ようこそ、最終使徒戦争へ。

第三章

第十七話 転入生

 〜 前編 〜

presented by SHOW2様


同じ時間−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−





………朝。



今日は日曜日。 しかし、この白い洋式の屋敷の朝は平日と変わらず早い。 

ココに住み込みで働いている6人の女性は、毎朝5時に起床している。

”パタパタパタ”というスリッパの音を響かせて、せわしなく廊下を歩くのは長谷川ナナ23歳だ。

この屋敷を取り仕切る筆頭メイド、山岸マユミの下で働いてもう直ぐ1年になる。

(洗濯、洗濯、洗濯ぅ〜っと♪)

ナナが着用しているのは、みんなとお揃いの清楚な黒いメイド服にフリルの沢山ついた白いエプロン。 

仕事の邪魔にならぬように髪を纏める白いレース付きのカチューシャが、彼女の頭に装備されていた。

ナナが歩くたびに、”くるくる”とパーマをかけた茶色の長い髪が右に左に踊るように揺れ動く。

彼女の手に持つカゴから、ベッドシーツやバスタオルなどの洗濯物が溢れんばかりに詰め込まれていた。

元気に歩くナナが”ふらふら”しているのは、たぶん気のせいではない。

彼女が廊下の曲がり角を”くるっ”とターンした時だった。

(あっ!)

”つるんっ…どたっ”

予想どおり、と言うべきなのか…お約束のようにナナは前のめりに転んでしまった。

「くぅ…いったー」

実際の年齢よりも若く見えるその童顔を廊下に打ったのか、彼女の小さめの鼻は少し赤かった。

「おはよう。 大丈夫、ナナ?」

同じように洗濯かごを持って廊下に現れたのは、マユミをサポートしているメイド5人衆のリーダー格、

 後藤アキ、26歳であった。

近視の眼鏡を掛けた彼女が心配そうに屈みこむと、ショートカットの黒い髪が”さらり”と動いた。

「あ、おはようございます、アキさん。 あ、あはは。 …すみません。」

マズい処を見られちゃったな、と愛想笑いを浮かべるナナを、

 ”キラリ”と銀色のメガネを光らしたアキが”ニコッ”と優しい瞳と口調で返事をした。

「…ふふ、いつものことでしょ?」

「あぅ。」

ナナは”カクッ”と顔を落とした。

「さ、洗濯物を入れて。 いくらシンジ様がいないからって、この屋敷の仕事が減るわけではないのよ。」

「は、はい。 そうですね。 シンジ様は今日お戻りになるんですよね?」

「ええ。 マユミさんからは、夕方頃と聞いているわ。」

二人が会話をしているこの廊下に、別の女性の声が空気を弱弱しく振るわせた。

「…おはようございます。」

アキが振り返ると、廊下の曲がり角から窺うように覗いている女性、大田ユウ24歳が立っていた。

「あら、ユウ。おはよう。」

(…ほんと引っ込み思案と言うか、おどおどしているわねぇ。…シンジ様の前じゃあんなに明るいのに。)

そんな事をアキが考えていると、メイド5人衆の中で一番騒がしい女性、石川シホ26歳が現れた。

「おっはよう! そんなトコで、な〜に突っ立っているのよ、ユウ!」

”トンッ”

腰まで届く黒いロングヘヤーをポニーテールに纏めているシホが、一番背の低いユウの背を軽く押す。

「…わわっ。」

ユウがシホに押し出されると、彼女の右胸の上に結わえられていた三つ編みの髪が振り子のように動いた。

「おはよう、シホ。」

シホがアキに声を掛けられると、彼女はこの廊下に殆どの住人が揃っている事に目を大きくした。

「ありゃ? どうしたの? こんな所にみんな揃って?」

散らばっていた洗濯物の詰め込みを終えたナナが、少し赤い顔をシホに向けて、申し訳なさそうに説明する。

「おはようございます、シホさん。 えっと。 あの、私が転んで…」

「…ああ、洗濯物をぶち撒けちゃったのか。 ナナは相変わらずの”どじっ娘”だね。」

一番年下のメイドであるナナの言葉を正確に引き継いだシホは、”からから”と笑っていた。


……京都の屋敷から第3新東京市に来て、もうすぐ2ヶ月になろうとしている…そんな朝だった。


4人の女性が手分けをして洗濯という仕事を片付けると、厨房から朝げの香りが”ほんのり”と漂ってきた。

「ん? お、相変わらず良い匂い。 …やっぱ、日本の朝は味噌汁だよねぇ。」

シホが、こりゃ堪らんと足早に厨房の扉を開けると、そこに二人の女性がいた。

手馴れた手付きで、おにぎりを握っているのは、腰元まで伸びた黒髪が美しい女性、山岸マユミ29歳だ。 

ここはプロの為に造られたキッチン。 業務用のコンロの上に、湯気立つステンレス製の半胴鍋が見える。

どうやら、先ほどから日本人の心を揺さぶる芳醇な味噌の香りは、そこから漂っているようだ。

そのキッチンに立っている女性が、”くるくる”とかき混ぜていたおたまで味噌汁を少しだけ掬い取って、

 自分の作品の出来をチェックしている。

「…ん、良い出来。」

満足気な表情になったのは茶色い髪を肩の下でカットしてるセミロングの女性、斉藤カズコ25歳であった。

彼女は、この屋敷のメインシェフであるシホの片腕として腕を振るう、この厨房の副責任者であった。

「おっはよう! カズっちゃん、朝ごはんの支度終わった?」

”にこやか”に厨房に入って来たポニーテールの女性を見たマユミは、小さなため息を吐いた。

「はぁ。 …シホさん?」

筆頭メイドの声色に、少しのイラ立ちを感じたシホは、反射的に背を”ピシッ”と伸ばして挨拶を返した。

「あ、いけね。 …マユミさん、おはようございます。」

「相変わらず、アナタは礼儀作法に”難”ありね。」

「はい、すみません。」

”ばっ”と頭を下げて謝った彼女の黒いポニーテールがキレイに円を描く。

そして、その体勢のまま、シホは”チラッ”とマユミを見ると小さな声で言い訳をした。

「…でもぉ、シンジ様は”これも私の個性だよ”って言って下さいました…」

「ふふっ…そうでしょうね。 シンジ様はお優しい方ですから。」

マユミはまるで自分が褒められたかのように”にっこり”と笑ったが、次の瞬間…元の厳しい表情に戻った。

「…でも、それに甘えてはいけませんよ? 分かりますよね?」

「は、はい。」

「……あ、おはよう、シホ。 ……もう直ぐ支度が終わるから。」

場の空気からワンテンポ遅い会話を始めたのは、

 瑞々しい野菜で作られたサラダが沢山入った白い陶器のボウルを持ったカズコだった。

「…ん、どれどれ? カズっちゃん、それのドレッシングは?」

シホは話題を切り替える為に、素早く移動して朝ごはんの進捗状況を見始めた。

マユミは、そんな彼女を見て軽く肩から力を抜くと、廊下にいる3人に声を掛けた。

「さ、他の3人は出来上がったのを食堂に運んで頂戴ね。」


……第3新東京市郊外の閑静な住宅街、その中でも一際大きな白い屋敷の一日はこうして始まった。



………昼過ぎの路上。



第3新東京市の路上を一人の女性が歩いている。

彼女の比較的ゆっくりとした歩調に合わせるように、薄いブルーのサマードレスがたおやかに揺れていた。 

白い帽子の大き目のつばが、昼を過ぎても衰える事を知らない太陽の日差しから彼女を護っている。

それでも、やはりアスファルトから”むおっ”と放射される熱はとても強いようだ。

つぅ…と一滴の汗が彼女の首筋に流れ落ちた。

(…季節を忘れてしまった国。 昔は春も秋も冬もあったのにね。)

「ふぅ。」

女性は歩みを止めると、シンプルな扇子を開いてやおら扇ぎながら、白いハンカチを取り出して汗を拭った。

彼女が顔を上げれば、透き通るような青い空に白い雲。 そこには”サンサン”と輝く太陽が天高くあった。


”ミーンミンミンミンミン……ジィィィイーーー”


……植え込みや街路樹から遠慮を知らないセミが大合唱をしている。


(閑静な住宅街……あまり人がいない所なのねぇ。)

女性が”きょろきょろ”と周りを見ても人影を見ることはない。

ここは第3新東京市の郊外であり、さらに一つ一つの家はとても大きかった。

(リリスちゃんに教えてもらった住所だと、そろそろだと思うんだけれど。)

女性は、ハンカチを肩に下げたポシェットに仕舞うと、再び歩き始めた。


”ジーワ、ジーワ、ジーワ…”


(あ、あの白い建物ね。)

白い帽子から見えた柔らかそうな髪は、ダークブラウン。

そのショートカットにシャギーを入れた髪を揺らして歩く女性の目に、一際大きな建物が見えてきた。



”バラバラバラバラバラバラバラ………”


……閑静な住宅街の空に、遠くから爆音が響く。 


彼女がその音に顔を上げて見ると、白いヘリコプターが低空を滑るようにスライドして飛んでいた。

「あらあら。 …何か事件でもあったのかしら? いやだわ。 この街って物騒なのかしらねぇ?」

小首を傾げた女性。 その容姿は二十代前半だろうか? 

歳若い女性はサマードレスを柔らかく揺らしながら、”のほほん”とした感想を漏らした。

彼女は、まさかそのヘリが自分のために飛んでいるとは、夢にも思わないだろう。

この街を支配するNERVという組織の大幹部。 その女性が”こっそり”と単身、街中を歩いているのだ。

そのため、閑静な住宅街の通りには、営業に使うような安っぽい白いバンがそこかしこに路上駐車していた。

保安部総出という事態になった碇ユイによる息子のお家訪問は、こうして始まった。



………白い洋館。



”キンコーン…キンコーン”

労働の手を休めて、一時のお茶の時間を楽しんでいたリビングに呼び鈴が鳴った。

「あら?」

マユミが顔を上げると、カメラ付きインターフォンの近くにいたユウが応対を始めていた。

「…はい。」

『すみません。 …碇ユイと申しますが、この門を開けていただけますか?』

「…? あの、失礼ではございますが、どちら様でしょうか?」


……京都の屋敷と違い、この屋敷にユイの情報は伝わっていない。


『え? えっと、私はシンジの母ですが……』

フルカラーカメラが写す女性は、自分と同じ位の歳だろうか? そんな女性が、当主の母親を名乗った。

首を傾げるユウは困ったな、判断がつかない、とマユミを見た。

その視線を受けたマユミは、”すくっ”と立ち上がった。

「…代わりました、失礼ですが?」

過去、アメリカでのテロの恐怖を肌で知っているマユミは、いくぶん緊張した口調で応対を始めた。

「碇ユイです。 息子の家を見に来ました。」

マユミの見るモニターに、ダークブラウンの髪をショートカットにしている女性が映っている。

「いかり…ゆいさま?」

マユミはゆっくりと彼女の言葉を繰り返した。

(シンジ様のご母堂様? それにしては若すぎるわね…)


……責任者たる彼女の警戒レベルが高まる。


マユミはシホとカズコに目で合図を送ると、二人は頷いて素早く二階に移動した。

ナナは、中継役と言う感じで階段の踊り場で待機する。

『…はい、シンジの母、ユイです。』

シホが二階の窓から外の様子を窺うと、黒服を着た男たちが通りの向こうに溢れている。

「初めまして、ユイ様。 

 私は、シンジ様の身の回りの世話をさせて頂いております、山岸マユミと申します。」

…カズコも同じモノを見たらしい。 何とも言えない表情でシホを見る。

シホは”こくっ”とポニーテールを揺らして頷くと、階下のナナに合図を送った。

一階で待機していたナナは、上に行ったシホから非常事態の合図を確認して、慌ててリビングに向かった。

”ガッ! どたっ”

何かに引っ掛かって転んで戻って来た部下に、マユミが目をやると、彼女の右手がサインを作っていた。

(痛そうね。 そんなに慌てなくても良いのに……)

少し同情的な目をナナに向けていたマユミは、モニターに視線を向けた。

『…ここを開けていただけるかしら?』

「失礼ではございますが、身分証等はお持ちですか?」

『え? 身分証?』

「はい。 当主様はご不在でございます。

 申し訳有りませんが、身分を確認できなければ、この屋敷にお入りいただく事は出来ません。」

『まぁ。 それは困ったわねぇ。 …ん、そうだ。 このIDカードで良いかしら?』

ユイは、肩にかけていた小さ目のポシェットからNERVのIDカードを出してカメラに映した。

複製は不可能だと分かる、コストのかかった特殊カードを見たマユミは、頷いて門の開錠を許可した。

「はい、結構でございます。こちらからお迎えに伺いますので、今しばらくお待ちくださいませ。」

マユミはリビングにいたメイド、ユウに合図を出した。



………リビング。



「いらっしゃいませ。」

「「「「いらっしゃいませ。」」」」

ユウに連れられてこの屋敷に入って来た女性、ユイをメイドたちが迎えた。

マユミがシンジの母親である女性に、こちらへ、と手で促した。

ユイは案内されるがまま、リビングの柔らかなソファーに腰を落とした。

「失礼致します。」

”ことっ”

カズコが、ユイの目の前に冷たい麦茶の入ったコップを置く。

「本日はお暑い中、どういったご用向きでございましょう?」

マユミは、カズコが下がるのを見て切り出した。

「今日は、シンジ出かけていていないでしょ? だからあの子が住んでいる家を見ておこうと思ってね。」

ふふっと笑うユイ。 ユイはお茶を飲んで一息入れると、

 あの子は私がジオフロントから出るのをあまりよく思ってなくてねぇ、と言葉を続けた。

リビングの壁際に5人のメイドが控えている。 マユミはユイの斜め前に立っていた。

のんびりとした女性ではあるが、外の様子からすると、間違いなくNERVの重要人物であろう。

そんな女性が、家を見たいとは? マユミは彼女の真意を測りかねていた。

「あの…」

「あなた、山岸マユミさんなんでしょ?」

「…はい、左様でございます。」

「ねぇ。 そんな所に立ってないで、座って頂戴な。」

(…周りに流されない、マイペースな人ね。 保安部はそれに振り回されたという事かしらね。)

筆頭メイドは、ユイの言動から大体の性格を分析し、人物評価をすると肩の力を抜いた。

「では、失礼いたします。」

マユミが促されるがまま正面のソファーに座ると、ユイが話を続けた。

「あの子、迷惑をかけていないかしら?」

その問い掛けにマユミは”ふるふる”と首を振った。

「迷惑だなんて感じた事は一度もありませんわ。」

「マユミさんは、アメリカでシンジの家族として暮らしていたのよね?」

「はい。 恐れ多くもシンジ様の姉として暮らしておりました。」

マユミは誇らしげに頷いた。

「あの子の成長を間近に見た、唯一の女性。 そのあなたからシンジのお話を聞きたいの。」

なぜ本人に聞かないのか? とマユミは小首を傾げた。

「ユイ様?」

「詳しくは言えないけれど…今度、私アメリカに行く事になってね。」

ユイは、少し寂しそうな表情でマユミを見詰めた。

「そうですか。 …分かりました。 その前に、お聞きしたい事があります。」

「あら…なにかしら?」

ユイは小首を傾げる。

「本日、この屋敷に来る事をNERVの保安部に連絡しましたか?」

「いいえ。」


……なんで? と不思議そうな顔のユイ。 


「では、こちらから連絡しておきます。 …現在、この一角に大量の保安部員がおりますので。」

マユミは、周り近所の迷惑になっております、とため息混じりにアキに連絡するように指示をした。

続けて彼女は、他のメイドにユイと自分だけの二人きりにするように、と退出の合図を出す。

「…失礼します。」

”…パタン。”

ナナが最後にドアを静かに閉めた。

静かになると、マユミは瞳を閉じてシンジとの出会いの頃を思い出した。

「…初めてシンジ様にお会いしたのは、私が18歳の時でございます。

 以来、11年間、変わらずお世話をさせていただいております。」

マユミの口から語られるシンジの物語は、これから3時間ほど続く。



………15時。



太平洋、旧伊東沖の洋上。

燃え広がる炎。 絶え間なく吐き出される黒煙。 そして波間に沈みゆくこの戦艦は、ついに放棄された。


”ヴィィィイ! ヴィィィイ! ヴィィィイ!”


