと下ろされる。

その動きを見て、緩慢だったシンジの頭脳がロケットで加速したように激しく回転し始めた。

「ッ!!…う、うわぁあああ!!」

”ビクッ!”

レイは突然の声に驚いて咄嗟に手を引くと同時に、ATフィールドを解除してしまった。

「…わ、わぁぁぁあ!」

ボスン!と白いソファーに沈み込んだシンジは、慌てて脱がされかかったズボンを元に戻した。

自分の姿を見ると、いつの間にか上着も脱がされていて白いシャツの状態であった。

「え!?…な、何?」

白いソファーの上に起き上がった少年を見たレイは、物凄く残念そうな表情だった。

「起きてしまったのね、碇君。」

「あ、綾波?」

「でも、いいわ。…着替えさせてあげる。」

少女は、ゆっくりとシンジに近付く。

「あ、あの。…ありがとう。で、でも自分で出来るから。」

「…いいえ。碇君のケガはまだ治っていない。無理をしてはいけないわ。」

”ふるふる”とかぶりを振った女の子は、

 狙った獲物は逃がさない、とソファーの上に立つ少年のズボンにやおら手を伸ばす。

「ちょ、ちょっと、綾波!」

「どうして、させて…くれないの?」

上目遣いで潤む深紅の瞳を見た少年は、咄嗟に思い付いた事をどもりながら口に出した。

「あ、さ、先にお風呂に入ってて。す、直ぐに行くから。…いい?」

「…そう、判ったわ。」

ふぅ、とため息をついたように軽く肩を落とした少女は、”クルッ”と回るとそのまま部屋を出ていった。

そんな少女の後姿を見ていたシンジは、”はぁ〜”とゆっくり息を吐き出して周りを見た。

(…随分大人しく出て行ったな……う?…直ぐに行くから……風呂に入ってて?……あっ!!)

先程、自分が思い付きで言ってしまった内容を冷静に思い出したシンジの顔が真っ赤になる。

(あ、綾波が入っているお風呂に……僕、入るの?)

道理でさっさと部屋を後にしたワケだ…と少年は赤い顔のまま落ち着きなく視線を泳がせた。

そんな部屋の片隅に、デジカメと紅い本は見付からぬように静かに退避していた。



………門。



闇に包まれた山中の道を1台の車が静かに走る。

(…ん、懐かしいねぇ。)

ラジオを聞きながら運転している男は、昔の記憶を誘うような曲に目が細くなった。

車内の安っぽいスピーカーから、セカンドインパクト前の古臭い歌が流れている。

(お、見えてきた。…あそこが入口だな。)

運転している男の目に、大型の照明設備で煌々と照らされたコンクリート製の入口が見えた。

”ブロロロ、キィ!”

入口の警備を担当している兵士が運転席の横に立つ。

「部隊章、身分証を提示してください。」

「…はいよ。」

窓を開けてカードを見せる男は、人を喰ったような表情だった。

「中央方面軍、第二師団…加持一尉。…お疲れ様です。」

機械に通してICチップの入ったカードを確認した兵士は、運転者に敬礼をした。

「お互い様だよ。…任務、ご苦労さん。」

「ハッ…どうぞ。」

”ガシャン!”

鋼鉄製の柵が左右に開くのを見た男は、にやりと笑い敬礼すると車を発進させた。

”シュボ!”

「ふぅ、さすが本部の用意してくれたカードだ。」

独り言を呟いた加持は、精巧に偽造された部隊章と身分証のカードを助手席に投げて、タバコを吸った。

(さて、機密情報の宝庫…情報分析室は、西側だったな。)

彼は記憶した見取り図の情報を基に、西の生活ブロックから進むのが最も安全だと判断していたのだ。

”…キィ”

道路わきに車を停めてエンジンを切り、一飲みしたタバコを消して周りを確認すると、

 加持は戦自の帽子を目深に被ってトランクを手にジープを降りた。



………入口。



シンジは曇りガラスをはめた扉の前に立っていた。

”ざぱー……ざぱー”

中から水の流れる音が聞こえる。

(逃げちゃダメだ、逃げちゃダメだ、逃げちゃダメだ、ってちょっと違う…よね?)

シンジは自分の部屋から、

 一般的な旅館の大浴場並みの風呂場まで幸いな事にダレにも会う事なく移動する事が出来た。

誰にも見付からなかった事にホッとする自分は…なにか、これから背徳的な事をするような感じがした。

実際、過去に一度同じ風呂に入った事があるのだから、と気持ちを落ち着かせようとしても、

 やはり家族のようなメイドたちがいると思うだけでシンジの顔が紅くなる。

(…どうしよう。)

少年の落ち着きの無い瞳に、遠慮なく彼女の脱いだ衣類が映る。

(し、下着!?…う……み、見ちゃダメだ。)

シンジは顔を背けるように首を振る。

「…脱がないの?」

「うわ!」

いつの間にか自分の横に立っていた少女の深紅の瞳と視線がぶつかった。

「あ、綾波ぃ!?」

「…何?」

「バッバスタオルで隠して!」

慌てて顔を背けた少年は、瞳を”ギュッ”と閉じた。

「構わないわ。」

湯気立つ少女は少年の提案を無視して彼の衣服に手を掛ける。

「ちょ、ちょっと!」

顔を紅くした少年は、ぎゅっと瞳を閉じたまま慌てる。

「碇君は右手が使えない…だから、手伝うわ。」


……先程より状況が悪いのは気のせいだろうか?


シンジは何とかタオルを手に取り、逃げ込むように風呂場に入った。

”……カララ、ピシャ”

少年が開けたままにしていた、ガラス戸が閉まる音が聞こえる。

「…碇君、ここに座って。」

相変わらずレイは何も隠す気配が無い。

(うぁ…き、キレイだ。)

少年は”チラチラ”と彼女を窺いながら、指定された木製の腰掛に小さくなったまま座る。

少女はコックを捻ってシャワーを手に取ると、水温を確かめてから彼の白銀の髪を濡らし始めた。

”ドキドキドキ”

小さく固まっているシンジの鼓動は、早鐘を打ちっぱなしだった。

シャワーを止めてシャンプーを手に取ったレイは、優しくマッサージをする様に彼の髪を丁寧に洗いだした。

(…う…あ、何かとっても気持ちいいかも。…ほぅ。)

目を閉じて、愛する少女にされるがまま…という状態の少年は、次第に緊張を解いてまどろんでいった。



………通り。



(…ほぉ〜これは中々の店構えと品揃えだな。)

男は目的地に向かう道すがら、ここの研究員達が”生活ブロック”と呼ぶ通りを歩いていた。

この通りは、まるで街の商店街のような雰囲気であり、

 軍事に関わる重要な研究施設の敷地の中という事を忘れてしまいそうなくらい平和な空気が満ちていた。

仕事帰りの研究員に紛れ込むように歩く男は、右手にトランクを持ち目的地に向かって歩いていた。

(…うん?流石にカン付かれたかな?…後ろ……30mかな。

 …しょうがない、手荒な事は主義に反するんだがなぁ。…やれやれ。)

男は目を上げて、自分に追従してくるような気配を感じ取った。

加持はそのまま店と店の間に身体を入れて先に進んだ。

そして、物陰に隠れて先程の気配が近付いてくるのを待った。

(フッ…来たな。)

時間差をつけて近付いてきた気配に向かって、加持が手を伸ばした瞬間…彼は腹部に衝撃を受けた。

”ドカッ”

「うげっ!」

苦しそうに崩れ落ちる男を見下ろすのは、茶色い髪の女の子だった。

「行き成り手を出すなんて、危ないですよ?…反射的に攻撃しちゃったじゃないですか…えと、加持一尉?」

白銀の少年と蒼銀の少女に鍛えられた茶色い少女は、かなりの実力を持っていた。

「ぐぅ…ぐ、ッ!…な!」

苦しそうに腹部に手を当てていた男は、自分の正体が脈絡もなくバレた事に驚き、慌てるように顔を上げた。



………湯。



髪を洗ってもらった少年は、その心地良い感覚に…いつの間にか瞳を閉じて”うつらうつら”としていた。

レイはシンジの髪を洗い終わると、逡巡なくスポンジにボディソープを付けて泡立たせた。

そのまま、そっと優しく背中を洗い始める。…少年は身体を丸めたまま動かなかった。

首筋から先を洗おうと、少女がシンジの身体を起こすように肩に手をやり”くいっ”と手前に引いた時に、

 彼女のルビー色の瞳が”ハッ”と大きくなった。


……タオルがズレて”彼自身”がレイの深紅の瞳に映ったのだ。


”くいっ”と身体を起こされた感覚で”ハッ”と瞳を開けた少年が…なんだろう?と振り返ると、

 顔を紅くして視線を一点に集中している少女がいた。

その視線の先を追うようにシンジが顔を下げると、更にタオルがズレて完全に落ちた。

「わ、わわ!」

慌ててタオルを掴み取り、再び身体を丸めた少年は叫ぶように声を出した。

「あ、ありがとう!…か、身体は自分でするから…あ、ありがとう!」

「…わ、判ったわ。」

その言葉に止まっていたレイがぎこちなく動き出し、

 ”のろのろ”とシンジにスポンジを渡すと隣に座って自分の髪を洗い始めた。

シンジは少女の反対側を向いて、残っている部分を手早く洗うと、シャワーで泡を流して湯船に逃げ込んだ。

”ドッポーン!”

(み、み、見られちゃった…しっかりと・・・は、恥ずかしいぃ……)

”…ちゃぷん”

暫く時間が経つと身体も磨き終わった少女が、顔を紅くしながら湯船に入って来た。

波紋のように広がる湯の波で少女が近付いてくるのが判る。

先程の出来事で彼女も恥ずかしいのか、少し距離をとった場所で止まった。

湯船に浸かっている少年と少女は、お互いに顔が真っ赤だった。

「…ごめんなさい。」

鈴を転がすような声を聞いたシンジが、その言葉に思わずレイの方を見る。

「いや、気にしないで。…綾波が悪いワケじゃないし。…あの、洗ってくれてありがとう。」

その言葉を聞いて、安心したような少女はゆっくりと彼の横に来た。

「碇君。…これから、ずぅっとしてあげる。」

「え、えぇ!?…そ、そんな。」

シンジの目が”答え”という出口を求めるように忙しなく泳ぐ。

「…だめなの?」


……少女の上目遣いの深紅の瞳には、少年の心から拒否権を奪い去る魔力があるのだろうか?


