ようこそ、最終使徒戦争へ。

第二章

第十五話 神の創りしモノ、人の造りしもの。

presented by SHOW2様


神の創りしモノ−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−





物語の時間は少し戻り、9月1日。



………ドイツ北西部、ニーダーザクセン州。



ヴィルヘルムスハーフェンはセカンドインパクトで海中に沈んだ都市の一つであったが、

 現在、かつてと同様…と言うより更に大規模な軍港の街として再建されつつある。

その港に隣接する味気ない倉庫のような建物のドアが少し開いた。

”ガチャ…”

オフホワイトのダッフルコートに身を包んだ少女が、錆びたドアから外の様子を窺うように覗いてみると、

 どうやら、昨日から降り続いていた雪は昼前には上がっていたようだ。

「…なぁんだ。雪、止んでんじゃん。」

少し詰まらなそうな声を出した彼女は、ドアを大きく開けると、そのまま外に足を踏み出した。

「結構…積もったわね。」

”ぎゅむっ”とコゲ茶色のブーツが足首ほどまで雪に埋もれるのも構わず、少女は足を進めて空を見上げた。

その薄い雲に覆われた灰色の空の下、現在…巨大タンカーに赤い巨人が慎重に搬入されている。


……その出港準備作業も、もうすぐ終わりそうだ。


「…いよいよね。」

”ポツリ”と声を出した少女の紅茶色の長い髪が、冷たい海風に舞うようになびいた。

その小さな呟きとともに出た息は、降り積もった雪と同じように白い。

彼女が、目の前のタンカーを見ていた青い瞳を北海の沖合に向けると、

 そこには先に補給などの作業を終えた多数の軍艦が、静かに停泊していた。

「ふ〜ん。あれが私のための護衛ってヤツね。」

紅茶色の髪の少女は、自分の”価値”を正当に評価してくれたような護衛艦隊に、満足そうな表情になる。

「…アスカ。」

後ろから聞こえた男の声に、少女が”ふっ”と振り向くと、心配そうな顔をした義理の母と父が立っていた。

「あ、パパ…ママ。」

「アスカちゃん、とうとう日本に行ってしまうのね。」

「…ママ。世界を護るエヴぁのパイロット、それが私の仕事なの。」

そう答えた少女の青い瞳は、強い決意と揺るぎない自信を宿したような力強い光に満ちていた。

「ええ、それはモチロン、判っているわ。判っているの。…でも、やっぱり寂しくなるわね。」

「アスカ、……パパもママも、アスカと一緒に日本に行きたかったんだが、

 何度申請しても…政府から渡航許可が下りなかったんだよ。全く何を考えているのやら…。」


……父親が、ゆっくりと少女の細い肩を抱いた。


「…大丈夫。そんなに心配しなくても、私は一人で平気よ。…ね、パパ?」

アスカは、心配そうな表情の父親を安心させるように”ニッコリ”と笑顔を向けて答えた。

「そうか。そうだね、アスカなら大丈夫か。…ん? ああ、そう言えば、あの護衛の男の姿が見えないな。」

「加持センパイは、仕事で出張だって。…でも、後でちゃんと合流するって教えてくれたわ。」

「…ラングレーさん。すみませんが、お時間です。」

何時の間にか後ろに立っていた、黒いサングラスの黒服の男が、親子の別離の時間を宣告する。

「…それじゃ、行って来るわ。ママ、パパの事…よろしくね。」

そう言って微笑む青い瞳の少女を見た義母は、思わず彼女の手を引き寄せるように握り取った。


……義母のメガネの奥の瞳には、薄っすらと涙があった。


「もちろんよ。…アスカちゃん、身体に気を付けて。…落ち着いたら、電話頂戴ね?…待っているわ。」

その手を包むように優しく握り返した少女は、義母の顔を見て”コクッ”と静かに頷いた。

「判ったわ、ママ。」

「アスカ、頑張ってな。」

「当ったり前よ…パパ。じゃ、行って来ます。」

自信に満ちた我が娘の顔を見た父親は、納得したようにゆっくりと頷いた。

その少女は手を振ると、黒服の男を従えてドイツ支部の用意したヘリコプターに乗り込んだ。

”キュンキュンキュン…シュババババババババ!!”

アスカの両親は、北海の海原に浮かぶ軍艦に向かって飛び去っていった白いヘリを静かに見送っていた。



………第二新東京市。



……そして、現在…9月11日、朝。


内務省の一室から男の声が聞こえる。

「これが、報告書…そのファイルです。」

「…ご苦労だったな。先日、長官が中間報告を直ぐに上げろ、と言ってきたのでね。」

口髭を蓄えている中年男性は、だらしのない姿の部下が机の上に無造作に置いたファイルを手に取った。

「…課長、何かあったんですか?」

「さぁな。」

上司の返事は一言で終わった。

「つれないっすねぇ。オレは久しぶりに日本に戻ってきたんですよ?

 …何か、こう…これはって言う”面白い話”…なんてぇのを、聞かせてはもらえませんかねぇ。」

上司が自分の提出したファイルの中身を見て、今までの苦労の集大成である仕事の出来を評価している。


……こういった場面では、普通の人間であれば多少は緊張するのが当たり前だろうと思うが、

 その男はいつもと変わらぬ”ひょうひょう”とした余裕のある態度のままだった。


「ん?…簡単に教えてもらったら面白くないんじゃないか? それに、お前は色々と調べるのは得意だろ?」

《使徒と呼称される物体及び人類補完計画(仮称)に関する第一次中間報告書》と書かれた資料を読む男は、

 部下に一瞥もくれず、ファイルのページを捲りながら答えた。

「…へいへい、情報は金なり。…簡単にくれると思うな…あなたが教えてくれた言葉でしたね。」

「よし、中間報告はこれで良いだろう。」

「ありがとう御座います。」

「…加持、この超長期任務…オレはお前が無事に戻って来る事を願うよ。」

中年の男は、書類から顔を上げると少し憂いのある表情で目の前の男を見た。

「ハハハッ。オレは命を粗末にする気はありませんよ? それではまた、課長。」

ヨレたシャツを着た男は、人を喰ったような笑い顔を残して諜報部第2調査課長室を出て行った。



………部屋。



白い無機質な部屋、その中央にあるベッドに一人の女性が寝ている。

(…ぅ…ん。)

ショートカットの女性はゆっくりと瞳を開けたが、そこは夫を見た病室とは少し違う部屋のようだった。

彼女は、深夜の使徒との戦いの場がジオフロントに移った瞬間、

 マニュアルどおり地下深い特殊シェルターへ緊急退避されていたのだ。

(…ここは?)

寝起きの頭で暫くの間、”ぼぉー”と取り留めのない事を考えていたが、

 ユイが目覚めてもこの部屋を訪問してきたのは、朝食を運んできたナースだけだった。

「失礼します。…おはよう御座います、碇さん。朝食をお持ちしました。」

「あ、おはよう御座います。…あの、看護婦さん、ここはドコですか?」

「…ジオフロントの地下シェルターですよ。」

ナースは簡潔に答えると、余計なおしゃべりなどせずに終始無言のままテキパキと配膳し終えると、

 そそくさと病室を出て行ってしまった。

(ジオフロントの地下?…地下の地下っていう事?

 …それに彼女は、朝食って言っていたわよね。…じゃ、今は朝なのかしら?)

ユイは、運ばれてきた朝食を食べながら、少し詰まらなそうな顔をしていた。

(…結構美味しいけれど、窓もない部屋じゃ味気ないわね。…シンジはお見舞いに来てくれないのかしら?)


”コンコン”


朝食も食べ終わり、また…”ぼぉー”としていた。…そんな時、ドアをノックする音が聞こえた。

「ッ! はい?」

ユイは、愛する息子が見舞いに来てくれたのでは?…と期待し物凄く嬉しそうに返事をしたが、

 残念な事に、訪問者は彼女の期待した人物ではなかったようだ。

「あ〜…冬月だが、良いかね? ユイ君。」

「…え。ふゆつき? あ、冬月先生? ……はい、どうぞ。」


……平静を保って答えたユイであったが、一瞬で駆け昇った彼女のテンションは、思い切り下がっていた。


”カチャ”

「…久しぶりだね、ユイ君。」

ロマンスグレーの髪をオールバックに整えて茶色い服を着た男が、病室の様子を窺うように入ってきた。

そしてユイの顔を自身の目で確認すると、

 その初老の男性は、余程、この女性と再会できた事が嬉しいのか…満面の笑顔になった。

「…お久しぶりです、冬月先生。主人がお世話になっています。」

ベッドの上の女性は、”ペコリ”とダークブラウンの髪を揺らして挨拶を返した。

「…在り来りな物ですまないが、これは見舞いの品だ。…こちらに置かせてもらうよ。」

「わざわざ御丁寧にすみません。」

冬月は、高級そうなフルーツが沢山入ったバスケットをテーブルの上に置くと、再び視線を女性に向けた。

「いやいや、気にしないでくれたまえ。…ココに座っても良いかね?」

「あ、はい。どうぞ。」

彼女の了解を得た初老の男性は、ベッド脇に用意されていたパイプイスに腰を下ろす。

「…ユイ君、体調はどうかね?」

「ええ、何も問題は有りません。ところで、先生?」

「ん、何かね?」

「今は、いつなのですか?…ここはゲヒルンですか?」


……ユイは、ワザと知っている事を質問した。


「ぅん…時は、あのキミの実験から11年ほど経っている。…今は2015年9月11日の午前9時だよ。」

「…11年? …2015年? …ッ! では、では…使徒は?」

冬月は、ユイの困惑した顔に向けていた視線を外し、ゆるりと組んだ足の上に置いた手を見て静かに答えた。

「…ふむ。予測された使徒襲来…起きて欲しくない未来は、残念ながら現実になってしまったのだよ。

 かつての研究機関ゲヒルンは現在、特務機関NERVとなり使徒という人類の脅威に立ち向かっている。」

「…そう、ですか。」

ユイも冬月を見ていた顔を下に向けて、思慮深い表情になった。

「ともかく詳しい事は、後で資料を用意させよう。」

「ありがとう御座います。…あの…シンジは、”私の”あの子は?」

「ん、君の息子、シンジ君か。……彼は現在、エヴァのパイロットとしてNERVに登録されている。」

「…EVAの、パイロットに……そうですか。今は?」

「使徒との戦いが深夜に行われてね、彼は今ジオフロントに居るが…まぁ、まだ休んでいるだろう。」

「あの、先生。…私は、どういう扱いになっているんですか?」

「ぅん?……キミはあの実験の後、鬼籍に入った事になっているのだよ。

 まぁ、そのデータの改ざん……いや、記録の修正か。

 それはMAGIを使えば、そう難しくはないから、キミの戸籍の復活も直ぐに出来るだろう。」

「MAGI?」

「赤木ナオコ博士の遺した第7世代のスパコンだよ。」

「ナオコさんの…遺した?」

「残念な事だが、彼女は5年ほど前に…事故で亡くなってしまったのだ。」

「まぁ! それは……。そんな。……残念です。あぁ…何だか私、頭が混乱しそうですわ。」

「うむ。ユイ君の気持ちもわかるよ。この11年という君の知らない時間……色々なモノが変わったのだ。」

冬月はどこか遠い目をして言葉を続けた。

「そうだな、変わらぬのはエヴァのテクノロジーくらいか…。

 そう…そこで、ユイ君。キミには技術部の顧問になって欲しいのだよ。」


”ガチャ!”


「ユイ!…目が覚めたか!…む、冬月?」

勢い良くドアを開けた大男は、部屋の中に居た初老の男性を見て足を止めた。

「碇、審議会はどうした?…もう始まる時間ではないのか?」

「い、いや、…問題ない。」

ゲンドウは右手で眼鏡を掛け直しながら、妻のベッドへ歩き寄る。

「ユイ、身体はどうだ? 大丈夫か?」

「ええ、大丈夫ですわ。それよりも、あなた…シンジは?」

「シンジはジオフロントの病院で休んでいるハズだ。目が覚めればココに来るだろう。」

「…病院? まさか、どこかケガでも!?」

妻は少し目を大きくして夫を見た。

「いや、アイツは病院のベッドを宿代わりに使っているだけだ。」

「ホッ、そうですか。……アナタ、私はもう平気です。…これからあの子の所に行きますわ。」

安心したようなユイはそう言うと、ベッドから降りようと身体を動かした。

「…そうか、判った。ではアイツのところへ案内しよう。…その前に、これでも羽織りなさい。」

ユイが大人しく病室に居る事はないだろうと予測していたのか、ゲンドウは真新しい白衣を用意していた。

「あら、ありがとう御座います。」

ユイはスリッパを履いて、手渡された白衣を羽織った。

「さ…行きましょう、あなた。…冬月先生も。」

この組織のトップを従えて、ユイは部屋を後にした。



………廊下。



(ん?…あれは、ウチのボス……内務省長官じゃないか?)

男が喫煙ブースに向かって、まるで散歩のように”ぶらっ”と歩いていた時だった。

廊下を右に曲がった先に、不意に見えてきた背広の集団。


……それを見た加持の目が細まった。


(ペコペコしている取り巻きの…長官と喋っているあの男、どこかで見たことがあるな。

 …よし、ちょっと調べてみるか。)

持ち前の好奇心がこの男の中で”むくむく”と膨れ上がると、

 彼はそのまま歩調を変える事なく歩いて、横目で素早く集団を構成している人間をチェックしていく。

「…試運転結果は報告書で見せてもらったよ、時田君。順調な仕上がりのようだな。」

「ええ。先生のお力添えのお陰で、J.A.も無事に完成の運びと成りました。ありがとう御座います。」

(…ジェイエー…J、A…うん? どこかで聞いた事があるな。)


……自身の記憶をサーチする一瞬、加持の目は更に細まり、眉根が寄る。


自分の企みが、既に大成功するモノと信じて疑わぬ男は、笑いを押さえるような卑下た表情で言葉を続ける。

「これで、後は我々が実際に”あの街”で運用する事が出来るようになれば…。」

「…判っているよ、時田君。

 その特例措置法の骨子は既に出来上がっている。今、私が政府と与党の幹部に働きかけている処なのだ。」

「はい、宜しくお願い致します。…万田長官。」

「その為には、まずJ.A.の完成披露会で行う公試の完璧な成功……これが絶対の条件だぞ。」

ドスを利かせるような野太い声に、時田の表情が強張る。

「ハイッ、もちろん判っております。」

横を通り過ぎる時…耳に聞こえた男達の言葉を何気にボイスレコーダーで記録しながら、

 加持は自然な振る舞いで自分の所属する部署に向かった。

そして銜えタバコのまま、自分のイスに座ると机の上に置いてある端末の電源を入れた。

(…さて、と。今日は誰のIDを使うか……)

男は、内務省の調査室にある諜報専用端末に他人のID、偽造パスワードを入れて特殊OSを起動させる。


……これは、誰がいつ、どんな情報を検索したか判らなくする為の擬装処置だった。


先ほど見た人物たちの情報を検索すると、画面に様々な情報が溢れ出す。

(…やはり戦自研のサーバにあった防衛省、通産省が主導して造った対使徒用ロボット兵器、J.A.か。

 さっきの連中は、日本重化学工業共同体の役員、幹事企業の会長達と計画実行責任者の時田シロウ。

 …NERVの”利権”にあぶれた企業の集まりってヤツか。

 誰がフィクサーなのか…戦自研のサーバにはデータが無かったから、

 司令には中途半端な報告になってしまったが、先ほどの様子と会話では…

 この計画を裏から糸を引いて操っていたのは、内務省長官だったってワケか。

 しかし、ジェットアローン。…対使徒兵器にリアクターを内蔵とは。

 最初の使徒戦のような格闘とか……ちゃんと想定されているのか? 

