人は産まれたとき、誰もが万全ではない
気の遠くなるほど歩いたり、走ったり、立ち止まったり、たまには逆走したり・・・まぁ転んで怪我もあるかもしれない
そして強くなったり、弱くなったりしながら・・・それでも君は何かを願うだろう
喜びも愛も狂気も慈悲も憎しみも楽しみも悲しみも・・・あらゆる事が君の糧となるだろう
土に影響されて白の花が黄色の花になるように
咲かせる花が果たして、何かになることを祈るばかりだ
そうなるとき、世界もまた君の運命を選択する



ヱヴァンゲリオン新劇場版:零 -stand alone paradox-

第四話 ゲヒルン、誕生

presented by じゅら様




1

碇ユイは考えている──
冬月教授に昨日渡された論文・・・何故これを渡されたのか?何故内容が被っているのか?何故私のよりも進んでいるのか?
もちろんゼミの人間だけでなく、世間でいう学者達の中には内容が被っている論文を書いている人もいるかもしれない。
だが、タイミング・入手経路・著者がゲンドウであること・・・判らない事が多すぎてどうしようもない袋小路に陥っていた。
まぁ入手経路はいいとしよう。だが、タイミングと著者から推論すれば私は盗撮されていたという以外に思い浮かばない。
碇ゲンドウという名前は論文を読み終えてから程なく思い出せたのだが、ストーカー行為を受けていたという自覚もなければ家の者からの報告もない。
それなりに厳格な・・・と、いうよりも見た目以上に浸入がありえない家であったのに・・・
やおら、彼女はきっと正面を見据えて携帯電話を取り出すと手馴れた手付きでどこかに掛け始める。

"トゥルル─ガチャ"

「はい・・・」
ワンコールで出た相手に向かって、
「盗聴・盗撮の疑いがあります。調査をお願い。そう、家と私の持ち物の・・・えぇ、それじゃ」
一息でそう伝えて切ってしまう。
彼女は右の親指の爪を噛み、
「見てなさい・・・」
誰にも聞こえない声で、そう嘯くのだった。

*

その日の夕刻、家に帰ったユイは目を見開いて凝視していた。
先ほどまで浮かべていた表情の厳しさは既にない──
ただ彼女は呆然として、ぼそりと、
「・・・どうして──」
と呟いた。
二階の自室から廊下に出たとき、窓から渡り廊下を歩くゲンドウがいたのを見つけたのだ。
折りしも盗聴盗撮の調査報告をインターホンで受けたばかりであった。
報告には疑っていたものの気配すらなかったのだが、なにぶん疑いの目を向けたばかりの相手だ・・・
知らずもその手が握りこまれている。
そのまましばらくすると、階下から階段を上る足音が近づいてくる。
すると、彼女の顔からすうっ、と浮かんでいた厳しい表情が引いていく。
我に返ったというよりも、その顔に薄い何かが滲み出したようなそれは長年の生活故だろうか──
「お嬢様、こちらでしたか。御当主様がお食事にお呼びになられています」
そう家政婦らしい女性が呼びかけると、一瞬、視線だけを窓に向けて、
「わかりました。すぐ参ります」
そう言ってユイは静かに廊下を家政婦のやってきた方に足を向ける。
そのまま食事をする部屋の入り口までしばらく進み、碇ユイの父、碇眞太郎(シンタロウ)がいる「光琳の間」と名付けられた部屋の前で静かにユイは膝をつく。
「失礼します・・・」
そう言って障子をすっと引く・・・
そして視線を下から正面に向けたが、そこには父だけでなく・・・予想しなかったわけではなかったが、やはり彼が座っていた。
それでもおくびにも表情には出さず、静かに作法に則って部屋に入る。
そして父からやや離れた末席に席をとった。ゲンドウはシンタロウの斜め前、客席に着座していた。