「…そ、それは…う、嬉しいけど、で、でも…恥ずかしいよ…やっぱり。」

一生懸命答えた彼を見上げている少女が、更に甘えるような声を出す。

「なら、偶になら…いい?」

「た、たまに…たまにか……たまになら、いいのかな?」

シンジは自分自身に問い掛けるように考えてしまった。

「…だって許婚だもの。」

上気して艶っぽい表情のレイは嬉しそうに彼の背中にくっ付いた。

「あ!…あ、ぁやなみぃ…。」

背中に感じる柔らかいモノの感触に、更に顔を紅くした少年の言葉は弱弱しかった。



………物陰。



「で、こんな所で…何しているんですか?…加持一尉。」

マナの攻撃で沈んだ加持が、苦しそうにゆっくりと立ち上がる。

「クッ…いっつぅぅ。んぅ?…おやおや…キミは、確かトライフォースの…。」

「…はい、アフリカの作戦で会いましたね。でも今、私は出向の身でこちらに属しています。」


……相手が判ると、今までの緊張を解いた男の口調がいつもの調子を取り戻す。


「あ〜いてて。それにしても、行き成り殴ることは無いだろ?」

「先に手を出したのは、加持一尉…あなたですよ?」

マナは加持の抗議など全く歯牙にもかけない。

「まぁ、場所が場所だからな。…オレはこんな所で捕まるワケにはいかないんだよ。」

「…NERVのスパイ活動、ですか?」

茶色い髪の少女は、戦自研の敷地にこの男がいる…という事実からある程度の真実を見抜いていた。

「ほぅ〜、鋭いなぁ。…ま、詳しくは言えないがね。」

肯定の返事を聞いたマナは、”ハッ”と自分が今…いかに迂闊な行動を取っているのか、

 この場を誰かに見られたら何の関係もない自分に、

  無用なスパイ容疑を掛けられる可能性がある…と気付いて表情を硬くした。

「…スミマセンが、私は国連組織のスパイと一緒にいるワケにはいけません。」

「おいおい、つれないねぇ。」

加持は冗談混じりに言ったが、マナは更に必死な様子で辺りを見渡すと早口に言葉を続けた。

「貴方の事は見なかった事にします。貴方に関わると、私を信用してくれている人に迷惑が掛かります。

 それに折角、私が苦労して固めた地歩が崩れますので。…じゃ、頑張ってくださいね。…さようなら。」

マナは”クルッ”とターンすると、この建物のスキマのような空間から走り出して加持の元を去った。

(そうそう…手伝ってはくれないか。……はぁ〜世間てぇ言うのは、何とも冷たいねぇ。)

少女の走り去った通路を見やった加持は肩を落として小さくかぶりを振ると、鈍痛のする腹を手で擦った。

(くぅ〜やっぱり痛いものは、痛いなぁ。…さすが、元トラの隊員ってところだな。)

加持は表通りには戻らず、この細い通路を更に奥へと進んでいった。



………リビング。



”コトッ”

「どうぞ。」

マユミがテーブルに冷たいジュースを置いた。

「…ふぅ、ありがとう。」

純白のバスタオルを首に掛けた湯上りの少年が、感謝の言葉を述べる。

「シンジ様、今日は随分と長湯で御座いましたね。」

その言葉にシンジが反射的に元姉の顔を見ると、陽だまりのような優しい笑顔であった。

「…え?、あ…そ、そう?」

少年は”にっこり”と笑うマユミの顔を正視できず、置いてあったコップを手に取り”ごくごく”と飲んだ。

「…お待たせ、碇君。」

身繕いを終えた蒼銀の少女の手には、ドライヤーとブラシが握られていた。

「ココに座って。」

「…はい。」

カーペットの上に胡坐をかいて座った少年の後ろに、レイがヒザ立ちの状態でドライヤーの電源を入れた。

”フォーーーー”

(…あぁ、私も久しぶりにしたいなぁ。シンジ様の髪の毛って柔らかくて…とっても気持ちいいのよねぇ。)

マユミは夕食の準備を始めようと歩いて厨房に向う中、シンジとのアメリカでの生活を思い出していた。

(碇君の髪、柔らかい。とても手触りがいい。…気持ちいい。…ずっとしていたい。)

レイは嬉しそうに手櫛で優しく彼の髪を梳いて風に当てていたが、ふと視線を落とした。

(…碇君のケガ、治らなければいいのに…。)

シンジの身の回りの世話を嬉々として行っている少女は、

 もう直ぐ完治してしまう彼のパックに包まれている右手を見て、ちょっと残念そうな顔になった。



………ビル。



”カタカタカタ”

薄暗い廊下で、小さく響く怪しい音。

加持は入口ドアの強固なセキュリティを解除している真っ最中だった。

彼はドアの鍵であるスリットに、ケーブルが付いたカードを挿入して小型端末を叩いていた。

(あと少し…もう少し…もうちょい、ちょい。…よし、こい!!)

”ピピ!…カチャン!”

LEDランプが赤から緑に変わってロックが外れた。

(…YES!)

心の中でガッツポーズを決めた加持は、反射的に周りを確認してカードを取り出し、

 潜入の為に用意された小道具を手早くトランクに仕舞いこむ。

もう一度…周りを窺って誰も近付いてくる気配はないと確認した男は、慎重に第一分析室のノブを回した。



………官舎。



”カチャ!”

「たっだいま〜っと。」

靴を乱暴に脱ぎ捨てたマナは、自室のクローゼットから着替えを出してシャワールームに向かった。

”キュ、キュ…シャーーーー”

(それにしても、NERVが何でここに?)

少女は適度に温かな湯に当たりながら、先ほど出会った男の事を考えていた。

(スパイ…か。機密情報ってやっぱり、戦自の兵器についてよね。)

髪を洗い、身体を磨き終わると石鹸を洗い流す。…マナは一年前より少し大きくなった自分の胸を見た。

(あぁ、シンジ君。…約束どおり綾波さんよりキレイになるからね。うふうふ。)

彼女は、この研究所に着任してから”自主的な”トレーニングを日常的に積んでいた。


……牛乳を良く飲むとか、揉んでみるとか…それはもう、涙ぐましい努力の成果であった。


シャワールームから出て来た少女は、髪を乾かしながら机の端末の電源を入れた。

”ピポッ!”

この何とも懐かしい音を出したパソコンは第一分析室に繋がっており、

 彼女のリンクシステムから遠隔操作が効くようになっているお手製のモノだった。

(さて、スパイさんは何の情報を得ようとしているのかな…。)

第一分析室で起動している端末番号を確認する。

(……3番か。)

”カタカタ”

彼女の見詰めるモニターに新しいウィンドウが表示される。…それは、加持の見ている画面だった。



………第一分析室。



(フッ…特殊ワード…C級クリア。次…B級…クリア!……A級……くそ!…きついな。

 よし!…A級セキュリティパスワードをクリアっと。…ここまでは、何とか順調だな。)

マナに見られているとは知らない加持は、

 火の点いていないタバコをくわえている口の端を上げて”にやり”と笑った。

「ほう、これはこれは。」

検索した画面を表示させた男は、驚きや感嘆とも取れる声を無意識にあげる。

その目に映ったのは、戦自研の開発したI型加速器を利用した巨大砲だった。

「試作自走陽電子砲…こりゃ〜すごいな。」

マシンスペックの諸表を読んだ加持は、独り言を呟いた。

”カタカタ”

男の指が端末を叩いていく。



………官舎。



(A級パスをこの短時間でクリアするなんて…結構優秀ねぇ。…ッ!)

「…そうだったのね。あのシステムはこれに使うため…だったのね。」

画面を見て独り言を呟いたマナは、土井マサルと協力して創った陽電子制御システムを思い出した。

他組織の人間である彼女は、戦自研で開発している武器に関しての情報は一切知らされていない。

少女は様々な情報の分析や解析を行うが、それらは非常に細かいミクロ単位のモノで、

 全体的に繋がるようなマクロ的な情報が与えられる事は今まで一度もなかった。

「この兵器が使かわれる時の相手は一体誰なんだろう。まさかNERV…じゃないよね。」

自分が知らぬうちに関わってしまった破壊兵器がシンジに向かう事の無い様に、と願う少女であった。

「…使徒、私達人類の敵。…お互いに協力すればいいのに。」

彼女の脳裏に、現在も分析しているあの巨大生物兵器がよぎった。

「ッ!!」

新しく加持の開いた情報を見た、マナの瞳が信じられないくらい大きくなった。



………第一分析室。



「…ふぅ。コイツらマトモじゃないな……狂ってやがる。」

その画面には、加持と言う漢でさえも正視に耐えられない写真が無数に表示されている。

(人体実験の成れの果て…か。)

どうやら、霧島マナが前史と違う”生”を送っているのと同じように、”彼ら”も少し違ったようだ。

多量の薬物に対する拒絶反応で死に至った浅利ケイタ。

強化・改造実験の末に演習の目標として殲滅されたムサシ・リー・ストラスバーグ。

それは沖縄での薬物投与と改造により、狂っていく30名の年端もいかぬ少年兵達の壮絶な実験記録だった。

(これが、任務の主目的の一つ…司令の求める少年兵たちの情報か。)

瞳の色を冷たく落とした加持は、沖縄基地の将校や関係者達の情報も当然のように漏れなく記録していく。

(…さて、他には無いかな。)

3番の端末を叩く加持の仕事はまだ続く。



………NERV。



広大な執務室に白衣を羽織った金髪の女性が入ってくる。

”プシュ”

サングラスの男は端末の画面に落としていた視線を、静かに開いた入口に向けた。

「赤木クンか。…どうした?」

「…失礼します。司令、実はシンジ君から頼まれた事が有りまして。」

「シンジにか?…珍しいな。」

身体を正面に向けながら、やはり癖になってしまったのか…彼はゆっくりと手を組んで肘を机に付いた。

「はい、次回の使徒戦についてです。」

ゲンドウはリツコの話を聞いて素早くシナリオを組み立てた。

(加持リョウジの持ち出す情報によっては、可能となるだろう。

 ……しかし、協力体制を築けとは。徴発の方が楽だろうに…相変わらず優しいことだな、シンジ。)




………翌日、3日。



マナは昨日知ってしまった兵器や人体実験の事を考えていた。

彼女は、いつも通り第一分析室のドアノブに手を伸ばすが、金属に触れた瞬間…少し躊躇してしまった。

「おはよう。マナ、どうした?」

その声に振り向くと、少女の瞳に映ったのは戦自での兄貴分…土井マサル一佐だった。

「…あ、おはよう御座います。」

「何だ?そんな青っちょろい顔して。何かあったのか?

 ん〜?…はっは〜ん、判ったぞ。…昨日、オレが奢ってやったメシで食あたりしたんだろ?…どうだ?」

顔色が優れないようなマナを見たマサルは、元気付けようとワザとからかうように軽口で彼女に聞いた。

「…違いますよ。そんなんじゃありません。」

いつもと違い、顔を俯けてしまった少女の反応は、マサルを真剣に心配させるのに十分なモノだった。

「…霧島一尉、このまま所長室へ出頭しなさい。」

「ハッ了解しました…土井一佐。」



………所長室。



「さ、お茶でも飲むかい?」

暗い表情のマナを来客用の黒いソファーに座らせて、そのままマサルは急須と茶筒を手にして聞いた。

「…はい、ありがとう御座います。」

「本当にどうした、マナ?」

「土井一佐、あの…すみません。」

「”オフ”でいいよ。マナ、どうしたんだい?」

「土井さん、ごめんなさい。」

顔を下に向けたままの女の子に、どうしたものかと男は緑茶を淹れながら考えてしまった。

”コトッ”

応接用のテーブルに茶の湯気立つ湯呑みを置いて、マサルは彼女の対面に座った。

「何を謝っているんだい?…何があったのか言ってくれなくちゃ、意味が判らないよ?」

「…実は、昨日…土井さんと別れた後、国連組織であるNERVのスパイを見かけたんです。」

呟くような小さな声で少女が話し始めた。

「な、なに!?」

予想外の言葉を聞いた男は流石に目を見開いて驚いた。

「私は、その男と過去に面識があったので、NERVの人間だと判ったんです。

 昨日の私は、取り敢えず自分にあらぬ疑いが掛けられないように、彼を…見なかった事にしたんです。」

相槌を打つように頷きながら、マサルは少女の話を確認した。

「…そうか。マナは国連組織から出向している身として、国連のスパイと一緒にいる処を見られぬように、

 オレたち戦自の人間にその男と繋がっていると疑われないようにしたんだな?」

マナは”コクリ”と茶色い髪を揺らして頷いた。

「はい、そうです。」

「それでさっきの…ゴメンなさい、か?」

彼女の元気のない原因を理解した、と男は導き出した結論を口にしたが、対面の少女はかぶりを振った。

”フルフル”