美しく澄んだ青い空を穢す不粋な煙が、そこかしこに立ち昇っている。

『救命胴衣を着用せよ!! この艦はもうダメだ!!』


……現在、使徒との戦闘に生き残った第一艦隊の旗艦、OTRと数隻の護衛艦は目的地へ向かっていた。


『救助が最優先だ!! ボート、用意が遅い!! 急げ!!』

無傷の護衛駆逐艦から、大型の黄色いゴムボートが海上に追加された。

最後に沈没した軍艦から脱出した海兵たちが次々にそのボートに乗り込む。

「艦長、兵は全て脱出に成功しました。」

「ぶはっ、はぁ、はぁ。……そうか。…ご苦労、副長。」

一番後に戦艦から脱出した責任者が、海水の中から部下の手を借りて黄色いボートに乗り込んだ。

「はぁ、はぁ。…見たまえ、あれが我が艦の最後だ。」

船としての機能を失い、永い眠りに就こうとしている戦艦の傾斜角は、すでに60度を越えている。

そのうねりに揺れるゴムボート。 脱出した男たちは、疲れよりも寂しさを多く含んだ表情を浮かべていた。


”ギィ…ィィィイ……ザァァアアアア…”


青い海水が白い空気と混ざり合い、艦を中心に大きな渦を描く。

マリナーたちは、海軍に入隊してから長い年月を共にした艦がゆっくり沈んでいくのを静かに見送っていた。

国連海軍の誇る第一艦隊は、

 3分の1の艦艇を失うという甚大な被害を被っていたが、幸いな事に人的被害は少なかった。



………静かな海中。



「艦長、マイクロ波による圧縮データの送信が終了しました。」

第一艦隊から少し離れた場所。

太陽の光を反射して煌めく波の下、この潜水艦は静かに身を潜めていた。

”…グィィン”

潜望鏡を下げた男が、報告を上げた副長を見る。

「ご苦労。 副長、国連艦隊の進路は分かったか?」

「ハッ。 現在、方位3−3−5へ進んでおります。」

男は、海図の上に置いた右手の人差し指を”すぅー”と滑らせて、”ピタッ”とある地点で止めた。

「その進路から推測しますと、彼らの目的地はここ、新横須賀港だと思われます。」

『こちら、ソナー室。 …空母攻撃群に随伴している原潜を補足しました!』

責任者である艦長は、ソナー室の士官からの報告に鋭い視線を投げた。

「…ふん。 やはりあの化け物に潰されず生き残っていたか。 …目標を”アルファ1”と呼称せよ。」

マイクで指示を出すと、スピーカーから即答が返ってくる。

『ハッ了解。』


……そのソナー室でモニターを注視している男は、振り向いて上官に報告した。


「マーク、アルファ1。 音紋の解析終了。 SSN−774…バージニア級、バージニアです。

 …どうやら我々の存在には気付いてないようです。」

「セカンドインパクト前に就役した最新鋭原潜の一番艦とはな。 …よし、艦長へ報告する。」

再び士官はマイクを握った。

『ソナー室より発令所へ。 …アルファ1の解析を終了しました。バージニア級1番艦バージニアです。

 アルファ1は、あと30で我々の前方を通過します。 相対距離、約4.21NM(約7.8km)。

 こちらには気付いている様子は有りません。』

「……よし、レーダーマストを下げろ。 これより深度300まで潜航する。」

副長がそれに応えて指示を出す。

「ハッ。 潜航開始! 目標深度300。 ベント開け! メインバラストタンク注水!」

「前進微速、転針3−4−4だ。」

艦長の指示に、副長が発令所に轟くような大声で復唱する。

「了解、前進微速! 転針3−4−4!」

「ヨーソロォ!」

命令を忠実に実行する操舵手が、慎重に艦を操る。

戦略自衛隊所属「おやしお」型潜水艦は、光届かぬ闇の海へと消えて行った。



………道。



少女は、久しぶりに大地に降り立った。 大型の船は揺れが少ないとは言え、やはり本物の地面とは違う。

海に慣れてしまった平衡感覚の違和感。

そんな感覚を覚えながら、初めての外国を興味深く見ようとキョロキョロと見渡してみると、

 ミサトとリツコを見つけた。

緑色の車に飛びついて”加持”の事を聞いてみると、どうやら先に帰ったようだ。

なんだ…と肩を落としていると、ちょうど良いわ…乗りなさい、と金髪の女性リツコに言われた。

あれから、15分。 そのまま有無を言わさず乗せられたこの車の乗り心地は、あまりよくない。

地面の凹凸をそのまま伝えるような固いサスペンション。 ガタガタ揺れる振動は絶えることはない。

代わり映えのしない景色に、少女はだんだんと飽きてくる。 

(なんで誰も喋らないのよ…)


……自分の耳に入るのは、ジープのエンジン音と風を切る音。


(あぁ〜、もう! 詰まんない!)

緑色のジープの助手席に乗ったアスカは、移りゆく景色をぼんやりと眺めている後ろの女性に尋ねた。

「ねぇ、ミサト。 着任の挨拶ってこれからするのよね?」

「え? ああ…そうよ。」

ミサトが当然でしょ、と答える。

「…NERVの総司令ってどういう人? かっこいい? ダンディ?」

目を輝かせるアスカの質問に、赤いジャケットを着た女性は眉根を寄せた。

「え? う〜ん…」

(かっこいいって感じじゃないし…ダンディ? う〜ん、ああいうのをダンディって言うのかしら?)

ミサトは、空に髭面のサングラスを掛けた大男を想像して、それを見たまま、しばらく考え込んでしまった。

「…余計な先入観を持たず、実際に会ってみた方がいいと思うわよ。」

白衣の女性はノートパソコンを見ながら、答えに詰まっている友人を助けた。

「そりゃ、そうねぇ。」

”ピリリリン…ピリリリン…”

「あら、電話…」

リツコに相槌を打ったミサトは、非常にかったるそうな動作で、

 ”ごそごそ”とジャケットの内ポケットを探って携帯電話を取り出した。

(…誰よ? げ!)

彼女がディスプレーに映った相手を確認すると、今までのダルそうな雰囲気が吹き飛んだ。

”ピリリ…ピ!”

「はい! 葛城です!」

『葛城一尉、本部に戻ったら、私の部屋に来たまえ。』

「ハッ! 了解しました。」

携帯電話から聞こえた、副司令官である冬月コウゾウの声は、かなりイラ立だし気であった。



………つくば。



「よし! 受信完了っと。」

衛星を経由した太平洋からのデータは、戦自研のサーバーに保存された。

”ピッ”

明るい声を出したのは、この軍事研究所に一人しかいない女の子だった。

「…ふ〜ん。 第一艦隊が運んでいたものは、新しいエヴァンゲリオンだったのね。」

偵察任務に就いていた潜水艦のデータがモニターに表示される。

潜望鏡の最大ズームで記録された写真には、紫のEVAに抱えられた見慣れぬ赤い機体があった。

「マナ、何かあったのかい?」

戦自研の責任者、所長である土井マサルが彼女のPCを覗き込む。

「はい、土井一佐。 ドイツから太平洋に戻ってきた第一艦隊です。

 どうやらエヴァンゲリオンの輸送をしていたようです。」

「赤いエヴァ……新型か? ん? これは何があったんだ?」

マサルの瞳に硝煙漂う戦場の跡が映った。

「はい、第一艦隊は、使徒の襲撃を受けたようです。」

マナは画面から視線を外さずに答えた。

「なんだって! 第3以外でも出たって言うのか!?」

「はい。 襲撃ポイントは旧伊東沖です。 今回の戦闘は海中でした。」

マナは端末を操作して、潜水艦のソナーで得られた情報を立体的なCGに変換した。

「紫のマルがEVA、白いマルが使徒です。」

再生を始めたモニターに、破線の軌跡を残しながら紫のマルと白いマルが重ねられて動く。

「最初は紫が使徒に取り付いていたみたいですね。」

”ピ!”

マナの操作で再生スピードが調整される。


……暫くすると、一つだったマルが二つに分かれた。


紫のマルを引き離した白いマルが”ぐるぐる”と動き続ける。

「使徒はどうして第一艦隊を襲ったんだ?」

「ソレを言うなら、どうして今までの使徒は第3を目指したんでしょうね?」

マナは人差し指を顎に当てて首を傾げた。

「第3、あの街に何かある…という事になるな。」

マサルは目を細めて思慮深い表情になった。



………本部。



”ピピ!”

「赤木です。 セカンドチルドレンを連れてきました。」

『…入りたまえ。』

男の高圧的な声がインターフォンのスピーカーを振るわせた。

”プシュ”

白衣の女性が部屋に入ると、それに続いてアスカも足を進めた。

(うわっ! ちょっと何よ、この部屋? くら〜い! と言うより、怪しいんですけど?)

少女が見たのは天井に幾何学的な、というよりも宗教的な模様が描かれている広大な部屋だった。

その部屋の奥に鎮座する大きな机に、肘を付いている人影が見える。

アスカは思わず足を止めてしまった。

「アスカ?」

リツコが振り返ってアスカを見る。

その視線で、”ついて来なさい”と促がされた少女は”のろのろ”と足を踏み出した。

部屋の中央を指差されて、その位置で止まる。

リツコはそのまま進みゲンドウの机の横に立った。

「碇司令、セカンドチルドレンです。」

「うむ。」

少女は、ゲンドウの向けた鋭い眼光から一種異様なプレッシャーを感じる。

(な、何で睨むのよ? …わ、私、何もしていないわよ。)

アスカは、まるで蛇に睨まれたカエルのように固まってしまった。


……リツコが妙な静寂に包まれた空気を破った。


「アスカ?」

「あ!」

アスカは”ビシッ”と敬礼して着任の挨拶を行った。

「…え、エヴァンゲリオン弐号機専属操縦者、セカンドチルドレン、惣流・アスカ・ラングレーです。」

「ご苦労。 …キミは本部着任に伴い、三尉の階級で戦術作戦部、作戦課に所属してもらう。」

「ハッ。」


……直立不動のアスカが感じたゲンドウの印象は、既に”怖いヒト”だった。


ゲンドウは、静かに訓辞を述べた。

「……使徒に勝たぬ限り、我々人類に未来はない。 期待している。 …以上だ。」

その言葉に、セカンドチルドレンは敬礼で答えた。

「ハッ! 全力を以って任務を果たします。」

「アスカの住居はジオフロントのFブロック、6−24になるわ。

 案内は頼んであるから、係の人に従って頂戴。 以上よ、ご苦労様。」

「はい。 では、失礼します。」

少女は、了承したと首を楯に動かして日本式に”ペコリ”とお辞儀をして出口に向かった。

ゲンドウとリツコは動かず、部屋を辞する少女を見送っていた。

”プシュ!”

「赤木博士、シンジは?」

「はい、シンジ君は既に帰宅しております。」

「…そうか。」

ゲンドウの視線は僅かに下に動いた。

彼の足元には、あの黒色の特殊トランクケースが隠すように置いてあった。



………執務室。



ある女性が副司令官の執務室を訪れて、すでに3時間が過ぎようとしている。

「では、聞くが”コレ”は何だね?」

冬月が紙の束を手に取った。

「ハッ。 国連軍からの抗議文です。」

「どうして、このような書類が私のところにあるのか、キミは理解しているかね?」

冬月のお小言は止まらない。

もちろん、ソレを聞かされているのは葛城ミサトである。 

言い辛そうな表情の女性を見た副司令官は、話をスタートの位置に戻した。

「…そもそも、君は一体何をしに太平洋へ向かったのかね?」

「はい。 セカンドチルドレンを迎えに、ですが…」

ミサトは直立不動の体勢で答える。

「その必要性はあったのかね?」

”ギシッ…バサッ”

イスに腰を掛けた初老の男性は、書類を机に乱暴に投げた。

「…サード、ファーストのEVA独立中隊と違い、セカンドチルドレンは作戦課のEVAパイロットです。

 作戦責任者の私が迎えに行くのも…」

「作戦責任者は、総司令官である碇ゲンドウだと私は認識していたが?」

失敗した、とミサトはバツの悪そうな表情で答える。

「ハッ、失言でした。 その通りです。」

冬月が机に投げた一枚の紙を手にした。

「キミが国連軍の命令系統に割り込んだ、コレは事実だね?」

「…はい、そのとおりです。」

「キミは戦略自衛隊の出身だ。 軍属には、骨に染みている部分だろう? 命令系統のイロハなど…」

冬月は疲れきった身体を背もたれに預けた。

「…はい。」

「今回は、NERVの面子を保つ為、キミを擁護するという処置になる。」

「え?」

「対外的には、処罰は行われない。 そういう結論になったのだ。」

「ほ、本当ですか?」

「喜ぶのは早い。」

冬月は、ピシャリ、と女性をたしなめた。

「セカンドチルドレン…彼女はかなり感情の起伏が激しいようだな?」

冬月はレポート容姿を眺めて言った。

「は、はぁ。」

どう答えて良いのやら? とミサトはあいまいな返事を返した。

「扱いづらい、と言っても貴重なチルドレンに変わりはない。 作戦課の責任者として、

 彼女をどう扱い、どうサポートするのか、数日の内に方針を決めて報告したまえ。」

「りょ、了解しました。」

ミサトは反射的に敬礼した。



………白い洋館。



「お帰りなさいませ。」

「「「「「お帰りなさいませ!」」」」」

保安部の車から下りると、自宅で待機していた5人のメイドが嬉しそうに主人を迎える。

「シンジ様、お疲れ様でした。」

この屋敷を取り仕切っているマユミが車から降りたシンジとレイに笑顔を向けた。

「ただいま。 マユミさん、みんな。」

「…ただいま。」

6人の”家族”に向けるカップルの表情も和やかなモノだった。

リビングに入ると、常人ならぬ人、シンジはちょっとした違和感を覚えた。

「ん? 誰か着ていたの?」

マユミは内心驚いたが、柔らかな表情のまま答えた。

「はい、先ほどまでユイ様がいらっしゃっておりました。」

(ユイ様、申し訳ございません。 やはりシンジ様は、お気付きになられてしまいました。)


……この屋敷を仕切る筆頭メイドは、帰り際に秘密にしておいてね、と笑顔で去った女性に心で詫びた。


「ま、いいや。 それよりもお腹がすいちゃったよ。 これから夕飯をお願いしてもいいかな?」

その言葉に、シホとカズコが大きく頷いて、厨房へ消えて行った。



………執務室。



”ゴトッ”

大男の手によって、大きな机の上に特殊なトランクケースが載せられた。

”カシュン、カシュン、カシュン……”

ゲンドウは、何かを確認するかのように、執務用の机の下に隠しておいたトランクケースの鍵を開け始めた。

”パシュー…”

ゆっくりと蓋を開けると、一定温度に保つ為に密封されていた箱の中から空気が漏れた。

オレンジ色の特殊ベークライトによって固められているモノ。 最初の人間…アダム。

彼は、加持リョウジの手前、さも知っているかのように振舞ったが、

 実際に見た事があるのは、ドーラによって見させられた前史の映像だけであった。

”ゴクッ”

身じろぎ一つ出来ない小さな使徒。 このベークライトを融解させて、摘出し、自分の体内へ誘う。

”自分”ではないが、間違いなく”自分”がやったこと。

(私は、自分とこんなモノを融合させたというのか…)

マトモじゃない…とゲンドウは、イスに腰を落とした。

どのような精神状態であれば、出来ることなのだろうか?

失うモノがない、求めるものしか目に入らない…そんな狂人の所業。


……それに比べて、今の自分は何と弱いのだろうか。


…弱い? いや、違う。 ”失う”という単語から男の脳裏に妻や息子の顔が連想された。

そうだ、弱いのではない…とゲンドウはかぶりを振った。

護りたいモノがあるという事が、どれだけ自分に力を与えてくれているのだろうか?

自分がやってしまったこと。 ゲンドウは前史の事をそう考えている。

やり直しのチャンスをくれたのは、愛する息子であった。

こんなものに頼らずに、自分はやっていける。 やりとおしてみせる。

ゲンドウは強く瞳を閉じると、決意を新たにするのだった。

無音の空間。 広大な執務室にいるのは、自分だけ。 この空間の空気が揺れたのはそんな時だった。




………マスターベッドルーム。



明日への準備が終わり、睡眠を取る為の時間になった。

いつもの通り、全ては平常のまま。 穏やかな空気の中、シンジはベッドで本を読んでいた。

蒼銀の少女が素足のまま歩いて、大きなベッドの側に立った。

「…碇君。」

彼女は、いつもの通り少々の恥じらいを伴いながら、ベッドカバーを少し捲り潜り込む様に彼に身を寄せた。

”きゅ”

幸せ一杯、彼の温かさを満喫中です……という表情。

彼女を迎え入れた少年も、愛しい彼女の柔らかな蒼い髪を”そっ”と優しく撫ぜる。 

「あ…」

しかし、シンジは、突如”ある事”に気がついて申し訳なさそうな顔になった。

「綾波、ごめん。 ちょっと行って来る。」

普段であれば彼女の返事を聞く少年であったが、この時は、ソレを待たずに瞬く間に消えてしまった。

”スゥ…”

「え?」

部屋に残されたのは、突然のことに”きょとん”とした表情のレイだけだった。





アダム。−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−





………執務室。



『我を求めよ…』

「……む?」

自分以外誰もいない空間に聞こえた声。 無音の部屋に突然聞こえたその声は、かすれそうに小さかった。

自身の思考にふけっていたゲンドウは、空耳か? と周りを見渡した。

『…我を見よ…』

また聞こえた。 先ほどと同じように小さいが、よりハッキリと聞こえた。 

男とも女ともいえない無機質で冷たい声。 その声色に、ゲンドウの心に本能的な警報が鳴った。

(…な、なんだ? この異様な雰囲気は?)