 先日のような強烈な砲撃を見舞われたら? ……ふう。見れば見るほど、ある意味スゴイ兵器だな。)

銜えたタバコを揺らしながら、加持は天井に顔を上げて”自分の仕事”を思い出していた。

(…さっき課長に渡した、あのデータはダミーだらけ。

 あんな資料を基に政府が使徒に対する法的整備を図っても…まぁ、無駄に終わるだろうな。)

男が目線を下げてボンヤリと画面を見ていると、パソコンのアクセスランプが消えた。

(…おっ、コピー終了っと。これでJ.A.に関するデータは完璧に揃ったな。)

加持は、何気ない動作で端末からメモリーカードを取り出してタバコの箱に入れるとイスから立ち上がった。

(…さてと、このデータを碇司令に渡すとしますか。

 使徒に関する専売特許をNERV以外の組織が持つという事態を、あの人が許すハズがないからな。)


……この男、トリプルスパイであるが、実際はゲンドウの密偵であった。



………ジオフロント。



昨夜の戦闘で破壊されたジオフロントの被害は、

 初号機が走り回った東側と、零号機と共に闘かった人工湖の西側に集中していた。

中央ブロックのNERV本部のピラミッド、多数のビル、特殊採光設備、総合病院は奇跡的に無事だった。

青々と茂っていた森林地帯は、まるでクワで引き摺られたような巨大な”線”が縦横無尽に残っていた。

現在、この戦場跡地では巨大クレーン、特殊トレーラー、大型パワーショベルなどの多くの重機が、

 昨夜の戦闘終了時のままの初号機と零号機の回収作業、彼等によって葬られた使徒の解体、

  荒れたジオフロントの整備、整地など、一瞬たりとも休む事なく働き続けていた。


……その中央ブロックの総合病院の一室。


「ここだよ、ユイ。」

そう言って、白い手袋をはめた手でドアを叩くサングラスの男。

”コンコン”

部屋の主はいないのか? …少し待っても返事はなかった。

「シンジ、私だ。」

男の威圧するような声が、静寂に包まれた廊下の寝惚けたような空気を震わせたが、それだけだった。 


……寂しい限りだが、数刻の時間を消費しても…やはり、返事も変化もなかった。


父親である男は、暫く待っても変化のないこの状況に、無言で振り返り妻の顔を見ると首を横に振った。

夫の”シンジは起きんな…”という視線を受けたユイは、右手を頬に当てて小首を傾げた。

「あら、残念ねぇ。…じゃ、先にレイちゃんに会いに行っちゃおうかしら…。」

「ふぅ。 …ユイ君、レイ君もこの部屋だよ。」

初老の男性は、まるで乱れる風紀に対処できぬ教師のような顔で、深いため息をついた。

「え? あらあら…シンジったら。」

ユイは、少し困惑したような表情になったが、そのまま夫の方へ顔を向けた。

「しょうがないわね。…ゲンドウさん、あなたの部屋で待ちますわ。もう少しすれば起きるでしょ。」

「…そうだな。しかし、私はこれから委員会の審議会に出なくてはならないのだ。

 冬月先生…すみませんが、このままユイを私の執務室まで案内して頂けませんか?」

「ん? ああ…モチロン、かまわんよ。」

頷いた冬月を見たゲンドウは踵を返し、NERV本部の特別審議室へと向かって行った。



………その部屋。



「くーーー、すーーー」

「すぅ…すぅ…」

大人たちが歩き去った、ジオフロントの総合病院5階の部屋から、小さな寝息が聞こえていた。

「ぅ…ん。」

蒼い髪の少女は、先ほどのノックの音に反応したのか、それとも男の声に反応したのか、

 邪魔しないで…と眉根を寄せてむずがる赤子のように、自分の顔を少年の胸に擦り付けるように動かす。

白銀の少年は、その動きに無意識に反応して、何かから彼女を護るように少女の背に手を回して抱き寄せた。

”きゅ…ぅ”

「…ぁ……ぅぅん。いかりくん……」

切なげな吐息を漏らした少女は、”ほんわか”とした温かな羽毛のベッドカバーの中…彼の名を呼びながら、

 揺るぎない絶対的な安心感と幸福感に満たされて、再び幸せそうな柔らかい、穏やかな寝顔になった。



………二子山山頂、9時45分。



”ギャリギャリギャリギャリ!”

超重量物体が、アスファルトを擦りながらゆっくりと動き始める。

「”ザッ!”…そうだ!! ブロック毎に分解、整備後NERV本部へ移送する。作業に取り掛かれ!!」

戦略自衛隊の迷彩服を着た男が、無線機に向かって周りの騒音に負けぬように大きな声を出していた。

キャタピラーが回転速度を上げていくと、巨大砲が後進していく。

その砲身の先に見える街は、朝日に照らされ輝きを増していたが、

 そこには昨夜の戦闘の爪あとが禍々しく残っていた。

第3新東京市の都市ブロックは、ゼロエリアを中心に多数のビルが損壊していたが、

 住民が避難していた地下シェルターへの被害はなかった。

(…あれが、使徒か。)

土井マサルは眼下の湖の対岸にある都市を見ながら、昨日の戦闘を冷静に思い出していた。

(最初の敵は近距離、N2の後は光線を放っていたな……二番目に来たヤツの攻撃レンジは中距離だった。

 …昨日のヤツは砲撃主体の遠距離か。

 …まるで、こちらの手の内を学習しているような感じがするな。まさかな……いや、もし…では、次は?)

”ビュゥウゥー!”


……二子山山頂の仮設基地に、時折強い風が吹く。


「…はい、コレどうぞ。」

マサルはその声に、思考を中断して振り向いた。

「…あ、すみません。」

彼の瞳に、湯気立つコーヒーを”なみなみ”と注いだ白いカップを差し出している、金髪の女性が映った。

それを受け取った白衣の男は、再び湖の対岸、第3新東京市の都市ブロックへ視線を戻して口を開いた。

「休む暇もなしですね。…お疲れ様です、赤木博士。」

「いいえ、土井一佐こそ。…あの、先ほどの話……本当に宜しいのですか?」

「ええ。このFX−1は、このままNERVに無償でお貸ししておきます。御自由にお使い下さい。」

「ありがとう御座います。…でも、どうしてそこまで協力的にして頂けるのでしょうか?」

リツコは、隣の頭一つほど背の高い男性の顔を見上げた。

(…どうして、か。)

男は少し考えるように視線を抜けるような青い空に向けてから、ゆっくりとリツコの方へ黒い瞳を動かした。

「…大した理由なんてありません。」

”ビュゥウッ!”

マサルが口を開いた時、一陣の風が吹いて彼の声を上空へと押し流してしまう。

「え?」

リツコは、よく聞こえない、と一歩…彼の方へ足を踏み出した。

「…ただ、好きな女性に死んで欲しくないから…ですよ。赤木リツコ博士に生きて欲しいからです。」

彼女の見たその男の瞳には、愛おしさと優しさが等しく混じり合って溢れていた。

「な…」

予想外の答えと間近に見てしまったその眼差しに、リツコの顔が”カァッ”と紅くなる。

マサルは真っ直ぐリツコの瞳を見詰めたまま、言葉を続けた。

「…この戦い、絶対に勝ち抜きましょう。私はNERVではなく、あなたに協力します。」

「あ、あの…」

珍しくも口を”パクパク”と動かして困惑している女性を見たマサルは、ニコッと笑ってコーヒーを飲んだ。

「ハハハッ…今、無理に答えて頂かなくてもいいんです。

 ただ、あなたの事を想っている男がここに一人いる、と知ってもらえれば。

 ……ははっちょっと、クサかったですね……さぁ! 仕事に戻りましょう。」

照れたようなマサルはそう言って、見詰め合っていた彼女の視線を外すように顔を横に動かすと、

 隣に立って固まっている白衣の女性を見る事なく、分解作業を行っている作業場の方へと歩いて行った。

頬を染めたままのリツコは、呆然とした様子で…歩いていく男の背を”ジッ”と見送っていた。



………特別審議室。



”ヴォゥン!”

『…今回のケース、我々のシナリオを逸脱しているな。』

暗闇の部屋…何もない空間に突如出現したのは、無骨な四角いモノリスに輝く赤い文字であった。

《SEELE 01》と読めるそのモノリスから、年を経た男性の重厚な声が響いた。

(…いくらシナリオと違う事象があったとはいえ、ゼーレ直々とはな。)


……机に肘をつき手を組むゲンドウを中心とするように、彼の周囲に次々とモノリスが浮かび立ち並ぶ。


『左様。…黒き月への使徒の侵入。これはいささか早過ぎる事態だよ。』

「…使徒の行動パターンについての情報は有りません。やむを得ぬ事象だと考えます。」

白い手袋のまま手を組んだ大男の落ち着いた声が、無限の広さを持つような暗闇の部屋に静かに響き渡る。

『…これで迎撃都市とジオフロントの竣工も、大分遅れるな。』

「はい、損壊したEVAの修理予算と都市整備予算について、御一考を頂きたいのですが。」

『大破したEVA零号機の修理は、今ある予算内で行いたまえ。』

『その通りだ。…まぁ、予定外だったジオフロントの整備予算については、致し方あるまい。

 アメリカ第1支部で行われる予算委員会に出席し適正な手続きを踏みたまえ。』

「…はい、判りました。」

返事をしたサングラスの男の正面に浮かぶ、モノリスナンバー01の重い声が闇の空間に木霊する。

『…碇、今回の使徒戦における初期戦闘時のデータ欠損。これは、どういう事だ?』

「…どう、とは?」

顔を少し下に俯けているゲンドウの表情は、一切読み取れない。

『使徒の初撃によるエヴァ初号機の損壊、その際のデータが…無い。』

『左様。エヴァに搭乗していたサードの各データ、エントリープラグの状態…それらのデータが全く無い。』

「その件に関しましては、現在、技術部で調査中ですが、恐らく使徒の攻撃による影響と推測しています。」

このゲンドウの答えに、ナンバー05から黄色人に対してあざけるような声が発せられたが、

 その声は野太いマシンボイスだった。

『ほぅ…MAGIオリジナルのデータも同様、と言うのかね?』

「…はい。」

変わらず手を組んでいる男の答えに、反対側のモノリスナンバー11が呆れたような声を出す。

『ふっ…発言に気を付けたまえ。碇、この場での偽証は死を意味する。まさか知らぬ訳ではあるまい?』

「はい、もちろん心得ています。」

ゲンドウは、周囲に浮かんでいるモノリスから疑わしいモノを見るような”ジットリ”とした視線を感じた。

『………まぁ、いい。使徒を殲滅させた事は事実だ。』


……01はそう言うと、議題を変えた。


『…さて、シナリオどおり弐号機はドイツを出航し…現在は、国連艦隊の護衛のもとインド洋を進んでいる。

 我々の計画の”生贄”となるべき専属パイロットと共にな。』

ゲンドウは、キールの言葉から死海文書の内容と、シンジが教えてくれた前史を思い出した。

(次の使徒は水中特化型…エサは国連艦隊と弐号機か。しかし”それだけ”で確実なのか………まさか?)

死海文書の記述、そのシナリオに拘る老人達の思考を理解しているサングラスの男は、

 自分の知る計画の一つが新たな局面を迎えた事に気付いた。

(アダム再生計画…コアに還元していた”アダムの魂”を人造使徒に宿す事に成功したのか?)


……ゲンドウの頭の回転は速い。


「……では?」

ある事に考えが至った髭の男は、思わず顔を上げてしまった。

『使徒襲来、そのスケジュールは死海文書を解読したとおり”定められた事象”だ。』

「…はい、承知しております。」

(…艦隊のどこかに使徒を呼び寄せる為の”アダム”があるかもしれないな。…フッ一計を講じてみるか。)

「ところで、”アダム計画”は順調なようですね。」

ゲンドウは再び顔を下に向けると、確信を得るために”カマ”を掛けてみた。

『ふん、流石に耳が早いな。そのとおりだ。アダム計画はついに第2段階へとそのステージを進めたのだ。』

モノリスナンバー04が、自分の成果を自慢するような喜色を含んだ声で答えた。

(…やはりそういう事か。前史同様…魂が抜けて不要になったアダムを第6使徒のエサとしたのだな。

 これは次の使徒戦の”ゴタゴタ”に乗じて、アダムの抜け殻…その”肉”を手に入れるチャンス…だな。)

ゲンドウは組んだ手の下で口の端を”ニヤッ”と上げた。

思わぬ方向へ流れた話題を断ち切るかのように、厳粛な声が正面のモノリス、01から闇の空間に轟く。

『審議会は、これまでだ。碇……次の使徒襲来は9日後となる。……我々を失望させるなよ。』

「…はい。全てはゼーレのシナリオどおりに。」

”ヴォゥン……”

その言葉が合図であったかのように、ゲンドウの言葉と共に12枚のモノリスは一斉に姿を消した。



………総司令官執務室。



「ユイ君、キミの住居なのだが…多少、不自由かも知れんが、

 しばらく、ジオフロントにある幹部用の官舎に住んで欲しいのだよ。いいかね?」

「はい、判りましたわ。」

提案をしたのは、黒いソファーに深く腰掛けた…ロマンスグレーの髪をオールバックに整えた初老の男性。

答えたのは、彼の対面に座っている…20代前半にも見えるダークブラウンの髪を揺らす白衣の美女。

「…少し、質問をしてもいいかね?」

「はい?」

「キミは、あの11年前の実験で…所謂、人ではない状態となり、エヴァのコアに取り込まれた。」

「……。」

ユイは神妙な顔持ちのまま、冬月を見ていた。

「過去に一度だけ、君を救出する為にナオコ君がサルベージという実験を行ったのだが、それは失敗した。」

「…そうなのですか。」

冬月はユイを見て問うた。

「コアの中、とは一体どういう状態…いや、”感じ”と言った方が良いかな。……どうなのかね?」

「どう、と説明するのは難しいですわね。…感覚としては、温かな液体にたゆたっている感じでしょうか。」

ユイは何かを思い出すかのように瞳を閉じて答えた。

「…ほう。再構築された君の身体が、まったく年を取っていないように見えるのは?」


……女性に対してかなり失礼な質問だったが、研究者の目をした冬月はそこまで気が回っていなかった。


「それは判りませんわ。でも、私の体感時間は……あの実験からまだ数日しか経っていない感覚ですから、

 それが原因かもしれませんわね。」

「まさか。時間の流れが違う、というのかね?」


”プシュ!”