2

町の中どこにでもあるとはいえまだ17時、入っているものは少ないだろう小さな居酒屋。
そこにニケがやってきていた。玉暖簾をくぐって人の気配の少ない店に一歩を踏み込むと、バイトの元気のいい声が迎えてくる。
「いらっしゃいませ!!」
ニケはそれにかまわず、そのまますたすたと一番奥、勝手口に近い席につく。
カウンターにいる店員がビールを冷凍棚に入れているのが見える。
ニケはポケットから今ではろくに使われなくなってきた感のあるテレホンカードを裏向きにテーブルの真ん中に置く。
置かれたそれは、マジックで丁寧にも真っ黒に塗りつぶされている・・・
なんの呪いかと思われるかもしれないが、知る者が見たらそれの意味が判るという符丁という物だ。
それだけ済ますと、ニケはそのままテーブルに突っ伏す。
知恵熱が出ていた・・・あの病院での出来事以来、ニケは生まれて初めてといってもいい努力をしているからだ。
あれから大学や研究所、なにか知ることができそうな場所に片っ端から向かい"勉強"している。
そのせいで最近は頭だけが何かと疲労感に苛まれているのは自業自得であろうか・・・
しばらく休んでいるとバイトの子が水の入ったコップをテーブルに置く。
コップには目もくれずに安っぽい紙のコースターの上に置かれたそれからコースターを抜き取り足早にトイレに向かう。
「めんどくせぇ・・・」
そうぼやく、それはそうだろう。どこの世界に本気でこんな命令書のやりとりをしなけりゃならない必要があるんだか・・・
不貞腐れつつもコースターの文字を目で追うとぐしゃっと手で握り潰し、意外と綺麗に掃除されている大便器に流す。
あー、もうこれって趣味なんだろうなぁと嫌になりつつも命令に従い、次の場所に向かう。
・・・そこは2軒隣のコンビニ。そのトイレだった──
化粧室に入ると奥の個室に使用中を示す赤い印がニケを迎えた・・・
だが、そのままかまわずにニケは懐から携帯電話を取り出して、
「もしもし。はい、鳴上ですが・・・」
そうあたかも通話しているかのように小さく口に出す、すると──
「お前はこのまま箱根に行け・・・」
そう使用中のトイレから声がした。そのまましばらく沈黙が続き・・・
「あの──」
呼び出されたはずなのに、そのまま沈黙を守っている上役に不審に思い口をひらいた。すると、
「・・・アダム」
「・・・は?」
「判っているのはそれだけだ。お前にはこれからそれを探ってもらう」
たったそれだけ!?ニケはそう思っていささか不躾に問いただす。
「単語だけですか?」
ニケは面食らった。
「あぁ・・・」
その上役の男は少し沈んだ声になった。
こいつはそれなりの被害があったのかも・・・そう当たりをつけてニケは追求の口を閉ざす。
男はやはり、それについてはそれ以上説明をせずに命令を続けた。
「人工進化研究所・・・それが箱根にある。お前はそこに行き、ある人物と接触しろ」
男の言葉にニケは頷いて、
「その者の名は?」
努めてそっけなく尋ねる──そしてその者の名を刻み込み、ニケは手に持っている携帯電話をしまって、
「葛城ヒデアキ・・・」
そう言ってコンビニからも、そして京都からも・・・出て行ったのだ。

3

「ゼーレは箱根に研究所の施工を現在行っている。そこに娘のユイと共に向かってくれ、それが本部からの命令だ」
ゲンドウは即答せずに、しかし気圧された様子も見せずにゆっくりと視線を這わせてユイに遠慮のない・・・だが、どこか呆然としたような視線を向けてきた。
ユイはゲンドウを見つめ返す。
だが、その表情はゲンドウがどうしてそんな視線を返してきたのか・・・その意味がわからなくて釈然としてはいなかった。
普段はおくびにも出さないが、自分の父親が大きな組織に属しているのは知っていたユイは、
「そこで何をすれば良いのでしょう?」
そう静かに問う。
年齢に似合わず落ち着いた、まるで茶室での問答であるかのようなユイの問いかけに、シンタロウは顔をユイからゲンドウへ向けて
「それは向こうに着いてからこの男に聞くがいい──」
そうどちらにも向けての言葉で返したのだった。