『我を認識せよ…』

目の前に開け放たれたままの箱。 どうやら声はそこから聞こえているようだ。

しかし、それは空気を振動して伝わる”音”ではなかった。 直接自分の脳に響いているような声だった。

『…我を求めよ…』

ゲンドウが感じ取っているのは、第一使徒の放った”波動”だった。

彼は、それを脳で感じ取ったまま”自分の言葉”に変換しているのだ。

だから何もアダムが日本語…いや、人類の言葉を発しているわけではない。

ゲンドウは、何かに操られるように”のろのろ”と腰を上げた。

(…な、なぜ、身体が勝手に動くのだ!?)

そして、ゆっくりと視線を落として、異形の物体を見た。

その大きな眼は、”既に”自分を見ていた。

ゲンドウは、まるで縫い付けられたかのように、その眼から目が離せなくなってしまった。

『…手を伸ばせ…』

サングラスの男は、拒否する、躊躇する、という事もなく…ごく自然に自分の手を動かした。

(っ!)

『…そうだ。 そのまま我を求めよ…』

特殊ケースに仕掛けてある、オレンジ色の硬化ベークライトを除去するスイッチに手が伸びる。

(う…い、いかん! くっ!)

止まれ、止まれ、と強く命令をするが右手は動く。

動け、止まれと相反する命令を受けている男の指が”ぶるぶる”と上下に痙攣し始める。

「い、かん…」

ゲンドウが苦しそうに呻いた。

そして、雌雄を決したのか、男の指が正にそのスイッチを押そうとする、その瞬間だった。


……この部屋に侵入者が現れたのは。


”パチンッ!”

突然、指を鳴らす甲高い音が部屋の隅々にまで響き渡った。

その音を聞いたゲンドウが、まるで催眠を解かれたように”ハッ”と目を大きくする。

「そこまでだよ、アダム。」

そのまま彼が顔を上げると、自分の目の前に息子が立っていた。

「し、シンジ…」

「父さん、危なかったね。」

少年は、右手をトランクケースに向けながら答えた。

”カタン…”

トランクケースの中からオレンジ色ベークライトの塊が、”ふわり”と目の高さまで浮かんだ。

「どうしてここに? いや、私は今なにを?」

「ん、アダムの出した波動に気付いてね。 さっきの父さんは、コイツに操られそうになっていたんだよ。」


”グググ…グゥ…バカンッ!”


シンジはベークライトを粉々に砕いて、アダムを抜き身にした。

「ま、弱すぎて綾波やリリスは気付かなかったみたいだけれど。」

白銀の少年は、1mにも満たない微弱な波動じゃあしょうがないよねぇ…と肩を竦める。

(よかった、父さんに影響はないみたいだね。)

そして、ゲンドウを観察するように見た少年は、とにかく間に合ってよかったと笑顔になった。

「ゼーレは、このアダムを魂の抜け殻だと思っているんだろうけれど、それは根本的な間違いなんだ。」

ゲンドウは、少し痺れている右手を左手で擦りながら息子に問うた。

「どう言うことだ? ゼーレは、アダム再生計画は第2段階へ移行した、と言っていたぞ?」

「培養したアダムの肉体に生命反応が出たからそう考えたんだと思うけれど、

 それはこのアダムの魂の一部に過ぎないんだ。」

「そのアダムをどうするのだ?」

「アダムは今までの使徒とは次元の違う存在だからね。 だから、今ここでサードインパクトを起こす。」

「な!?」

髭の男は息子の言葉に目を見開く。

「ドーラ、MAGIの全てのデータをダミーにして。 

 これから起こる事は、父さんの端末だけに表示するように。」

『は、はい。 畏まりました、マスター。』


……ゲンドウの特殊端末に現れた女性は了承を告げたが、その顔は驚きに満ちていた。


そして父親のモニターに様々なデータが表示される。

比較し易いように左半分にセカンドインパクトのデータ、そして右側に現在の測定データが表示されていた。

シンジは空中に何かを描くように右手を動かした。

少年の人差し指が見えない円をなぞるように動くと、空中に光の輪が出来た。

不思議な色で輝いているその光の輪は、全部で10個。

「ちょっと、この部屋を利用させてもらうよ。」

シンジが右手を勢いよく振り上げると、その光の輪は天井に描かれていたセフィロトの樹に吸い込まれた。



”…ズズズン!”



地響きのような鋭い振動が、薄暗い部屋を揺らした。

「ぐ、な、何だ!?」

倒れぬように机に掴まったゲンドウが天井に目をやると、10個のセフィラが鈍く輝きだした。

”ヴァァ…”

そして、燃え盛るように輝く炎の線が、それら全てに向かって伸びるように描かれていく。

天井一面の模様が、まるで命の息吹を吹き込まれたかのように強く光り始めた。

「まさか…本当にサードインパクトを、儀式を行うというのか、シンジ?」

目を大きく開いた父は、無意識に”ゴクッ”とつばを飲み込む。

「安心してよ、父さん。 本当のインパクトではないよ。 

 単純にアダムの自我を消し、エネルギーへと変換させて…僕が吸収する。

 あ、でも今、天井の動いているのは、儀式に必要な本物のセフィロトの樹…生命の樹さ。」

笑顔のままそう答えたシンジは、机の上に浮かんでいるアダムに向けて左腕を上げた。



………執務室。



パソコンのモニターは暫く放置されていたのか、スクリーンセーバーが起動している。

そのモニターの正面には、一人の女性がイスに座っていた。

彼女は、小さな紙を”じっ”と見詰めて動かなかった。

(…何の音沙汰もなしじゃ、失礼よね。やっぱり…連絡してみようかしら。)

J.A.の披露会で、戦自の将校から貰った小さな紙を見ている女性は、迷っているような表情で息をついた。

「ふぅ。」

コーヒーカップを手に取り、”ゴクッ”と一口飲むと、意を決したリツコは携帯電話を取り出した。

”ピリリリ…ピリリリ…ピリリリ…”

”ドキン、ドキン、ドキン、ドキン…”

耳につけた携帯の呼び出し音より、自分の鼓動音の方が大きく聞こえる。

「…はい、もしもし?」

携帯から男性の声が聞こえた。

「あ、あの、お久しぶりです。 …赤木です。」

「あ! お久しぶりです。」


……少し上ずったような声を出した相手の男性は、誰からの電話なのか、すぐに気が付いたようだ。


「は、はい。」

リツコは、この男の声を聞いただけで、自然と頬が熱くなってくるのを自覚した。

「いや〜嬉しいです! まさか電話していただけるとは……ありがとうございます。 

 正直、ダメかなって諦めかけていたんですよ。」

はははっと笑いながら話す男性は、本当に嬉しそうな声だった。

「あの、直ぐにお電話を差し上げる事が出来ませんでした。 すみません。」

「いえいえ、それだけお忙しいのでしょう。 で、今日はどうされました?」

「え?」

用も無いのに電話をしたのか? そう捉えたリツコは相手を不快にさせてしまったと思い焦りが出てくる。

「あ、あの…すみません。 特に用というモノは…」


”…ズズズン!”


「きゃ!」

「どうしました? 大丈夫ですか!?」

「え、ええ。 地震みたいですわ。 もう収まりましたけれど。」

「そうですか。 お怪我は有りませんか?」

「ええ、大丈夫ですわ。」

「…そうですか、よかった。 …あの、どうですか? 一度…私用でお会いになっていただけませんか?」

「え…あ、はい。 あ…」

思わず了承してしまったが、これはデートの誘いだ、と気が付くとリツコは落ち着きなく視線を動かした。



………執務室。



シンジが左手をアダムに向けると、”カッ!”と金色の光が部屋に溢れた。

「うおっ!」

今起こっている事象を見逃すまい、

 とつぶさに観察していたゲンドウは、突然の眩しさから目を保護する為に思わず手を動かしてしまった。

それは、まるで太陽が現れたかのような眩しさだった。


”キィィィィン………ボッ…”


ゲンドウが手の隙間から窺い見ると、アダムであった物体は、太陽のように炎を噴き出す球体になっていた。

少年の瞳の色は、その炎の色を反射して普段よりも深く濃く真紅に輝いている。

左手と右手を合わせるように動かすと、小さな太陽は、セフィロトの樹の中心より少し上の中に納まった。

その場所は、11個目の隠れたセフィラ…色のついていない見えない光の輪、

 透明色の”ダアト”と呼ばれる”知”を司るセフィロトの樹の一番深淵にある部位であった。

小さな太陽から新しい炎の軌跡がそれぞれのセフィラに向けて伝わっていくと、

 全ての輪が更に輝きを増していく。

”ヴォォォォォォ…”

パソコンのモニターに、凄まじい速度でデータが表示される。

”ピピピピピ!”

父は机のモニターのスピーカーの音に目をやって、見てしまったデータに目が離せなくなってしまった。

「まさか、これは…セカンドインパクトと同じ? そんな…本当に、ここでサードインパクトが……」

シンジが両手を天井の輝く生命の樹に向ける。

「南極で検出されたアダムのアンチATフィールドなら心配要らないよ。 

 …今この部屋は外の世界と切り離してある。 だから一切、外に影響はないよ。」

ゲンドウは息子の言葉に、なに? ちょっと待てよ…では私は? という疑問が浮かんでしまった。

「ちょ、し、シンジ…」

父は白銀の少年に声を掛けるが、その少年は、儀式に意識を向けているのか、振り向きも返事もしなかった。

「…さぁ、全てのセフィラを今ひとつに。」

シンジが呪文のような言葉を紡ぐと、輝く模様が動き出す。

”ズズズズズ……”

それは中心に引き寄せられる銀河系のような渦に変化した。

部屋を覆っていた閃光はその強さを弱め、鈍いオレンジ色の光に変わっていく。

そして全てが一つに纏まると、60cmくらいの大きさの太陽が創られていた。

向かい合うように立つシンジとゲンドウの中間に浮かぶ灼熱の玉。 父は不思議と熱さは感じなかった。



………部屋。



静かに本を読む少女レイは、白いソファーに座ってティーカップに注いだ紅茶に新鮮なミルクを加えた。

(…ふぅ。)

白いカップから漂う柔らかな香りに深紅の瞳を閉じた彼女は、先ほど消えてしまった少年に想いを寄せた。

(…碇君。)

蒼銀の少女は、シンジが消えた後、どこに行ったのかと愛する少年の波動を感じ取る為に意識を集中させた。

そして、間を空けずに感じ取ることが出来た彼の波動の場所は、NERV本部であった。 

彼女は何か急ぎの用があったのだろう、と考え”ホッ”と肩に入った力を抜くことができた。

彼が帰ってきたら何か温かい飲み物でも飲んでもらおうと、少女は味わい深いアッサムの紅茶を用意した。

テーブルに湯気立つポットを置き、暫く待っていようと思っていた時にシンジから波動で呼び掛けられた。

『…綾波…』

『…碇君。』

『ごめん、急に出ちゃって。 …これからアダムを分解、吸収するから。』

『時間、掛かるの?』

『父さんに説明とかするから、30分くらいかな。』

『判ったわ。』

『じゃ、あとで。』

『…待ってる。』

彼の温かな波動の感触が消えると、レイは立ち上がって読みかけの本を手に取った。

”ペラ…ペラ…”

少女は、白いイスに腰をかけて本を読み始める。


……ページをめくる音しかしない、静かな時間。


しかし、本に向けられた彼女の深紅の瞳は、印刷された黒い活字を追ってはいなかった。

レイの意識は、ずっと少年に向けられていた。

(…碇君。)

相変わらず、少年の波動はNERV本部にある。

どうやら総司令官執務室の空間は、次元をずらして閉鎖されているらしい。

蒼銀の少女は、シンジの行っている作業をほぼ正確に把握する事が出来ていた。

(…あとは、吸収するだけ。)



………執務室。



「シンジ、これは?」

ゲンドウは今ここで行われている超常現象に、一歩も動くことが出来なかった。

「コレはアダムのエネルギー。」

シンジは父に答えながら、手の届く距離までゆっくりと足を進めた。

「さぁ、最後の仕上げだよ。」

少年は、炎の玉を両手で包むように挟む。 するとその小さな太陽は、見る見る間に縮んでいった。

圧縮されていく太陽は、ビー玉くらいの大きさになってしまった。

「後は、僕が吸収するだけさ。」

シンジが右手でその小さな光玉を掴む為に右手を動かした。

「大丈夫なのか?」

ゲンドウは再び暗くなった部屋を見渡しながら、息子に聞いた。

「うん。 特に問題はな…」

シンジがアダムの玉に触れた瞬間だった。

「…!!!」

ゲンドウは、余りに突然の”こと”に数瞬の間、まったく反応できなかった。

我に返ったサングラスの男は、目を大きくさせて慌てたように辺りを見渡した。

「…し、シンジ!!」

しかし、返事はなかった。 なぜなら、白銀の少年は光の玉と共に忽然と消えてしまったのだから。



………部屋。



”カシャーン!”

レイは、手に持っていたティーカップをテーブルに落としてしまった。

(…え?)

少女は、何か大切なモノを落としてしまったのだろうか? 彼女は突如立ち上がって、辺りを見渡した。

「い、碇君?」

今の今まで感じていた愛する少年の波動が、突然……消えた。 

レイは必死になってNERV本部を中心にサーチしてみたが発見する事は出来なかった。

(いや!!)

愛する人の突然の消失。 初めて体験する感覚にレイの身体が小さく震え始める。

「い、いや…うそ…」


……彼女の力をフルに使ってサーチしても、シンジの気配はこの時間のどの次元にも存在しなかった。


カーペットの上に”ぺたん”と座り込んだ蒼銀の少女は、自分の肩を両腕できつく抱いた。

それでも身体は勝手に”ガタガタ”と震える。 レイは自分の細い肩を抱く腕によりいっそうの力を込めた。

そうしなければ、自分の身体がバラバラに千切れてしまいそうだったから。


自分の心が砕けてしまいそうな感覚。 

深く冷たい喪失感。 

自分の心が、光のない闇に飲み込まれていく。

認めたくない事態に、思考能力がその活動を放棄し、頭の中が何も無い白色に支配されていく。



……しかし、時間だけが日常と変わらず音もなく過ぎる。


彼女が動きを止めてどれほどの時間が過ぎたのだろうか。

”コトッ”

…小さな物音に続いて、この部屋に女の子の声が聞こえた。

「大丈夫? レイちゃん。」

蒼銀の少女が、糸の切れた人形のようにぎこちなく首を横に動かす。

その深紅の瞳に映ったのは…

「り、りす…」

いつの間にか、茶色の短パンに白いシャツというラフな格好の幼女が立っていた。

「そう。 ”私よ” 判るでしょ? 私は”いる”わ。」

レイは幼女を見て、彼女の言葉の意味を噛み砕くようにゆっくりと咀嚼していく。

「……………そう、ね。」

蒼銀の少女は上手く力が入らないのか、”ふらっ”とよろけながらも足に力を込めて立ち上がった。

リリスはレイを見て力強く頷いた。

「…そうよ。 私が存在している限り、お兄ちゃんは存在しているわ。」

愛する少年が失われていない事は、リリスが証明してくれた。

シンジによって創られた彼女の魂が存在する限り、少年は失われていない。

蒼銀の少女のルビー色の瞳に力が戻ってきた。

「リリス。」

「何?」

レイは凛とした声で言った。

「碇君を探しましょう。」



………草原。



”サァァァァ………”

牧草が、駆け下りる風に揺れる波のようになびいていく。 

それは若葉の香りが辺り一面に漂いそうなほど、鮮やかな緑色だった。

「…ん。」

小さな吐息と共に、喉を振るわせた小さな声。 その子は、震えるように”ゆっくり”と瞼を開いていく。 

その瞳に映ったのは、突き抜けるように透明感のある澄んだ青い空。

ボンヤリとした男の子の目に、千切れたような白い雲が”ゆったり”と風に流されているのが見えた。

「やっと、気が付いたんだね。 …大丈夫かい?」

静かな世界に、突如として聞こえた声。

「え?」

まだ意識のハッキリしていない自分。

「…キミ、大丈夫かい?」

ちゃんとした返事をする前に、再び同じ事を聞かれてしまった。 

声の方向へ顔を向けると、自分を覗き込むように見ている人がいた。

「………?」

少年が見たのは、紅い瞳に灰銀色の髪。

黒髪の少年は上体を起こして、周りの景色を見た。

「…ここは?」

「ここは僕の世界だよ。」

シンジは、横に座っている少年を再び見た。

そして”誰”が横にいるのか、ようやく気が付いたシンジの黒色の瞳が驚きに大きくなった。



「え!? か、カヲル君?」



彼が見たのは、白いカッターシャツに黒いズボン。 第壱中学校の制服を着た少年だった。

「ふふっ。」

その少年は、面白そうに笑った。

「僕はカヲル、じゃないよ。」

「え?」

「僕はアダム。 キミに消されそうになったアダム。」

「あ、え?」

灰銀色の髪を揺らして、少年は立ち上がった。

「いや、キミが僕を肉体から解放してくれて良かったよ。 あの小さな身体じゃ巧く力が使えなくてね…」


……驚きの表情を顔に貼り付けたまま、シンジは彼の顔を見上げた。


「そして、僕を解放してくれたキミに興味を抱いてね。 触れた時にこっちに来てもらったんだよ。」

アダムは、いたずらが成功した、と無邪気な笑顔を少年に向けた。

「なぜ、キミはカヲル…いや、タブリスと同じカタチを?」

シンジは隣の少年に倣うように、ゆっくりと立ち上がった。

「ん…同じ、と言われてもね。 コレが僕のカタチだよ。 それよりもキミの名前を教えてくれないか?」

少し困った顔になった少年は、すぐ元の笑顔になった。

「そう……か。 僕はシンジ。 碇シンジだよ。」

「ふ〜ん。 シンジ、碇シンジね。」

アダムは興味深そうに、目の前の黒髪に黒色の瞳の少年を見詰めた。

「どうしてなんだろう?」

「え?」

このアダムの突然の問い掛けは、シンジにとって脈絡もなく意味を理解する事は出来なかった。

「この僕を自由に出来るほどの力を持っていたキミ。 でも今はそのカケラもない。 どうして?」

その問いに、シンジは自分の状態に初めて気が付いた。

(アッ!)