冬月と会話をしていたユイが、何気に振り返って部屋の入口に黒い瞳を向けると、

 そこに白銀の少年と蒼銀の少女が立っていた。

「…あら? あなた……シンジ?…シンジなのね!?」

ソファーから勢い良く立ち上がった母親は嬉しそうな顔のまま、一直線に息子の許へ走った。

「おはよう。母さん、久しぶりだね。」

少年に声を掛けられた女性の顔は、感慨深げな満面の笑みだった。

「ええ。…ええ、そうね。…まぁまぁ。こんなに大きくなって。」

目尻に少し涙を溜めたユイは、軽く手で拭うと、息子の左に寄り添うように立っている少女に顔を向けた。

「あら、初めまして。…あなたがシンジの大事な人……レイちゃんね?」

母は優しい眼差しで少女を見たが、その瞳はまるで全ての情報を得ようとするかのように素早く動いていた。

「…はい。初めまして、碇ユイさん。」

”ペコッ”と上品に会釈した少女の蒼い髪が、柔らかな錦糸のようにさらりと動く。

(…あらまぁ、リリスちゃんに似ているけど、雰囲気は随分落ち着いちゃっているわねぇ。)

ユイは笑顔のまま、その裡で色々な事を考えていた。

彼女にそんな評価を頂いた蒼銀の少女は、実は…内心かなり緊張をしていた。

なにせ、彼氏の母親に会うのだ。女の子であれば緊張するな、と言うほうが無理だろう。

この執務室に向かう道すがら、愛する少年の母親に会うというこの事態に、

 頭の中をフル回転させて色々とシミュレートし、失礼のないようにこの初対面という場に臨んでいたのだ。

しかし、その努力の末、言葉少なく挨拶を返した少女は、固まったように動けなくなっていた。


……どうやら、考え過ぎてオーバーヒートしてしまったようだ。


マンガ的な表現を用いれば、正に頭から白い煙が”プシュー”と出ている状態だろう。

「ユイ君、久しぶりの親子の対面だ。…ソファーに座ってゆっくりとしたまえ。

 私に用があるなら電話してくれればいい。それでは失礼するよ。」

いつの間にかユイの後ろに立っていた冬月は、

 11年振りの親子の対面を邪魔するなどという、無粋なマネはすまい…と司令官執務室から出て行った。

「身体は平気? 母さん。」

「ええ、何とも無いわ。さ、ソファーに座っていて頂戴。…今、お茶を淹れるわ。」

(…ハッ!)

思考停止していた蒼銀の少女は、ユイの言葉に瞳を大きくして再起動する。

「…いえ。私が用意しますから。」

そう言ったレイは”すっ”と一歩前に出ると、ユイの先を制して”スタスタ”と歩き出した。

「ありがとう、綾波。…じゃ、母さんソファーに座って待っていようよ。」

シンジは母親の顔を見て、部屋の奥へと促した。



………大型輸送トレーラー、その車内。



(…土井マサル、一佐…か。)

リツコは、二子山からNERVへと移動する大型トレーラーの座席に腰掛けて、窓に頬杖をつきながら、

 外の景色を見るとなしに見て、先ほどの出来事を頭の中で繰り返していた。

(そう言えば、初めてね。…男の人に告白されたのって。)

夏空の下、芦ノ湖の青い湖面が太陽の強い日差しを反射して”キラキラ”と煌いている。

(…告白、恋愛…か。私の人生には縁の無かった…関係なかったもの。ふぅ…どうすれば良いのかしら?)

リツコは、マサルの屈託のない優しい笑顔を思い返すと、自然と頬が熱くなるのを感じた。

(…え!? やだ…これじゃ、まるでウブな女の子みたいじゃないの。

 ふぅ、どうしたらいいのかしら。…よく判らないわ。…だって、ロジックじゃないもの。)

「…センパイ?」

窓の外を見て、偶にかぶりを小さく振り、ため息をつく…そして薄っすらと頬を染めて、また窓の外を見る。

アンニュイなリツコは、これを無意識に繰り返していた。

「…あの、センパイ?」

マヤは何度も呼び掛けたが、部下の目標たる上司の反応は、悲しくなるくらい全く返ってこなかった。

”すぅ!”

黒い瞳に決意を宿したショートカットの女性が、肺に空気を目一杯ため込んで、一気に解放させる。

「あのぅ!!…センパイッ!!!」

「うひゃ!!!」


……マヤの突然の大声に驚いたリツコは、奇妙な声を上げ”ビクンッ”と身体を震わせて目を大きくした。


「え?…な、何? ま、マヤ?」

やっと現世に帰って来た、とショートカットの部下は安心したような表情でリツコを見詰めた。

「センパイ、お疲れですか? いくら呼んでも返事してくれないんで、心配しましたよ?」

「…ご、ゴメンなさい。ちょっと考え事をしていたの。…で、どうしたの? マヤ?」

「これを見て下さい。」

マヤは、手に持っていたノートパソコンの画面をリツコに向ける。

「センパイ、これってスゴイですよ! 

 先ほど渡された、土井一佐が開発したっていうI型加速器のデータを見ていたんですけれど。

 これを更に改良すれば、あの巨大砲を可搬型…いえ携帯型に出来るかもしれませんよ?」

「ぅ…そ、そうね。」

マヤの口から出た”土井”という単語を聞いた、金髪の上司は我知らずに耳を赤くして、どもってしまう。


……またもや、ウブな反応をしてしまったリツコ。


部下であるマヤは、上司の様子を見る事なく加速器の説明をしていたが、リツコの耳には届いていなかった。



………総司令官執務室。



”…カチャ”

「お待たせしました。…ユイさん、どうぞ。」

「ごめんなさいね。ありがとう、レイちゃん。」

目の前のテーブルに紅茶を用意してもらったユイは、シンジの横に座っていた。

横に座る、と言うより”ベッタリ”とくっ付いている。

それを横目で見たレイは、緊張している場合ではないと認識したのか、本能的にユイの反対側に座る。

「…あの、か、母さん?」

「なぁに?」

「どうしてコッチに座るのさ? …反対側が空いているんだから…」

背の高い白銀の少年は、隣に座っている母親を見下ろすように見た。

「いーじゃない、久しぶりの親子のスキンシップって感じで♪」


……久しぶりと言うが、彼女の感覚では1週間も経っていない。


ユイは、そう言った勢いのまま…シンジの右腕を取ると、自分の胸に絡めるように組んだ。

”むにゅ〜!”

少女のレイとは違う、成熟した女性の…腕を包み込むお餅のような柔らかい感触に、シンジの顔が紅くなる。

「な…え、ちょ…ちょっと!」

「なぁ〜にぃ?…しんちゃん?」

「か、母さん、下着…着けてないの!?」

「病衣だもん。そんなのないわよ?」

ユイは、イタズラっぽい瞳で慌てている息子を見上げた。

「ちょ、そ、そんなにくっ付かないでよ…って、この腕も!」

シンジは、頬を紅く染めたまま、必死に腕を振りほどこうと上下に動かしたり、左右に揺すってみたりした。

「ぁあん、しんちゃん、そんなに激しくしないで。…そんなに乱暴にしたら、母さん…痛いわよぅ〜」

少し困ったような顔で答えたユイの胸が、”ユサユサ”と揺れる。

「ぅあ、ご、ごめん…母さん。」

謝ったシンジは、最早どうする事も出来ず…目を落ち着きなく泳がせた。

レイは静かに彼の左腕に絡み付いた。

”むぎゅ!”

「あ、綾波?」


……両手に花、なのだろうか? まるで姉妹のような二人に腕を組まれた少年の時は、止まっていた。


”プシュ!”


「…む? ユイ、何をしているのだ?」

特別審議室から戻ったゲンドウが見たのは、仲良く一つのソファーに座っている三人だった。


……ゼロ距離であったが。


「あら、あなた。」

「と、父さん。」

「ユイ、久しぶりに息子に会えて嬉しいのは分かるが……シンジが困っているぞ?少し離れてあげなさい。」

”…ボスッ”

そう言ったゲンドウは、シンジ達の対面のソファーに疲れた身体を投げるように勢い良く下ろした。

「そう? そうなの?…シンジ?」

一瞬にして悲しげな表情になった母親は、息子の顔を覗き込むように自分の顔を近付ける。

「う、うん。…ちょ、ちょっとね。」

「…レイちゃんは良いのに?」

「あ、綾波は僕の大事な恋人だから。離れて欲しくないし…」

その言葉を聞いたレイは、ほんのりと頬を染めて、嬉しそうに白銀の少年に凭れ掛かった。

「…まぁ……ふぅん、そう。判ったわよぅ。」

ユイは少し寂しげに立ち上がると、ゲンドウの横に座り直して夫に抱き付いた。

(ムゥッ!!!)

愛する妻の柔らかな感触に、ゲンドウの鼓動が加速度的に早まる。

「ねぇ…あなたぁ…シンジがいじめるゥ。」

”どきどきどき”

一見すると、幼な妻に甘えられているような状態になってしまった不器用な夫。

「…ぅ、そ、そうなのか。」


……良く見ると、父親である男の耳は真っ赤だった。


ゲンドウは、それでも何とか威厳を保とうと、口を開いた。

「ユイ、何時までも病衣と白衣のまま、と言うワケにもいかんだろう。

 取り敢えず総務へ行って、技術部の制服を貰って着替えなさい。

 …シンジと綾波クンは少しココに残ってくれ。」

「あら、私…ここは不案内ですわよ?」

ユイは詰まらなそうに、少し口を尖らせた。

「…問題ない。今、職員を呼んで案内させる。」

冷静さを取り戻した総司令官は、ポケットの携帯電話に手を伸ばした。



………京都。



”コポ、コポコポ…”

女性が、煮立った湯の温度を下げる為に、手馴れた手付きで冷たい水を少し加えてから、茶を淹れる。

急須から適温で抽出された煎茶が、静かに湯呑みに注がれた。

”…コトッ”

「玄様、粗茶で御座いますが、御一服どうぞ。」

和服を着付けたメイドが恭しく湯呑みを置く。

「む。…すまんの。」

玄の深い黒色の眼は、一瞬湯呑みの方へ動いたが、直ぐに見ていたテレビに戻った。

その画面には、女性アナウンサーがニュースを伝えているところが放送されている。

『次のニュースです。…昨夜、日本の全域で停電が有りました。一体、日本に何があったのでしょうか?』

カメラが切り替わり、眼鏡を掛けた男性コメンテーターが答える。

『はい、政府及び国連主導で行われた日本全国停電と言う昨晩の騒ぎですが、

 これは最近、ウワサされる”第3新東京市”が絡む事件だったそうです。』

『…第3新東京市、ですか?』

女性アナウンサーが確認を取るように、男の言葉を繰り返す。

『そうなのです。

 …第3新東京市の超法規的措置で行われている戦闘行動によるものだ、と言う情報があるのです。』

『…昨晩の停電での被害、というのはあったのでしょうか?』

『そうですね……病院や、電気、ガス、水道、下水道などには非常用の電力が確保されていたお陰で、

 人々の生活を支えるライフラインに深刻な影響は無かったようですねぇ。

 今日の時点では…幸いな事に、民間人に影響は無かったようです。』

「ふん。当たり前じゃ。…シンジがどれほど苦労したと思っておるのじゃ。」

ニュースを見ていた老人は、孫がグループ企業に与えた仕事と、そのプランニングを思い出して呟いた。

シンジはこの停電騒ぎで、前史のようにヒトの生活に無理が掛からぬよう事前に準備をしていたのだ。

先ほどニュースに出た、人が必要とするライフラインや警察、消防等の施設には、

 グループ企業から採算度外視の格安で非常用電源設備を提供し、設置していた。

また、各地の発電設備についても過剰運用にならぬように、碇グループで保守、運用を担っていたのだ。

「シンジは、いつ来るかの…」


……座布団に座る老人の寂しそうな呟きが、静かに和室に消える。


「失礼します。」

秘書たる有馬の声が障子越しに聞こえた。

「…何じゃ?」

”スラッ”と障子が開くと男が主人の側にやって来る。

「玄様、当主様宛の郵便が今し方、届きました。」

「シンジへ…か。どこからじゃ?」

当主不在の際、その代行を務める玄は、部下に顔を向けて聞いた。

「はい、日本重化学工業共同体です。」

「…で?」

玄は詰まらなそうに、続きを促した。

「はい、対使徒用兵器の完成披露パーティの招待状で御座います。」

「…ほう。対使徒兵器とな?」

「はい。」

玄は封書を受け取ると、その中を読んだ。



………総司令官執務室。



”ピピ!”

「葛城です。」

インターフォンのボタンを押した赤いジャケットの女性は、厳しい表情だった。

(…うぅ…昨日の作戦…その結果…私、クビ?)

彼女は、使徒殲滅作戦において図らずとも途中降板してしまった昨日の経過を思い出して、ため息をついた。

「…入りたまえ。」

総司令官の声がスピーカーから聞こえると、金属製の分厚い扉が開いた。

”プシュ!”

ミサトは、地上の朝日が射し込んでいる総司令の執務室に足を進める。


……その部屋の中央には、先客がいた。


この明るい光が窓から入っている”暗い部屋”では、

 そのヒトの形は逆光の中で影になってしまい、一体誰なのか…確認する事は出来なかった。

しかし、緊張し入室した彼女に、そんな人影を気にする余裕はなかった。

ミサトは瞳を司令官の方へ真っ直ぐ向けたまま、部屋中央で足を止めて襟を正すように敬礼する。

”カッ”

「葛城ミサト二尉、出頭いたしました。」

「…ご苦労。」

ミサトの視線の先にある、大きな机に肘を付いている男が返答する。

「…では、これより辞令を交付する。」

敬礼を解いた女性は、自然と生唾を飲み込んだ。

”ゴクッ”

(やっぱ、私…クビなの?)

ゲンドウは机の上に用意した紙を手に取る。

「エヴァンゲリオン独立中隊…隊長、碇三佐。」

「ハッ。」

ミサトの左側に立っていた人影が一歩前に出て、敬礼する。

「…未確認巨大生物兵器の初殲滅、及び第2、第3の敵性体殲滅、作戦の主要成果を評価し、二佐とする。」

「ハッ。拝命いたします。」

「綾波一尉。」

「…ハッ。」

一歩前に出て、敬礼をした少女に司令官が言葉を続ける。

「対使徒兵器の各開発・研究の成果、及び先の使徒戦において本部防衛の成果を評価し、三佐とする。」

「…了解しました。」

「葛城ミサト二尉。」

自分の横で辞令を受けていた人物を”ボケッ”と見ていたミサトは、慌てて正面に顔を向け直す。

「…ぅ。ハッ!」

「先の作戦立案に一定の評価を下し、一尉とする。」

予想外の言葉に、ミサトは一瞬”ポカン”としてしまったが、取り消されぬように慌てて返事を返した。

「……ぇ…ハッ。」

総司令は、赤いジャケットを着た女性に視線を向けたまま、口を開いた。

「…葛城一尉。」

「ハッ。」

「これまで以上の精励を期待する。」

「了解しました。」

「…以上だ。下がりたまえ。」

「ハッ…失礼します。」

その言葉と共に、”クルッ”と身体を回したミサトは予想外の出来事に覚束ない様子で足を一歩出したが、

 徐々に喜びがこみ上げてきたのか、スキップをするように部屋を出て行った。


……退室する際の彼女の顔は、かなりニヤけていた。


”プシュ!”