「…私は、そのスパイがどのような情報を掴むのか、見てしまったんです。

 あの…土井さんは、沖縄基地って知っていますか?」

「あぁ、一応ね。詳しくは知らんが。戦自は縦割りというか、各部署の秘匿性が非常に高いんだ。それが?」


……少女はポケットから取り出したメモリーを所長に手渡した。


「スパイの持ち出す情報の中に、沖縄の少年兵の記録が有りました。

 彼らの扱いは、とても残酷で酷いものでした。

 私は…人のする事ではない、と思いました。」

マサルは自分の端末で彼女が持ってきたデータを見る。

「ッ!…こ、これは…非道い。」

男は言葉を失った。

「持ち出されるこの情報の流出を、私は”ワザ”と見逃しました。

 ……この情報が国連を通じて”公”になれば良いと思って。」

マナは顔を上げて、端末の画面を厳しい表情で見ているマサルの目を見た。

「…そう言う事か。」

所長である男は、マナの謝罪の意味を知った。

「はい。私は重罪を犯しました。…情報流出を見逃した、という事はスパイと同義だと思います。」

自分に力強い”意思の力”を感じさせる視線を投げつける女の子を見た、マサルの顔は優しい笑顔になった。

「よく…やったね。」

「え?」

少女は”キョトン”として上官を見た。

「こんな事、止めさせたいと思ったんだろ?…マナ、キミは人として良い事をした。…唯、それだけだ。」

「…でも。」

「オレはね、戦自と言うこの組織に入る時に誓った事があるんだ。」

彼は少女に向けていた優しい眼差しを、高くなり始めた太陽の光が眩しく差し込んでいる右側の窓に向けた。

「え?」

「…セカンドインパクト世代と言われた自分達、そしてその下の世代である君達。

 この混沌とした混乱の世界に何でも良い…自分に出来る事で、何かヒトの役に立ちたい…ってね。」


……彼の想いは、国連軍の試験を受けようと決心したマナと同じモノだった。


「だから、技術的な研究を豊富な資金で出来るここに入ったんだ。

 軍事組織と言うのは確かに、良い印象を持てなかったけどね。

 …でもそう言う組織から民間へテクノロジーが伝わるのも、事実なんだ。

 だけどね、だからといって…オレは別にこの組織に拘っている気はないんだ。」

窓に向けた視線を少女に戻した彼は、ゆっくり立ち上がって急須にお湯を足した。

「でも。」

「なぁ、マナ。…オレはヒトとして、この情報が公になる事を望むよ。」

自分の湯呑みに茶を淹れながらマサルは呟くようにそう言った。

「よし…君に見せたいモノがある。」

暫くの沈黙の後、所長である男は立ち上がると茶色い髪の少女を伴って部屋を出て行った。



………太陽高い昼の首相官邸。



今朝届けられた情報、戦自のデータを持って第二新東京市に赴いたゲンドウ。

「君はいつも突然現れるな。」

執務室に入って来た大男を見た首相は、新聞に落としていた視線を上げた。

「…首相は、戦自と言う組織の内部をドコまで把握していらっしゃいますか?」

その不躾な言い様に目を細めた総理大臣は、新聞を雑に片付けるとイスを回転させて男に向き合った。

「…何?それはどういう事だね?」

「…コレです。」

ゲンドウが、手に持っていた紙の束を大きな木製のデスクにやおら落とした。

”バサバサァ!”


……首相の執務机に、落ちる写真と資料。


「ん、なんだ?」

首相が近くにあった一枚の写真を手に取り見た。

「…ッ!」

総理大臣の目が大きく開いた。


それは、四肢のない子供だった。

…それは、白目をむいて悶絶の表情を浮かべる子供だった。

……それは、全て人でなしの記録だった。


ゲンドウが持ってきた書類には、非人道的な扱いを受けている子供の姿が数え切れぬほどあった。

「マインドコントロール、強化人体実験…合法、非合法を問わぬ薬物の実験的使用。

 ……遺伝子すら弄るとは……こんなモノに比べたら一般的な性的虐待など可愛いものですね。」


……白い手袋をはめた右手で眼鏡を掛け直した男の言葉に、首相の顔色は血の気を失い白くなる。


「…し、知らん…私はこんな…こんな事、一切知らんぞ!!せ、戦自は一体何をしているんだ?

 …くぅ…しかし、いくら知らなかったとは言え、この組織の責任者は私だ…責任をとらねばなるまいな。」

ソファーに座ったサングラスの男は、顔色を悪くした男を見ながら提案した。

「首相、この件はNERVに任せて頂けないでしょうか?」

糾弾をしに来たのでは?と責任者の顔は大男を訝しげに見た。

「…それは、どういう事だ?」

顔色を窺うような首相の視線を受けたゲンドウは、手を組むと静かに見返して答えた。

「NERVの調査では、沖縄基地の上級将校たちはゼーレの狂信者たちのようです。」

「ぜ、ゼーレの?…あのゼーレが戦自に入り込んでいるというのか!?」

「その通りです、首相。…このゼーレの企みを潰すのは、我々NERVの仕事です。」

落ち着き払った大男の声は、とても力強いモノだった。

「この沖縄基地の少年兵を極秘裏に救い出し、適切な処置を施し、適切な施設に送ります。」

「そ、それは助かるが…き、君の…じょ、条件は何だ?」

「この馬鹿なプロジェクトを画策していた将校と関係者達の罷免、及び沖縄基地の廃棄と国連への業務移譲。

 そして筑波にある戦略自衛隊技術研究所の全面的なNERVへの協力です。」


……首相は目を細めた。


「問題の将校や関係者の罷免は当たり前として、沖縄基地の廃棄、戦自研の協力とは?」

手を組んだ男の表情は窺い知れないが、有無を言わせぬ口調で返事を返した。

「沖縄エリアについての治安維持活動は、国連の沖縄方面隊にお任せ願います。

 国費の削減と表立って言われれば、総理の面子も立つでしょう。

 戦自研はモチロン、技術協力です。…アソコの研究員は世界トップレベルで、非常に優秀ですからね。」

「…かまわん、分かった。……直ぐに動こう。…では、この子達の件をお願いできるかね?」

「しかと請け負いましょう。」

「ありがとう、碇君。」

「…首相。」

「なんだね?」

「今回の件は、国連軍のトップからの依頼で得られた情報の一部です。」

「な、なに?」

世界連邦のように強大な組織に先ほどの情報が流れてしまえばどうなるか、

 と想像した一国の首相の顔色は白を通り越して青色に変化した。

「…首相、この非人道的な情報は私の判断で止めてありますので、御安心を。」

「そ、そうか。ありがとう。」

総理大臣は安堵の表情でゆっくりと肩から力を抜いた。



………地下3階。



”コッコッコッコッ”

廊下を歩く二人。

少女はポツリと小さく呟いた。

「戦略自衛隊の護るべきモノは、この国のヒトではないのですか?」

男は廊下の先を見ながら少女に返事をした。

「…もちろんその通りだよ、マナ。」

マサルも、この国のヒトの為に働いていると言う自負があった。

「その為には、あのような非人道的な行いも止むを得ないのでしょうか?」

「それは違うと思う。あの連中のやった事は、間違ったやり方だと思うよ。」

「土井さんは、私がこの1ヶ月掛けて分析しているデータはご覧になっていますよね?」

「…あぁ、モチロンだよ。」

「NERVはこの国と言わず、人類の危機に立ち向かっています。これは事実です。」

マナは力強く言った。

「そうだね。」

マサルも相槌を打つように、小さく首を縦に振った。

「そのNERVがスパイをココに向けた理由は何でしょうか?」

彼女の問い掛けに、男は視線を足元に落とした。

「…難しいな。」

「単純に、NERVにとって戦自という組織が敵か味方か…不明だと言う事だと思うんです。」

「なるほど。…で?」

マサルは落としていた目を少女に向けた。

「私はNERVと技術交流を図るべきだと思います。」

「NERVと?」

「はい、戦自も人類の危機に対して共闘するという姿勢をアピールするべきだと思います。」

マナは土井の目を確りと見て言った。

「オレは賛成だが、果たして…上層部が許可するかな…。」

マサルは廊下の天井を見た。


……暫く歩いた廊下の突き当りには、両開きの頑丈そうな扉があった。


土井は網膜チェック、指紋、パスワードと手馴れた様子で、扉の厳重なセキュリティを解除していく。

”ゴゥゥン!”

分厚い金属製の板が左右に分かれて開いていく。


……そこは、地下に用意された広大な実験空間だった。


「マナ、これが何だか分かるかい?」

二人が入ったこの空間の中心には、小山のように大きな金属で出来た機械が鎮座していた。

「…巨大戦車?」

眉根を寄せたマナは、何となく思い付いた言葉で彼に返事をした。

「…プロジェクトTと呼ばれる、この計画は約10年前に始まった。」

マサルは機械に向かってゆっくりと歩いた。

「10年前?」

彼の横を歩くマナは、少し不思議そうな顔で男を見た。

「…そう。国連の研究組織だったゲヒルン…後の特務機関NERVだが、

 その組織が強力な兵器の開発をしている、と言う情報を得た…当時の戦自首脳部が開発させたものだ。」

戦自研の所長は手を後ろに組んで機械を見上げた。

「…これは完成しているのですか?」

マサルはゆっくりとかぶりを振った。

「いや、試験運用すら実施出来ていないよ。」

マナはその言葉を聞いて、意外そうな表情で大きな機械を見上げた。

「10年も掛けているのに?」

「ははははっ…そう、10年も掛けてね。操縦系統が複雑なんだ。姿勢制御、出力制御、兵装の制御、

 コイツを動かすパイロットの仕事は膨大で、手が2本じゃ…まるで足りないだろうね。」

少女は乾いた笑い声を上げた男の顔を見て質問した。

「それって自動制御…できないんですか?」

「モチロン、ある程度は可能だろうさ。…10年前に比べればIT技術の進歩は格段に進んでいるからね。」

「え…じゃ?」

なぜ…と言う少女の視線を感じたマサルは、一歩前に出ると…機械の一部を手で触りながら答えた。

「…実を言うとね。オレはこの計画自体に反対なんだ。マナ、この話は二人の秘密だよ?

 …戦自研の所長が率先して巨大プロジェクトに反対している、なんて知れたら問題だからね。」

振り返ったマサルは悪戯っぽい表情でマナを見た。

「造るだけじゃダメなんだ。…どう使われるのかを想像しなくては。そう思うとね、

 正直、この陸上軽巡洋艦が完成したら戦自は何に使うのか…上層部はどうするのか、不安でね。」

「これ一機だけなんですか?」

「カタチになっているのはね、このトライデント級1番艦”震電”だけなんだ。…さ、次はコッチだ。」

男はそう言うと歩いて反対側のドアから部屋を出てエレベーターに乗った。

地上に出た二人は、巨大な体育館のような建物に入った。

”ガチャン!”

扉の先にあったのは細長い巨大な筒。

「これは、大砲?」

「FX−1、I型加速器を搭載した試作自走陽電子砲の完成品。

 ……だが、まぁ…消費電力が大きすぎるから、これが使われる事は無いだろうな。」

「土井さん、私に見せたいモノって……。」

マナは先程から薄々感じている事の確認をした。

「そう。気付いていると思うけど、さっきのや…これには君が関わったシステムが使われているんだ。」

その言葉に茶色い髪の少女は”がっくり”と顔を落とした。

「…やっぱり。」

マサルはマナの肩に”そっ”と手を置いた。

「そう顔を落とすなよ、マナ。さっきも言ったが、使い方なんだよ。人類を守るために使えばいい。

 人と人の醜い争いに使われなければいい…オレはそう考える。

 …でも。それでもオレは、この兵器が一度も使用される事のない様にって……そう願うよ。」

「そうですね。…私もそう思います。」

真剣な表情でマナが頷いた。

「ん…あれ、良い時間になっちゃったな。よし、マナ…昼飯にしよう。」

腕時計で時間を確認した男は、話題を変えるように明るい口調で少女に提案した。

「はい、ご馳走様です!」

「…まったく、しょうがないな。」

嬉しそうな笑顔の少女を見た男は、”やれやれ”と諦めたように力なく首を振った。

白衣の男と茶色い髪の少女は、格納庫を出て生活ブロックへと歩いて行った。


……先ほど言った白衣の男の願いは叶うのだろうか?