自分の身体を見てみれば、少し揺らいでいる。 精神体……魂のような状態だろうか。

そして、意識しても波動が使えない。 もちろんATフィールドも制御出来ない。 

「ここはどこなの?」

シンジは自分の肌色の右手を見ながら、隣の少年に問い掛けた。

「ふふっ。 さっき言っただろう? ここは僕の世界。 精神的な世界と言って良いかもしれない。」

小さな丘の上に立つ二人の少年の眼下には、なだらかな坂があり、遠くの青い海へと続いているのが見えた。

「…だからさ。」

「え?」

今度はアダムがシンジの答えを理解できなかった。

「僕の力の消失の原因は、僕がココにいるからだよ。」

「どういう事?」

アダムは興味深そうにシンジを見た。

「ま、座ってよ。 キミには全て話そう。 聞く権利もあると思う。」

シンジは草の上に座ると、そのまま”ごろん”と横になってアダムに問い掛けた。

「ねぇ…僕の存在、キミはどう感じた?」

アダムは空を見ながら答えた。

「う〜ん。 面白い感じだったね。 僕のようでもあったし…リリスのようでもあった。 …でも違う。」

「そうだね。」

シンジは興味深そうな紅い瞳の少年に、自分の物語を語りだした。 

「最初はね、何も無かった。 僕には何も無かったんだ。 ………それがとてもイヤだったんだ。」



………執務室。



”ギシッ”

男は自分のイスに腰を下ろし、机に肘をついて手を組んだ。

彼の目の前には、空のケースが置いてある。

”ピッ…ピッ…ピッ…”


……動きを止めたカーソルが点滅するパソコンのモニターは、息子が消えた瞬間から止まったままだった。


「一体どうしたと言うのだ?」

ゲンドウは、何とも言えない違和感を覚える。 先ほどの儀式は突然終わりを迎えたのか?

しかし、父は”事”が旨く終わったように感じなかった。 なぜなら、息子は喋っている途中で消えたのだ。

ドーラに聞こうと、パソコンに問い掛けてもあの女性は現れなかった。

今、何一つ物音のしないこの部屋は、元の状態に戻っていた。 天井の模様も、元のままだ。

「ふぅ。」

ゲンドウがため息のように深く息を吐いた時だった。

「…司令。」

抑揚のない小さな女性の声がこの部屋に響いた。



………草原。



どれくらいの時間が経ったのだろうか…それは正確には分からない。

この世界は、いつまで経っても空は青いままであったし、太陽の位置も変わらなかった。

「……どう? これが僕の物語さ。」

遠い空を見る黒髪の少年が、上体を起こして隣のカヲルそっくりの少年に聞いた。

灰銀色の少年は、ボンヤリとした表情で眼下の景色を見ていたが、シンジの顔を横目で見て答えた。

「そうか。 君の力が失われたのは、その綾波レイって娘と離れた空間にいるからなのか…」

「う〜ん。 空間と言うより時間かな。 この世界に時間って概念はないみたいだし。」

「あ、気が付いていたんだ。」

アダムは、”へぇ”と少し意外そうな表情をシンジに向けた。

「力が使えなくても、知識を失ったわけじゃないからね。」

黒髪の少年は少し笑いながらアダムを見た。

「知りたい事は分かっただろう? ……で、僕をどうするの?」

この世界はアダムのものだ。 現在のシンジに、ここをどうする力もない。

「キミをどうするか?」

彼はとても不思議そうな顔をした。 そして、可笑しそうに笑った。

「クッ…ははは! あは、ハハッ!」

それは、とても澄み切った笑い声だった。

「…碇シンジ、少し歩こう。」

肩を揺らして笑っていたアダムは、立ち上がって、隣に座っている少年を見た。

「いいとも。」

少年二人は、草原の丘から歩いて下り始めた。



………執務室。



「説明してください。」

男の耳に聞こえたのは、抑揚のない声。

この部屋に突如として現れたのは、戸籍上の蒼い髪の姉妹だった。

姉の声が少し強張っているとは、やはりシンジはどうかしてしまったのだろうか?

ゲンドウは、観察するように静かにファーストチルドレンを見た。

「……いいだろう。 その前に、ユイもここに呼んでいいな?」

「ええ。 リリス、お願いしてもいい?」

「いいわよ、ちょっと待っていて。」

返事をした幼女は、一瞬にして消えた。

「…そこに掛けて待っていなさい。」

「いいえ、お茶を用意します。」

「…そうか。」

クルッとスカートを翻してスタスタ歩いていく少女。 その後姿を見やったゲンドウは、小さく息を吐いた。

彼は、彼女が少し苦手であった。 前史、自分が彼女に何を求めて、何をしたのか知っている。

雰囲気はぜんぜん違うが、姿が似ているというだけで彼女を通して愛妻を見ていたのだ。

そんな目で見られていた彼女は、さぞいい気はしなかっただろうと、そんな事を彼は考えていたのだ。


……実の処、レイは今のゲンドウが自分をどう思っているのか、など気にした事も考えた事もないのだが。


レイは、シンジ以外の存在など眼中にないのだ。 彼女は、あの少年さえいれば良いのだから。

確りとした歩調で歩く少女は、冷静に、落ち着いているように見えるが、その心中は穏やかではなかった。

一刻も早く彼を探したい。 彼のために力になりたい。 彼の側にいたい。

このような状況になると、改めて、いかに自分が日頃から彼に依存しているのかが分かった。

彼でなければいけないのだ。 早く、一刻も早く彼の許に駆けつけたい……

そんな事を考えながら、レイはポットにお湯を注いで”ふう”と深いため息をついた。



………自販機。



”ガコッ!”

機械の下に出てきた缶ジュースを取る。

先ほどの地震は、不思議なことに余震も何もなかった。

そして、この施設には特に影響がなかったようだ。

(さっきみたいな地震、多いのかしらね? そう言えば、日本って地震大国なんて呼ばれてたわね…)

”プシッ”

開けられた飲み口から甘い炭酸飲料の香りが周りに漂う。

彼女が、もう寝よう…とベッドに身体を休めた時に、突然短い地震に襲われたのだ。

ソレが原因で、なんだか眠気が覚めてしまった、と紅茶色の髪の少女はあてがわれた部屋を出たのだ。

アスカは、少し散歩でもしよう…と決めて、しばらく本部の中を探検するように歩いていた。

ちょっと、のどが渇いてきたな…と彼女が思った時に、都合よく曲がった先に自販機が見えたのだ。

”ごく、ごく…”

「ぷはぁ…あ〜冷たくて美味しい。」

「あら、アナタは…」

「ん?」

アスカが声の方へ振り向くと、黒髪のショートカットの女性が立っていた。

「アスカちゃんじゃない。 こんな所で何しているの?」

女性は、人懐っこそうな笑みを浮かべて歩いてくる。 


……人の事を初対面で”ちゃん”付けか、と紅茶色の少女は思ったが、大人な彼女は気にしないと決めた。


「えーと、アンタだれ?」

「あ、ゴメンなさい。 私は技術開発部の伊吹マヤって言うの。 MAGIのメインオペレータよ。

 EVAについてもセンパ…じゃなくって、赤木博士の助手をしているから。 これからよろしくね?」

マヤは、両手で持っていたバインダーを”よっ”と左手にずらして、自由になった右手を彼女に向ける。

「そう、マヤね。 よろしく。 セカンドチルドレンの惣流・アスカ・ラングレーよ。 アスカでいいわ。」

アスカは、技術開発部の制服を着た女性が差し出した右手を見て、”ぎゅ”と握手してあげた。

「アスカちゃん、もう結構、夜遅いわよ?」

心配そうな表情になるマヤ。 しかし、子ども扱いはアスカの望むコミュニケーションではない。

「そう? まだ大した時間じゃないわ。 私、もう少し散歩してから部屋に戻るから。」

「でも、ここに着たばかりでしょ? 本部って結構広いから、迷っちゃうわよ?」

「ハッ。 そんなのそこらに、たっくさん案内板があるじゃない。 コレで迷う人間なんているのかしら?」

女性は、何とも言えない曖昧な笑顔になった。 彼女はリツコの許でアルバイトし始めた時、迷ったのだ。

マヤは、この複雑に入り組んだ施設を把握し使いこなすまで、実は1年近くの時間を必要としたのだ。


……そして、コンフォート17でも盛大なくしゃみをしている女性が居たが、それはどうでも良いことか。


ショートカットの女性は、目の前の少女から何か見透かされているような視線を感じる。

何かを誤魔化すかのように明るい声が、マヤの口から”すらすら”と出ていった。

「そ、そうね。 もし迷子になっても内線電話があるし、ここは24時間体勢で人がいるから安心よね。」

「ふ〜ん。」

(うう、アスカちゃん、そんな目で私を見ないでぇ。)

「あ、いけない。 じゃ、じゃ〜アスカちゃん、私、仕事に戻るね? これからもよろしくね。」

マヤは、少し引きつったような笑みを浮かべて足早に去って行った。

「…ふっ…迷ったのね、あの人。」

アスカはマヤの背中を半眼で見ながら、飲みきった缶ジュースをゴミ箱に投げ入れた。

”シュ……ガシャ!”



………部屋。



レイが応接セットに紅茶を入れたポットとティーカップを載せたトレイを持ってきた。

そのソファーには、既にリリスによって連れてこられたユイが座っていた。

やはり白衣を羽織っているダークブラウンの女性。

彼女は、お茶を用意してくれた空色の髪の少女に、お辞儀をしながら御礼を述べた。

「ありがとう、レイちゃん。」

「いえ。」

少女はテーブルにトレイを置くと、そのまま座って視線をゲンドウに向けた。

「司令、説明をお願いします。」

お茶を用意する作業を引き継いだユイが、白いカップに紅茶を注ぎながらゲンドウを見る。

”…コポコポコポ…”

「あなた?」

サングラスの男は、いつもの通り手を組んだ姿勢を崩さずに答えた。

「さきほど、このケースを開けたのだ。」

「ゲンドウさん、それは?」

「アダムよ、ユイかあさま。」

ユイの疑問に答えたのは、彼女の横に座っていたリリスだった。

「そうだ。 この箱には第一使徒、アダムが封印されていたのだ。」

「はい、レイちゃん。」

「すみません。」

少女は視線だけをティーカップに向けて、それを受け取った。

「…箱を開けたまま、しばらくすると声が聞こえたのだ。」

「声?」

ユイの夫を見る目が少し細まった。

「いや、それは適当な言い方ではないかも知れん。 直接、頭に響くような感覚だった。」

「…それは多分、アダムの波動。」

レイは呟くように言った。

「ああ、シンジもそう言っていた。 余りにも微弱すぎてキミ達では感じ取れなかったとも言っていた。」

”…パタン”

ゲンドウは立ち上がって、黒いケースを閉じた。

「そして、シンジはアダムをエネルギーへと変質させ、吸収すると言ったのだ。」

「変質、吸収?」

ユイが思わず声を出すが。

「…それで?」

と、レイは続きを促した。

「シンジはこの部屋に描かれているセフィロトの樹を利用し、アダムを太陽のような玉に変化させた。」

ゲンドウは、そして、と言葉を続けながら、イスに座った。

「シンジが小さな玉に圧縮させた”それ”に触れた瞬間だった。 その瞬間、アイツは玉と共に消えた。」

サングラスの男は、再び手を組んだ。

「…リリス?」

「うん、そうだね。」

レイとリリスはお互い見合うと、”コクリ”と頷いた。

「どういう事?」

聞き役にしかなれない母親は、隣に座る幼女に聞いた。

「アダムを解放したのよ、お兄ちゃんは。」

「自我を消す、と言っていたが?」

幼女は、”ふるふる”と首を横に振った。

「多分、そんな簡単にはいかなかったのよ。」

よく分からないが、息子はしくじったらしい。 ソレを理解したユイは、瞳を大きくした。

「…そんな。 そ、それじゃ…シンジは、シンジは無事なの?」

「はい。 リリスが存在している……いえ、彼女が生きている限りは。」

レイは取り乱し始めたユイに冷静に言った。



………海辺。



二つの人影が、白い砂浜の上に立っている。

特に会話をするわけでもなく、二人の少年は静かに海を見ていた。 

目の前に広がる青い海の揺れる波が、太陽の光を反射して煌いている。


”ザザザァァァァ……ザザザァァァァ……ザザザァァァァ……”


寄せては引いていく波。 そして海風が優しく吹く。 しかし、不思議なことに海の匂いはしなかった。

「…永い時を休眠していると、匂いの記憶なんて薄らいでいっちゃうんだね?」

シンジがカヲルと同じ顔の少年に呟くように聞いた。

「…そうか。 ココに足りないには、匂い…匂いだったのか…」

アダムは隣の少年を見て、納得したような表情で小さく頷いた。

「こんな感じでどうかな…」

シンジは自分の知っている潮の匂いをアダムに教えた。

「ああ、そうだ。 確かにこんな匂いだったよ。」

穏やかな表情の少年。 その顔を見ていたシンジは、再び青い水平線に視線を動かした。

「ねぇ、アダム…」

「なんだい?」

アダムは、カヲルのようなアルカイックスマイルで、海を見ているシンジの横顔を見る。

「さっきの質問に答えてよ。」

そんな灰銀色の少年を見る事なく、黒髪の少年は笑顔のまま言った。

「え?」

アダムは不思議そうな顔になった。

「僕をどうするのかって聞いたじゃない…」

「ああ。 どうしようかな。 ここは僕の世界。 僕の自由な世界。 キミを消滅させることも出来る。」

アダムは、面白いおもちゃを手に入れた子供のように無邪気な笑顔をシンジに向ける。

「キミは何か、勘違いをしているんだね…」

そんな灰銀色の少年を見たシンジは、小さくかぶりを振って哀れむような表情になった。



………執務室。



レイは、先ほどから瞳を閉じて、左手の薬指にはめている蒼い指輪を右手で触っていた。

時折、蒼銀の少女が、愛する彼から貰った大切な宝物の存在を確かめるように瞳を開いてジッと見詰める。

その指輪を確認すると、またレイは瞳を閉じて右手で包むように触る。 彼女はコレを繰り返していた。 

ユイはレイの様子を見て、今…彼女が静かに見詰めている指輪に興味を抱いた。

「レイちゃん、その指輪…」

「ユイかあさま、アレはお兄ちゃんがレイちゃんにプレゼントした特製の婚約指輪だよ。」

リリスが、少女の邪魔をしないように小さな声でユイに教えたあげた。

「特製って?」

「お兄ちゃんが持つ力を使って創った指輪。 材質は、この世には存在しないものよ。」

レイは、暖かな波動を出す指輪に意識を集中させていた。

(……碇君。)