シンジは、足取り軽く部屋を出て行った女性の背中を見ていた。

「…これで、良いのか? シンジ。」

その言葉に、少年は父親の顔を見た。

「…うん。まぁ、また直ぐに降格するかもしれないけどね。」

これは、なるべく前史のとおりの”道”を進むために施した処置だった。


……ミサトを生かさず殺さず、というのがシンジの考えであった。


そんな息子の言葉に、ゲンドウはゆっくりと頷きを返した。

「…そうか。シンジ、お前の思うとおりにすれば良い。」

”プシュ!”


……再び開いた扉を見ると、着替えを終えた母親が帰って来たようだ。


その装いは、柔らかいピンク色のシャツと短めの青いスカート…その上には、やはり白衣だった。

「NERVの購買部って、スゴイ品揃えねぇ。何でも売っていたわ。」

「あれ…母さん、技術部の制服を取りに行ったんじゃなかったの?」

白銀の少年が、歩き寄ってくるユイの姿を見て問うた。

シンジは、マヤのような茶色い制服姿を想像していたのだ。

「ええ、総務部の庶務係に行ってね、一応…貰ったのだけど。

 それを一応、合せてみたんだけどね……これはちょっと、私にはあまり似合わなそうねぇって言ったら、

 案内してくれた人がね、もし衣類が必要なら購買部がありますって教えてくれて。

 シャツとか必要そうな服を数着…そこで、見繕って買っちゃったの。 

 ですから、あなたのところに請求書がきますので、払っておいて下さいね? ゲンドウさん。」

ユイの朗らかな笑みを見たゲンドウは、一つ頷いて答えた。

「そうか。……では、シンジ、母さんを案内してあげなさい。」

「あ、うん、判ったよ。」

「ドコに連れて行ってくれるの?」

「ジオフロントの官舎…当面の母さんの住まいだよ。」

ユイは小首を傾げた。

「私の? ゲンドウさんは?…しんちゃんは?」

「僕は地上に家があるし、父さんは……そう言えば、父さんって、ドコに住んでいるの?」

シンジは机に肘つく父親を見た。

「ユイが良ければ、私も一緒に官舎に住もう。」

「いや、そうじゃなくってさ。……今、父さんはドコに寝泊りしているの?」

「…ここだ。」

「へ?」

息子は、真紅の瞳をパチクリとさせた。

「NERV本部には、風呂もある。…問題ない。」

少し気まずげな少年は、慌てたように頷くと、母に向き直った。

「そ、そっか。…そうだったんだ。じ、じゃ行こう。母さん、綾波。」

若干、驚いた顔の少年は、そのまま母親と少女を連れて部屋を出て行った。

”プシュ!”

ゲンドウは静かになった部屋で、イスを回転させて窓の外を見るとなしに見ていた。

(…何れ、ユイの事もゼーレにバレるだろう。その前にアダムを手に入れる。

 老人達のくだらん計画は阻止せねばな。)

”ピピピピ…ピピピピ…ピピピピ…”


……そんな時、机の上に用意されている電話機が鳴った。


”チャ”

『…お久しぶりです、総司令。』

「…キミか。何だ?」

電話から聞こえた声の主は、ぶっきらぼうな返事を聞いても特に気にする事なく、話を始めた。

『戦自研への潜入時に掴んだ情報…お話した”対使徒兵器”J.A.計画を裏で操っていた人物が判りました。

 …内務省長官の万田です。今から特殊回線でデータを送ります。』

”ピピ!”

ゲンドウの端末に新着メールを知らせる着信音が鳴る。

サングラスの男は、受話器を持ったままマウスを動かして特殊暗号化された添付ファイルを確認した。

その電子情報は、白髪雑じりの男の写真と複数の男達の音声であった。

ゲンドウは素早く内容を確認する。

(ふん。下らん男だな。…が捨てて置く事はできん。この男の計画はしっかりと潰させてもらう。)

画面を見ながら素早くシナリオを組み立て始めるサングラスの男。

その手に持っている受話器から、加持の声が再び聞こえた。

『…ああ、そうだ。ついでと言っては何ですが…もう一つ報告を。

 彼らが情報公開法をタテに迫っていた資料ですが、ダミーも混ぜてあしらっておきました。

 政府は裏で法的整備を進めていますが、近日中に頓挫の予定です。

 で、どうです? この計画の方も、こっちで手を打ちましょうか?』

「いや、キミの資料を見る限り…問題は無かろう。」

『宜しいのですか?』

「ああ。こんな下らん計画より…キミには、もっと重要な仕事がある。」

ゲンドウの言葉を聞いた加持は、いくぶん緊張した声色になる。

『…私にですか?』

「そうだ。…直ぐにセカンドの護衛任務に戻りたまえ。」

『は?……護衛、ですか?』

困惑気味の声がゲンドウの耳に届く。

「そうだ。」

『しかし…彼女は今、国連海軍の第一艦隊に護られていると思いましたが?』

「その国連軍艦隊に、人類補完計画のキーとなるアイテムが隠されている。それを探し出し手に入れろ。」

『あの計画のキーですか?…何です? それは?』

「原初のヒト…最初の人間だ。」

『え?』

「…アダムだよ。」

『アダム?』

「そうだ。キミの求める”真実”へと続く重要な道標となるモノだ。……期間は1週間。出来るか?」

『ふふっ。御期待に添って見せますよ。』

「成功しても、ゼーレでの君の立場が悪くなる可能性は高いぞ。」

『はははっ…御心配なさらずに。私は沈む船に乗ったつもりはありませんよ?』

自分の命の価値を軽く見ているのだろうか? この男の声には、緊張の度合いはなかった。

「…またキミに借りが出来たな。」

サングラスを掛けた男の声が、広大な部屋に小さく聞こえる。

『返すつもりも無いんでしょ?』

電話の相手は、意外な言葉に少しおどけた声で答えた。

「ふっ。」

受話器を持っているサングラスの男は、思わず鼻で笑ってしまった。

『…では、シナリオどおりに。』

加持の残した言葉を最後に通話は切れた。 



………官舎。



「あらあら、なんて立派なお部屋。…キレイで広いわねぇ。」

リビングと言うには、随分と広々した空間ねぇ、とここを見た女性が最初の感想を漏らした。

先に部屋に入った少年が、入口に立っている母親を見て口を開いた。

「必要なものは、大抵NERV本部で揃うから…って、母さんもう購買部に行ったんだから知っているか。」

「ねぇ、シンジ。」

ユイはゆっくりとリビングの先の窓際まで歩くと、振り返ってこの部屋の中ほどに立っている少年を見た。

「ん…何?」

「リリスちゃんは?」

「…え?」

「リリスちゃんに会わせて欲しいのよ。…ねぇ、いいでしょ?」

「? …ま、いいけど。」

シンジは、ポケットに入れていた紅い本を取り出してユイに手渡した。

白衣の女性は、手渡された本をやおら開いた。

『ユイかあさま、お久しぶりです。』

紅い革の本の左側のページにいる幼い女の子が、”ペコリ”と礼儀正しく挨拶をする。

「リリスちゃん、お久しぶりね。…元気にしていたかしら?」

『はい、変わらずです。』

蒼銀の幼女は、”ニコリ”と笑って答えた。

「リリスちゃん、そんなに畏まらなくても…自然が一番よ? …ね?」

『…う、そ、そうですか? …う〜ん、そう…そうかも、だね。えへへ。』

顔を紅くし小さく舌を出して照れているリリス。

そんな女の子を、ユイはまるで自分の娘を見るように、優しい瞳を紅い本に向けていた。

(…大人びて落ち着いているレイちゃんには無い、このキョドキョドとした処が可愛いのよねぇ。

 ……あぁん♪ やっぱり娘に欲しいわぁ♪)

幼女に向けていたその視線を、息子に向けた母親は11年前と同じ事を言った。

「リリスちゃん、やっぱり本から出ないとね。…シンジ、この娘をこの本から出して頂戴な?」


……ユイは、事も無げに息子に言った。


「…え?」

その言葉を聞いたシンジは、母親の唐突な提案に虚を衝かれた表情になった。

「あら、いやねぇ。もしかして、忘れちゃったの? ほら…母さんが実験前に言ったじゃない?

 リリスちゃんを本から出してって。大した問題はないのでしょ?」

『ユイかあさま…』

リリスも少し目を開いて驚いている。

「そうか、そうだったね。母さんをサルベージしたら考えるって言っていたんだものね…。」

『…マスター。』

PDAに居るドーラが思わず波動を出す。

「…分かった、リリスの意思に任せよう。

 …ドーラ、ユグドラシルが動かない…っていう事は特に影響ないって事なんじゃないかな?」

『マスターの御心のままに、です。』

「ありがとう。…綾波も良いよね?」

白銀の少年は、隣に立っている蒼銀の少女に確認するように聞いた。

「…碇君の好きにして良いと思うわ。だって、私はリリスでは…ないもの。」

レイは”スッ”と瞳を閉じて答えると、ゆっくり深紅の瞳を開いてシンジの顔を見て微笑んだ。

「そうだね…うん、判った。…母さん?」

白銀の少年は、愛しい少女を見ていた真紅の瞳を母親の手にある紅い本へと動かした。

「…何? しんちゃん。」

「彼女の望み…それを叶えてあげようと思う。…それで、良いね?」

ユイは息子の言葉に、”ニッコリ”と笑った。

「ええ♪…モチロンよ。」

「じゃ、リリス…少し時間をあげるから考えておいてね。」

『うん、りょ〜かい! やったぁ!!!』

紅い本から無邪気で元気な波動が返ってきた。

(出る気まんまんだね、こりゃ。)

そんな波動を感じたシンジは、”たらり”と少し汗をかいていた。



………車内。



(…原初のヒト、最初の人間。…人類補完計画、その鍵となるアダムか。)

加持はタバコを吸いながらハンドルを握っていた。

(いよいよって感じだ。……誰も知らない、重大な秘密の臭いがするな。)

彼は、ゲンドウからの指示を思い出しながら、国連空軍基地へと車を走らせている。

これからこの男は、NERV本部が手配してくれた戦闘機に乗り込み、

 インド洋沖を航海している国連海軍第一艦隊の旗艦、オーバー・ザ・レインボーへ向かう。

(…しかし、これは期限付きの任務。…1週間で手に入れろ、とは。何か意味があるのか?)

「ふぅーー」

深く吸い込んだ紫煙を吐き出した男は、アクセルペダルを踏む足に力を入れた。

”ブロロロ……”

そして、空軍基地へと走る白いセダンは、その速度を上げながら道の先へと消えて行った。



………NERV本部。



「あ、いたいた。」

コーヒーカップを口に運び、その香りを楽しんでいた静かな一時をぶち壊す声が聞こえる。

金髪の女性が”スッ”と瞳を動かすと、

 赤いジャケットを着た女性が、満面の笑顔でカフェラウンジに入ってくるのが見えた。

「やっほー。リツコ、おはよう。」

右手を”シュタッ”と垂直に挙げて、歳に合わぬ気軽な挨拶をしたのは、葛城ミサトだった。

「ご機嫌ね、ミサト。」

リツコは”ゴクッ”と一口コーヒーを飲んで、友人の様子を窺うように見ながら返事をした。

「へへ〜ん。まぁねん♪」

ミサトはそう言いながら、友人と同じカウンターの脚の高いイスに腰掛けながらメニューを手にした。

「えーとね、コーヒーをアメリカンで。あと、このハムサンド。よろしくねん♪」

「あら?珍しい事もあるのね。ビールじゃないの?」

勝手に隣に相席したミサトのオーダーを聞いていたリツコが、思わず彼女の方を見て、聞いた。

「あのねぇ。…せっかく、元の一尉に戻ったのよ?…戻ったばっかりでまた降格なんて冗談じゃないわ。」

失礼な質問ね、とミサトはリツコを軽く睨みながら答えた。

「一尉? あなた、一尉に戻ったの?」

赤いジャケットの女性を見るリツコの瞳が、彼女に言葉に少し大きくなった。

「そうよ。さっき、碇司令から辞令を交付してもらったわ。」

「私はてっきり左遷かと思っていたけれど。」

「実は…私もクビになるんじゃないかって、正直…思っていたんだけど。」


……タハハ、と自分の頬を”ポリポリ”とかくミサト。


「そう。…まぁ、使徒を殲滅させた昨日の作戦については、基本的にあなたが考えたモノだった。

 そういう処が総司令に評価された…と、理解すればいいのかしら?」

「ま、そうだといいんだけどねぇ。

 実際、司令の考えは良く判らないけれど、首の皮一枚っていう状況なのは変わっていないと思うわぁ。」

「それは間違いないと思うわ。…無様な作戦でも提示すれば、直ぐにクビになるでしょうね。」

「むぐっ……リツコぅ〜」

ハムサンドを口に頬張ったミサトの………とても情けない声がラウンジに響いた。



………国連空軍基地。



「では、行って来る。冬月、留守を頼む。」

「…ああ、判った。…おまえは、しっかり予算を取って来い。」

「ふん、判っているさ。」

VTOL機で第3新東京市から来た二人の男の目の前に、通常の旅客機より小型の飛行機が用意されている。


……この機体は、SSTO…所謂、成層圏を飛行できる特殊な航空機だった。


「お待たせいたしました。最終調整、及び離陸手続き等の準備完了です! 碇総司令閣下。」

「…ご苦労。」

サングラスの男はその眼鏡を右手で掛け直すと、兵士に案内される先へと歩いて行った。

”バシュン”

SSTOの搭乗口が閉まったのを見やった初老の男は、乗って来たVTOL機へと歩き始める。

(…さて、第3へ帰るか。)

ゲンドウの乗った飛行機は滑走路へと動き出した。

「…よし、出してくれたまえ。」

VIP用に改修された座席に腰を掛けた副司令官に、待機していたNERVのパイロットが敬礼して答える。

「ハッ。」

冬月の座ったシートの窓から、暗闇の滑走路をロケットエンジンで加速し、

 離陸した瞬間、4基のスクラムジェットエンジンを起動させてアメリカへ向かう機体が見えた。

(…予算委員会。どんな時代になっても、ヒトが生きて行くためには、カネか。)