残念ながら、土井マサルの願いは叶わない。

なぜなら、この巨大砲は1週間後、試験ではなく実戦で運用される事になるのだから。





保険−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−





………夕方の京都。



広大な敷地を誇るこの屋敷は、まるで時間が止まってしまったかの様に変化のない静かな毎日を送っていた。

夕日の紅色に染まった色彩豊かな庭園を老人がゆっくりと散歩している。

(ここは平和じゃ。…シンジとレイは元気かのぉ。)

彼はシンジが良く座っていたベンチに腰掛けて紅い空を見上げた。

「玄様!」

静かな空間に突然と響いたその声の方向に目をやると、老人は走って来る部下を見た。

「ん?どうしたんじゃ…有馬よ?」

普段は冷静沈着な男が珍しくも慌てているその様子に、玄は訝しげな視線を投げた。

「…は、はい、玄様…来客で御座います。」

このワシに会うのにアポイントも取らず、直接この屋敷を訪れるとは…余程の大物か、それとも唯の馬鹿か、

 と玄は有馬の話に興味を持った顔になった。

「ほう、誰じゃ?」

「…そ、その。」

秘書である部下は”ちらちら”と主人の顔色を窺い見て、言いよどむ。

無駄が嫌いな玄は、鋭い目で先を促した。

その様子に部下は諦めたのか、小さく肩を落として”怖ず怖ず”と口を開く。

「…碇、ゲンドウ氏で御座います。」

流石の玄も予想外の人物の名を聞き、

 反射的に片方の眉を吊り上げたが、直ぐに眉間にシワを寄せて詰まらなそうな顔になった。

「!……ふん。それがなんじゃ?」

久しぶりに詰まらない男の名を聞いたものだ…と玄の顔は厳しい。

「…現在、屋敷の正面の門におります。」

「なにぃ!?…どのツラを下げて、ここの敷居を跨げると思っているのか?…あの男は!?」

元気溢れる老人、玄は怒声を上げながら勢い良く立ち上がった。

「冷静にお考え下さい…玄様。もしかすると、余程の事なのかもしれません。」

「むぅ…しかし、”何か”あればシンジから連絡が来るのではないか?」

「若に知られたくない…何か事情があるのでは?」

「む〜…そうか。よし、不本意だがシンジのためじゃ。…離れの庵に通せ。」

「はい、畏まりました。」



………中学校。



「碇、ゲームセンターに行こうぜ!」

「センセ、今日新しいんが入ったそうでっせ!」

放課後の教室は、帰り支度をしている生徒達で”わいわい”と賑わっていた。

シンジの机の前にメガネの少年とジャージの少年が仲良く立っている。

その様子に、シンジは少し不思議そうな表情を創った。

(単純なのか、これが青春なのか…まぁ、良い事だと思うけど。)

真紅の瞳を上げた数瞬の間だったが、白銀の少年は朝方の出来事を思い出した。



〜 朝 〜



「おはよう。」

いつも通りシンジとレイが教室に入ると、自分の席に座っていたケンスケが立ち上がった。

「おはよう!碇!」

「あ…おはよう、ケンスケ。」

ケンスケは嬉しそうにシンジの席の前に座って、仲良さ気に話を始めた。

「碇、昨日はありがとうな。…帰ってからも色々思い出しちゃってさ…オレ、なかなか寝付けなかったよ。」

「ははは、そう。」

その様子を見たクラス中の生徒達は、目を大きくして固まっていた。

自分達からすればケンスケは、このクラスの誇りに思うような生徒に怪我を負わせた迷惑なヤツなのだ。

今日久しぶりに登校してきた彼に対して皆冷たい視線を投げて、メガネの少年の存在を無視していた。

もちろん、シンジも自分たちと同じように彼を扱うだろうと思っていたのだ。


……しかし、実際に目に映る二人は仲の良い友達のようだった。


委員長であるヒカリはレイの机の前に来ると、彼女に耳打ちをするような小さな声で彼らの事を聞いた。

「ねぇ、綾波さん。碇君…気にしていないの?…相田の事?」

「碇君は、相田君の事を友達と言ったわ。」

レイは少し寂しそうに横のシンジを見詰めて答えた。

「そ、そうなの。」

「ええ。」


”ガラッ!”


「おはようさん。」

やや乱暴に入口のドアを開けたのはトウジだった。

ジャージの少年はシンジの前に笑っているケンスケがいるのを見て、目を見開いて驚いた顔になったが、

 次の瞬間、意を決したように”ぎゅっ”と唇をかみ締めて二人の前に立った。

「ケンスケ。」

トウジはケンスケを睨むように強い視線を投げた。

「な、なんだよ?トウジ。」

その厳しい視線に焦りを感じたメガネの少年は、少し腰が引けていた。

「ちーとばかしツラ貸せや。センセもすんまへんが、一緒に来ておくんなはれ。」

シンジは真剣な表情のトウジを見て、ゆっくりと立ち上がった。

「いいよ。ドコに行こうか?」

「…校舎裏でええでっしゃろ。」

「判った、ケンスケ、行こう?」

「あ、ああ。」

メガネの少年はシンジに促されて”のろのろ”と立ち上がり、二人と一緒に教室を後にした。

「あ、綾波さん!…どうしよう!?」

呆気に取られていたヒカリが、慌て始める。

「大丈夫。…碇君がいるから。」

お下げの少女に答えたレイは少し心配そうな顔だったが、追いかける事はしなかった。



〜 校舎裏 〜



「すまんかった、ケンスケ!…ワシはオマエん事、よー考えもせんで一方的に殴ってもうて。」

先頭を歩くジャージの少年が、身体を回転させると勢い良く頭を下げた。

シンジは、呼び出しの理由がわかると、二人の邪魔をしないように少し距離を取った場所に立った。

「…トウジ。」

ケンスケも理解すると、ゆっくりとかぶりを振った。

「…いいんだ、トウジ。…オレが悪かったんだ。…碇に迷惑掛けたのは本当の事なんだし。」

ジャージの少年は、頭を下げたまま勢い良くかぶりを振った。

「ちゃうんや。…それは、ケンスケとセンセの問題なんや。ワシが口出す問題やないんや!」

「トウジ。」

「やからワシはケジメを取らんといけへんのや。ケンスケ、ワシを殴れ!…殴ってまた友達になってくれ!」

その遣り取りを聞いていたシンジは、前史を思い出していた。

(…僕の時は、駅で待ってたんだよな。一体、トウジの目指す漢って誰がモデルなんだろ?)

「判ったよ、トウジ。」

その言葉に、トウジが下げていた頭を上げた。

メガネの少年は、ジャージの少年の性格を良く理解している。

彼が、こう言ったらこうするべきが一番の解決策である。

ケンスケが右手を硬く握り締めて、狙いを定めながら弓を引くように身体のバネを絞った。

そして、メガネの少年が格闘家ばりに力強く足を踏み込んで拳を振るった瞬間。

「ちょっとま”バキィィイ!!”」

”…ドッサァー”


……吹き飛び、”ごろごろ”と転がって行く黒いジャージの塊。


(…あらら。多分、ちょっと待ったーって言おうとしたんだね。ぷっくっく。)

苦しそうに小さく肩を震わすシンジは、心の中で可笑しそうに笑ってしまった。

(ケンスケは遠慮なんてしないよ、トウジ。だってあの時の僕と違って、君達は付き合い長いんだからさ。)

青春だねぇ…と、微笑ましさを感じながら、シンジは倒れているジャージの少年に向かって歩き寄った。

「お〜い、大丈夫かい?トウジ。」

「げほっ…せ、センセ…。」

トウジは鼻血を”だらだら”と流していた。

白髪紅眼の少年は、ズボンのポケットからハンカチを出して彼の鼻を優しく押さえて止血してあげた。

(あちゃー、鼻折れているよ…これは問題になっちゃうねぇ。…しょうがない、ちょっと治してやろう。)


……トウジの鼻を押さえたシンジの手が少し暖かくなる。


白銀の少年は気付かれぬように倒れている少年の鼻のケガを、ただの鼻血にしてあげた。

その様子を見ていたケンスケも走り寄ってくると、ジャージの少年の前に立って”ペコリ”と頭を下げた。

「と、トウジ…すまん!、やり過ぎた。」

「いや、ええんや。がっはっはっは!!…意外とええパンチ持っとるのぉ、ケンスケ。」

熱い漢を目指すトウジはハンカチで鼻を押さえながら、なんとか笑って見せた。

「トウジ、保健室に行こう。」

白銀の少年が、倒れている少年に手を差し出して言った。

「いや、一人で大丈夫ですわ。」

シンジの手を掴み、彼に引き起こされたトウジは、空いている手で土埃を払って答えた。

「判ったよ。…じゃケンスケ、一緒に付いて行ってあげて。僕は教室に戻って上手く先生に説明するから。」

「判った、碇、すまない。」

「いいんだよ。じゃ、トウジをよろしくね?」

白銀の少年は二人を置いて、教室に向かった。



〜 教室 〜



(結局あの後、何があったのか詳しく聞けなかったけど、二人の関係が良くなったんだから…ま、いっか。)