私と彼の絆は、時間さえも超越するのだ。 

今、感じることが出来なくても、いつか彼の存在を感じることが出来るだろう。

この指輪が、きっと導いてくれる。 彼の許へ。

だから、少しの変化も逃すまいと、レイは蒼いリングに意識を集中させていた。



………砂浜。



「え? 何だって? 勘違い?」

アダムは不思議そうな顔になった。

「そう。 キミは勘違いをしている。」

「なにを?」

「僕は力が使えないだけ。 力を失ったわけじゃないんだよ?」

シンジは知っているのだ。 因果律さえも覆す自分と蒼銀の少女の絆の強さを。

「よく分からないな… 同じことじゃないか。」

「違うさ。」

アダムが首を振ったシンジを見て、肩を竦めた時だった。

「じゃ、教えてよ…」

”ドスッ”

突如、鋭い衝撃がシンジの左側を襲った。

「っ! く…」


……青い空に彼の左腕が”くるくる”と宙に飛んでいた。


突然襲った苦痛に、唇を噛み締めたシンジは、黒い瞳を”ぎゅっ”と閉じる。

アダムは軽くジャンプして、”それ”を手にした。

「ふふっ。 どう? 精神体でも痛いんじゃないかな? 腕を失った痛み…どうだい?」

灰銀色の少年は、

 右手に持った”腕”を自慢するように持ち上げ、自分より少し背の低い黒髪の少年に笑顔を向けた。

深呼吸するような息をついて、シンジは閉じていた黒い瞳を”スゥ…”と静かに開いてアダムを見る。

「ああ、確かに。 確かに痛いね。 でも…」

「ん?」

アダムが、自分の自由になる面白いおもちゃを観察している紅い目を細めた。

「……僕は、こんな痛みには慣れているんだ…」

灰銀色の髪を掻き揚げた紅眼の少年は、シンジをつぶさに見ながら聞いた。

「ふ〜ん。 精神体でも、表層的な肉体の痛覚には慣れているっていう事?」

「……僕をこれ以上攻撃しない方が良い…と警告させてもらうよ? アダム。」

「くっはははっ………何も出来ないのに?」

第一使徒は、愉快そうに笑った。

「今の僕には、何も出来ないかもしれない。 でも…」

「…でも、僕には綾波レイがいるって、そう言うつもりなんだろう?」


……アダムは、からかうような口調で、シンジの言葉を勝手に引き継いだ。


「ふふ。 そんなもの、ただの強がりだよ。 ならば…ぜひ、キミが痛がるところを見てみたいね。」

灰銀色の少年は、右手に持つシンジの左腕を”じっ”と見詰めた。

「う〜ん。 ……っ! くふふ。 良い事を思いついた。」

そう言うと、アダムは少年の腕を変化させた。 


”シュゥゥイィィン……”


薄っすらと光り輝くシンジの左腕は、徐々に人のカタチに変わっていった。

「どうだい、碇シンジ? 君の記憶を基に創ったから、そっくりだろう?」

アダムの横に、第壱中の制服を着た蒼銀の美少女が現れた。

シンジは愛しい少女と同じ”カタチ”を見て、その横に立つ少年に問うた。

「…なにをするんだい?」

「表層的な痛みに慣れていると言うのなら、深層的な精神を蝕む痛覚にも慣れているのかなって思ってね…」

アダムは無表情なレイを後ろから……徐に抱き締めた。

「キミが…なによりも愛するこの美しい少女は、実は、キミを愛してなんかいないのさ…」


……灰銀色の少年に抱き締められた瞬間、綾波レイの顔に表情が宿った。 


白磁器のように白かった頬を紅潮させ、艶やかなルビー色の瞳は”とろん”と潤んでいく。

そして、思い詰めたようなため息と惚けたような艶っぽい表情。

しかし、それはシンジに向けられる事はなかった。

その魅惑的な表情は、少女の首筋を味わうように”ゆっくり”と舌を這わせるアダムに向けられていたのだ。



「ヤメロ…」



この少女は本物ではない、と判っていても、シンジは目の前に立つ二人を見ていられなくなる。

「ふふっ。」

アダムは自分の目論見どおり、自分のオモチャが苦悶の表情に変わったのを見て満足気な顔になった。

綾波レイは、身体の向きを変えてアダムを抱くために、彼の背にたおやかな細い腕を優しく回した。


「……やめろ…」


かぶりを振ったシンジは、顔を下に向けて呻くような小さな声を出した。

「…止めてくれ。」

黒髪の少年が懇願するような瞳を上げる。


……しかし、綾波レイは止まらない。


少女の桜色の唇が、男を求めるように艶かしく動く。

アダムはそれを感じ取ると、嬉しそうに綾波レイの唇に顔を向けた。

二人の唇が、徐々に距離を縮めていく。

「ヤメロ……や、め、ろ…」

シンジが、その光景を見て力なくかぶりを振った。



「…やめて………やめてよ……いやだ………………やめろぉぉぉ!!!」



黒い瞳を極限まで見開いた黒髪の少年が、自分の心を切り刻む悲痛な叫び声を上げた。


……この世界に変化が起きたのは、まさに二人の唇が重なる……その瞬間だった。



………その数分前、部屋。



ソファーに座る蒼銀の少女は、指輪から感じる温かな波動の源を辿るように意識を集中させていた。

それは、手繰り寄せる力に細心の注意を以って行わなければ、すぐに途切れてしまいそうなほど弱かった。


……彼との絆の象徴である指輪から感じ取れた波動は、それほどまでに弱弱しく頼りないモノであった。


”こぽこぽ……”

ユイが、温くなってしまった紅茶をカップに注ぐ。

ゲンドウが確認しただけでも、彼女が飲む紅茶は、3杯目だった。

「ユイ、落ち着きなさい。」

「でも、あなた…」

”ピュイン…”

消えていたパソコンのモニターにドーラが戻ってきた。

『…お待たせしました。 ユグドラシルの検索が終了しました。』

「えっ!? なに? ドーラさん?」

新たな情報を渇望していたユイは、思わずソファーから立ち上がり、ゲンドウの机に走った。

『…ユイ様、マスターは、時のない空間にいらっしゃいます。』

「……そんな。」

通常の人間では、想像も出来ない世界。 ユイは両手で口を塞いで絶望的な声を出してしまった。

再び静寂に支配される執務室。 その重苦しい沈黙の空気を破ったのは、レイだった。


「…碇君!!」


静かな空間に響く少女の声。 ゲンドウもユイも弾けるように声を発したレイを見た。

「え、シンジ!?」

「む? ドコだ?」

そして、両親は息子を探すように周りを見たが、この部屋には何の変化もない。

「碇君…」

彼らの声も耳に届いていないかのように、レイは一瞬たりとも蒼い指輪から視線を外すことはなかった。


……少女は、指輪から感じる彼の波動に、マイナスの変化を感じたのだ。


「…ダメ。 碇君が苦しんでいる。」

リリスはレイに言う。

「レイちゃんが、アダムの世界に少しでも干渉できれば、お兄ちゃんは力を取り戻せるわ。」

シンジが苦しんでいる、と”理解”したレイの力が強制的にアダムの世界に干渉を始める。

彼女の圧倒的な力は全てシンジのために。 逆にシンジの比類なき力は、全て愛するレイのためにあるのだ。


……何人にも侵されるハズのないアダムの精神世界に、針で突いたくらいの小さな穴が開いた。


「アダム…許さないわ。」

”スゥゥ……”

レイの深紅の瞳に冷たくも強い光が宿ると、少女はソファーから掻き消えた。



………砂浜。



”ドシュッ!”

灰銀色の少年の首が宙を舞った。


「……碇君を傷つけるのは、誰であろうと許さない。」


凛とした乙女の声。 この世界にとって、それは突然の侵入者だった。

白銀の髪、真紅の瞳に戻ったシンジは、突然現れた白い翼を見るとなしに見ていた。


そう……首を弾き飛ばされたアダムの肩の上に、白い刃のように尖った翼があった。


”スゥ……”と純白の翼が横に動き、縮むように小さくなった。 


そして、人形のように動かなくなってしまった綾波レイの後ろから、蒼銀の少女が現れた。

「碇君!!」

いつの間にか現れたこの少女は、堰を切ったように走り出すと、白銀の少年に抱きついた。

”タタタッ…ぼふっ”

白銀の少年は、自分の瞳に映る情報を上手く咀嚼出来ないのか、どこかボンヤリとした表情で少女を見た。

「ぁ…レイ?」

「ごめんなさい。」


……レイの謝罪の言葉に、シンジの瞳のピントが急速に柔らかそうな空色の髪に合わさる。


「え?」

「もっと早くココに来られればよかった。」

シンジは愛する少女の存在を確かめるように、ゆっくりと彼女の背に右腕を回した。

蒼銀の少女も彼の背に回した腕に力を込め、更に純白の翼で彼を護るように包んだ。

そして、お互いの温もりを感じ合う。

二人の耳に、寄せては引く波の音だけが静かに聞こえる。



”ザザザァァァァ…………ザザザァァァァ…………ザザザァァァァ…………”



恋人の無事を喜ぶ少女の後ろから、邪魔者の声が聞こえた。

「……なるほどね。 大したものだ。 時間を切り離した僕の世界に強制的に干渉して来られるなんて…」

レイは2対の白い翼を光の粒子に変えて消すと、いつの間にか”元通り”に立っている少年を睨んだ。

「ソレは返してもらうわ。」

彼女が”スッ”と右手を前に向けると、佇んでいた綾波レイのカタチは一瞬にして元の左腕になった。

そして、アダムが動くよりも速く、その腕は少女の手に向かって飛んで来た。

レイはその腕の状態を確認するように見詰めた後、シンジの肩口に”そっ”とつけた。

「綾波、ありがとう。」

シンジは、少女につけられた左腕をゆっくりと動かしてみた。 特に問題は無さそうだった。

「ううん…いい。」

フルフルとかぶりを振る少女は、柔らかい微笑みを浮かべて少年を見た。

「キミが、綾波レイだね。」

アダムは少女に視線を向けたまま、一歩、一歩とゆっくり近付いた。

「ん、リリス? 違うな。 リリスに似ているけれど、何か違う。」

「…私は私。 リリスではないわ。」

蒼銀の少女は振り向くと、睨むようにアダムを見た。

「さて、アダム…」

「何だい? 碇シンジ。」

「君の時間は、そろそろ終わりだよ。」

シンジは右手をアダムに向けた。

「キミは、何をそんなに怒っているんだい?」

アダムは、ワケが分からないと不思議そうな顔をシンジに向ける。

「想像したくもないモノを無理矢理見せられれば、誰だって怒ると思うよ?」

愛する少女が、他の男にあんな表情を見せるなんて考えたくもない、とシンジはかなり怒っている。

「僕は、ただ知りたかっただけなんだけどね。」

これから一瞬で消されてしまうだろう灰銀色の少年は、怯えや恐怖といったモノを感じさせない顔だった。

その少年を見たレイは、思わず疑問を口にした。

「貴方はこれから無に還るのに、怖くないの?」

「碇シンジの力に勝る者はいないだろう。 なら、抗うのも無駄だし、恐怖を感じるのも無駄だよ。」


……第一使徒と、ヒトの感性は大分違うようだ。


「そう。 …さようなら。」

レイは、シンジが行動を起こすよりも速くアダムに手を向けて、攻撃した。

”ドンッ!”

彼女の右手からソフトボールくらいの光弾が灰銀色の少年の胸を貫いた。

少年は、自分に開いた風穴を見るように顔を下に向ける。

”ぽっかり”と空いた空間には、小さく燃える玉が浮かんでいた。

アダムは、信じられないと言うような瞳を少女に向けると、

 パシャン…とアンチATフィールドで自我境界線を失ったかのように液状に崩れて、消えてしまった。

「綾波、ゴメン。 僕が…」

シンジは、アダムをカヲルとダブらせてしまい、攻撃を少し躊躇ってしまったのだ。

その心の波動を感じたレイは、彼に代わってアダムを消したのだ。

”ふるふる”

「…いいの。 気にしないで。」

「…でも、キミに…」

蒼銀の少女はシンジの頬を両手で包み込んで、”そっ”とキスをした。

「………ん。 碇君、落ち着いた?」

「…あ、ありがとう。」

レイの突然の行動に、シンジの頬が赤くなる。

「…帰りましょ?」

「うん、そうだね。」

少年は、空中に浮かぶアダムのエネルギー体に手を向けると、”ヒュン!”と一瞬で引き寄せた。

「…さようなら、アダム。」

ポツリ、と呟くように別れを告げたシンジは、

 右手の上に浮かぶ炎の玉を自分の胸に当てて溶かすように吸収する。

そして、少年の身体に玉が入った瞬間、この世界は暗転した。

光を失った暗闇の世界で、シンジは愛する少女の手を取りこの世界に別れを告げた。

「戻ろう、綾波。」

「ええ。」

そして、この空間は閉じた。





転入生。−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−





………翌日、市立第壱中学校。



”キーンコーンカーンコーン”

始業の合図がスピーカーから聞こえた。

「ほーんま、なんちゅーか、勝気な女やったなー」

トウジがケンスケの席の横に立っている。

「…ま、オレ達はもう会うことも無いさ。」

メガネの少年は、ビデオカメラのレンズを磨いていた。

「はい、ケンスケ。」

シンジは、メガネの少年にビデオカメラのディスクを渡した。

「お、検閲終了か。 サンキュー、碇。」


……ケンスケがOTRで撮影したデータは、NERVの保安部でチェックを受けていた。


黒いジャージの少年は、隣の白銀の少年の肩に”ポン”と手を置いて、面白そうに首を横に振った。

「センセは仕事やから、しゃーないわな。…同情するでホンマ。」

トウジは、あの娘が起こすであろう騒ぎも、対岸の火事…自分は火の粉を被る事はない、という顔だった。


”ガラララ…”


「おはようございます。」

小柄な初老の教師が、教室に入って来た。

「あ、起立! …礼、着席。」

学級委員長であるヒカリの号令が終わると、メガネの老教師が口を開いた。

「…ええ、まず、今日は新しいクラスメートを紹介します。 入ってきなさい。」

”カララ……”

「あ、あーー!!」

トウジは驚きの余り、思わず席を立って入って来た転入生を指差した。

(なによ…うっさいわね! って空母の時にいたジャージじゃない。)

その少女は、ジャージを誰にも気付かれないような一瞬だけ睨んで、教壇に立ち、黒板に自分の名を書いた。

”カッカッカッカッ!”

「うふっ。 …惣流・アスカ・ラングレーです。 よろしく♪」

人当たりの良い、満面の笑みを浮かべた少女。 その笑顔は、クラスの男子のハートを鷲掴みにした。


「「「「「うぉー!!!」」」」」


この中学のNo.1美少女、綾波レイとは異なる魅力を放つこの少女に、この中学校の男子は色めきたった。

「…お見事。」

空母で平手を貰ったケンスケは、その外面のよさに感嘆の言葉を述べるのだった。



………闇。



暗闇の空間。 この空間の広さはどれくらいなのだろうか、それは誰も知らない。


”…ブォゥン…”


『…アダムの肉を失った。』

薄っすらと四角い輪郭を光らせたモノリスが出現した。

『…太平洋で回収された魚雷。 その弾頭はカラだった。』

サークル状に浮かび上がった12枚の”板”が秘密の会議を始める。

『…裏切り者がいる。』

『…………。』

『…やはり碇、か?』

『ふむ。 その可能性は否定できんな。』

『…先の審議会で、ヤツはアダム再生計画の進捗状況を知り得ている旨の発言をした。』

『…アダムを手に入れた、という事を我らに知らしめるためにワザと魚雷を放置したと言うことか。』

『ふん。 我らに対するメッセージのつもりか。』

発言の順番をから見ると、どうやらこの集団では番号が少ない方が上位のようだ。 

そして、そのトップが口を開いた。

『いずれにせよ…我らにとって、失ったオリジナルのアダムの肉に大きな意味はない。』

ナンバー01に続き、02が言葉を続ける。

『その通りだ。 こちらには”魂とその器”はあるのだ。 我々の計画に支障はない。 …が、しかし…』

『…左様。 勝手なことをせぬよう、ヤツを戒める必要がある。』

『碇に対する警告が必要だ。』

『……提案がある。 予定外の人物に退場を願うというのは、どうだろうか?』

『ふむ。 見い出されし適格者。 サードチルドレン、碇シンジか?』

『左様。 …我らのシナリオに必要なのは、EVAを動かせる欠けた心を持つ子供なのだ。』

『…くっくっく。 もう一人いるだろう? ……碇ユイもだ。』

『待て。 マルドゥックを動かす前に、ダミーの雛形たるファーストによる起動実験を行うのだ。』

『その通りだ。 サード以外で初号機が動くことを証明する必要がある。』

『…諸君。』


”ブゥォン!”