冬月は、第3新東京市へ向かう暗闇の空を見ながら少し遠い目になった。



………翌日、市立第壱中学校。



生徒達が昼食を摂り終わり、それぞれがふざけて遊んだりお喋りしたりしている。

そんな騒がしい2−Aの教室に、特徴的な2人の生徒が入って来た。

「おっ、お早うさん、センセ。今日はえらい重役出勤やのぅ。」

黒いジャージを着た少年が、白銀の少年に明るい声を掛ける。

「やぁ、おはよう、トウジ。今日は朝からNERVに行っていたんだ。」

席に着いてカバンを置く少年の机に、メガネの少年が挨拶をしながら歩き寄ってきた。

「よっ! おはよう、碇。なぁなぁ、今日の午後って進路相談だろう? 碇の処ってさ、誰が来るんだ?」

「僕? …僕と綾波は進路相談はいらないと思うけれど。」

「へ…なんでや?」

ケンスケに倣って歩いてきたトウジが、不思議そうに首を捻った。

「だって、僕たち…もう働いているからね。」

「あぁ。NERVやな、センセ。」

トウジは、そうかそうか…と”ポンッ”と手を打って納得したように大きく頷いた。

その様子を見ながら、シンジは少し苦笑したような表情で言葉を続けた。

「NERVって言うより、国連に所属する国際公務員って感じだよ。」

「へぇ…どういう事だよ? 碇?」

ケンスケは後ろ頭に手を組んで、背の高い少年の顔を見上げた。

「NERVも国連の一組織だってことさ。」

”キーンコーンカーンコーン”

シンジの声に午後を告げるチャイムの音が続いた。


……そして、この教室を受け持つ担任の老教師から、進路相談の説明が始まる。


「ええ、それでは事前に配布したとおり、1時半から面談を行います。順番は出席番号順になりますので、

 教室の机を下げ、面談の準備を終えましたら、皆さんは廊下で待っていてください。」


……徐々に生徒達が廊下に溢れだして、更に暫くすると指定された時間通り、父兄がちらほら現れる。


2−Aの父兄は全て父親か、母親…どちらかの片親であった。

これは前史同様NERVによって集められたチルドレン候補としての処置だった。

シンジはどこか遠い目をして、親と他愛もない会話をしている同級生達を眺めていた。

(ゼーレに疑いを持たれないように、彼らの指示通りチルドレン候補を集めたって父さんは言っていたけど。

 …今回は、この中から新たにチルドレンが選ばれるって事はないようにしないとね。……それに、)

シンジは”ボンヤリ”と思慮の世界に入っていた。

だから、周りの生徒達(特に男子)が突然、ザワついたのに気付かなかった。

(ゼーレ…彼らを潰すタイミングは何時がいいんだろう?…カヲル君がこっちに来てから? う〜ん。)

シンジの横に居るレイが、廊下を歩いてきた人物を見て、その驚きを表すように紅い瞳を少し大きくした。

「あら? シンジ、なに難しい顔しているの?」

大人の女性の涼やかな声を聞いたシンジは、”ハッ”と意識を戻したように、真紅の瞳を声の方へ動かした。

「…ふぇ?」

白銀の少年の思考を中断させた女性の声、その声の持ち主は今日の青空と同じくらい透き通った笑顔だった。

「…ユイさん。」

蒼銀の少女の呟くような小さな声が、いつの間にか水を打ったように静かになっていた廊下に聞こえた。

「い、碇。この美人は誰だよ?…オマエのお姉さんか? それとも親戚か?」

出席番号の近かったケンスケが、思わずシンジの袖を引っ張って質問をした。

しかし、その少年はココに居るはずのない女性を見たまま動かず、その顔はア然とした様子だった。

そして、残念ながら先程のメガネの少年の質問は、白銀の少年には届いていなかったようだ。

静寂に包まれた廊下に数瞬の時間が流れると、”ぽかん”とした表情のシンジの口が動いた。

「か、母さん?」

「「「「「かあさん!?」」」」」

廊下の人々が思わず口に出すほど、この女性は若々しい。


……そんな周りの様子にも一切動じないユイはマイペース、というより実はかなり大物なのかもしれない。


「もう! しんちゃんったら、こんな大事なイベント…教えてくれないんだもの。

 りっちゃんが教えてくれてよかったわぁ。」

”ニコニコ”と笑う彼女をよく見ると、その後ろにまるでユイの保護者のような表情をしたリツコもいた。

「り、リツコ姉さんも?」

「ゴメンなさいね、シンジ君。お母様を止めたんだけど、どうしてもって。

 でも、シンジ君のお母様って…なんて言うか、その、とても行動的なのね。」

少し疲労感のある姉を見たシンジは、”ふらっ”と一歩前に踏み出して、改めて二人を見た。

金髪の女性は、流石に白衣を羽織ってはいない。この母に言われたのか、何故か確りとスーツを着ている。

「え…いや、リツコ姉さんまで、どうして?」

「え? ああ、…私は、レイちゃんの保護者として来たのよ。」

その言葉に、蒼銀の少女は驚いたように、リツコの顔を見た。

「…リツコお姉さん。」

「私が保護者でも…いいかしら? レイちゃん?」

青いスーツを着た金髪の女性は、

 白銀の少年の隣に寄り添うように立っている蒼銀の美少女に向けて”ニコリ”と微笑んで言った。

「…はい。お願いします。」

一見、無表情に見える彼女だったが、シンジから見ればかなり嬉しそうな波動が見て取れた。

(まぁ、綾波が喜んでいるなら、それはそれでいいか。…う〜ん、でも母さんには困ったもんだねぇ。)

シンジは肩の力を抜くと、一息深く息を吐いた。

「ね、ねぇ、碇君?」

その声に振り返ると、お下げの委員長がいた。

「どうしたの? 洞木さん。」

「あの…そちらのカタって、本当に碇君のお母様なの?」

うんうん、この娘の質問はもっともだ。…と、この廊下に居た生徒、父兄を含めた全員がそろって頷く。

なにせ、少年が”姉”と呼んだ金髪の女性よりも大分、歳若く見えるのだ。


……彼女は、一体いくつでこの子供を産んだのか?


「え?」

その質問に、意外そうな顔をしたシンジを見たヒカリは慌てて、かぶりを振った。

「あ、ご、ゴメンなさい、突然失礼な事聞いちゃって…でも。その、随分若いみたいだし、とても、その。」

「あらあら、嬉しい事を言ってくれるわね♪ そんな事を言ってくれて、ありがとう。……えと?」

「あ、すみません。…洞木ヒカリです。」

名を名乗るのが遅くなった、と顔を紅くした少女が”ペコリ”とお辞儀をした。

「初めまして、洞木さん。シンジの母、ユイです。…シンジとレイちゃんがお世話になっているわね。」

「え、あ、いえ! そんな、こちらこそ。」

そんな遣り取りが行われている廊下に、老教師の声が聞こえる。

「…お待たせしました。相田君、どうぞ。」

「…え、あ! はい。」

少し慌てた様子で、ケンスケは父親と共に教室に入っていった。

色々な意味で目立つ少年を見ていた生徒達は、やっと始まった面談に自分達の親と様々な話を始めた。


……ようやく、普段の休み時間のような喧噪を取り戻す廊下。


やっと周りの注目から解放された少年は、母親を少し咎めるような目で見る。

「まったく、母さん?」

「? 何、しんちゃん。」

「何じゃないよ。…ダメじゃないか、ジオフロントから出ちゃ。監視の目だってあるんだから…」

更に続くであろう、少年の言葉はその相手である女性の声で遮られた。

「大丈夫よ、何があっても…どんなことがあってもね。」

「何でさ?」

シンジは少し眉根を寄せて母に尋ねた。

「だって、しんちゃんは神様だもの。私が何をしても…カバーできるでしょ?」

全幅の信頼を表すような笑顔。その表情に、一点の曇りもない。

(だから、なの? サルベージした母さんが天真爛漫に見えるのは?)


……そんな顔を見たシンジは、何となく彼女の言いたい事を理解してしまい、

 彼女を注意していた厳しめの口調が尻つぼみに小さくなっていく。


「う…そ、そりゃ、ドーラとかには、常時ゼーレのスパイ達の動向をチェックさせているし。

 最悪、ユグドラシルが動かなきゃね……う〜ん。でも、やっぱり、危ないと思うし……だから……」

ユイは”ブツブツ”と一人ごちる少年に”スッ”と近付くと…ごく自然な振る舞いで彼を優しく抱いた。

”きゅ…”

「う! うわっ! なにすんのさっ!」

ここは衆人環視の廊下である。歳若い見目麗しい女性が、人目を引く背の高い美少年に抱きつく。

シンジの大きな声で、廊下に居る全員の視線が固定されるのは、いたし方のない事だろう。


……まぁ…見るな、と言うほうが無理だ。


慌てて離れた少年を見たユイは、変わらぬ笑顔だった。

「あん、しんちゃんたら、照れちゃって。可愛いわねぇ…うふふ♪」

「な、なにがしたいんだよ? 母さん。」

ユイは、疲れたような表情の少年の耳元に口を近づけると、周りに聞こえぬような小さな声で囁いた。

「だって、夢だったんですもの。…シンジの母親として、こういう所にくるの。

 母親として何も出来なかった、今までの分をこれから取り戻すの♪」

既に彼女の頭には、”人類の生きた証”とかエヴァと”永遠に生きる”というような望みは一切なかった。


……だって、目の前に神様がいるんだから。


「綾波さん、どうぞ。」

そんな遣り取りも関係なく、今日のイベント…進路相談は進行していく。

老教師の声を聞いたリツコが、シンジの横に居る少女に声を掛ける。

「さ、呼ばれたわよ? レイちゃん、行きましょう?」

「………はい、リツコお姉さん。」

レイは既にユイの事をシンジの母親、という目では見ていない。

ちょっと年上の女性が、愛する少年に”ちょっかい”を出しているようにしか見えない。

何となく不安というか心配になっていた少女は、実は先ほどから少年の袖を摘んで一度も離していなかった。

「あ、綾波?」

シンジが見た少女の深紅の瞳は少し潤んでおり、何とも言えない心配そうな色と波動が見える。

『どうしたの、綾波?』

シンジは少女を気遣うように、彼女の蒼く輝く髪を優しく梳いた。

『…何でもないの。』

『ほら、リツコ姉さんも心配しているよ?』

『…うん。』

温かな少年の波動に包まれて、ゆっくりと頷くレイ。


……その頃、老教師は、教室で次に面談する生徒のファイルを見ていた。


次の生徒とその次の生徒は特殊で特別だ。……表出す事はないが、この二人の生徒は国連の最重要人物だ。

”コンコン…カラ”

「失礼します。」

落ち着いた女性の声に、老教師は入口のドアへ顔を向けて答えた。

「はい、どうぞ。」

生徒と保護者が席に着くと、老教師は手元のファイルを見ながら口を開く。

「さて、綾波さん、あなたの成績は非常に優秀です。…これならどこの高校でも進学できるでしょう。

 綾波さんは進学を希望しますか? それとも何か他の希望がありますか?」

リツコは、その質問の答えを考えているような少女の顔を見て声を掛けた。

「レイちゃん、何か…希望はないの?」


……しばらく俯けていた顔を”スッ”と上げて、蒼銀の少女がやおら口を開いた。


「碇君と、一緒です。…碇君が高等学校へ進学するなら、私もします。私は碇君と同じ道を歩みます。」

「………。」

生徒の返答を聞いた老教師は、彼女の顔を暫く”ジッ”と見ていた。


……進路相談会の面談でこんな事を言われたのは、彼の教師人生で初めての事だった。


「…そう、ですか。碇シンジ君と同じ進路…という事で良いのですか?」

「…はい。」

少し嬉しそうな表情の少女に老教師は、ふとした疑問を口にした。

「もし、彼が男子校へ進学する…という希望を持っていたら、どうするのですか?」


……まぁ。ちょっと意地悪な質問ね、と保護者たるリツコは教師の言葉を聞きながら思った。


「碇君は、そんな事考えない。」

レイは無表情に即答を返した。

「…そうですか。他に何か…相談したい事、言いたい事はありますか?」

「ありません。」

「そうですか。…保護者の赤木さん、何か学校に聞きたい事などありますか?」

「いえ、特にはありませんが、国連に属する2人の生徒の扱いは、くれぐれも宜しくお願いしますわ。」

「ええ、それはモチロン分かっとります。…では、今日の面談はこれで終了です。お疲れ様でした。」

教室を出て行った2人の後、教師は今の生徒の進路希望をどう書くか…暫く逡巡してしまった。


……ま、次の生徒の希望を聞いてから書こう…と決めた老教師は、廊下で待機している生徒を呼んだ。


「碇君、お入りなさい。」

目の前に、先ほどの金髪の女性よりも若い女性と神秘的な色合いの少年が席に着いた。

老教師は、女性に尋ねた。

「ええ、と。…碇ユイさん、ですか?」

「はい、先生。シンジがお世話になっております。」

女性は、美しいダークブラウンの髪を揺らして上品に会釈を返した。

「いえいえ。…碇君のお姉さんですか?」

「…あの、先生、一応…母です。」

苦笑いした少年の言葉に、教師の一本の線のように細い目が少しだけ見開いた。

「ぁあ…そうですか。随分、お若いと思いまして。これは大変、失礼しました。」

「あら、お上手ですわ、先生。…ありがとう御座います。」

ユイは”ニコニコ”と上機嫌である。

「さて、改めて面談を始めましょう。碇君の成績は学年トップですね。非常に優秀です。

 これならば、どこの高校へも進学は難しくないでしょう。」

「あら、まぁ♪ スゴイじゃない、シンジ。」

愛する息子が手放しに褒められて、母親は瞳を輝かせた。

「…さて、碇君の進路希望は、進学ですか? それとも他に希望がありますか?」

老教師の質問に、少年は少し逡巡するような表情になった。

「う〜ん…先生、僕は中学校を卒業したら、そのまま就職します。」

「就職…ですか。ああ、そう言えば、碇君は既に大学を卒業していましたねぇ。

 では、綾波さんも就職、という事になるのでしょうか。」

「へ?」

「綾波さんは、碇君、キミと同じ道を歩む…と言っていたのですよ。」

「……そうですか。」

シンジは嬉しさも感じたが、なんとも言えない表情になった。

「そう言う事でしたら、彼女と少し相談します。先生、後日僕達の進路は報告しますので。」

「…判りました。君達なら進学にしろ、就職にしろ…何の心配も入らない、と私は思っていますよ。」

「ありがとうございます、先生。」

「さて、お母さん。…学校に何か言いたい事、聞きたい事はありますか?」

「いいえ、特にありませんわ。…先生、これからもシンジをお願いします。」

「ええ、判りました。では、面談はこれで終了です。…お疲れ様でした。」



………海上。



復座の戦闘機が、最高速度を維持したまま闇の空を飛んでいる。

国連空軍機である、F−15E戦闘機を駆るイーグルドライバーは無線機のスイッチを無造作に入れた。

「”ザッ!”こちらジュピター1。着艦許可を求む。…特命の宅急便だ。大き目の荷物を届けに来たぞ。」

ヘルメットの中のスピーカーから、通信士の声が返ってくる。

『こちら、OTR管制。…ジュピター1のコードを受理。確認完了。着艦を許可する。お疲れさん!』

”シュゴォォゥゥゥ!!”