シンジはゆっくり立ち上がると、済まなそうに左手を上げた。

「ごめん、これからNERVに行かなきゃいけないんだ。ゲームセンターは今度行こう。」

「そうか、残念だなぁ。」

ケンスケは声のトーンを落として残念そうな顔になった。

「センセも大変やな。しゃーない、ほんなら、他んヤツらを誘うで!」

トウジはさっさと踵を返して、クラスに残っている男子生徒達に声を掛けに行った。

その様子を見送ったシンジは、目の前に立っている少年に振り向いた。

「ケンスケ、また明日ね。」

「ああ、碇も大変だろうけど、頑張れよ。」

「うん、じゃ〜ね。…さ、行こう、綾波。」

シンジはレイの右手を握って教室を後にした。

校庭を歩く少年の左手を握っている少女は、彼の横顔を静かに見ていた。

「ん、どうしたの?綾波。」

シンジは小首を傾げる様に振り返って、夕日に染まる彼女の顔を見た。

「なぜ?」

レイは彼の真紅の瞳を見詰めて、静かに問うた。

「ん?」

「今日、NERVに行く用はないわ。」

彼女の質問に、シンジは紅い空を見上げてゆっくりと答えた。

「…ああ、さっきの。……それはね、僕が断ったら…トウジが他のクラスメートを誘いに行ったでしょ。」

「ええ。」

「ケンスケが教室のみんなと早く仲直りするには、その方が良いと思ったからさ。」

そう言って”ニコリ”と涼しげに笑った少年の顔をレイは見惚れていた。



………庵。



巨大な樹で造られた堂々たる門構えに佇むゲンドウは、サングラスをしていない。

彼は第二新東京市から京都まで直接VTOL機で移動し、碇家のテリトリーであるこの街の郊外に降り立ち、

 事前に用意していた車を自分で運転して、ここまで一人でやって来た。

「お待たせ致しました、ゲンドウ様。…玄様がお会いになるそうで御座います。…こちらにどうぞ。」

通用門から現れた男に、ゲンドウは頭を下げた。

「…すみません。」


……広大な庭園にある大きな池の水面が、夕日の紅い光を反射している。


まるで紅い光に浮かび上がっているような純和風の庵に男は案内された。

「何用じゃ?」

その庵の奥に胡坐をかいて座っている老人は、不機嫌そうに口を開いた。

大男は玄の正面に正座すると、静かに深く頭を下げた。

「…お願いが有ります。」

珍しいモノを見た、と老人は片眉を上げたがその表情は冷たいままだった。

「ふん!オマエの願いなど、このワシが聞くと思っているのか?」


……沈黙がこの空間を支配する。


そして数秒後、ゲンドウが重そうに口を開いた。

「…………いいえ。」

その男の答えに老人が呆れた口調で彼に問う。

「…判っているのならば、なぜ来た?」

ゲンドウは下げていた頭をゆっくりと上げ、玄の目を見て答えた。

「私の言葉であろうと、シンジの為ならばあなたは動く方だ。…そう思ったからです。」

老人は、男の目を睨み返して確認するように聞いた。

「…シンジの?」

「…はい、これから語る私の話は、我が子…シンジの為になるモノです。」

「ならば、なぜシンジから話をさせん?」

「シンジの耳には……出来れば入れたくない内容だからです。」

「なに?」

訝る玄を無視するようにゲンドウは話を続けた。

「あの子が体験した前の人生で…私は、シンジに許されざる行いをしました。人としても親としても。

 しかし神たるシンジは、私を許してくれた。外道なこの私を。

 私は、これ以上…シンジに人間の絶望を見せたくはない。

 出来れば、あの穏やかなままのシンジでいて欲しい。これは私の望みなのです。

 私はアイツの為ならば、あらゆる事をする覚悟を決めています。

 あなたが、今ここで死ねと言えば死にましょう。…それがシンジの為とあなたが思うのなら。」

ゲンドウを睨みつけていた玄は、肩の力を抜いた。

「ふぅ、その様な事をワシが言わぬと知っていて、良く言うわ。その軽口でユイを口説いたか。」

「…いいえ。このような戯言で、ユイの気持ちは掴めませんよ。…良くお判りのハズだ。」

ゲンドウは若干口の端を上げた。

「ふん、相変わらず詰まらん男よ。…まぁ、良い。……聞いてやる。話せ。

老人は用意していた茶を一飲みして喉を潤した。

「はい、この国独自の武力…軍隊の問題です。」

「ふむ、戦略自衛隊か。」

「はい、そうです。」

男はケースから紙を取り出した。

「これをご覧下さい。」

ゲンドウが正面に座る老人に渡した書類は、首相に見せたのと同じ写真と資料だった。

「何と…人とはこのような鬼畜な行いが出来るのか。…確かにこんなモノあの子達には見せたくないのぅ。」

玄は両手で数枚の紙を持ち、目を細めて厳しい表情になった。

「はい、私もそう思います。」

「…で?」

老人は、更に資料を読みながら男に用件の先を促した。

「この子達の身柄を引き取って頂きたいのです。」

玄は紙に落としていた目を上げてゲンドウの顔を見た。

「碇グループで保護をせよ、と言うのか?」

「はい。この子達に然るべき医療を施し、然るべき施設に入れる。如何でしょうか?」

男の提案に老人は少し考えるような表情になる。

「それは容易い。…が、助け出す術は無いぞ?」

「近日中にこの基地は廃棄され、ここの上級将校及び関係者は全て罷免される手筈になっています。」

「何じゃと?」

訝しげな顔の老人を見たゲンドウは”にやり”と笑って答えた。

「スミマセンが、首相には先に話を通していまして。」

「そうか。…ふむ。」


……玄は暫く考え込むと、徐に手を鳴らした。


”パン、パン”

「有馬。」

”スラッ!”

一瞬の遅滞なく庵の襖が開く。

「玄様、お呼びで御座いましょうか?」

「話は聞いたな?…九州の病院に連絡せい。この子供達を救うのだ。」

「はい、詳細はゲンドウ様にお聞きすれば宜しいでしょうか?」

「うむ。…有馬よ。ワシは今シンジの声が聞きたい。」

ゲンドウは静かに老人を見ていた。

「はい、お待ち下さいませ。」

有馬は庵の電話を素早く手にした。

”……ピ!”


……暫く沈黙の時間が過ぎる。


『…もしもし?』

「若様。有馬で御座います。」

電話先の少年から少し驚きを含んだ声が聞こえる。

『え、有馬さん?…どうしたの?…何かあった?』

有馬は小さくかぶりを振ってシンジに答えた。

「いえ、玄様の”お呼び”で御座います。」

『そう、判った。……いいよ、おじいちゃんに代わって。』

「ありがとう御座います。…少々お待ちくださいませ。」

この庵に用意されている電話機はアンティーク調ではあるが、不粋なカールコードなどは無い。

有馬は恭しく玄に歩き寄り、両手を添えて渡した。

「…シンジや。」

『久しぶりだね、おじいちゃん。』

可愛い孫の声に自然と玄の厳しかった表情が解かれて、慈しみの深いモノに変わっていく。

「息災か?」

『うん、元気だよ。もちろん、レイもね。』

玄はシンジが彼女を他人のように”綾波”と呼ぶ事を許さなかった。いや、呼ばぬように願った。

自分に話す時はお願いだからレイと言うように。


……老い先短い老人の願いと言われては、シンジに断る術はなかった。


「…そうか、そうか。こっちに遊びには来られんのか?…お菓子もあるぞ?」

シンジと会話をする玄は本当に楽しそうな表情だった。

彼は今も昔も世界経済界のドンである。

写真などで厳しい表情しか見た事のなかったゲンドウは、今目の前で笑っている男の顔に内心驚いていた。

『う〜ん、ゴメンねぇ…おじいちゃん。次の戦闘に合わせて母さんを元に戻すから、少し忙しいんだ。』

「な、なんと!…ユイをか!!」

その単語に思わずゲンドウも目を大きくしてしまった。

『今度、京都に戻る時は母さんも連れて行くよ。楽しみに待っていてね?おじいちゃん。』

「おうおう。そうか、そうか。」

老人は嬉しそうに首を大きく頷かせた。

「お前の声が聞けて、気が晴れたわい。…また電話しても良いかの?」

『えぇ〜だめだよ。』

玄は、つれない孫の言葉に驚愕の表情になってしまった。

「な、なんじゃと!」

『…だって、今度は僕から電話するから。』

孫の言葉に、一本取られた…と老人は愉快な気持ちになってしまった。

「ぷ。…あっはっはっはっはっは。」

『おじいちゃん?』

「くっくっく。…分かった。待っとるぞ、シンジよ。」

『うん。じゃ、おじいちゃん、またね。』

肩を震わせて笑い顔を落とした玄は、そのまま電話を切った。

「ああ、またな。」

”チン!”

顔を上げた玄は、いつもの厳しい表情に戻っていた。

「ゲンドウよ。」

「はい。」

「政府と話をつけた、と言ったな?…この事件をエサにお前は…いや、NERVは何を得たのだ?」

「戦略自衛隊技術研究所のテクノロジーです。これは、次回の戦いにシンジが必要とするものです。」

「…そうか。詳細は有馬と詰めよ。…被害者の子供達に最高の処置と対応を約束しよう。」

「ありがとう御座います。…では。」

「シンジは今度戻ってくる時に、ユイを連れて来ると言いおった。」

「!」

その言葉に、立ち上がろうと腰を上げた男の動きが止まった。

「その際は…ふん、お前も来るといい。…歓迎せんがの。じゃが、ワシはシンジの悲しむ顔は見とうない。」

顔を横に向けて小さく呟いた老人を見たゲンドウは、そのまま立ち上がって頭を下げた。

「判りました。…シンジが望むのならば、そうしましょう。今日は貴重な時間をありがとう御座いました。」

玄は男の顔を詰まらなさそうに見て言った。

「世辞などいらんわ。オマエも多忙の身じゃろ…シンジに気付かれる前にさっさと箱根に戻れ。」

「お気遣い感謝します。有馬さんには、こちらで用意した書類を渡します。」



………翌日。



夕日に染まる沖縄基地に、政府専用のヘリと護衛のヘリが到着した。

内閣官房長官は白いヘリコプターから足早に降りて、護衛の兵士を伴って基地の本館へ向かって行った。

総理の代理人である彼は、アタッシュケースを持ちながら厳しい表情で建物に足を踏み入れる。

(…気違い共め。)

”…チン”

地上階に到着したエレベータに乗るのは、背広を着た男と彼に付き従う兵士たちだった。

男は自分の周りにいる武装兵を見て、緊張した表情で”ゴクッ”と生唾を飲み込んだ。

ヘリポート周辺にいた戦自の兵隊は、多少訝しげな視線を自分達に投げたが、

 特に何か行動を起こす事はなかった。

クーデターではないが、この基地の機能を封印する役目を負った閣僚の表情は硬い。

”ガチャ!”

「失礼しますよ。…戦略自衛隊、沖縄方面軍基地司令官殿。」

「誰だ!…貴様!!」

スキンヘッドの中年男性が突然開いた扉に向かって怒鳴った。

「…この、ばか者め。」

背広の男は静かに机に歩み寄ると、アタッシュケースを開いた。

「貴様らのやっていた犯罪を断罪に来たのだ。…拘束しろ!」

男の背後に控えていた兵士が無表情に、スキンヘッドの男を縛り上げた。

「リストに上がった将校及び関係者を残らず捕らえよ!!」

男の命令に従った兵士達は、逡巡なく沖縄基地をくまなく探索していく。


……そして、20分後。


司令室に色々な勲章を胸に下げた男たちが集まって来る。

「何のマネだ?」

「一体どういう事だね!?」

「キサマ、何をする!!」

8人の男たちは、思い思いの言葉を口にして騒がしく部屋に入って来た。

「あ〜静かに。…私が誰だか判りますよね?」

「内閣官房長官、一体何の冗談ですかな?」

「冗談?」

スキンヘッドの男は、余裕のある歪んだ笑顔を背広の男に向けた。

「我々は国を護る為に命を懸けています。…その我々にこの仕打ちとは、何を考えていらっしゃるのやら。」

「その国から、こういう命令が出た。…その腐った耳を良く澄まして聞くことだな。」

背広の男は、アタッシュケースから赤い公印を押された公文書を手にして読み上げた。

「9月4日18:00を以って、戦略自衛隊沖縄方面軍及び、沖縄基地を即時解体に処す。

 …基地司令以下7名の主要将校達の罷免を言い渡す。ほか基地関係者の人事は追って知らせる。

 沖縄基地が担当していた治安維持活動は国連軍に移譲される、以上だ。」

「ば、馬鹿な!…何を言っておる!」

”バババババ”

元司令官の声を遮るように建物の外から大量の医療用ヘリが飛来し、次々に着陸して行く。

(ん?…国連医療機関ではなく、民間の碇グループのヘリ……ふむ、この事件を秘匿するためか。)

その様子を窓から見た官房長官は、顔を部屋に戻すと冷たい口調で答えた。

「この基地で行われていた非人道的実験の被害者達を搬送する様に伝えたまえ。」

「ハッ!」

護衛の兵士が命令を実行する為に部屋を出て行った。

「君達がしていた事は、全て総理の耳に届いている。総理の判断は、一切の情報の秘匿。

 つまり、君達は否応なく処刑される事になる。」

口封じのために、裁判などの近代的な社会ルールを無視した処罰に将校達の顔色が青くなる。

「な、なに!!」

官房長官は無表情に言い放った。

「ま、非人道的な行いをしてきた者の末路…それに相応しい結果ではないかね。」


……将校たちと関係者たちはその夜、秘密裡に銃殺刑に処された。


また、何も知らぬ末端兵は事件の存在を知る事なく各方面隊に編成となり、

 こうして沖縄基地はその歴史に幕を閉じた。



………5日(土)丘陵地帯。



”ミーンミンミンミンミン、ジィィィ………ミーンミンミンミンミン、ジィィィ………”


先日の戦闘跡地。

今ココには数棟の巨大テント…と言うよりも仮設実験場のような味気ない四角い建物が建設されていた。

建物内部のスピーカーから各種の作業状況が聞こえてくる。

『B3ブロックの解体終了。』

『全データを技術局一課、分析班に提出してください。』

「はい、シンジ君、レイちゃん。」

少年と少女は、白衣の女性から白いヘルメットを渡された。

「私は作業状況を確認したりしなくちゃいけないから、適当に中を見ていて頂戴。」

「判りました。…じゃ、綾波、行こう。」

まるで建設現場のように足場が組まれた作業場には、あらゆる職員が忙しそうに動いている。

『Fブロックの解体作業再開は10分後に変更。』

『技術部四課第7班は、直ちに所定の位置に集合してください。』

リツコはそのままリフトで上部へと昇って行ってしまった。

シンジとレイは足元に注意をしながら、ゆっくりと足を進めて赤紫色の巨体を見ていた。

『そう言えば…前回は、使徒の処分ってどうしていたんだろう?』

『碇君、ドグマ最下層に捨てられていたわ。』

『え、腐らないの?』

『…解体の後、熱滅却処理。』

『ああ、なるほど。小さく解体して焼き切って捨てていたんだ。』

『…ええ。』

暫く歩いていると上から声が掛かった。

「…なるほどね。コア以外は殆ど原形を保っている。…ホント、理想的なサンプル。有難いわ♪」

リツコは足場から下にいるシンジを見ると、にこやかに笑った。

「今から分析室に行くから、そこでちょっと待ってて頂戴な。」

姉はリフターを下げて降りてくると、この作業場の自分のテリトリーにカップルを案内した。

その一室は、6畳位の広さで所狭しと積み上げられた書類と解析用の機器に埋もれていた。

(何か、前よりもすごいかも。…前…うん?そう言えば…。)

シンジは何気に思い出した事を姉に聞いてみた。

「そういえば、リツコ姉さん、葛城さんは居ないんですか?」

「え?…ミサト?」

アイスコーヒーを用意していた姉は、少年の声に振り向いた。

「ええ、前回はココにいたんですけど。」

彼女は冷やされたコーヒーを紙コップに注ぎながら少し冷たい声色で返事をした。

「前はそうだったの。…彼女、今日はここに来られないわよ。だって今頃…警察署ですもの。」

「へ?」

「ここに来る途中、検問に引っ掛かってね。」

「…え、まさか。」

シンジは何となく理由を察した。

「そう、飲酒運転。…彼女、国連に属する国際公務員っていう身分をどう理解しているのかしら?」

リツコは呆れ果てた顔で少年に答えた。


……葛城ミサト、彼女が前史よりも”運”が悪いのはなぜなのだろうか?