ゼーレ01のモノリスが老人に切り替わった。 白髪の厳つい男の顔には、目を覆うバイザーがある。

『ファーストチルドレンによる初号機の起動実験。 そして碇に対する警告。 速やかに行うのだ。』

『『『全ては、ゼーレのシナリオのままに。』』』



………学校。



男子の羨望の眼差し。 それを一身に受けているのは輝くような紅茶色の長い髪を持つ美しい少女。

「では、惣流さんは、碇シンジ君の後ろの席に座って下さい。 碇君、手を上げて。」

白銀の少年は、意外そうな顔で先生の言葉に従った。

その隣にいる蒼銀の髪の少女は、静かにアスカを見ていた。

手を上げた男を見て、紅茶色の髪の少女は、このクラスに”あの二人”が居ることを今初めて知った。

(…サードにファースト! あの二人と同じクラスなの!?)

彼女の柔らかく笑っていた表情が少し強張る。 そして、唇を”きゅ!”と一直線に結んで足を踏み出した。

「おはよう。 よろしく、惣流さん。」

新たなるクラスメートを迎える少年は、爽やかな笑顔で挨拶した。

「おはよう、い、イカリくん。」

クラス中の注目を集める二人の挨拶。 よほど言いにくいのか、彼女の挨拶は片言のようになってしまった。

そして、もう一つの紅い瞳の視線に気が付くと、アスカは首をぎこちなく動かして蒼銀の少女を見た。

「おはよう、ファ…、アヤナミさん。」

「…おはよう。」

レイは少し首を動かして返事をした。

トウジとケンスケ以外の男子生徒は、美麗な転入生に熱い視線を投げていた。

「…ええ、では、1時限目は、抜き打ちのテストをします。」

突拍子もない老教師の言葉が転入生に注目している静かな教室に染み渡ると、

 一斉に生徒たちが不満の声を爆発させた。



「「「「ええええぇぇぇーーーーーーー!!!!!」」」」




”ぱんぱんぱん”

老教師が手を叩いて、生徒達をたしなめる。

「はいはい、静かに。 よそのクラスも授業をしていますから、静かにして下さい。」

先生が教壇の上に紙の束を出すと、手馴れた手付きで列ごとに解答用紙を配り始める。

行き成りの事態に、紅茶色の髪の少女は、目をぱちくりとさせていた。

(…あの先生、何て言ったの?)

白銀の少年が振り返って試験問題と回答用紙を少女に渡す。 

「はい、惣流さん。」

「あ、……どうも。」

虚を衝かれたような表情でアスカがシンジから紙を受け取る。

「…では、始め。」

教師の言葉に、少女はテスト用紙に目を落とした。

(…げ! な、何よコレ! 日本語じゃない。 よ、読めないわよ! こんなの!)

信じられない、とアスカは呆然としてしまった。



”カリカリカリカリ……”



静かになった教室は、生徒達がシャーペンを走らせる音しか聞こえない。

(…どうしよう…)

アスカは、数分間悩んだ末、見栄を捨てる決心をして”怖ず怖ず”と手を上げた。

「す、すみません、先生。」

書類を読んでいた老教師が、眼鏡を掛け直しながら少女に顔を向けた。

「はい、惣流さん。 何でしょうか?」

「あの……私、まだ日本語、読めないんですけれど…」

「そうですか。 とても上手にお話になるので、大丈夫だと思っていました。 さて、どうしましょうか…」

老教師は、自分の顎を手で擦りながら”ふむ…”と首を傾げた。

「先生、僕が教えてあげます。」

アスカの前に座る少年が手を上げた。

「そうですか、お願いできますか? 碇君。」

「はい。」

「では、公平を期すために、碇君がテストを終えて回答用紙を回収してからにしましょう。」

「先生、終わっていますから、テスト用紙を回収してくださって結構ですよ?」

「なんと……もう終わっているのかね。」

テストが開始されてまだ3分しか経っていない。


……ちなみに隣に座っている少女、レイも終わっている。


「じゃ、惣流さん。 問題を教えるね?」

振り向く少年を見たアスカは、口を”もごもご”させて答えた。

「お、お願いします。」

(なんで、コイツってこんなに大人っぽいのよ? なんか苦手なのよね。)

少女は、”ちらり”と窺うようにシンジの顔を見た。

「日本語、ドイツ語、英語、どれがいい?」

”カリカリ”と筆記具が動く音しかしない教室に、少年の声が部屋の端まで確りと聞こえる。

「ど、どれでも良いわよ!」

真紅の瞳と自分の視線が合ってしまい、アスカは少し慌てたように答えた。

(このルビー色の目で見られると、なんだかこっちの考えを読まれているような気がするのよ……)

「じゃ、惣流さんの一番慣れているだろうドイツ語で。 第一問目の設問はね……」

シンジのドイツ語は、流暢で完璧だった。 アスカは、現地人でもない日本人の少年の会話力に舌を巻いた。

(すご…綺麗な発音ね。 訛っていないし、聞きやすいわ。)

「……以上だよ。 惣流さん?」

「よし、出来た!」

テスト用紙の最後の解答欄に書き込んだ自分の答えに、アスカは満足気な表情になった。

「あ、ありがとう、い、イカリ……だぁー! 何か言いづらい!! アンタの事、シンジって呼ぶわ!」


……突然、頭をぶんぶん振って右指を”ビシッ”と指差す少女。


余りにも行き成りな言い方だったが、言われた本人である白銀の少年は特に気にしていなかった。

「そう、分かったよ。 惣流さん。」

「その言い方もナシ!! 私の事はアスカって呼びなさい!」

「う〜ん、それはちょっと遠慮したいな。」

「なんでよ!」

ドイツ語で何を言い合っているのだろう?……と教室の注目を浴びる二人。

”ぱんぱん”

手を叩く音が、二人のやり取りを止めた。

「はい、そこの二人、廊下に出てください。 まだ試験中ですよ。」


……老教師によって、二人は教室から強制的に退場させられてしまった。


「まったくもう! アンタのせいよ! この私が転入早々廊下に立たされるなんて! あ〜信じられない!」

シンジの右側に立つアスカは、憤慨した顔で制服の腰に手を置き、右手で”ビシッ”と少年の顔を指差す。

「僕のせいじゃないと思うけれど。」


”カラ…”


「あ、綾波?」

教室のドアが音を出さないように、ゆっくりと横にスライドすると、蒼銀の少女が出てきた。

「…ファースト?」

「綾波、どうしたの?」

シンジは、黙って自分の左側に立ったレイに問うた。

「私も試験終わっていたから、廊下に出た方が良いと思って。 ……先生に許可を貰ったわ。」

「……変わった娘ね。」

蒼銀の少女の言葉に、不思議なモノを見るような顔でアスカは首を捻ってしまった。

「惣流さん、静かにしないとまた怒られるよ?」

シンジは右側の少女を横目で見て、小声で注意した。

「…だから、惣流さんはヤメなさいっての!」

「…セカンド、五月蠅い。」

レイは横目で呟いた。

「なによ! 何でアンタまで廊下に出てくるのよ!?」

「許可は貰ったわ。」

「そう言うことじゃなくて!」

「セカンド、五月蠅い…」

レイは単純にシンジの側にいたいだけなのだ。 少女の思考は、もちろんアスカに理解出来きるハズがない。

バカにしているのか、と息巻いたアスカは、怒りのボルテージを上げていく。

「やるってーの! ファースト!」

アスカは一歩前に出てボクサーのように構えると、レイを威嚇し始めた。


……シンジは、二人の少女のやり取りを見ていて、遥かな過去に戻ったような錯覚を覚えた。


「…プッ」

白銀の少年は、思わず吹いてしまった。

「ちょ、アスカ、ヤメなよ。」

そして、少年は前史のように彼女に声をかけてしまった。

「なによ! シンジ! ……あら、私の事、アスカって呼ばないんじゃなかったの?」

ふっふ〜ん、とアスカは面白いモノを見るような表情で、イタズラの矛先を少年に向ける。

「あ、ご、ごめん。 …惣流さん。」

「だから、惣流さんって言うな! 謝る必要はないの、そう呼べって言っているのは私なんだから。」

アスカは腰に両手をやると、胸を張るように仰け反らせた。

シンジは肩を落として、疲れたような表情で答えた。

「はぁー。 …はいはい。 分かったよ、アスカ。 これでいいかい?」

「むー。 なんかその投げやりな言い方が気になるけれど、まぁいいわ。」

手を頭の後ろで組んだアスカは、瞳を閉じて、廊下の壁に体重を預けた。

その様子をレイが横目で見ている。

『…碇君。』

蒼銀の少女は、右手でシンジの左手を握った。

『どうしたの、綾波。』

白銀の少年は、レイを見る。

『…彼女、”前”と少し雰囲気が違うような気がする。』

『そうかな?』

『…ええ。』

『よく分からないけれど、綾波がそう言うんじゃ、そうかもしれないね。』

『たぶん、私たちの経歴を知って、自分と同じか…それ以上優秀だと知っているから…』

『でも、だったらもっと、攻撃的になるんじゃないかな?』

『まだ、直接EVAのパイロットとして比べられていないからだと思うわ。』

「……ちょっと、お二人さん。」

その声に、シンジが瞳を右にずらすと、半眼でこちらを見ているアスカが見えた。

「なに?」

「なに? じゃないわよ。 あんたら二人、なに”じー”と見詰め合っちゃってんのよ? 

 それに、手なんて繋いじゃってさぁ。 …ああ! そういう関係なの?」

”きょとん”としたレイが、首を傾げて問う。

「…そういう関係?」

アスカは、空色の髪の少女に指を向ける。

”ビシッ”

「アンタらデキてんのかって聞いてるのよ!」

「アスカ、綾波は僕のフィアンセだよ?」

スラッと言い切った少年。 その言葉に、アスカの目が点になった。

「はぁーーー!?」

”ガララ…”

「惣流さん、静かに!」

「あ…す、すみません。」


……厳しい表情で廊下に顔を出した老教師の怒声は、普段から想像も出来ないくらい大きかった。


”キーンコーンカーンコーン”

退屈な時間から解放してくれる鐘の音が廊下に響いた。

「あ〜あ、やっと終わったのね。」

アスカは、1時限目の終わった教室に戻って行った。

(…どうやら、ネコ被るのやめちゃったみたいだね。)

シンジはそう思いながら、レイと一緒に教室に戻って行った。


……休み時間、麗しの転入生を取り巻くクラスメート。


男子は、淑やかそうだった転入生の豹変振りに驚いたが、美少女には変わりないとやはり熱い視線を送った。

そして、飾らない真っ直ぐな性格のアスカの物言いは、女子の間で人気になった。

「アスカ、よろしくね。」

お下げの少女がアスカの席にやって来た。

「あら、ヒカリだっけ? この学校だったんだ。 こっちこそよろしくね。」

アスカは、空母で出会った少女を見て、にこやかに笑った。

「…ねぇ、ねぇ。 碇君と知り合いなの?」

紅茶色の髪の少女を取り巻く女子の一人から質問が飛び出した。

「う、うん。 えっと…」

(…エヴぁの事やNERVについてはモチロン機密よね。 どう説明したら良いのかしら?)

アスカは、答えに詰まってしまった。

「彼女は、僕や綾波と同じEVAのパイロットだよ。」

シンジの言葉を聞いたクラスメートは、”へぇ〜”と尊敬と憧れの眼差しをアスカに向ける。

「ちょ、アンタ、そんな事喋っていいの?」

紅茶色の少女は、驚いた顔でシンジに聞いた。

「EVAのことなんてこの街に住んでいれば、イヤでも分かる事さ。 

 それに、このクラスでパイロットだと知れても、

 その情報が外部に漏えいするほど、保安部や諜報部は無能ではないよ。」


……大したことじゃないさ、とシンジは肩を竦めて答えた。


「そっか、碇君や綾波さんと同じなんだ〜」

「やっぱ、EVAのパイロットって美男美女が選ばれるのかな〜」

「ねぇ、惣流さんってハーフなの?」

「え、、、、えーとね、……」

彼女の机に集まっているのは、純粋に友達になろうと思ってくれている、クラスメート達。

その質問に答えるアスカは、少し戸惑い気味であった。

なぜなら、彼女にとって学校とは競争の場であり、自分の実力を知らしめる場だと考えていたからだ。

その様子を見ていたシンジは、本を読んでいるレイの机の前に座った。

「ごめんね、綾波。 キミを放っておいたみたいで。」

”ぱたん”と本を閉じた少女は、顔を上げてシンジの申し訳なさそうな真紅の瞳を見た。

”ふるふる”

「ううん。 …お疲れ様、碇君。」

「…アスカも今みたいに、いつも素直になっていれば良いのに。」

「そう思えるのは、碇君が大人だから。」

「ははっ。 そうかもしれないね。」


……転入一日目のアスカは、休み時間ごとに人に囲まれて、その対応に追われて休む暇がなかった。


(…人気者は辛いわねぇ〜♪)

しかし、彼女の顔は終始笑顔だった。 

無理矢理始まった学校生活のスタートは、アスカにとって、まんざらではないモノだったようだ。



………白い屋敷。



学校から帰って来たシンジは、白いソファーに座って紅茶を飲んでいた。

「あ、そうだ。 …ねぇ? 綾波。」

レイは少年の横に寄り添うように座ってテレビを見ていた。

「…何?」

少年はティーカップをテーブルに置いた。

「すっかり忘れていたけれど、そろそろ学校の先生に進路を決めて報告しなくちゃいけないんだ。」

「そう。」

「綾波は、将来なりたいものってある?」

”ふるふる”

「ないわ。」

小さくかぶりを振る少女を見たシンジは、少し首を傾げた。

「どうして?」

「もうなっているもの。」

「?」

レイは”ギュッ”と少年の腕を抱き締めてから言葉を続けた。

「碇君のお嫁さん。」

シンジは、ほんのり頬を紅く染めた蒼銀の少女を見て、耳を紅くした。

「そ、それ以外…なにもないの?」

「ええ。 …あなただけ側にいれば他に何もいらないわ。」


……思いの丈が詰まった少女の即答。


「で、でも。 もし…」

”もごもご”と言いながら、シンジはレイの瞳を見た。

「碇君は?」

蒼銀の少女は、愛しい少年の澄んだ瞳を見詰め返した。

「え? 僕?」

「ええ。」

少女の柔らかな笑みに、少年は”将来像”をボンヤリとイメージしてみる。

「…僕…か。」

シンジは、自分の脳内の世界にトリップしていく。



マイホーム。 ……何かの仕事をして疲れた自分の身体を癒す為の空間。 

「ただいまぁ〜」

「おかえりなさい、あなた。」

そして、玄関を開けると自分を温かく迎えてくれる家族。 

「おかえりなさい♪ ぱぱぁ♪」

自分に微笑んくれる愛しい妻と子供。



「……レイ…ああ、僕たちの子……」

よほど幸せなイメージが浮かんだのだろう。

白銀の少年は瞳を閉じて、”でれー”と幸せそうな顔で呟いた。

「え?」

(…僕たちの子?)

レイは、自分の想像よりも未来に飛んだ少年の言葉に”ドキンッ”と胸が高鳴る。

頬を染めた蒼銀の少女は、”まじまじ”と目を閉じているシンジの顔を覗きこんだ。

「…レイと僕の子供かぁ。……う〜ん。 すごく可愛いだろうなぁ。」

少年が浮かべる慈愛に満ちた天上の笑み。 シンジの幸せを共感した少女の胸が切なく締め付けられる。

”きゅん!”

「碇君!」

”ガバッ…”

隣に座っていたレイは、少年の言葉に、弾かれるように彼に抱き付いた。

「えっ!? ぅ…ん。」

シンジは、自分のヒザを跨ぐように馬乗りに乗ったレイに驚いて、真紅の瞳を開いたが、

 次の瞬間、彼女に唇をふさがれた。

(…いかりくん。 …いかりくん。)


……レイは、何かを訴えるように必死な様子であった。


シンジはいつもとは違うその様子に驚いて、なんとか顔を離すと少女を落ち着けようと声を掛けた。

「ん、ぷはぁ。 ……あ、綾波? …ど、どうしたの?」

「…どうして?」

少女の紅い瞳に、仄暗い絶望の色があった。

「え?」

シンジが見たレイの深紅の瞳は、涙に潤んでいた。

堪らず、少年は彼女の頬を”そっ”と触れた。

「ねぇ、どうしたの?」

シンジが感じた彼女の波動は、不安や不満、恐れ、恐怖などがごちゃごちゃに混ざっていた。

心配そうな少年の手が触れた少女の頬に、”つぅー”と涙が零れた。

「…どうして?」

深紅の瞳を逸らすことなく、レイはシンジの真紅の瞳を見詰めたまま再び同じ言葉で問うた。

「…綾波。」

シンジは、彼女を抱き締めようとしたが、その腕は、彼女に拒絶されるように止められてしまった。

「えっ?」

少年は瞳を大きくして彼女を見る。

「………どうして、碇君は…私を求めてくれないの?」

顔を俯けてしまった彼女の表情は、蒼い前髪に隠れてしまい、シンジに見る事は出来なかった。

「え?」


……彼女の肩が小刻みに震えている。


「……どうして? ………どうして、キスの先をしてくれないの?」

(へ!? …あ!! ……そ、そう言うこと?)