切り裂くように、雲の層を突き抜けて速度と高度を下げた戦闘機の先に、

 月明かりが反射する黒い水面を第一艦隊の精鋭を従えて突き進む、巨大空母が見えてくる。


……その漆黒の海にライティングされた滑走路が突如として浮かび上がった。
 

”キィィィイインン!!……キュッ! キュッ!!”

ジェットエンジンの轟音が一際大きくなると、大型の戦闘機の姿が視認出来る。

そして、ランディングギアの車輪が滑走路に接地した瞬間、そのタイヤが白い煙と悲鳴を上げる。

次の瞬間、機体後部のアレスティングフックに飛行甲板のワイヤーが掛かると、

 叩きつけられるような衝撃を伴って戦闘機は急停止する。

その急制動の力で、後部座席のシートベルトが容赦なく身体に食い込んだ。

(ぐうぅっ!)


……着艦失敗時に備えて戦闘機のジェットエンジンは全開である。


後の座席に座っていた男は、その強烈な衝撃に少し顔をしかめてしまった。

『大丈夫かい、ミスター加持?』

ヘルメットの無線機から、彼を日本の基地からインド洋まで休みなしで連れてきてくれた、

 黒人パイロットのからかうような声が聞こえた。

「んん?…ああ、大丈夫さ。…やっと着いたな。…日本からこんな遠いところまで、ご苦労さん。」

『ハハッ…こんなフライト、オレにとっちゃいつもの事。もう慣れっこさ。』

駐機スペースに誘導された戦闘機のエンジンが停止すると、コックピットのキャノピーがゆっくり上に動く。

操縦席の窮屈な空間からやっと開放された、と肩の力を抜いた加持が、

 暗闇のインド洋を見ながら深く息を吸うと、その大海の香りが男の鼻を突いた。

そして、OTRのクルーが昇降用の梯子を掛けると、大きな作業用のグローブが加持の目の前に現れた。

「ようこそ! オーバー・ザ・レインボーへ! 加持一尉。歓迎しますよ!」

「ああ、ありがとう。…任務ご苦労さん。」

加持リョウジは、その大きな手を”がっちり”と握手してニヒルな笑みを浮かべて応えた。



………NERV。



『初号機、冷却値をクリア。作業はセカンドステージに移行してください。』

エントリープラグにオペレーターである伊吹マヤの声が聞こえる。

(…結局、綾波とこれからの進路の事なんて相談できなかったな。)

レイは、進路相談を終えた後、

 リツコと共にNERV本部のケージに搬送された零号機の損壊状態を確認していた。

彼女は、頑なに少年を待つと言ったが、姉に説得されて”渋々”NERVへ向かったのだ。


……なので、シンジは母と2人で中学校からNERVに戻ったのだ。


『…シンジ君、お疲れ様。今日はもう上がっていいわよ。』

プラグに聞こえたリツコの声に、少年がLCLに浮かぶサブモニターに目をやった。

「…あ、零号機の調査、終わったんですか?」

《SOUND ONLY》と表示された四角い枠から姉の声が聞こえる。

『ええ、たった今ね。これからレイちゃんと戻る準備をするから、シンジ君は着替えて頂戴。

 彼女、一刻も早くあなたに逢いたいと頑張っていたから、寄り道せずにリフターまで来てね?』

「はい、了解です。」



〜 大型リフター 〜



更衣室での着替えを終えたシンジは、

 地下に搬送した零号機の調査を終えたレイ達を運んで来た、大型の貨物用リフターに乗り込んだ。

ジオフロントに向かうリフターの端に立っていた少女が、少年を見付けると嬉しそうな表情で走ってくる。

”…ボフッ”

「…お疲れ様、碇君。」

走る勢いのまま抱きつかれた少年は、彼女の背にゆるりと腕を回して優しく包んだ。

”きゅ”

「綾波も、お疲れ様。」

「…ん。」

レイはシンジの胸に顔を埋めて、心地良さげに小さく喉を鳴らした。

「零号機はどうだったんですか?」

ご機嫌な様子の少女の表情を見たリツコは”フッ”と微笑んで、手に持っているファイルを見て答えた。

「…調査の結果、零号機の胸部生体部品、特殊装甲の約70%が使い物にならないわ、シンジ君。」

マヤが上司の説明に補足を加える。

「大破ですからね。新作しますが、追加予算の枠ギリギリですよ。」

リツコは少しため息をついた。

「ふぅ。…これで、ドイツから弐号機が届けば、少し楽になるのかしら…」

薄暗い照明の中、眼鏡を掛けた男性が口を開く。

「逆かもしれませんよ? ジオフロントでやっている使徒の処理もタダじゃないんでしょ?」

その部下の声にミサトが詰まらなそうな声を上げた。

「ほ〜んと、お金に関してはセコイところねぇ。人類の命運をかけてるんでしょ、ここ?」

リツコは、ファイルを閉じて友人を諭した。

「仕方ないわよ。ヒトはEVAのみで生きるにあらず。

 生き残った人達が生きていくには、お金が掛かるのよ。」

「予算、ね。…じゃ、司令はまた会議なの?」

「ええ。今は機上の人よ。」

「司令が留守だと、ここも静かで良いですね。」

その女性の言葉に、EVA中隊の隊長が頭を下げた。

「すみません、マヤさん。」

マヤは自分の失言に気付き、慌てた様子で口に手を当てて謝罪した。

「あっ! ご、ゴメンなさい、シンジ君。そう言うつもりじゃないの!」

「ええ、判っていますよ。」

白銀の少年は、ニコッと笑っていた。

「マヤ、アナタって無意識に毒を吐くときがあるわね。」

リツコの冷静な言葉がこの空間に聞こえる。

「ぁぅ。本当にスミマセン。」

ショートカットのオペレーターは、気まずそうに小柄な身体をより小さくしていた。



………OTR。



オーバー・ザ・レインボーの艦橋、凛とした空気が支配するこのブリッジに、

 水兵に先導されて一人の男が入ってきた。

「失礼します。加持一尉をお連れしました。」

「うむ、下がってよし。」

「ハッ。失礼します。」

敬礼した水兵が退室すると、髪を後ろで一本に纏めた男が海軍式の敬礼をした。

「特務機関NERVドイツ第3支部、特殊監査部所属、加持リョウジ一尉であります。

 セカンドチルドレン、惣流・アスカ・ラングレー嬢の護衛任務の為、

 国連海軍第一艦隊、旗艦オーバー・ザ・レインボーへの乗艦許可をお願いします。」

男が差し出した命令書を受け取って見た、リッジの目が訝しげなものになる。

「ふぅん。…キミが彼女の護衛官かね?…まぁいい、乗艦を許可しよう。

 加持一尉。君には護衛対象であるお嬢さんの隣の士官室を貸そう。」

「ハッ、ありがとう御座います。」

リッジは再び、命令書が綴じてあるバインダーに目をやった。

(ッ!!なにぃ? 我が艦隊内での行動の自由を与えよ、だと? くぅ〜何様のつもりだ!!)

叩き上げの軍人であるチェスター・リッジ少将の額に、見事な青筋が現れる。

「…ふん! 艦隊運営、艦隊兵員の作業の邪魔にならない範囲での行動の自由を許可する。

 …が、まぁ…問題を起こさんように日本に着くまで大人しくしていたまえ。いいな?」

「ハッ…了解しました。では、お言葉の通り、適当に部屋に戻りますので。」

加持はリッジの不機嫌そうな雰囲気を察して、さっさとブリッジを後にした。



………その夜。



「…ふぅ。」

マスターベッドルームのソファーに座った少年が、身体を投げ出して少し深い息をついた。

『マスター、いかがなさいました?』

彼の体調を気遣う優しい波動が、机の上に置かれたPDAから発せられる。

「J.A.…もう直ぐ完成披露パーティだね。」

『…マスター。』

「さっき、ドーラに取り次いでもらった電話、おじいちゃんからでね。

 京都の屋敷に当主宛の招待状が届いたってさ。」


……現在、リリスは余り使われることのないレイの部屋で、自分が本から出た時に着る服を選んでいる。


広々としたリビングのような空間に、少年の独り言のような会話が続く。

「…おじいちゃんはそれに出席するか、判らないって言ったけど。

 …でさ、やっぱり父さんは動いているんだよね?」

『はい。…諜報部、及び一部の技術系職員に対して、前史同様の指示を出しております。』

シンジは、白いソファーに沈めていた上体を起こしてPDAを手に取った。

「起動後、リアクターの暴走。…メルトダウン寸前の状態で緊急停止?」

主人の真紅の瞳に見詰められたキャラメルカラーの髪の女性は、少しだけ頬を紅くして答えた。

『は、はい。その通りのようで御座います。』

「う〜ん、ねぇ…ドーラ、あれってさ、何か野蛮な方法だと思わない?」

『…野蛮、ですか?』

「だってさ、もし何かしらの外乱があったら、原子炉がどうなっていたか…分からないじゃないか?」

『…確かに、マスターのご指摘どおり、そうかもしれません。』

「ねぇ、JAの招待状、見せてもらえる?」

『はい、ただ今。』


……PDAの画面に、《J.A.の完成披露会の開催と実演の御案内》と記された文書が表示される。


「ねぇ、この文書ではさ、J.A.って何を目的に開発されたのか記載されていないよね?」

『それは、使徒に関する情報を公文書として発表出来ないから、ではないでしょうか?』

確かに、招待状には一言も対使徒用兵器とか、陸戦兵器とは記載されていない。

「…だよね、使徒に関する情報は、国連が厳しく報道管制を敷いているものね。

 …その為にNERVも非公開なワケだし。」

『はい、マスターの仰りのとおりで御座います。』

「よし、便利な重機として…J.A.を整備部にプレゼントしよう。」

シンジは余り深く考えていないが、

 いつも使徒戦の後処理に苦労している整備部のためにJ.A.を徴発しようと、思いついたようだ。

『マスター?』

「ドーラ、手伝ってくれる?」

『モチロンで御座います。』

「じゃ…ドーラ、リツコ姉さんと、父さんにメールをお願い。僕と綾波もその披露会に行くって。」

『はい、畏まりました。』


”カチャ!”


「お待たせ、碇君。」

PDAを机に置いた少年が振り返ると、蒼銀の少女の手を離れた紅い本が飛んでくる。

『お待たせ、お兄ちゃん。』

シンジは飛んできた本を受け取って、適当なページを開く。

「洋服は決まったかい?」

その質問に、左側のページにいる蒼銀の幼女が嬉しそうに、羊皮紙に近付いて答えた。

『うん、決めたよ♪…へへ、取り敢えず、一着だけだけどね。』

「え? それだけでいいの?」

意外だな、と感じている白銀の少年の横に、”ピタッ”とくっ付くように蒼銀の少女が腰掛ける。

『後は、お兄ちゃんと一緒にお出掛けして買い物するの♪』

紅い本の幼女は、顔をトマトのように赤くして手を所在無さげにモジモジさせていた。

「あぁ、なるほど。…そっか。判った。じゃ、暇を見つけてみんなで行こう。」

『え、みんな、で…』


……なるほどじゃないわよ……全然、判ってないじゃない。


リリスは、そうじゃないでしょ、私は2人きりがいい…と嘆願するような瞳でシンジを見た。

しかし、当のシンジは、そんな幼女を見ずに隣に座った蒼銀の少女に声をかけていた。

「綾波、今度さ、時間を作ってリリスの洋服を買いに行こう。もちろん、綾波のもね。…いい?」

「ええ、構わないわ。」

「リリス、それで良いよね?」

『う、ぅん。』

ちょっと釈然としないが、実体化すれば今まで以上に主人に甘えられるだろう、とリリスは気を持ち直した。

「じゃ、リリス。明日学校が終わったら、ドグマに行こう。」

『は〜い♪』



………SSTO、UN797。



漆黒の空間。

一人の男が、超高高度を移動する特殊航空機の窓際のシートに座っている。

そのサングラスの男は、腕を組みながらこの客室内に設けられたモニターに映るニュースを見ていた。

”…シュィィイン”

電気的な音を出して開いたキャビンの扉から、背広の男がゆっくりと歩いて入ってくる。

「…失礼。便乗ついでに、ここ、宜しいですか?」

その男は、相手の返事を待つことなく、勝手にシートに腰を下ろした。

「サンプル回収の修正予算、あっさり通りましたね。」


……目の細いこの男は、アジア人のようだ。


「…委員会も自分が生き残ることを最優先に考えている。その為の金は惜しむまい。」

ゲンドウは、この男を見る事なく返事を返した。

「使徒はもう現れない、というのが彼らの論拠でしたからね。

 ああ、もう一つ朗報です。

 米国を除く全ての理事国が、EVA6号機の予算を承認しました。…ま、米国も時間の問題でしょう。」

男は、背広の内ポケットから茶色い小瓶を取り出して言葉を続けた。

「失業者アレルギーですしね、あの国。」

サングラスの男は、少し首を動かして窓の外を見た。

「キミの国は?」

「8号機から建造に参加します。第2次整備計画は、まだ生きていますから。

 …ただ、パイロットが見付かっていないという問題がありますが…」

「使徒は再び現れた。我々の道は彼らを倒すしかあるまい。」

窓の外に視線を向けていたゲンドウの眼下に、封地された南極が見えた。

「私も、セカンドインパクトの二の舞はゴメンですからね。」

目の細い男は、窓から見えた紅い地域を眺めて、ウイスキーの入った小瓶を揺らした。



………ターミナルドグマ。



オレンジ色の光が薄く照らす仄暗い空間。

「リリスは…何を願うの?」

蒼銀の少女が、そっと言葉を紡ぐ。

『…私?』

その問い掛けに、幼女は自分の心の裡を意識する。

「そう。…君は何を願うの?」

白銀の少年が優しく問う。

『おにいちゃん?』

空中に浮かぶ、紅い本…リリスは事実を述べる。

『私は、虚像なの。……本当の私は、あの紅い世界で消えてしまった。』

少年は優しい眼差しで、紅い本を見続ける。

「そう。…だから、今のキミは…僕の因果律に”ある”んだよ。」

少年の横に立っている、蒼銀の少女が再び問うた。

「…あなたの求めるものは、何?」

白銀の少年は、彼女の答えを導くように”そっ”と少女の言葉の後に声を続けた。

「…キミの求めるモノ……幸せって、何?」

「…私? 私の幸せ? それは、私がこの星に着てからずっと求めていたモノ。

 でも、お兄ちゃん、私は虚構なの。本当じゃないの。…それでも、求めて良いの? 欲しがって良いの?」

幼女は、自分は幻に等しい存在だと訴えた。そんな自分が、何を望むと言うのか? そんな資格はないと。

しかし、神たるシンジは宣言した。


……キミは幻なんかじゃないよ、と。


「リリス、キミの魂は精神と共に有る。……キミの望む世界は、どんな世界?」

その温かな少年の波動に導かれるように、紅い本は自然と口を動かすのだった。

「…あのね、家族が欲しいの。」

「あげよう。」



………第3分室。



”シューーーー…シューーーー…シューーーー…”


脳髄を思わせる太い配管には、相変わらず電荷されたLCLが満たされている。

”ガシュ!…ゴウゥン!”