一番の理由は、ミサトのストレスを発散する為の少年が、コンフォート17に同居していないのが大きい。

不得意な書類仕事をし、心身ともに疲労困ぱいで帰宅すれば…そこは散らかり切ったままのゴミ溜めの部屋。

ゲンナリしながら最低限のスペースを得るために嫌々掃除をしてストレス発散とばかりに大酒を煽る生活。


……それが今の彼女の第3新東京市ライフだった。


偶々だったが、今朝はいつも以上に酒が残っていたようだ。

作戦課長として使徒戦跡地の現場に向かったミサトは、道中で警察官に止められて職務質問を受けたのだ。

運転席の窓を開けた際に、車中から強烈な酒の臭いが漂った。

「すみません、うぅ!!…ちょ、ちょっと…飲んでらっしゃいますね?」

「はぁ?…飲んでないわよ!」

「いえ、すごく臭いますよ?……ちょっと、呼気のアルコール濃度をチェックしたいのですが?」

「あんたねぇ、NERVの仕事を邪魔しよってぇの?」

「え!!…NERVの方なんですか?」

「ふふん♪…そうよ!」

酒臭い息を吐いた彼女はNERVの特権を振りかざし、

 この検問をやり過ごそうとしたのだったが……それがいけなかった。

警察から発信された問い合わせの電話に、偶然にも発令所にいた冬月が応対したのだ。

「……平時のNERVにそのような特権はない。…反省したまえ。」

という常識的な上司の冷たい言葉で、ミサトは人生で初めてパトカーに乗る事が出来たのだった。

「ま。彼女…反省なんてしないでしょうけどね。」

コーヒーを弟と妹に手渡して、リツコは自分のイスに座り一口飲んでから力を抜くように、ため息をついた。

どうやら、この仮設分析室の壁は薄いようだ。


……外から連絡事項を伝える女性の声が休みなく放送されている。


『…ドイツ第3支部の動力分析班は5分以内に到着の予定。担当責任者はS2ブロックにて待機。』

「それで、使徒について何か分かりましたか?」

シンジが作業場のスピーカーから響く連絡事項を聞きながら、白衣の女性に聞いた。

金髪の女性は左手で端末を操作して答えた。

「…これ、見て頂戴。」

そのモニターには《 Code 601 》と表示されていた。

「…えと?」

「解析不明を示すコードナンバー。そして、これ。」

更に端末を操作して、違う解析画像を表示させるとリツコが説明をした。

「使徒は粒子と波、両方の性質を持つ光のようなもので構成されているわ。

 …と言ってもねぇ。これだけ時間とお金を費やしても……良く分からないのが正直な処ね。」

”カタカタ”とキーを叩くリツコは難しい表情になった。

「あの膨大なエネルギー…その動力源についてもさっぱり。…全く困ったものだわ。

 それに、この使徒独自の固有波形パターン。」

リツコが”タン!”とEnterキーを押すと、画面に《4th ANGEL》の情報が表示される。

「改めて、私達の知恵の浅はかさを教えてくれるようなデータでしょ?」

シンジがその情報を見て呟くように答えた。

「…99.89%ですか?」

「そう。構成素材の違いはあるけれど、信号の配置と座標は人間の遺伝子と酷似しているの。」

「…教えましょうか?」

にこやかな弟を見た姉は、”ぷいっ”と顔を横に向けた。

「何となく…悔しいから遠慮しておくわ。」

”…カッ、コッ、カッ、コッ、カッ、コッ”

その遣り取りをしている部屋の脇を二人の男が通り過ぎる。

『Bブロックのサンプル回収終了。』

『ドイツ第3支部の動力分析班、現着。』

シンジの袖を摘んで後ろに立っていたレイは、何となく聞こえた足音のほうへ顔を向けた。

現場の作業員に案内されている男たちは、ゆっくりとこの建物の一番奥へと向かって行った。

『現場作業班は第3種装備のまま待機。』

『Fブロックの解体作業再開。』

”グォォーーーン”

赤い球体だった巨大なカケラが降ろされる。

「オラーイ…オーラァイ!…OK!いいぞ、止めろ!」

元学者の血が騒ぐのか、冬月の顔には好奇心に沸く表情があった。

「これがコアか…残りはどうだ?」

彼は、その目を作業員に向けて”いきいき”と質問した。

「それが…劣化が激しく、試料としては問題が多すぎます。」

そんな初老の男に、作業員は少し困惑しながら現状の説明をした。

「かまわん、他は全て破棄だ。」

白い手袋を外して、ゲンドウは直接コアに触れて詳しく調べるように見ていた。

総司令の命令に作業員は敬礼して返事を返した。

「はい。」

『Cブロック解体作業終了は、45分後を予定。』

『Bブロックの作業はマーク確認後、全て第二ポイントに集積してください。』

”クイッ…クイッ”

右腕の袖を引っ張られたシンジは、後ろに佇む少女を見た。

「なに?綾波。」

「司令…来ているわ。」

シンジは心の裡で、あぁ…と思い、自然と分析室から覗き込むように父を見やった。

(父さん、冬月先生…やっぱり、歴史って大きく変わらないのかな?)

「どうしたの?」

リツコがシンジを心配するような表情で声を掛けた。

「…いえ、父さんが来たんだなって。」

「あ、そうそう、シンジ君に頼まれた戦自研の話…昨日したんだけど、どうなったのかしら?」

リツコは、自分の紙コップにお代わりのアイスコーヒーを入れてシンジを見た。

「あ、言ってくれたんだ。…じゃ僕、ちょっと確認してくるから。…行こう。」

少年は、少女の手を取り分析室を後にした。

ゲンドウは作業員に命令をしていた。

「ドイツの分析班には、試料を渡すな。この場以外の持ち出しを禁じる。」

「しかし、司令。それではマトモな分析が出来ません。」

「持ってって貰っても良いんじゃない?…父さん。」

”ガバッ”

その声にゲンドウが勢い良く振り向いた。

「…シンジ。」

「おや、シンジ君…どうしたんだ、こんな所に来て?」

冬月もその声を聞き振り返ると、自分達の後ろ3mほどの所に少年と少女が立っていた。

「こんにちわ、冬月先生。…今日、僕と綾波は赤木博士に誘われて、ここの見学に来ていたんです。」

「ふむ、そうか。…そうだ。シンジ君には、これが何か…分かるかね?」

”コンコン”と右手で軽く小突くように叩いて振り返った冬月の顔は、大学教授の様であった。

「…使徒の弱点であり、動力源と期待されている敵の部位……違いますか?」

蒼銀の美少女を左腕に伴って現れた白銀の少年は、無表情に答えた。

「鋭いな。ユイ君のように良い観察力を持っている。そう、この物質が我々の期待する動力部なのだよ。」

少年の常識に縛られない、自由な発想力に…冬月は嬉しそうに頷きを返して答えた。

その遣り取りを静かに見ていたゲンドウは、コアに向き合っていた身体をゆっくりと起こして息子に向けた。

「シンジ。」

「父さん、どうせ壊れているんだ。…渡しても良いんじゃないの?」

「ほう、なぜ壊れていると分かるのかね?」

親子の会話に割って入る冬月の目の色は研究者のモノになっていた。

「見て分かりませんか、冬月先生?」

「…どういう事だね?」

シンジは答えず静かに歩いてゲンドウと冬月の間に立つと、左の人差し指で赤い球体の一部に触れた。


”サァーーー”


白銀の少年がコアに触れた瞬間、ソレはまるで砂に変わってしまったかのように崩れ落ちてしまった。

「な、なに!?」

「ほら、壊れていたでしょ?」

「シンジ…。」

振り返って少女の方へ足を一歩出したシンジは、父にしか聞こえぬように小さな声で答えた。

「この砂をドイツが分析しても、何も判らないよ。……父さん、これもこれからの為の保険の一部さ。」

シンジは”チラッ”と後ろを向いてロマンスグレーの男を少しの間…見ていたが、レイの方へ歩いていった。


……その冬月と作業員は足元に広がった赤い砂を手に取ると、夢中で見入っていた。


「行こう、綾波。」

「…え、ええ。」

シンジの前に佇む少女は、突然崩れたコアを見て呆気に取られたように紅い瞳を”パチクリ”とさせていた。

歩き出す少年の左腕に自分の腕を組むと、蒼銀の少女は今の現象を彼に問うた。

『碇君、さっきのはどうして?』

『S2機関は、”ゼーレの希望”そのモノなんだ。わざわざドイツから分析班が来ているだろう?

 それにコアをドイツに渡さないと、NERV本部に対するゼーレの目が厳しくなるだろうからね。

 だったら、どう調べても何も分からない様にしちゃえって思ってね。ちょっと、細工したのさ。』

シンジは、ココから始まるS2機関の調査が結果的にアメリカ支部の消滅に繋がるのを知っている。


……ソレを防ごうとしたのだ。


少年は、仮設実験場を出た。

「綾波、今度ターミナルドグマに行こう?」

シンジは、デートの行く先を告げるような軽い口調で少女に提案した。

「…なぜ?」

レイは不思議そうな瞳を少年に向けた。

「…保険さ。」

「そう。…いつ行くの?」

「再起動実験の前日、夜でどうかな?」

「構わないわ。」

「ねぇ、綾波。これから、どうしようか?」

今は昼下がりの土曜日、学校もなく予定もない。

「本屋さんに行きたいわ。」

「…うん、判った。」

白銀の少年は、蒼銀の少女の手を優しく握って”にっこり”と笑った。



………9日、第壱中学校。



青い空に水飛沫が盛大に立ち昇る。

”ドッボ〜〜ン!!”

声援を受ける少女が泳ぐスピードを上げていく。

「いけいけいけいけ〜」


”ミーンミンミンミンミンミンミン、ジィィィィーーーーーーーーー”


「いっけぇー!秀子ぉ〜」

「負かしちゃえーーーー!!」

「あ〜惜しい。」

”ピッ!ピッーーー!”

「はぁい!次ぃ!、飛び込み台に!」

女性教諭の声がプールサイドに響き渡る。



………校庭。



「おっしゃ〜〜いっけぇぇえ!」

「させるかぁぁぁあ!」

メガネの少年は目標を定めて、ボールを放った。

”シュ!…バァン!”

バスケットボールがリングに吸い込まれず、白いボードに当たってこぼれ落ちた。

「ああぁぁ…」

チームメイトから悔しそうな声が聞こえる。

「…おっしぃぃ。」


……土煙が上がる中学校の校庭には、男子生徒たちの汗が染みている。


「次、キメていくぞ!」

ケンスケが自分のチームに発破を掛ける。

”ピーー!”

審判が試合再開の笛を鳴らす。

”ダムダムダム!”


”ジィィ……ミーンミンミンミンミン、ジィィィイ………”


太陽の日差しが容赦なく照り付けている。

そんな体育の授業で行われているバスケット…シンジはケンスケ、トウジと同じチームだった。

本気でやってしまったらゲームにならないので、シンジはトウジと同じディフェンスを買って出た。

試合は先ほど、ケンスケが3ポイントシュートを狙ったようだが、どうやらダメだった様だ。

現在ゲームは1点差で負けている。…まぁ、結構均衡していて面白く盛り上がっているみたいだ。

そんな中、シンジの反対側にいるジャージの少年は、だらしなく目尻を落とし鼻の下を伸ばしていた。

「みんな…ええ乳しとんなぁ…。特に綾波…ありゃ反則やで。エロ過ぎじゃ…。」

”ピクッ”

彼の呟いた言葉を聞いたシンジは、霞み消えるような速さで敵のパスをカットして躊躇なく投げ付けた。

”ビュン!!!”