シンジは、彼女の問いの意味を理解すると、さらに少し目を大きくした。

「…私じゃ、ダメなの? 私に、なにか欠陥があるの?」


……レイは、拒絶される恐怖を感じながら、少年に聞いた。


その少年は、少女を落ち着けようと言葉を噛み砕くようにゆっくりと言った。

「そんな事、あるワケないよ?」

「なら、どうして?」

「う…」

シンジの何か言いづらそうな様子を見て、レイは更に悲嘆に暮れた。

少年は、自分に跨ったままの少女の身体が”わなわな”と大きく震え始めたのを感じると、

 決心したかのように、下を向いて”ぼそぼそ”と答え始めた。

「………あ、綾波は、まだ僕を受け入れる準備が整っていないだろ…………」

「え?」

顔を真っ赤にさせたシンジの呟くような小さな声に、レイは真剣な表情で耳を傾けた。

「だから、僕は、その。 …キミを傷つけるような事はしたくないし……」


……意外な話の展開で、ここ暫く彼女の心を覆っていた不安と不満の答えがもたらされる事になった。


この少年とて、精神的には既に二十代後半になっている。

健全な男子として、当然、性的欲求はあるのだ。

しかし。 ……シンジは、レイがまだ生理が来ていない事を知っていたのだ。

だから、彼女を大切に思えばこそ、ずっと自分が暴走するのを抑えていたのだ。


……しかし、まさかレイが自分と同じような欲求不満を抱えていたとは。


少年は、その事に少し驚いたが、なぜかひどく安心した。 が、そんな事を知っているなど、

 彼が愛する少女に言えるハズもなく。

「ご、ごめんね。 …その、僕がそんな事を知っているって……軽蔑したよね?」

レイは、力が抜けそうだった。

(……そんなことだったなんて。 早く聞いておけばよかった。)

少女は、”ほっ”と安心したように少年に凭れかかると、彼の耳にそっと囁いた。

「よかった。」

「え?」

レイは、”ぎゅ”と彼を抱き締める。

「ごめんなさい。」

「な、何が?」

首に顔を埋めた少女に、シンジが戸惑いながら聞いた。

「…私のせいだったのね。」

「ち、違うよ…」

「でも、大丈夫。」

「え?」

「その問題はすぐに解決するわ。」

少し身体を起こした少女は、瞳を瞑って意識を集中させ始めた。

”シュィィィン……”


……どうやら、彼女は”力”を使って代謝の促進と、成長を早めようとしているようだ。


「ダメだ!」

シンジは、淡く光り始めた少女の肩に手を伸ばして”力”を打ち消した。

「どうして?」

レイは、大きな声を出したシンジに驚いてしまった。

「力を使ってなんて……ダメだよ。」

「どうして、そういう事言うの?」

「そ、そういう事は、自然が一番だと思うんだ。 無理に”力”でなんて、しないで欲しい。」

「………分かったわ。」

シンジは彼女が理解を示した事に、”ふぅ”と安堵の表情になった。

「約束。」

少年は、一連のやり取りが終わった、と思っていたが……目の前の少女の話は、まだ終わっていないらしい。

「え?」

だから、シンジは少し間の抜けた返事をしてしまった。

「約束して。」

「う、うん。 分かった。 あ、綾波の準備が整ったら……」

”コクリ”

「…ええ、約束よ?」

瞳を閉じたレイは、ゆっくりと唇を重ねた。

シンジは彼女の腰と後頭部に手をやり、レイを優しく抱き寄せた。

「…ん。」



………数日後、中学校。



騒がしい転入生もクラスに馴染み始めた2年A組。

授業も終わり、現在は放課後だ。

「センセ、街のゲーセン行きまへんか?」

「あ、ごめん。 今日はNERVに行くんだ。」

「人類を守るため、か。 碇も大変だよな。」

ケンスケが笑いながら言った。

「ハハッ。 そうだね。」

シンジはケンスケに相槌を打った。

「辛い辛い学校が終わった後の自由を満喫できんとは、何ちゅう不幸や!」

”パシッ”と手を顔に当てるトウジ。


……クラスの女子はその様子を観察している。


「…なぁ〜に言ってんだか…」

アスカはそんなトウジを見て、ワケわかんない…と肩をすぼめた。

「アスカ、一緒に帰ろ?」

「あ、ヒカリ。」

紅茶色の少女が振り返ると、お下げの少女がカバンを持って立っていた。

「ゴメン。 今日もNERVなのよ。」

「毎日じゃない。 …大変ね、アスカも。」

「ま、ね。」

「でも、同じパイロットでも随分違うのね、碇君も、綾波さんもそんな感じじゃないのに……」

「はは、私のエヴぁは特別だから。 あいつ等のより繊細な調整が必要なのよ。」

アスカは笑いながら手を振ってヒカリに別れを告げた。

「じゃ、また来週、ヒカリ。」

「ええ、またね、アスカ。」

ヒカリは残念そうに手を振り返した。



………実験棟。



「…アスカ、調子はどう?」

静かなエントリープラグに、本部に在籍している技術系のトップが声を掛ける。

『普通…。 至って普通だと思うわ。』

テストプラグ02のモニターに映っている少女は、意識を集中させる為に閉じていた瞳を開けて答えた。

「…ソレは結構。」

感情の伴わない慣例的なやり取り。

「弐号機の調整は順調よ。 辛いかもしれないけれど、実験に協力して頂戴。」

『了解。 そんなの、あったりまえじゃない。』

(…シンジ君の言うとおり、EVAがレゾンデートル…っていうワケね。)

アスカの様子を見ながら、リツコは小さなため息をついた。

(…同世代の子供達が意識せずに享受する楽しみを奪われていることにすら気付いていない……か。)

リツコの見るシンクログラフは、78%を少し上回っていた。

(ドイツの教育…いえ、飼育に近いわね。 …かわいそう。)


……ハーモニクスのズレも連日の調整の成果により、大分少なくなっている。


「アスカ、安定しているわよ。」

『ハッ! とーぜんよ。』

労いの声を掛けたリツコは、その言葉とは全く違う事を考えていた。

(…同情はよしなさい、リツコ。 そんな子供を利用しているのは、私たち大人。 これは事実よ。)


……フッと自嘲気味に笑った白衣の女性をマヤは心配そうに見る。


「…センパイ?」

「あ、何かしら? マヤ。」

リツコは手を止めて自分を見る部下に、”ついっ”と瞳を向けた。

「お疲れなんじゃないですか?」

「大丈夫よ。 それよりも、プラグ深度を5下げて頂戴。」

「はい。」

マヤは再びモニターに向き直ってキーを操作する。

『…ところで、リツコ?』

「どうしたの、アスカ?」

白衣の女性の疲労した瞳とモニターの青い瞳の視線が合う。

『シンジとファーストは? 私は毎日のようにシンクロテストしているけれど、

 あいつら全然いないじゃん。 今日はNERVにいるんでしょ?』

「シンジ君たちのデータは十分に取っているから、週に一度くらいで良いのよ。

 アスカのデータは、ドイツが送ってくれないから、ゼロに等しいの。」

『ふーん。』

アスカは、詰まらなそうな顔で気のない返事をした。

「気になる?」

『はんっ! じょーだんじゃないわよ。 アイツ等にわたしのシンクロ率を見せてやろうと思っただけよ。』

リツコは、何か言いたそうなショートカットの女性オペレーターに、黙っていなさい、と視線を送った。

「…そう。 マヤ、プラグ深度を7下げなさい。」

「あ、はい。」



………執務室。



「アスカ…か、どうしようかしら。」

ミサトは、セカンドチルドレンのデータシートを見て、軽くため息を吐いた。

(…EVAパイロットの精神的なサポートねぇ。)


……彼女の脳裏に、先日の冬月のお小言が蘇る。


自分には、これ以上のミスは許されない。

自然とミサトに危機感が募っていく。 此処らで一発逆転のアイデアを出し、皆をアッと言わせねば。

そうなる為には、普通の常識的で普遍的なアイデアではダメだ。

”ピン!”

ミサトの頭の電球に光が灯った。

それは、まさに神の啓示だったのかもしれない。

「そうだ! 一緒に住めば良いのよ! それならバッチリじゃない!! 我ながらナイスアイデア!」

ミサトは、机に載っている書類をかき分けてパソコンの電源を入れると、さっそく稟議書を作成し始めた。



………総司令官執務室。



”プシュ”

「碇、ユイ君のスケジュールが決まったぞ。」

副司令官が部屋に入って来た。

この部屋の主、NERVの総責任者はイスに座っていた。

「一週間後の10月2日。 その日に彼女は渡米する。」

初老の男は、机の前で足を止めると、自身の背に手をやった。

「……そうか。」

ゲンドウから、諦めきれないような、納得していないような雰囲気が漂う。

「そんな顔をするな。 それと委員会から、その際の護衛官として、サードチルドレンを指名してきたぞ。」

サングラスの奥の目が、冬月に向けられる。

「む?」

「こちらの要望にあわせたのだろう。 アメリカでのユイ君の護衛はトライフォース2名なのだからな。」

ゲンドウは白い手袋の手を組んで、顔を若干下に俯けた。

「…トライフォースの隊長ならば、申し分ない、ということか……」

冬月は窓の外を見るとなしに見て、男に返事をした。

「…ああ。 恐らくな。」

「サードは何処にいる?」

「…ちょっと、待て。」

冬月は、PDAを取り出して、MAGIへ確認する。

「…シンジ君は、プールにいるな。 自主的なトレーニング、と言った処か。」

「そうか。」

「呼び出すのか?」

「後でいい。」

「判った。」

ロマンスグレーの髪をオールバックに整えている男は、そう言うとPDAでメールを作成した。



………プール。



NERVには福利厚生を目的とした施設が用意されている。

現在、世界でも最重要人物であろうエヴァンゲリオンのパイロット二人が利用しているこのプールも、

 その内の一つであった。

”ザパァァ………”

空色の髪を水に滴らせながらプールから上がってきた少女は、白いワンピースの水着を着用していた。

先に上がっていた少年は、紺色のトランクスタイプの水着にパーカーを羽織っていた。

シンジが大きめのバスタオルをレイに手渡す。

「はい、綾波。」

「ありがとう。」

少女は、軽く髪を拭って肩にタオルを掛ける。

「1時間は泳いだね。」

「ええ。」

二人は自販機でジュースを買うと、プールサイドのデッキチェアーに身体を預けた。 

この施設は、大型の空調設備により空気が暖められており、

 リクライニングさせた背もたれに静かに寄り掛かっていると、眠気を誘うような心地良い空間であった。

少年が少し”ぼー”としていると、白いプラスチック製のテーブルに置いてあったPDAのLEDが光った。


……どうやら新着メールのようだ。


シンジはPDAを手にとって、情報端末を操作する。

《 マスター、冬月副司令官からのメールでございます。》

内容は、後で総司令官執務室に出頭するように、だけであった。

時間も指定されていないので、急ぐこともないのかな、とシンジは考えた。

「どうしたの?」

隣の少女がオレンジジュースの入ったコップをテーブルに置いて聞いた。

「後で父さんの所に顔を出せってさ。」

「すぐ?」

「う〜ん、時間が書いてないんだよね…」

シンジは少し困った顔をレイに向けて答えた。

「…そう。」

「あまり遅くなっても、マユミさんたちが可哀想だから、そろそろ上がろうか?」

家で待っているメイドたちの為に、この用事をさっさと済ませようとシンジが提案する。

「構わないわ。」

レイは立ち上がって、自分と彼の紙コップをゴミ箱に捨てた。

「…行きましょう。」

「うん、シャワーを浴びて着替えよう。 終わったら、正面で待っているから。」

「判ったわ。」



………更衣室。



「ふぅ。」

”キュ、キュ…シャァァア……”

温かなシャワーを浴びる少女。 

(やっと、今日も終わったわ。)

彼女の長い髪に絡み付いていたLCLがキレイに洗い流される。

(本部の施設って、どれもリッチな造りよねぇ。)

アスカが本部に抱いた感想は、どんな物でも非常に凝っている、というモノだった。

(この更衣室だって、使うのは、私とファーストだけなのに…)

シャワーは4つ用意されている。 プラグスーツ用の特殊ロッカーは20を数える。

”…シャァ…キュ、キュ”

「あ〜すっきりした。」

アスカは、バスタオルで髪の水気を取りながら、シャワーから出た。



………廊下。



「お待たせ。」

身繕いを終えた少女が廊下に出てきた。

「じゃ、行こう。」

少年は、手を差し出した。

「うん。」

レイは着替えの入ったバックを左肩に引っ掛けてから、少年と手を繋いで歩き出した。

二人は、そのままエレベーターに乗り込んだ。

”カチン、カチン、カチン、カチン…チーン”

扉が開くと、紅茶色の髪の少女が立っていた。

「あら、シンジとファーストじゃない。」

「ああ…アスカ、シンクロテスト終わったんだ。」

「ええ、まあね。 処で、あんた達、今まで何してたのよ?」

アスカが、エレベーターに入りながら聞いてきた。

「…プール。」

レイが簡潔に答える。

「…は? プール?」

予想外の答えに、アスカの目が大きくなる。

「ええ。」

アスカが、扉を閉めると箱が上に動き出した。

”グォォオ……カチン、カチン、カチン、カチン……”

「ここ、プールなんてあるの?」

「あるよ。」

”チーン…ガァァ”

箱が停止すると、扉が開く。 エレベーターは、アスカの目的の階に着いた。

「……あんた達、何処に行くのよ?」

「…総司令官執務室よ。」

(あの、怪しい部屋?)

その答えを聞いた少女は、あっそう、と詰まらなそうに、エレベーターから出た。

「お疲れ様、アスカ。」

「…じゃーね、シンジ、ファースト。」

振り返ることもなく、手を振って歩いて行く少女。 

自動的に、エレベーターの扉が閉まった。





アメリカへ−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−





………第3新東京市。



……10月2日12時、空港。


漆黒の闇を連想させるような黒一色のジャンボジェット機。

13時の出発に向けて最終チェックを受けているこの機体は、

 普段使用される事のない、国賓や一部のVIPの為の駐機スペースにあった。

出発時間までは、まだ少し余裕がある。

窓際に佇み、その黒い航空機を眺めていた少年に、後ろから声が掛かった。

「…碇君。」

白銀の少年が、視線を後ろへ振り向けると、どこか心配そうな顔つきをした少女が立っている。

「綾波、どうしたの?」

レイは顔を俯けて、自分の足下に目をやった。

「…分からない。」

少女は、胸の奥に何か靄がかかったような、言いようのないモノを感じていた。

「母さんを第2支部まで送ったら、すぐに戻るから。」

「ええ。」

シンジの瞳に、ゲートが開いたのが見えた。

「あ、そろそろ搭乗の時間みたいだね。」

少年は少女の柔らかな髪を優しく撫ぜた。

「行って来るよ。」

「うん、気を付けて。」

少年は手荷物を持って、嬉しそうな顔をしている母親と共に搭乗ゲートへ向かった。

(…碇君。)

シンジがゲートの先に消えると、レイは、少年の立っていた窓際に立って黒い航空機を静かに見詰めた。

ゆっくりと、動き出す機体。

ジャンボジェット機は速度を上げて滑走路を飛び立ち、青い空の中へ消えて行った。

「レイちゃん、そろそろ戻りましょう。」

紺色のスーツを着た金髪の女性が、”そっ”と少女の肩に手を置いた。

「…はい、リツコお姉さん。」

「そんな寂しそうな顔をしないで。 ……シンジ君は、すぐ戻ってくるわよ。」

レイは少年の乗った飛行機が消えた空を見続けていた。

「…はい。 碇君は、次の襲来の前日には戻る、と言っていました。」

姉は周りに誰もいない事を確認して、更に声を小さくした。

「……という事は、次は10月4日っていうことなのね?」

「はい。」

蒼銀の少女と金髪の女性は、そのまま空港から出て第3新東京市へ戻っていった。



………旅客機。



航空会社として、最高の持て成しをするための空間であるファーストクラス。

そのサービスを享受している乗客は、たったの二人だけであった。

このジャンボジェット機は、NERVという組織によって貸し切りとなっている。

旅客機が向かう先は、アメリカ合衆国の西部に位置するネバダ州。

その広大な面積を誇る州の南部に位置する最大の都市、

 ラスベガスの北北西約200kmの位置にある国連軍基地だった。


……基地の名は、グレーム・レイク空軍基地。 …通称エリア51である。


セカンドインパクト前は軍機密のステルス航空機の試験飛行を行っていた場所である。

「エリア51って…」

シンジの説明を聞いていたユイは、お茶を飲んで質問した。

「元アメリカ軍の基地。 砂漠の真ん中にある施設だよ。 今は空軍としての基地機能はほとんどないね。」

「NERVは、軍事設備をアメリカ第2支部として使用しているっていう事なのね。」

「うん、そうだね。」

シンジも緑茶を一飲みした。

「ええと、たしか、時差は…」

ユイは首を捻って腕を組んだ。

そんな母を見たシンジが、さっさと答えを教えてあげる。

「時差はマイナス17時間。 このフライトは約10時間だから、到着予定時刻は、同日の朝6時だよ。」


……フライトアテンダントを務める女性が、二人に声を掛ける。


「失礼します。 お食事は何時に致しましょう?」

「あら、どうしましょう。 しんちゃん、お腹は?」

旅行気分の母は、窓際に座る息子に聞いた。

「う〜ん、少し空いたかな。 今は軽食を用意してもらって、ディナーは19時頃でどう? 母さん。」

シンジは母を見て答えた。

「そうね。 そうしましょ。」

ユイは、紺色の制服に身を包む女性に顔を向けた。

「今、サンドイッチのような軽いモノをお願いできるかしら? ディナーは19時で。」

「畏まりました。 ディナーは魚と肉、どちらをご用意しましょうか?」

「僕は肉で。」

「私は魚でいいわ。」

「はい、畏まりました。 少々お待ちくださいませ。」

にこりと笑ってお辞儀した女性は、シンジ達の座るシートから静かに下がって行った。



………NERV本部。



シンジが旅立ってから6時間後の午後7時。

初号機が拘束されている第7ケージの搭乗デッキに、白いプラグスーツの少女が立っていた。

その横に立つ金髪の女性は、彼女から白いポンチョを受け取ると、紫色の巨人に目をやった。

「…まったく、なんなのかしら?」

リツコは、自分の運転する車にレイを乗せ、

 第3新東京市へと向かっていた道中に掛かってきた電話を思い出していた。

”ピリリリ、ピリリリ…ピ!”