第3分室の分厚い鋼鉄製の扉が開くと、白銀の髪の少年と大きな紙袋を持つ蒼銀の髪の少女が入って来た。

この部屋の中心にあるガラスの筒には、少し小さめの”白”がたゆたっている。

これは、レイがこの世界に復活した後、

 シンジの指示に従ったゲンドウにより、この世界のリリスの一部を培養したモノだった。

先の使徒戦前にレイがリリスと融合したので、純粋なリリスの肉体はコレが”最後”であった。

シンジは空中に浮くリリスの本に呼び掛けた。

『…いいね? リリス。』

『はい…お願いします。』

シンジが”そっ”と手を伸ばして、紅い本を優しく左手の手の平に載せる。

そして、右手をゆっくりと表紙の紅い革に近付けていく。

少年の白い指が優しく紅色に触れると、人差し指を中心に静かな波紋が広がっていった。

”スゥーーーー”

シンジは、そのまま静かに五本の指を”本の中”に入れていく。


……まるで液体のように静かに指を受け入れていく紅い革の本。


少年の右手が全て本の中に収まると、彼は真紅の瞳を閉じて呟いた。


「{アカシヤブック…リリスよ、新たな誕生…転生の時が来た。我の呼びかけに応えよ!}」


”カッ”と開いたシンジの真紅の瞳の色が濃くなっていく。

本の表紙に触れている彼の手首が眩しく光り輝くと、少年はゆっくりと手を引き抜いていった。

その手が本から離れると、まるで引き摺られるように白銀に煌く蒸気のような気体が現れた。


……手の平のリリスの本は、白銀の気体を全て出すと、赤い革の色が深い蒼色に変わってしまった。


シンジは、そのまま右手を時計回りに、円を描くように動かしてその気体を両手で包む様に挟んだ。

”シューー”

白銀色の気体は、まるで宇宙にある銀河のように時計回りにゆっくり回転すると、

 少年の両手の中心に引き寄せられるように凝縮していった。

シンジは全ての”白銀”が集まり小さな玉になるのを見ると、

 この部屋の中心にあるガラスの筒に向けて、バレーボールのトスをする様に優しく投げた。

白銀の玉は”スゥー”とガラスを無視して、その中に浮かんでいた”白”の中に入っていった。

暫くすると、ゆっくりとした小さな鼓動音が聞こえてくる。


”……とくん………とくん……とくん…とくん、とくん、とくん”


その”白”は、鼓動音に併せるように胎動を始めた。

レイは優しい眼差しでソレを見ていた。

シンジもどこか嬉しそうに笑顔を浮かべていた。


……やがて”白”は徐々に人のカタチに変化していく。


その様子を見たシンジは”クルッ”と身体を出入り口に向けると、レイに声を掛けてこの部屋を出て行った。

「綾波、リリスの着替え、よろしくね? …僕は隣の部屋で待っているから。」

”コクリ”

「…ええ、判ったわ。」

返事をしたレイは、持ってきた紙袋からバスタオルを出していた。


”ガシュ! …ゴウゥン!”


「ん? そこで何しているの、母さん?」

「ッ! え、あ、その。……しんちゃん、リリスちゃんは?」


……第3分室の入口側の部屋には、机の影にユイが隠れていた。


”見付かっちゃったわ”という表情のまま立ち上がった彼女は、息子の前に歩いてきた。

「…もう直ぐ来るんじゃないかな。でも、どうして母さんがリリスの転生の時を知っているのさ?」

少しジト目の少年に、母は少し慌てるように答えた。

「え、そ、それは、あのね、メールでドーラちゃんに聞いたら教えてくれたのよ。」

「へ? ドーラに?」

『あ、あの…すみません。マスター、教えてはいけなかったのでしょうか?』


……シュンとした波動がポケットのPDAから溢れ出てくる。


「い、いや、いいよ。ドーラ。気にしないで、ね?」

そんな波動を感じた少年は、慰めるように優しい波動を彼女に送る。

「…ねぇ、しんちゃん。」

少年の前に立っているユイは真剣な表情だった。

「なに? 母さん。」

「やっぱり、あなた達もジオフロントに暮らしなさいな?

 …3、4日あの部屋で寝泊りしたけど、ゲンドウさんも帰ってこないし、一人じゃ…母さん、寂しいわ。」

「リリスを母さんの部屋に住まわせるよ。…どう?」

ユイは、夫であるゲンドウと幼女であるリリスと家族として暮らすイメージを頭の中で描いた。

(リリスちゃんをからかいながら…いえ、可愛がりながら、か。…ちょっといいかも。)

「しんちゃんは、一緒に暮らしてくれないの?」

「この使徒戦争が終われば、考えるよ。…それまでは、今の自宅を変更する気はないよ。」

「じゃ〜逆に母さんだけでも、シンジのお家に引っ越すっていうのは、ダメかしら?」

「う〜ん。それじゃ、父さんが可哀想な気がするよ。」


”ガシュ! ゴゥウン!”


「お待たせ…碇君。」

その声に、シンジが身体を捻って後ろを振り向くと、蒼銀の美少女が一人立っていた。

あれ? とシンジは小首を傾げて聞いた。

「? …綾波、リリスは?」

「…うしろ。」


……なるほど。良く見れば少女のスカートに隠れるように立つ小さな白い足が見える。


「ねぇ…何しているの? リリス?」

「…あ、あの、お兄ちゃん。」

その怖ず怖ずとした小さな、可愛らしい声は紅い世界以来の”肉声”だった。

シンジの背中から覗き込んで幼女を見ようとしていたユイは、その可愛らしい声を聞くと、

 堪らず少年を横に押しやってしまった。

”ぐいっ”

「のわっ…か、母さん?」

「リリスちゃん、こっちにいらっしゃいな。」

母はそう言いながら、幼女を安心させるような笑顔のまま、足を屈めて視線の高さをそろえる。

「ユイかあさま?」

おず、と一歩足を出したリリスの姿がユイの瞳に映る。


……その姿、可愛いと言う言葉がピタリと当て嵌まる出で立ちであった。


繊細に舞う天使の羽をイメージしたような白いフリルや、

 幾重にも重ねられた十字架レースをふんだんに奢られた服は吸い込まれそうな黒を基調としていた。

所謂…ゴスロリファッションではあるが、しかし、間違いなく熟練の縫製職人の技巧が光る一品だった。

「あら!!…まぁまぁ。何て可愛らしい♪」

「ぁ…あ、ありがとう、です。」

幼女リリスは、白磁器のような顔を真っ赤にさせて照れていた。





ヒトの造りしもの−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−





………執務室。



決して狭くはないこの空間が、かなりの圧迫感を醸しているのは、この部屋の主のせいだろう。

机、と言わずあっちこっちに書類が積み重なっている。

この部屋を使用している人物は、随分と書類仕事が苦手なようだ。

「はぁ〜。毎度毎度、まったくお役所仕事ってヤツは…って感じね!」

赤いジャケットの女性は、既に数時間この紙束と格闘していたが、

 机の上に散乱している少しも減っていないように見える書類に、”ふぅ”とため息をついた。

”プシュ”

さすがに一息入れたい、と思っていた、そんな時…部屋の入口が勝手に開いた。

「あら、リツコ。」

白衣を羽織った女性が、机の方に向かって”ツカツカ”と歩いてくる。

「…ミサト、これを読んで頂戴。」

彼女の友人である金髪の女性が、数枚の書類を机に置いた。

”…ギシッ”

ミサトは、座っているイスの背もたれに体重を預けて、友人が机に置いた書類を手に取る。

「ん? 何よこれ? リツコ。」

「作戦課として、興味を引くと思って持ってきたのよ。」

さっさと読め、という友人の視線に、何なのよ…という顔でミサトは書類に目を落とした。

「へいへい。う〜んと、何? J.A.…あら懐かしい…農協?」

「笑えないわよ。」

「グッ」

ミサトのせっかく閃いた冗談も、リツコの冷たい眼差しを貰っただけだった。

「へ〜。ロボット兵器ねぇ。」

「招待されているの。その完成のお披露目会に。」

「でぇ?」

「作戦課長として、出席して欲しいのよ。」

「あんでよ?」

「NERVに対して、ライバル心をむき出しにしているヤツらのツラを見に行くって、言っているのよ。」

リツコの顔はイタズラを思いついた子供のような表情があった。

「アンタも趣味悪いわねぇ。わーたわよ。面白そうだから一緒に見に行くわぁ♪」

「あ、それとこのお披露目会はEVA中隊の二人も参加するから。」

「ふ〜ん。あっそう。」

ミサトは頬杖をついて、友人の話を聞いていた。



………第28放置区域。



セカンドインパクト後に起きたテロによる爆弾事件で崩壊した旧東京都心は、海に沈んだ都だった。

現在は、その残った跡地を格安で買い取った各企業が再整備し、一種の工業地帯のようになっていた。

「ここがかつて花の都と呼ばれていた大都会とはねぇ。」

VTOL機の窓から見た眼下の光景に、NERVの仕官服に身を包んだミサトがごちた。

彼女の隣に座っていたリツコが、パソコンを見ながら言う。

「…着いたわよ。」

大人の女性二人の目の前のシートには、白銀の髪と蒼銀の髪が見える。

現在、碇二佐の膝の上には、綾波三佐がいる。


……二人とも中学校の制服ではあったが、前にVTOL機で国連本部に行った時と同じ密着した状態だった。


実の処、ミサトはさっきから窓の外を見たくて見ているワケではなかったのだ。

第3を出てから、この旧東京都心まで変わらずイチャつくカップルを見ないようにしていただけだったのだ。

最早…からかう気にもなれないと、ミサトは横目でリツコを見た。

「はぁ〜。何もこんな所でやらなくても良いのにぃ。…で、その計画、戦自は絡んでいるの?」

金髪の女性は、小さくかぶりを振った。

「戦略自衛隊? いえ、介入は認められずよ。」

「どぉりで好きにやっているワケねぇ。」


……蒼銀の少女は、瞳を閉じて少年に身体を預けるようにしている。


『…温かい。』

『綾波?』

『リリスも来たがっていたわ。』

『そうだね。でも結局、買い物に行く母さんに連れて行かれちゃったけど。』

『…私の妹?』

『うん、一応。でも、母さんの所で預かる事になるんだけどね。』

少年は、機体が減速し始めたのを感じると、窓の外に真紅の瞳をやった。

お互いの体温を感じる幸せを満喫しているシンジとレイ達を乗せたVTOL機は、

 招待状の案内どおり、多数のヘリが駐機しているスペースに着陸を開始した。



………その会場。



全ての準備を滞りなく終えた会場を見ている時田は、

 自分が招待した客の殆どが来場したことに、これはJ.A.に対する期待だと、強く感じていた。

なにせ、”あの”碇グループの代表も来たのだ。

招待状を出す際に各関係者からは、絶対来ない、と口を揃えて言われていたのだ。

そして、そのVIPに呼応するように、日本だけではなく世界各国の優良企業の代表者も多数参加した。

大事な軍関係は、国連軍、戦略自衛隊ともに、重鎮クラスが顔を出してくれている。

「ふっふっふ。」

(…企業家たちに認められ、軍に制式採用されれば……)

時田シロウは不敵な笑いを漏らしていた。

「…代表。NERVが着いたようです。」

「ふん、開会時間ギリギリとは。全くえらそうに……」

部下の報告を聞いたシロウは、その瞳に憎しみにも似た炎を宿らせて言った。

(踏ん反り返っていられるのも、今のうちだ…NERVめ!)

その男の目に、会場の入口から青いスーツを着た女性と、黒の士官服をきた濃紺色の長髪の女性、

 その後ろに中学校の制服を着た少年少女が入って来るのが見えた。


……そして、開会が告げられると会場に招待された客から大きな拍手が起きた。


紅白のまん幕と《祝 JA完成披露記念会》と印刷された吊看板が掲げられた壇上に、一人の男が立つ。

『本日はご多忙のところ、我が日本重化学工業共同体の実演会にお越し頂き、真にありがとう御座います。』

この会場に用意された大きな円卓は、全部で7つあり、NERVのテーブルは中央だった。

NERVの一行は、壇上から見て、ミサト、リツコ、シンジ、レイの順に席に着いていた。

イスに座ったミサトが周りを見れば、自分達を取り囲むように用意された6つのテーブルには、

 豪華そうな食べ物が載った数多の皿と、様々な種類の飲みモノがケータリングされている。

そして目を戻せば、この席には、手の届かぬ中央にビールが2本とオレンジジュースが数本あるだけだった。

(…これまた随分、明け透けで幼稚な手ねぇ。まぁ、大体…ここに呼ばれたワケが読めたわ。)

NERVの代表として、と黒色の士官用の正装を着て気合を入れていたミサトは、

 私たちを笑い者にする為に呼んだのね、と頬を”ピクピク”とヒクつかせた。

『…皆様には後ほど管制室の方にて公試運転をご覧頂きますが、ご質問のある方はこの場にて、どうぞ。』

「はい。」

その言葉に間髪いれず、金髪の女性のしなやかな右手が上がった。

『これは、ご高名な赤木リツコ博士。お越しいただき、光栄の至りです。』

「質問を、宜しいでしょうか?」

『ええ、ご遠慮なくどうぞ。』

「J.A.の不整地に対する歩行、走行能力についてですが…」

『は?』

質問している女性の声を間の抜けた男の大きな声が、かき消した。

「…ですから、整地されていない土地、例えば山林地帯、砂、悪路での運用は可能なのでしょうか?」

途中で口を挟まれたリツコは、少し苛立たしげに目を細めたが、男の非礼を無視して再び質問した。

『も、モチロンです。どのような路面に対しても、J.A.の歩行プログラムは完璧です。』

(なんだ? こちらで想定していた質問と違うぞ?)

壇上の時田は、余裕のある表情だったが、ライバルと認識している金髪の女性の質問に違和感を覚えた。

「転倒の危険性はない、と?」

『ええ。転倒なんてありえません。万が一、脚部を失うような事態になりましても、

 リアクターの緊急停止等の安全対策が働くようになっています。』

「素晴らしいですわ。では、次の質問です。指のマニピュレーターはどれくらいの荷重に耐えられますか?

 また、最大吊り上げ荷重はどれくらいなのでしょうか?」

(なんだ? 素晴らしい? なぜライバル機にそんな事が言える?)