風を巻き込む勢いで放たれた茶色い弾丸は、空気抵抗を無視しており放物線を描くような優しさはなかった。

「ぐふふ。ええ目の保養やぁ〜。」

ぐんぐん近付く茶色のボール。

シンジは声をかけない。

その様子を見たケンスケが堪らず大声を出した。

「おいっトウジ!」

「は、なんや?」

慌てて振り向いた瞬間、彼が顔面に感じた痛みは痛烈だった。

”バッチィィィイン!!”

「ブバァァッ!!」

ボールを顔面でキャッチし損ねたジャージの少年は、白目を剥いて…ゆっくりと倒れた。

「…あ、ごめんよ…トウジ。でも、くっくっくっく、試合中によそ見しちゃ…ダメじゃないか。」

謝っているのに、ちょっと冷たい笑みの少年を見たケンスケは…トウジ、何かやったな?と鋭く感じていた。

その言葉にトウジは、迂闊やった…と感じて自分の意識を手放した。

(センセ…グハッ!)


”ピッピーー!!”


そして試合は中止となり、代わりのチームが新たな試合を組む。

シンジとケンスケは、だらしなく倒れているトウジを木陰に搬送した。

白銀の少年が金色の大きなヤカンに水を入れて、トウジの顔にかける。

”…ジャバ…ジャバジャバ!”

「むッ…ぶはっ!…ゲホッゲホッ!」

咳き込むジャージの少年は、苦しそうに上半身を起こした。

「トウジ、大丈夫かい?」

「あ、センセ。」

「ゴメンね、トウジ。」

「いや、よそ見してたワシが悪いんです。……あの、ボール取れんでスマンでした。」

ジャージの少年は、何かを誤魔化しているように落ち着きのない様子だった。

それを見てケンスケは、彼が大丈夫だと判ると”ニヤリ”と笑ってジャージの少年に問うた。

「綾波かぁ…?トウジぃ。」

「な、何言うてんねん!」

「…トウジ?」

白銀の少年が浮かべる笑顔、その顔にある瞳は氷のように冷たく全く笑っていなかった。

「は、ハイ!センセ!!」

得も言われぬ冷たい恐怖を感じたジャージ君は、反射的に立ち上がると直立不動の体勢で身体を硬くした。

「綾波は僕の恋人…それは判っているんだよね?」

”…ダラダラダラダラ”

ジャージの少年の額から、暑さのせいではない脂汗が噴出す。

「も、モチロンですぅ!!」

「…実はね。トウジがさっき言った言葉。僕、確りと聞こえていたんだよ。」

真っ青な顔になったトウジは身体を90度に折り曲げた。

「すまんです!…二度としまへん!!」

「漢の誓い…だよね?」

「もちろんですわ!!」

「うん。なら、いいや♪…試合はもうないんだ、トウジも座って休みなよ?」

「は、はいぃ…そうさせてもらいますゥ。」

トウジは修羅場を生き残った喜びを噛み締めながら、”へなへな”と力が抜けたように腰を下ろした。



〜 先程のプールサイド 〜



女子生徒がフェンス越しに男子生徒のバスケットを見ていた。

「あ〜何か、さっきから鈴原…目付きヤラしぃぃ…。」

蒼銀の美少女を護るように女子が集まる。

「綾波さん、気を付けたほうが良いわよ?」

プールの煌く水面を眺めていたレイは、クラスメートの声に顔を上げた。

「…なにを?」

水泳キャップを被った少女が、校庭の方向に”すぅー”と人差し指を向けてある一点を指し示した。

「ほら、あそこ。…綾波さんを舐めるように見ていたわよ、鈴原が。」

「ちょ、舐めるって…」

余りな言葉にヒカリが反論を試みるが、校庭に見えたその男の子は、鼻の下が”びろーん”と伸びている。

”バッチィィィイン!!”

ヒカリがため息をついた時、何かが勢い良くぶつかった音が聞こえた。

お下げの少女が音のほうを見ると、

 彼氏であるジャージの少年は…身体を弓のように仰け反らせて、ゆっくりと地面に倒れた。

「あ、碇君だ。」

「さすが、分かってるわねぇ。」

「正に、ナイトって感じぃ〜。」

「あぁ〜ん♪…私も護ってぇぇえ!!」

レイはジャージの少年に歩いて行くシンジを見ていた。

「ねぇねぇ、碇君ってどう?…付き合って長いんだよねぇ?」

クラスメートからの質問が飛び出してくる。

「永い…そうかもしれない。…碇君は優しい。彼は私の全て。」

「そ、そう。」

質問した女の子は、相変わらず参考にならない彼女の答えに肩を落とした。



………NERV、第6ケージ。



『EVA初号機は第3次冷却に入ります。第6ケージ内はフェイズ3までの各システムを落として下さい。』

エントリープラグにマヤの声が響く。

シンジとレイは午後からNERVで実験をしていた。

この広大な第6ケージに山吹色の巨人が運び込まれたのは、つい先ほどの事だった。

『先のハーモニクス、及びシンクロテストは異常なし。…数値目標を全てクリア。』

『了解、結果報告はバルタザールへ。』

『了解。』

レイは、エントリープラグのメンテナンスハッチを開けて、久しぶりの零号機の状態をチェックしている。

『エントリープラグのパーソナルデータは、オールレンジにてメルキオールへコピー、データ送ります。』

”カシュン!”

シンジはサブモニターの表示を光学8倍にズームして愛しい少女を見ていた。

『メルキオール、了解。回路接続。』

『第3次冷却スタートします。』

(……流石に、父さんは来ないか。)

少年は、ボケッと作業員の往来するブリッジを見ていた。

”カシュン!”

突然と開いたサブモニターに、”どアップ”の髭面の男が映った。

『シンジ。』

「うわ!!」

『初号機パイロットの心拍数が上がりました。』

マヤの報告を聞いたリツコが冷静に返事をした。

『…驚いたのね、シンジ君。』

「な、何?…父さん。」

『CDL循環開始。』

『復水路、運転開始。』

『廃液は第2浄水システムへ。』

『各タンパク壁の状態は良好。…各部問題なし。』

『零号機の再起動実験まで、マイナス1050分です。』

『…何、”ぼぉっ”としているようだったからな・・・声を掛けただけだ。』

ゲンドウは、にやりと笑った。

『司令、一体何をされているんですか?…ふぅ、今日はもう上がって良いわよ、シンジ君。』

リツコの呆れたような声にシンジは力なく答えた。

「…了解。」



………廊下。



シンジはシャワーを浴びて着替えを終えるとそのまま第6ケージに向かった。

少年が上がった時に、レイはまだ零号機のチェック作業をしていたのだ。

「あら、シンジ君。ちょうど良かったわ。」

「リツコ姉さん、マヤさん。」

廊下の曲がり角から白衣を羽織った金髪の女性と、書類を抱えているショートカットの女性が現れた。

「はい。…これ、正式なIDカード。」

白衣のポケットから姉が少年にカードを差し出した。

「あ、すみません。ありがとう御座います。」

カードを受け取ったシンジに、リツコはもう一枚のカードを差し出した。

「あと、レイちゃんの更新したカード。…彼女に渡して頂戴ね。」

シンジは何気なく受け取った少女のカードを繁々と見ていた。

(綾波のカードか、……ん?………あ!)

動きを止めてしまった少年の様子を見ていたマヤは、気遣わしげに声を掛けた。

「あの、どうしたの?シンジ君。」

「え、あ!いや、何でもないです!」

珍しくも慌てる彼の様子にマヤは不思議そうな顔で隣の女性に聞いた。

「センパイ、シンジ君の顔真っ赤ですよ?…どこか、調子悪いんじゃ?」

「そうねぇ、大丈夫?シンジ君。」

「…だ、大丈夫です。ぼ、僕…綾波に渡してきます。」

落ち着きのない弟の様子にリツコも不思議そうな顔で返事をした。

「そう。…あ、レイちゃんなら、さっき上がったから、更衣室の方へ向かったはずよ?」

「わ、判りました。…それじゃ。」

”クルッ”と踵を返して少年は走って行ってしまった。

「どうしたんでしょうね、シンジ君。」

「ま、心配する事はないでしょうね。」

「センパイ、本当に行くんですか?」

ショートカットの女性は横目で窺うように金髪の女性に聞いた。

「しょうがないわ。約束ですもの。」

リツコは”ふぅ”と肩を落として返事をした。

「そうですか。」

「マヤ、明日の再起動実験の手順書の整理、頼んだわよ?」

「はい、判りました。」



………更衣室前。



(確かに、綾波の波動を感じる。…意外と早く終わったんだね。)

少年は、カードを受け取った時に前史でのハプニングを思い出してしまった。

(あの時は、マズかった………左手で思いっ切り触っちゃたんだよね。)

左手を見ていた白銀の少年は更衣室の前のベンチに座ると、今度は自由になった右手を見た。

シンジは今日の実験前に受けたNERVの診察で、LCLパックを外す許可をやっと貰った。


……彼は、約2週間ぶりに右手を自由に動かせるようになったのだ。


シンジが右手を何度か握ったり開いたりしていると、ドアの開く音が聞こえた。

”プシュ!”

「…碇君。」

レイは少年の波動を感じたので、慌てて制服に着替えたらしい。


……蒼く輝く髪がまだ少し濡れている。


その声に、顔を上げて立ち上がった少年は、ポケットからカードを取り出した。

「お疲れ様、綾波。…はい、これ更新したカード。リツコ姉さんから。」

レイは彼の右手にあるカードを”じぃー”と見た。

シンジは、カードを受け取らない少女を不思議そうに見た。

「どうしたの、綾波?」

「…ダメ。」

「は?」

「…だって、1日早いもの。」

「え?」

少女の顔は少し紅い…どうやら、彼女も前史を思い出したようだ。

「えと、綾波?」

「碇君。」

「な、なに?」

「明日、受け取るわ。…行きましょう。」

そう言うと、彼女は少年の左手を取り”すたすた”歩き始めた。

「え、ちょ、ちょっと綾波。」

手を引っ張られる少年は、慌てて彼女に付いて行った。



………コンフォート17。



夜の葛城邸。

リツコは酔狂にもミサトの家を訪問していた。

金髪の女性は、彼女が日本に帰ってきた時に、落ち着いたら引っ越し祝いをする約束をさせられていたのだ。

「お邪魔するわね、ミサト。」

「いらっさーい。」

リツコの持ってきた高級そうな酒を受け取った女性は、満面の笑みだった。

彼女は、今日午後から休みを取り部屋を片付けて、もて成しの準備をしていたのだった。

リビングに通されたリツコは、少し目を大きくして驚いた。

「あら、意外とまともに片付いているじゃない。」

「へへへ、ま〜ねん♪…もう少しで出来上がるから、適当に座ってて、リツコ。」

「分かったわ。」

”ガタン!”

「クェーー。」

リツコが音のほうを見ると、オスのペンギンが窺うように顔を覗かせていた。

「え?…何、ペンギン?」

「そう、温泉ペンギンのペンペン。」

台所からミサトが答える。

「貴方が、何かの世話をするなんて意外ねぇ。」

”トテトテ”

赤いトサカを揺らしてペンギンが歩く。

「あら、可愛い。…こっちにいらっしゃいな。」

リツコが声を掛けると、その言葉を理解したのか…温泉ペンギンは人懐っこそうに近付いてきた。

「あら、この子…獣臭くないわね?」

金髪の女性は、頭を擦り付けるペンギンを撫ぜながら意外そうな顔になった。

「ペンペンはお風呂大好きだからねぇ。…はいはい、そこどいて。」

ミサトは金色の鍋をリビングのテーブルに置いた。

「お風呂って、一緒に入っているの?」

「違うわよ、勝手に入っているの。」

「まぁ貴方、賢いのね?」

「クェ!」

「さ、食べましょー」

ミサトが鍋の蓋を開ける。

「ちょ、何よこれぇ?」

リツコは思わず声が大きくなってしまった。

”プシュ!”