・・・パン、パン

そしてその言葉が染み渡る間もなく、シンタロウは手を2回叩く。
するとそこにはいつから待っていたのか障子が音もなく開き、食事を給仕の女が入ってくると料理を配膳し始めた。
まるで話はここで終わりであるといわんばかりの態度であったが、口をそれ以上挟む事もできずにユイはやむを得ず夕食にかかった。

*

雲に隠れて月どころか星も見えない。そんな夜だった。
その日はゲンドウは碇邸に宿泊し、明日から箱根にユイと向かう手筈になっていることを告げられて食事は終了した。
真意を父に尋ねようとも考えたのだが、その職務に関わることであるならば決して口を割らない。
それは今までの生活で嫌というほど判っていた、それ故に客間に宿泊しているであろうゲンドウに問いただすことにしたユイは客間に向かって足を運んでいた。
不自然でないようにコーヒーと、廊下を照らす明かりを盆に載せて静かに進む・・・
古い家ではあるが、しっかりした造りの為に足音で軋んだりする事のない廊下はユイの持つ明かりだけが足元を照らしていた。
その客間の前にたどり着いたユイだったのだが、どう話かけるかしばらくの間逡巡していた。だが、中から小さな声だがゲンドウの声がし始めて、悪いとは思いつつも聞き耳をつい立ててしまった。
すると、
「ようやくか・・・でも、どうしたらいいんだろうな・・・」
そう聞こえて、声を掛けようとしたのだが、
「・・・母さん・・・」
少し驚いてドアをノックしようと伸びかけた手が空中で停まる。母親に思いを巡らせるような印象ではなかっただけに、どうしていいかわからなくなった。
ただ、その言葉にひどく自分が悪い事をしているかのように思ったユイは小さく謝るかのように頭を垂れ、やや躊躇いつつも踵を返すのだった。