……流石に、マイクを持つ男の顔が訝しげになる。


『え? 指の耐荷重ですか? え〜…ちょっと、お待ち下さい。赤木博士…そんな質問ではなく、

 我々としましては、稼働時間などの”作戦行動”に関係する質問をしていただきたいのですが?』

マイクを持って質問している青いスーツを着た金髪の女性が、テーブルに配布された資料を持ち上げた。

「…稼働時間は、このパンフレットに記載されていますわ。先ほどの質問、答えていただけますか?」

『は、はい。…ええと、J.A.の両腕で持ち上げられる最大荷重は150tです。』

「判りました。私からの質問は以上です。」

『え?』

ストン、とイスに腰を下ろしてしまった女性を見た時田は、暫し呆然としてしまった。

彼としては、ここでいかに自分達の造り出したロボット兵器が素晴らしいか、

 NERVの兵器がいかに欠陥だらけか、という事を、招待したお客に知らしめようと意気込んでいたのだ。

『あ、あなた達NERVの決戦兵器とかいうロボットなど、このJ.A.に比べたら欠陥だらけですなぁ!』

時田シロウは、金髪の女性を笑いものにすべく、再び舞台に上げようとEVAを扱き下ろし始めた。

「…はい。」

今度は、金髪の女性の横に座っていた白銀の少年が手を上げた。

『何かな、ぼっちゃん?』

「僕の名前は、碇シンジです、時田さん。」

会場に少しのどよめきが起きる。

この少年は、碇…と名乗ったのだ。

戦略自衛隊のお偉方は、NERVの最高責任者と同じ名という事と、

 その容姿から彼が決戦兵器のパイロットだと気が付いた。

また、日本のみならず世界有数の企業家たちも驚きの表情をしている。

彼らが態々ここに来たのは、この完成記念会に世界最大コングロマリットのドンが来る、と聞いたからだ。

この場を借りて、彼に会い巧く取り入り、自分達の仕事上の関係を作りたい、と考えて来たのだ。

その”イカリ”と同じ苗字を名乗ったのだ。…何かしらの関係者では?と窺うような視線を投げる。

『碇君か。さて、質問かな?』

壇上の時田は、何処かおどけたような態度で少年に尋ねた。


……それは、こんなガキに何が分かる? という見下した目だった。


「ええ、質問です。…このロボットと、NERVの兵器を比べるのはなぜですか?」

『は?』

「いえ、なぜ未確認巨大生物と戦う”決戦兵器”と、”重機”を比べるのかなって……」

その意外な言葉を理解した時田の顔色は、見る見る間に真っ赤になっていく。

『な、な、何を言っているんだ!!!ジェットアローンは陸戦用の兵器だ!!!対使徒用の!!!』

「?」

シンジは、時田の言う意味が分からないと、小首を傾げて姉に聞いた。

「赤木博士、J.A.って重機じゃないんですか?」

「クスクス…シンジ君、あなたは間違っていないわ。このロボットは人類の為に働く重機よ。」

笑う口を手で抑えたリツコは、オレンジジュースをコップに注いで答えた。

「…ですよね。」

シンジは、姉からそのコップを貰い、ジュースを一口、”ゴクッ”と飲んだ。

ミサトは、少しポカンとした顔だったが、我慢しきれなくなり、ついに肩を震わせて笑い出した。

「くぅっくっくっくっく♪……く、苦しい。ナイスよ、シンジ君。」

『な、何を言っているんだ!!』

自分のプライドの塊であるJ.A.を扱き下ろされた時田の怒鳴り声が、会場のスピーカーを震わせる。

「あ、そうだ!…整備部の鈴原課長が、便利な重機が欲しいって言っていたから、

 このロボットを国連経由でNERVに徴発しましょう。」

「…な、な!!」

この少年の言葉に驚いたのは、来賓席に座っていた防衛省と通産省の上級官僚だった。

巨額の投資資金を各企業から集め、

 苦労して開発し、ようやく完成したモノを掻っ攫われてはかなわない、と慌てるように立ち上がった。

「ちょ、ちょっと待ちたまえ。」

「そうだ。いくら特権を有するとはいえ、そんな横暴は通らんぞ!」

背広を着た中年の男たちが騒ぎ出す。

「あれ、葛城作戦課長、徴発って出来ないんですか?」

腹を押さえながらミサトは、目尻に溜まった涙を拭いて答えた。

「くくくっ……そ、そりゃ正式な手続き踏まなきゃ、ねぇ。…それにちゃんとした”理由”が必要だし。」

その言葉で、壇上の時田が再起動する。

『そ、その通りだ!!少年!!いくら特権を持つ組織だとはいえ、何でも好きになると思ってはイカン!!』

「そうですか。」

なぁんだ。という顔で少年は席に着いた。

蒼銀の少女は、少し意外そうな瞳を愛する少年に向けた。

『…碇君、あのロボット…欲しいの?』

『ふふっ…綾波、アレがあれば戦闘の後処理が楽になると思わない?』

少し小首を傾げた少女は、”こくり”と一つ頷いた。

『…そうかもしれない。』

『でしょ。』

同意してくれたレイにシンジはニコッと笑った。

『…でも、徴発の理由がないわ。』

蒼銀の少女は彼の澄んだ微笑みを見て少し頬を染めた。

『う〜ん、そうだね。…何とかならないかな?』


……部下の合図を確認したシロウは、強制的にこの会を進行させた。


『…お待たせしました。 公試運転の準備が整ったようです。皆様、管制室への移動をお願いします。』





………旧東京再開発臨海部国立第3試験場。



”ビーーー、ビーーー”

警告音を出した巨大なビルが、真ん中から割れて左右に分割していく。

その隙間が広がると、中に格納されていた巨大ロボットの雄姿が太陽の眩しい光に曝される。

時田シロウが計画し、開発したジェットアローンというロボットは、

 間違いなく人型ではあるが、NERVの決戦兵器とは大分違う容姿であった。

そのオレンジ色にペイントされた頭部に首はなく、

 クリームっぽい色合いの腕部は蛇腹のような多関節構造を採用されており、

  また、脚部はヒザから下がゴムのような黒いカバーで覆われていた。

そして、背面のバックパック部は小型のリアクターが搭載されており、

 その左右には出力制御用の制御棒が合計6本用意されていた。

『これより、J.A.の起動テストを始めます。』

シンジは、ポケットのPDAを手に取った。

『…ドーラ、昨日言った仕事、頼まれてくれる?』

『お安いご用で御座います、マスター。』

その波動を残して、PDAの画面に映っていた女性が消えた。

作業服に着替えた時田の声が、この管制室のスピーカーから流れる。

『なんら危険は伴いません。そちらの窓から安心してご覧下さい。』

その言葉に、招待客は一斉に双眼鏡を手にして覗き込んだ。

『起動準備よろし。』

女性オペレーターが報告すると、シロウは大きく頷いた。

『テスト開始!』

責任者の号令に従い、オペレーター達が次々とコマンドを打ち込み、報告を上げる。

『全動力、解放。』

『圧力、正常。』

『水路系統、問題なし。』

『冷却液、循環正常。』

『制御棒、全開へ。』

広大な試験場に佇んでいた巨大ロボットの背面から、黒い棒が6本伸び上がってくると、

 その頭部のセンサーが光り輝き起動する。

『…動力、臨界点を突破。』

『出力、問題なし。』

時田は、一際大きな声で指示を出した。

『歩行、開始!!』

『歩行、前進微速。右足、前へ。』

『了解。歩行、前進微速。右足、前へ。』

オペレーターが復唱し、コマンドを打つ。

”ウィィィイン…ガシュン!”

巨大ロボットは、その命令に従って右足を一歩前に動かした。

「「「「おおおぉぉぉ!!!」」」」

会場から、歓声のような感嘆の声が上がった。

『バランス、正常。』

時田は、非常に満足気な表情だった。

『了解。引き続き、左足前へ。』

『ヨーソロォ。』

ミサトが双眼鏡で見ると、J.A.は自分達の方へゆっくりと歩いていた。

「へぇ〜〜。ちゃんと歩いている。…自慢するだけの事はあるようねぇ。」


……その声がトリガーだったのか、突然の変化が起きた。


『脚部、伝送信号…断!!』

突如、J.A.は左足を上げたまま止まった。

『…何があった!?』

会場に、時田の大声が聞こえる。

次の瞬間、ロボットは自然の法則に従って、ぐらりと傾く。

「「「うゎわぁぁああ!!」」」

その様子を双眼鏡で見ていた観客から悲鳴が上がった。

『リアクター、緊急停止シークエンス起動!!』

”パシュン!”

J.A.の巨大な制御棒が瞬時に機体に収まった。

「安全対策はバッチリみたいですね。」

「そうね、シンジ君。ドーラさんは?」

「J.A.の中です。万が一を考えて彼女には待機してもらっています。」

呑気なシンジの声に、リツコは慌てる事もなく、手に持っていたコーヒーを一口飲んだ。



”ズドォォォオオンンン!!!”



クリーム色を基調とした巨大ロボットは、盛大な地響きを伴って横に倒れてしまった。

機体がダメージを受けないように、こっそりと受身を取ったことは、誰も気が付かなかった。

『マスター、リアクター、及び機体に一切のダメージは御座いません。』

『ナイス、ドーラ。』

『ゲンドウ様の指示で書き換えられたプログラムの修正をしました。

 元々のソフトにバグを見つけましたので、発見し易いようにしておきました。今からそちらに戻ります。』

『うん、ありがとう。…ご苦労様。』


……呆然とした表情の責任者が、一言漏らした。


「そんな、バカな……」

管制室の制御ブースには、日重のスタッフの声が飛び交っていた。

『J.A.…再起動せず。遠隔操作不能!!』

『姿勢制御用ソフトにバグを発見!』

『リアクター、停止を確認。機体からの放射能漏えいは認められず。』

『…機体に損傷なし。』

『環境測定装置、及びガイガーカウンター、共に安全域を確認。』

招待客は、皆それぞれ何が起きたのか? という表情であった。

「ハッ…これは一体どういう事なんだね? あれを我が軍の制式兵器にだと? 話にならんなぁ!」

「全くだ。この状態で完成とはね。…下らん茶番劇に付き合わされたものだな。」

緑色の軍服に身を包んだ戦自の将校たちは、”ふんっ”と鼻を鳴らして会場を去っていった。

そこでリツコは、初めてこの場に土井がいることを認識した。

「ま、人が造ったもの…ですからね。」

そう言ったマサルは、会場を去る集団から抜け出て、リツコのところに歩いてきた。

「こんにちわ、赤木博士。…お疲れ様です。」

にこやかな男の笑顔に、リツコは少し驚いた顔になってしまった。

「あ、ど、土井一佐もお疲れ様です。」

「先日は、ロクに挨拶も出来ない内に戻ってしまい、大変失礼しました。」

「いえ、そんなこと…ありませんわ。」

「…あの、これを。」

男は、紙切れをリツコに手渡した。

「え?…あ、はい。」

受け取った紙を広げると、数字が記載されていた。

「それ、自分のプライベートの携帯番号です。いつでも結構ですから、電話下さいね。……ではまた。」

”ニコッ”と笑った土井は、先に行ってしまった仲間を追いかけるように、早足で会場を去ってしまった。

戦略自衛隊の幹部が管制室を出て行ってしまうと、それに倣うように次々と招待客が帰ってしまった。

「リツコぅ?」

双眼鏡でJ.A.の状況を観察していたミサトが、いつの間にか後ろに立っていた。

「な、なに? ミサト。」

「何貰ったのよ?」

「な、何でもないわ。」

何故か友人は動揺している。ミサトのからかいセンサーが”ピンッ”と反応する。

「それっ!」

ミサトは目にも止まらぬ動きで、リツコの手にあった紙を奪い取る。

「あ、返しなさい!」

「まぁ!! 電話番号じゃない!」

ミサトの顔が”にんまり”と、いやらしい笑顔に変わる。

「へぇ〜…リツコもスミに置けないわねぇ。」

「か、返しなさい、ミサト!」

リツコは必死に紙を奪い返そうとするが、元々一流の格闘技能を持つ女性には勝てない。


……しかし、この場に彼女の技能を凌駕する人物が2人いる。


”ひょいっ”とミサトの手から自然な振る舞いで白い紙を取り返したのは、シンジだった。

「あっ!」

「人の嫌がる事は止めましょうね? 葛城一尉。」

「うっ」

濃紺の長髪の女性を見る、シンジの瞳はとても冷たかった。

「ぁ…タハハ…ごみん、ごみん。」

ミサトは、告げ口されて降格なんてなったら堪らないわ…と顔色を青して謝った。

「あ、ありがとう、シンジ君。」

紙を取り返してもらったリツコは、それを大事そうに上着の内ポケットに仕舞った。


……その時の時田シロウは、と言うと予想外の顛末に自失茫然としていた。


気が付けば、来場した客は殆どいなくなってしまった。

完成記念披露会は、完全な失敗に終わっていた。

そんな時、年老いた一人の男性の声が上がった。

「ふむ。日重の代表よ、この欠陥ロボットはいくらだ?」

会場中の視線がその男に集中した。

「碇様!!」

別室で公試運転を見学していた老人が、管制室に現れた。

「いくらだ?」

最早、このロボット兵器は日の目を見る事はないだろう。

日重は潰れる、そう思っていた共同体の主幹事企業の役員の動きは、とても迅速だった。

「碇様、このJ.A.は開発、製造、パテントを含め6,500億でございます。」

「2,000だそう。」

背広を着た男は、老人の言葉に”ブルブル”と顔を横に振った。

「それは余りにも…」

「買い手のつかぬ欠陥商品を、ワシが買い取ってやろうと言うておる。」

「…ですが、碇様。2,000では、とても。」

「判った。3,500だ。これ以上はない。」

厳しい眼光に、これ以上の交渉は出来ないと男は首を縦に振った。

「ぅ……わ、判りました。」


……J.A.はこうして安く買い叩かれた。


時田は、静かになった会場のその遣り取りを、どこか遠い世界の事のように眺めていた。

しかし、次の言葉で焦点の合っていなかった彼の目が、大きく見開かれる。

「…有馬、手続きをせい。シンジ、これは、ワシからのプレゼントだ。好きに使っていいぞ。」

「ありがとう、おじいちゃん。」

中学校の制服を着た少年が、ニッコリと笑って老人に言った。

その顔を見た玄は、今までの厳しい表情を崩した。

「ふぉ、ふぉ。なに、安いもんじゃ。」

『な、な!!なぁーーー…ぅっ!!!!』

”バタン!”

臨界点を突破した時田は、絶叫して白目を剥きながら倒れてしまった。

その後、分解されて第3新東京市に搬送されたJ.A.は、NERVの整備部によって運用されるのであった。



………NERV本部。



”プシュ!”

セフィロトの樹が描かれている薄暗い部屋に、女性が入ってきた。

「失礼します、司令。」

その女性の視線の先には、大きな机に肘をついて手を組んでいる男がいた。

「J.A.計画はこちらの予定通り潰えました。その結果、日本重化学工業共同体も解散しました。」

「…そうか。」

「その過程は、昨日のメールどおり、司令のシナリオを変更したモノでした。」

「……ふっ問題ない。」

「EVA中隊、碇二佐より、整備部にJ.A.を寄贈していただきました。運用はいかがしますか?」

「任せる。」

「判りました。」

「…赤木博士。」

「はい?」

「特殊インテリアの開発状況は、どうだ?」

「はい、既に製造は終了しております。明日にでもテストを行いますわ。」

「そうか。」





明々後日、特務機関NERVと国連海軍による合同演習が予定されていた。

EVA初号機を運ぶ専用長距離輸送機が準備される。

そして、エントリープラグに収まるインテリアも、技術開発部以外の職員には初披露となるモノだった。







第三章 第十六話 「アスカ、来日。」へ










To be continued...


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