「んぐ、んぐ。…何ってカレーよ、カレー。見りゃ分かんでしょー」

ミサトは缶ビールを開けて数回喉を鳴らすと、友人に答えた。

「相変わらずインスタントな食事ねぇ。」

「お呼ばれされといて、文句を言わない。」

「あら、私のお皿しかないじゃない…ミサト、あなた…カレー食べないの?」

家主は、台所からその答えを持って来て、嬉しそうに見せた。

「ジャーン!…へへへ。」

リツコが見たのは、通常よりも大きいカップめんだった。

「あなた、まさか。」

「ココに入れんのよ、もちろん。どっばぁ〜とね♪」

ニコニコ笑いながら蓋を開けるミサト。

「本気?」

彼女はオタマを手にすると、カレーをタップリとカップめんに入れた。

「あら、いやねぇ〜…イケるのよ。…最初からカレー味のカップ麺じゃね、この味は出ないのよぉ。

 ふふん♪…いっただっきま〜す!…スープとお湯を少な目にしておくのがコツよぉん。」

その様子に呆れながらも、リツコは用意されたカレーを口に含んだ。

「う!…これ、レトルトよね?」

「わるい?」

リツコはテーブルの上のカレーに目眩を感じた。

「な、なんでこんな味に・・」

「あ、判るぅ?…ちょーち手を加えたのよん♪…美味しいでしょぉ……へへへ。」

(れ、レトルトを原料によくもここまで……)

リツコの顔は真っ青になっていた。

”バターン!”

「ちょ、何か音がしたわよ?」

金髪の女性が慌てて確認すると、温泉ペンギンが倒れていた。

「あら〜ペンペンったら卒倒するほど美味しかったのねぇ…罪な味ってヤツかしら、うふふ。」

エビチュを煽るミサトはカップめんを食べながら上機嫌だった。



………ターミナルドグマ。



”…チン”

誰もいないフロアにエレベーターが到着した。

足元にしかない照明は薄暗く、ここの雰囲気をより一層怪しいものにしている。

”……コッコッコッコッコッ”

静かな空間に二人の足音が響く。

『ドーラ、ヘヴンズドアのセキュリティの解除と、MAGIに探知されないように細工しておいて。』

『畏まりました、マスター。』

『…碇君。』

『綾波。…君の補完はこれで完成する。』

『…少し怖いわ。』

彼女は、前史を思い出した。

『今の君なら大丈夫だよ。…リリスの虚構に飲まれる事もないさ。』

シンジは歩みを止めて、不安そうな表情の少女を優しく抱き締めた。

「…ぁ。」

彼の暖かな波動に包まれたレイは、ゆっくりと落ち着きを取り戻した。

「さ、行こう。」

”コクリ”

少年と少女は巨大な空間を静かに歩いて行った。

『ねぇ、お兄ちゃん。』

その幼女の波動は、いつもの様に陽気な雰囲気ではなかった。

『どうしたの?リリス。』

シンジは、その波動に不思議そうな顔になった。

『あ、あの…私って、どうなっちゃうの?』

少年は、幼女の”怖ず怖ず”とした様子が手に取るように分かる。

『キミはキミさ。ここのリリスとは違う存在だから。…何も変わらないよ。』

彼女を安心させるように、シンジは柔らかい表情で答えてあげた。

『な〜んだ、そっか。』

紅い本から”ホッ”とした波動が発生した。



………最深部。



「さ、やっと着いたね。」

白銀の少年が、巨大な門の前に立つ。

”ゴゴゴゴゴゴ!”

その金属製の巨大な門は、間を置かず地響きのように大きな音を立ててゆっくりと開いていく。

その先の世界は、オレンジ色の海があり独特な雰囲気に満たされていた。

所々に巨大な白い柱が見える。

ここは、黒き月の最深部であり、その中心である。

二人は手を繋ぎ、ゆっくりと歩み続ける。


……そして、前史と変わらぬ姿の”白”を見た。


「綾波…始めよう。」

”コクリ”

制服姿のレイは、この紅い空間の地面からゆっくりと浮かび上がった。

彼女の眼前には七つ目の仮面を被った上半身だけの姿という白い巨人が、

 その広げた巨大な腕の先にある両手を、金属の杭のようなモノで十字架に磔にされている。

白の巨人の胸の前まで浮かんだ蒼銀の少女は、”スッ”と右手を目の前にかざす様に上げた。



『さぁ…私に還りなさい。』



レイが誘うように上げた右手から発せられるATフィールドが、徐々に巨人の身体に干渉を始める。

”ドクン!”

静かに事の推移を見守っていたシンジの耳に、空気が震えたと思わせるほど巨大な鼓動音が一つ聞こえた。

”……グッググゥ…”

やがて、痙攣するように動き出した白い巨人は、蒼銀の少女を自分の巨大な腕で包み込むように動かした。

シンジの目の前でレイに寄りかかるように首をもたげた”白”は、

”とろん”と七つ目の仮面を落とすと、そのまま彼女を中心とした巨大で真っ白な球体に変化した。


”…ドバッシャーーン!!”


シンジの右側に落下した巨大な仮面が、LCLの水面を壊すように叩き付ける。

その衝撃によって、盛大な水柱が起きた。


”ザァァァーーー”


シンジは、激しいスコールのように降り注ぐLCLなど全く気に掛ける事なく、

 レイを包んだ白い球体を見続けていた。

”…ドクン!”

固形というのが嘘のように白の表面にさざ波が立つ。

”ドクン!”

白い球体は更に大きく波打つと、大きく震えるように痙攣しながら収縮を始める。


……やがて、ソレはゆっくりと縮まり、人の大きさ位の球体になった。


暫くすると、その白い玉に光の線が浮かび上がる。

”…ピシン!”

まるで中から光が漏れるように徐々に亀裂が入っていくと、花咲くようにゆっくりと大きく開いていく。

その白い花びらは、大きな翼だった。

シンジの目の前の上空には、6対12枚の羽を持つ白いヒトが膝を抱えた状態で浮かんでいた。

そのヒトは、丸めていた身体をゆっくりと伸ばして解放された事を喜ぶように顔を上げた。

そして、虚空を見詰めるように顔を持ち上げた白いヒトの、その胸を中心に眩い光が辺りを照らす。

シンジは瞬きせずそのまま見続けた。

その眩しい光がゆっくりと収まると、そこには第壱中学校の制服を来た蒼銀の髪を揺らす天使がいた。

彼女は、ゆっくり身体を回転させながら辺りを”キョロキョロ”と見渡して、

 愛する少年を深紅の瞳に映すと至上の微笑みを浮かべた。


……少年は、その微笑みに導かれるように自分の身体を”ふわっ”と浮かべた。


彼はそのまま”すーー”と音もなく少女と同じ高さまで飛ぶ。

シンジの目の前には、全てを包み込むような美しい笑みを浮かべている蒼銀の美少女がいた。

彼女の力の象徴であるその白い羽は、

 前史のように爬虫類を思わせる様なモノではなく、純白の羽毛に覆われた美しい翼だった。

正に愛しい天使が出現したような光景に、シンジは嬉しそうに目を細めた。

少女はゆっくりと大きな翼を丸めるように彼を包み込んだ。

「暖かい。…君の気持ちが伝わるようだよ。」

シンジは優しく彼女の顔を両手で包み込むように”そっ”と触れて、少女の深紅の瞳を見詰めた。


……そして、白銀の少年の真紅の瞳の色が強くなる。


{今この時より、黒き月のリリスは消える…人類の母たるリリスの魂…その宿業を解き放とう!

 我は宣言する。…綾波レイは自由であると。その美しい魂と心は綾波レイのモノである!!}


その{言 霊}が紅い光を反射している海に浸透するように重厚に響いた。

レイはまるで心と魂に絡み付いていた”見えない鎖”が千切れ飛ぶようなイメージを感じた。

「綾波…キミとこの黒き月はもう何の関係もない…キミはキミ。リリスでもない。ただの綾波レイだよ。」

”にっこり”と微笑んだ少年は嬉しそうに彼女の背に腕を回して、優しく抱き締めた。

魂の補完を完璧に済ませたレイは、シンジとは比較にならないが”力”がある。

少女は瞳を閉じて、神気を込めた言葉を口にした。


{…私は私。綾波レイの新たなる宿業…それは、綾波レイは永劫に碇シンジのモノ…これが私の意志。}


その{言 霊}を聞いたシンジは少し驚いたような顔だった。


……なぜなら。


彼の腕に包まれている少女は、今…自分の魂に自らの”力”と”言葉”で彼への無償の愛を刻んだのだ。

シンジは彼女を抱き締めていた腕を広げ、大いなる喜びを感じて…まるで十字架のように腕を横に伸ばした。


”…ブワッ!”


そして、彼の背から1対の大きな白銀の翼が現れる。

シンジの巨大な翼がレイの12枚の翼を逆に覆うように、たおやかに包み込んだ。

少女は文字通り、得も言われぬ至上の喜びに包まれる。

「…碇君。」

レイは、しな垂れかかる様にシンジの首筋に顔を埋めた。

「…綾波。」

白銀の神は、再び愛しい蒼銀の少女を抱き締めた。

二人は、お互いの暖かさを堪能していた。

数刻の時間が経ち、シンジが腕を解いた。

「…ぁ、碇君。」

蒼銀の少女は、白銀の少年を離さぬ様に彼の背に回した腕に力を込める。

「ごめん、綾波。…もう一仕事あるんだ。」

レイは彼の胸に埋めた顔を上げて、少年の真紅の瞳を見詰めると答えた。

「…分かったわ。」

少女を包んでいた少年の翼が輝くと、まるで数多の光の粒子に変化したように弾け飛んで消えてしまった。

レイは少年の邪魔をせぬように、少し離れた空間に移動した。

シンジは落とし物を探すように”きょろきょろ”と首を動かした。

「ん…あった。」

そして、彼はオレンジの海底に沈んだ仮面に左手を向けた。


”…ザパァァーーーー”


LCLを滴らせて浮かび上がる7つ目の仮面。

その不気味な仮面は、シンジの左腕の動きに合わせる様に彼らの高さまで浮かび上がった。

レイは、その様子を見ながら自分の白い翼をシンジと同じように静かに消した。

白銀の少年は、右腕を巨大な十字架に向けた。

そして、彼の言葉が空間に響く。


{アダムよ、有れ。}


何もない紅い十字架に何かが浮かび上がる。

一瞬にして実体化したソレは、先ほどの白い巨人と同じモノであった。

上半身だけの巨体。

腕は広げられ、金属の杭で貼り付けにされていた。

意識のない頭部は、力なく傾いでいる。

シンジが左手を”白”に向けると、7つ目の仮面がその白の”のっぺら”な顔に張り付く。

「…碇君、アダムを創ったの?」

レイは彼の横にゆっくりと近付いた。

シンジは振り返って横に来た少女の顔を見て答えた。

「そうだよ、魂のないアダム。…さて、今回カヲル君はどうするんだろうねぇ?」

悪戯っぽい表情の少年を見たレイは、”そっ”と彼のシャツの袖を摘んだ。

「どうでもいいわ。」

レイは少し拗ねたような表情になった。

そんな彼女の様子を見たシンジは、愛しい少女を優しく抱き締めた。

「ぁん、碇君。」

「まぁこれで、明日の備えは終わったね……さあ、家に帰ろう。」

”コクリ”

彼の優しさが嬉しかった少女は、紅くした顔を少年の胸に埋めて、頷きを返した。


……そして二人は霞むように消え去った。






翌日、第2実験場に運ばれた山吹色の巨人をシンジは見ていた。

技術スタッフが定位置に座り、合図を待っていた。

「これより、零号機の再起動実験を行う。」

責任者の声により…再び、零号機に電源が投入された。







第二章 第十四話 「決戦、第3新東京市。」へ










To be continued...


作者(SHOW2様)へのご意見、ご感想は、メール または 感想掲示板 まで