*

次の日の朝、大学を休むことを家の者に伝えさせ、ゲンドウとユイは碇家の送迎車に送られて京都駅に到着した。
昨日の夜の事もあり、色々聞きたい事はあるのになんだか躊躇ってしまってまだ何も声を掛けることができていなかったユイだったのだが、新幹線の座席に座ると静かに今までの事を問いかけていた・・・
「先日の論文。読ませていただきました」
「そうですか・・・」
今、ゲンドウは叱られている子供のようにせわしなく指を組み替えている。
その態度は悪い事をしたと思っているようにも見えない事はないが、むしろただ落ち着かない・・・そんな風にも見える。
「大変良く出来ていたと思いますが、何故冬月教授から?」
「近日中だろうと思っていましたが、国外に用事がありましてね。それと教授にも見せておきたかった」
ほとんどよどみなく返答が帰ってきて、ユイは嘘ではないと確信する。
だが、冬月教授を使い走りにしたとも言える。その度胸には恐れ入る──が、どうしても聞いておきたかった事を続けて口にする。
「私の論文の主題に宛てるかのようなあの論文・・・私の論文の主題をどうして知っていたのですか?家の者ですら知らないはずです」
「それは・・・」
そう口ごもったゲンドウが話を続けようとしたのだが、出発も間近になり他の客も周囲に着き始めていた。
ユイを挟むようにして護衛の人間もいる・・・
ゲンドウは周囲をちらと横目で見て、
「もうすぐ・・・貴方は選択しなければいけなくなる・・・その前に知っていなければならなかった」
たどたどしくそう言って視線を下に、何か叱られているかのように口を濁らせてしまっている。
そのなんだか言っている事がどうにも要領を得ない上に、いつもの不遜といってもいい雰囲気が実はただ喋ってないだけであるのがなんだか判ってしまった。
なんだかその雰囲気に可笑しくなってしまって、怒っていたのがどうでもよくなってしまう。
浮かんだ表情もなんともいえないものになってしまっていた。
その言っている事は訳すると・・・"これから行く場所で、私は否応にも決断しなくてはならなくなる"
そんな処にだろうか。
その意味はこんな余人がいる場所でする程度のものではないだろう事くらいは判る。
いまいち釈然としないのだが、分別は付けなければならないだろう・・・と、ユイはそれきり喋らずに、ただゲンドウと並んで座っていた。
そんな2人がしばらく黙って座っていると、斜め前の席に座っていた濃紺のスーツに身を包んだ男が立ち上がり、やってくる。
ゲンドウは一度その男を見た事があった。それは京都大学にきて間もない頃にゲンドウの拉致を試みた輩の1人であった。
そいつは妙に人懐っこい笑みを張り付かせて、
「どうも、先日は」
そう言って芝居がかった礼をしながら、ゲンドウに声を掛けてきた。
「一人か?」
「覚えてやしたか。デクのやつは今日は必要なさそうなんでね」
そう言って頭をぽりぽりと掻き毟り、決まり悪そうに、
「借りはつくりたくはないもんで・・・」
「そうか」
「ま、いいや。駅が張られてる。1つ手前で降りるといい」
男は手のひらを上げてお手上げのポーズをとる。その態度にもそっけなく、
「わかった」
そう言ってゲンドウは瞼を閉じる・・・
「貸し借りはこれでなしですぜ」
「あぁ」
そう言うだけ言って、男は別の車両に移っていった。
ゲンドウはそれを確認して、
「聞いたな。至急手配しろ」
そう周囲の護衛に指示を飛ばす。護衛の男たちはユイに視線を送るが、
「・・・・・・」
沈黙を守っているユイを見て、それを肯定と受け取ったのか慌しく連絡を行い始める。
ユイは喋らなかったがしばらくして、
「ばかねぇ、男って・・・」
呆れたような表情で・・・だが、それは少し羨ましそうな声だった。ゲンドウはそんなユイの声を今まで聞いたことがなかったので少し嬉しくなり、
「ふ・・・」
と、やや不器用な微笑を返していた。
少しゲンドウを見直していたユイは、なんだか口を開くのがもったいなくなって、笑みの表情のまま視線だけはゲンドウを見つめたのだった。

4

「なんだって?日本支部の御嬢様が!?」
ゼーレの研究員として下準備を行っていた男は同じくここで働いている部下の一人にそう尋ねた。
「えぇ、もっぱらの噂ですよ。良く知りませんが」
そんな男たちの会話に入ってくる声があった・・・
「はいはい。手を止めない、私たちには人手もなければ、時間もないのよ」
まるでどこかの学校の委員長に咎められたかのようだが、それを口にした相手は見るまでもなくわかっている。
「はい、赤木博士」
誰も目を自発的に合わせようとはしない。それを左右にねめつける様に見渡して、
「1620からブロック2でのプロトタイプ稼動、ここはそれまでに退出するように!」
「「了解!」」
どこか投げやりとも受け取れる口調に大きな返事が返る。
彼女がそう伝えてすぐ、先ほどの男が、
「何故ここまで電源落とすんですか?空気の循環が必要なモノはありませんか」
こう言うと、赤木ナオコは視線を合わせるでもなく事務的に、
「ドグマへの電力供給を落とさないように指示が出ています・・・」
そう無愛想に言って足を来た方向に返すと、そのまま振り返りもせず立ち去っていった。
それを見て男とその部下は顔を見合わせ、やれやれといった風情で肩をすくめて資材の点検に走るのだった。