「もしもし、赤木です。 あっ碇司令。 え? これからですか?」

『…そうだ。 委員会からの命令だ。』

ゲンドウとの通話内容は、一方的な命令。

人類補完委員会から、ファーストチルドレンによる初号機の起動実験をすぐに行え、という下達だった。

”ゴゥン!”

「赤木博士、エントリープラグの準備が終わりました。」

整備部の主任が、初号機に顔を向けているリツコに声を掛ける。

「ご苦労様。 では、綾波三佐。 準備、いいかしら?」

「はい、赤木博士。」

蒼銀の少女は頷くと、インテリアに座り込み、身体をロックさせた。

『ファーストチルドレン、搭乗準備完了! インテリアをプラグへ移動させろ!』

ケージに主任の声が放送され、インテリアを掴むアームが静かに動いた。

それを見送ったリツコは、ケージの管制室に向かった。



………管制室。



”プシュ”

リツコが管制室の扉の前に立つと、自動的に扉が横にスライドする。

「あら、アスカ。 どうしたの?」

技術開発部のスタッフが忙しく働いている部屋の窓際に、紅茶色の髪の少女が立っていた。

「ああ、リツコ。 ファーストが乗るって聞いたから、その実力ってヤツを見ておこうと思ってね。」

アスカの青い瞳が、”キラリ”と光った。

「そう。」

白衣を羽織った女性は、横目で少女を見ながら端末を操作している部下の席に移動した。

「マヤ、どうかしら?」

「はい、初号機のパーソナルパターンの書き換えは先ほど終了しました。 いつでも、行けます。」

”カタカタカタカタ……”

返事をしたショートカットの女性の指は、速度を落とす事なくキーを叩いている。

優秀な部下であるマヤは、この起動実験の準備を5時間弱で終わらせていた。



………空。



”チン…”

シャンパンの入ったグラスが、ディナーの開始を告げる。

適度に冷やされた琥珀色の液体から、炭酸の泡が生まれては消えていった。

ディナー用に用意された木製のテーブルとイスが落ち着いた雰囲気を醸し出ている。 


……まるで、地上のレストランにいるような錯覚を思わせる空間。


現在は、安定した気流にいるのだろうか、揺れも全くなかった。

「”コクッコクッ”…あら、美味しい。」

冷たい液体が喉を通る爽やかさにユイの顔が自然と綻ぶ。

「うん、美味しいね。」

相槌を打った少年は、グラスに半分ほど残っているシャンパンを飲み干した。

給仕を任されているウェイターは、テーブルに着いた二人を興味深そうに見ていた。

ダークブラウンの髪を揺らして笑っている美しい女性は、20代前半だろう。 

エスコートしている凛々しい男性は、10代後半かそれとも同じ位か? ……とてもよく似合っている。

「…失礼します。 舌平目のムニエルでございます。」

ウェイターは、白い皿に盛られた芸術品のような創作料理をテーブルに置く。

”コトッ”

「あら、美味しそう♪」

「母さん、シャンパンのお代わり、する?」

「ええ、しんちゃん。 頂くわ。」

「…じゃ、僕と母さんのお代わりをお願いします。」

「はい、畏まりました。」

ウェイターは頭を下げシャンパンを取りに戻ったが、頭の中は少し混乱していた。

(…母さん? まさか、あの二人は親子なのか?)



………エントリープラグ。



”ヴゥゥ………”

電子機器が稼動する小さな音が円筒の空間に聞こえる。 エントリープラグは初号機の中に納められていた。

『LCL注水。』

”スゥ…”

足元からオレンジ色の液体が音もなくせり上がってくる。

『LCL循環開始。 圧力正常。』

『LCL電荷。 電荷率、規定値をクリア。』

『…綾波三佐、起動実験の最終確認を行います。』

「…了解。」

レイは、深紅の瞳を閉じて静かに答えた。



………管制室。



「ねえ、リツコ?」

紫の巨人を見ていたアスカが、振り返って質問した。

「何かしら、アスカ?」

リツコは、実験手順書を綴じているバインダーに落としていた視線を隣の少女に向ける。

「ファーストのEVAってコレじゃないのよね?」

「ええ。 この初号機は、シンジ君の機体よ。」

「どうして、これの起動実験をするの?」

「先の使徒戦で損壊したEVA零号機の修理は最終段階とは言え、まだ使用する事は出来ないわ。

 エヴァンゲリオンは3機、そしてそのパイロットは、今だ3人しか選出されていないわ。 
 
 今、サードチルドレンは特命任務で、NERV本部にいないの。

 そうなると、今使徒に対抗できるEVAはアスカの弐号機だけ、となるわ。

 ファーストチルドレンとサードチルドレンのパーソナルパターンは酷似しているから、

 初号機が起動する可能性があるの。

 私たちが負ければ、人類が滅ぶと言う状況に於いて、何かあった時の備えをするのは当然でしょ?」

「ふーん。」

(バッカみたい。 そんなの、私の弐号機だけで十分じゃん。)

彼女は自分の実力を見くびられているように感じたが、それをここで口にする事はなかった。

アスカはリツコを見ていた瞳を再び紫色のEVAに戻した。

「センパイ、ファイルリストのチェック終了です。」

「判ったわ。 …では、始めるわよ。」

リツコの号令により、ファーストチルドレンによる初号機の起動実験が開始された。



………空。



一路ネバダに向かう黒いジャンボジェット機のエコノミークラスに、グレーの背広を着た男が座っている。

眼鏡を掛けた真面目そうなアジア人。 歳は、40代後半から50代前半だろうか。

彼の膝の上にビジネス用の黒いアタッシェケースが載っている。

それのハンドルには、無骨な手錠が掛けられており、彼の左手と繋がれていた。

(…やっと、やっと出世できるかもしれない。)

彼にとって初めての重要任務。 国連組織に勤めてから20数年目にしてやっと巡ってきたラストチャンス。

男は、事務連絡員としてアメリカ第2支部へ”最重要機密文書”を届けろ、と命令された時の事を思い出す。

(お父さん、頑張るよ。)

彼は、胸ポケットから一枚の写真を取り出す。

男の瞳に映ったその写真には、まだ幼い子供とその子を抱く女性が写っていた。


……20数年働いても平社員という彼は無能なのだろうか? いや、決してそういうワケではない。


彼は、元来のお人好しな性格で、他人を蹴落とすような出世レースに勝つことが出来なかったのだ。

現在、彼は、機体後部の少し狭い席で、お茶を飲んでいた。

「失礼します。 夕食は、肉と魚のどちらにしますか?」

「あ、僕は魚で。」

「…はい、どうぞ。」

スチュワーデスがワゴンから機内食を男に手渡す。

「あ、すみません。」

男はトレイに載せた機内食を見て、美味しそうだなぁ、と笑顔になった。



………日本時間21時、ファーストクラス。



ディナーが始まって2時間が経つ。

「しーんちゃん♪」

”コトッ”

ワイングラスをテーブルに置いた碇ユイは、すっかり出来上がっていた。

「ちょっと、母さん? …飲みすぎなんじゃないの?」

「なーに、言ってんのよ、この子はぁ…ヒック…」

頭を”ゆらゆら”とさせながら答えた母の顔は、程よく桜色に染まっていた。

”…トクトクトク…”

いつの間にか空になったワイングラスに、フルボディの赤ワインが注がれていく。

”ごくっごくっ…”

ユイは、喉を鳴らして、渋みの強い赤を胃袋に流し込んでいく。

「…ほら、しんちゃんも飲みなさいよー 美味しいから。 ね? ほら…」

「僕は、さっきのシャンパンだけで十分だよ。」

「なによ、付き合い悪いわねぇ。 一体、ダレに似たのかしら?」

「さぁね…」

シンジは肩を竦めた。

「いいから飲みなさいって! すみませ〜ん! ワイングラスを一つ頂けますかぁ?」

ユイのボリュームコントローラーは壊れているのか、彼女の声はかなり大きかった。

「…お待たせいたしました。」

「どぉも♪」

”にぱっ”と笑ったユイは、シンジの目の前にワイングラスを置くと、徐に注ぎだした。

”…トクトクトクトク…”

「はぁ。 母さん、少しだけだよ? そうしたら仮眠とってね? 目覚めたら着いているだろうから。」

「りょ〜かい♪ さ、しんちゃん、クッとやって、クッと♪」


……手を”ほれ、ほれ”と動かして中学生に酒を勧める母親。 


白銀の少年にとってアルコールなど何の影響もないから構わないが、世間体はかなり悪い。

「…まったく。」

そう言って、肩を落とす少年。 しかし、ユイが楽しそうだから、シンジも無下に出来ない。

少年は諦めてワイングラスを煽った。

「あ…ちょっと、母さん、失礼するわね。」

ユイは、立ち上がると、少しふらつきながらレストルームに向かって行った。



………22時、初号機。


実験開始から、既に3時間が経とうとしている。

起動実験は、通算20回目を迎えていた。

失敗しては、設定値、パラメータを変更させ、再びEVAに電源を入れる。

第7ケージの技術開発部職員は、コレを繰り返し行っていた。


……アスカは、最初の起動が失敗した時に、にんまり笑って管制室を後にしていた。


現在、レイは、エントリープラグで静かに瞳を閉じたまま、動く事はなかった。

決して寝ているワケではない彼女は、何も出来ない退屈な時間をどうやって過ごしているのだろうか?

レイは愛する少年と波動で会話をしていた。

『…大変ね、碇君。』

『酔っ払った母さんって、とても賑やかでね、でも大変じゃないよ。』

『…そう。』

『綾波こそ、大変でしょ? 初号機の中に閉じ込められて。』

『静かな場所で、碇君とお話できるから…平気。』

『ハハハッ。 ありがとう、綾波。』

『…ぃぃ。』

少年の温かな波動に、レイは嬉しさを我慢できず薄く笑ってしまった。

『でも、どうして突然、綾波に初号機の起動実験をしろ、何て言ってきたんだろう?』

『使徒も現れない、サードチルドレンもいない。 ……条件が良かったから、ではないの?』

シンジは首を横に振った。

『う〜ん。 …それだけじゃ、突然の理由には弱いと思うよ? 何か別の目的があるのかもしれないね。』

『碇君、その飛行機は安全なの?』

『うん、ドーラに調べてもらったら爆発物とかはないって。 周囲に飛行物体もないし。』

『…そう。』

『あ、母さんが戻ってきた。 また、後でね? 綾波。』

『…ええ。』

”…ピピ”

エントリープラグに管制室から通信が入った。

『レイちゃん、ごめんなさいね。 出来る事はやっておこうと思ってね。 後1時間くらいで終わるから。』

「…はい。」

モニターに映る妹は、目を伏せたまま返事をした。

それを見たリツコは、やはり疲れているのだろう、と思った。

(…レイちゃん為にも出来るだけ早く終わらせましょう。)

「センパイ、準備か整いました。 第21次起動実験、始められます。」

マヤが変更箇所を赤字で書いたパラメータの一覧表をリツコに渡した。

「判ったわ、始めましょう。 リスト1から134番までは省略します。」

「了解、135番スタート。」



………上空。



ファーストクラスのユイは寝ていた。

はしゃぎ過ぎ、というのもあっただろうが、主原因はアルコールだろう。

シンジはテーブルの上を見て、ため息をついた。

(5本は飲みすぎなんじゃないかな……)

”くーくー”と寝息をかく母は、息子にお姫様抱っこされ、リクライニングさせたシートに寝かされた。

(…さて、僕も仮眠を取ろう。 その前に、最低限のモノは準備しておこう。)

少年は、先ほどしていた少女とのやり取りで、何気に気になった事を考えていた。


……なぜ、キールを筆頭とする人類補完委員会は、ファーストチルドレンによる起動実験をさせたのか。


初号機というファクターに、シンジはダミープラグに関する情報が欲しいのか? と考えたが、

 これは否定、という結論に至った。 ”ダミー”とは言え、開発データは送っているのだ。

では? 考えを進めていくと、シンジはあることに気が付いたのだ。

この飛行機に乗っているのは、自分と母親。

いないハズの適格者とコアに眠っているハズの女性。

そう、彼らのシナリオには存在しない人物。 彼らの脚本にはいない登場人物。

まさか、僕たちを殺すのか? そう考えた少年は首を横に振った。


……それは、対外的にできないだろう。


碇ユイを正式に職員として認め、アメリカでのS2開発の責任者としたのだ。 

今のところ、メリット、デメリットを比較すれば、

 ユイは利用できるし、サードチルドレンも使徒殲滅に関していえば、まだ十分に必要なコマだろう。


……委員会、いやゼーレの目的は一体何なのだろうか?


シンジは立ち上がると、

 ザックにエマージェンシーキットと飲料水500mlのペットボトルを2本入れた。

(ま、何もないとは思うけれどね。 ドーラのチェックにも何も引っ掛からなかったんだし。)

シンジは窓側のシートで寝ているユイを見た。

「おやすみ、母さん。」

シンジはシートを倒した。

『お休み、綾波。』

『…お疲れ様、碇君。』

まだ実験をしている彼女からの返事を感じると、シンジはその瞳を閉じて眠りの世界へと入っていった。



………日本時間、22時30分。



ファーストクラスの少年が瞳を閉じた時間。

エコノミークラスに座っている男も、狭いシートを倒して休息に入ろうとしていた。

彼のアタッシェケースに変化が訪れたのは、そんな時だった。

巧妙に仕組まれたワナ。 真面目で優しいサラリーマンが運んでいたものは、書類ではなかったのだ。

”シューー”

静かな機内に、何かが動作している音が突然、聞こえた。

男は、弾かれたように背もたれから身体を起こして、黒いケースを”まじまじ”と見た。

(な、なんだ!?)

”シュー…”

男は、混乱した。 自分は、まだ何もしていない。 ミスも何もしていない。

平職員である彼には、このアタッシェケースを開ける権限はない。


……鍵も持たされていないし、番号も知らない。


何が起きているのか、箱の中の確認が取れない男は、徐々に冷静さを失っていく。

(…ちょ、ちょ、どうしよう、どうしよう!)

せっかく訪れた出世のチャンス……男の額に脂汗が吹き出る。 慌てた男は、ケースに手を伸ばした。


……ゼーレの人選は、まさに適任だった。


真面目な彼は、動揺してケースの中を確かめるように手に持つと、前後に振ったのだ。

その瞬間、男が聞いたのは、”カチッ”という音だった。

それが、彼がこの世で聞いた最後の音だった。




”ドゥゥォォオオン!!!!!”




男の座席が、爆ぜた。








第三章 第十七話 「転入生」 〜 後編 〜 へ










To be continued...


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