*

かくして予定に2時間遅れてゲンドウ達は人工進化研究所に到着する、ユイはゲンドウの隣でその地下に案内されて広がった光景に絶句していた──
目の前にあるかのようにタラップから見える巨大なそれは視界に収まりきらない・・・
大きな白い死体、ここからはそうとしか思えなかった。
そのサイズはまるで悪夢のようだった。大人用のプールにも収まりそうもない、こんな生物がかつてこの地上に存在していたというのだろうか・・・
(何なの・・・あれは)
そうとしか言いようがなかった。これが何を意味しているのか、何を目的としてこんなモノがここにあるのか、彼女には理解できなかった。
最もそれがなんなのか・・・何のためにあるのか──今それを知らされても決して理解はできなかっただろう。
ただ、心の片隅にゲンドウの言葉が思い出されていた。
『もうすぐ・・・貴方は選択しなければいけなくなる・・・その前に知っていなければならなかった』
この時点でのユイは、自分がこれから携わっていくものがこの先の人類を左右するものであるなどということは思いもよらず、ただゲンドウの言葉と目の前にあるモノで何も考えられなくなっていた・・・
いくら優秀であったとしても大学生に過ぎない彼女では、後に賢者の名を頂く頭脳を持ってしても想像を遥かに超えていたのだ。
・・・そしてこれがゲヒルンの真の始まりであり、ゲンドウ・・・いや碇シンジにとってのかつての不幸の始まりの場所でもあったのだ。
"碇"
"赤木"
"葛城"
"キール"
この4つの要素が物語の中で化学反応のように様々な運命の種を撒くことになっていく。
それは不幸で、恐ろしくて、悲しい結果を生み出すことになる。
その運命が果たして何の為のものであったのか──それを知る者はまだ誰もいない。

5

箱根へと行くことにしたニケは、箱根へ移動しつつ"とばし"携帯といわれる足のつかない携帯電話を場所と相手を変えながら購入していった。
いくつか購入したのは相手1箇所につき1台使用するからで、用事が終わったら廃棄するためだ。
公園のベンチに座り、そのうちの1台でニケはどこかに掛けていた。
『もしもし』
電話にはすぐ本人が出る。携帯電話の番号を調べたのだからそうだろう。
運送会社を装い、以前に所属していた大学に貸し倉庫に荷物があると偽って連絡先を聞き出すのは造作もなかった。
もちろんそのとき使った携帯は今では川底だ。
「あ、どうも。葛城さんですね?」
『ええ、そちらは?』
この質問にニケは答えず、逆に──
「アトムの戸田って知ってますかね、ご紹介に預かりまして」
そう微妙にイントネーションをずらした発音をして尋ね返す。
これに葛城博士はいぶかしみながらも、通話をさっさと終わらせることにした。
『残念ですが、心当たりはありませんな。勘違いなさっているんでしょう』
「そうですか、それは失礼を致しました。もし思い出したとかありましたらこの番号にお願い致します」
『はい、では』
そう言って葛城ヒデアキは妙な電話を切ったのだが、
(アトム・・・戸田・・・とだ・・・と>だ・・・アダム!)
暗号とも言えない稚拙なものだったが、すぐに思い当たって指が着信履歴に伸びていた。
通話が終わってニケは携帯電話をしまい、タバコを吸おうとしていたのだが、火をつける間もなく携帯電話が振動しだす。
ニケはそのすぐに振動していた携帯電話を取り出し、点灯している着信ランプに口の端を吊り上げるのだった・・・

*

葛城博士との通話を終えたニケは程なくして待ち合わせのレストランに到着した。
そして奥の席にいる葛城博士を確認して歩みよるのだが、その片目がわずかに見開かれる・・・
(そういう可能性もあったか、ちょっと話づれぇなぁ)
そう、博士の隣には娘の"ミサトちゃん"も座っていたのだ、そのせいか座っている席も禁煙席だ。
それもあって、ややひきつり気味に口が苦笑の形をつくった。
どうしようもないので、やむなくニケは自然に手など上げて向かいの席に滑り込んだ。
「どうも、ご足労頂きまして・・・」
無難な挨拶を交わしながら、ウエイターにコーヒーを注文する。
「娘さんもご一緒でしたか、えーとミサトちゃんだったね。覚えてるかな?」
「うん、病院で会ったおじさんね」
その言葉に、ニケはことさら大きなリアクションで驚愕の表情を張り付かせた。
(お、おじさん・・・まだ俺20台だぜ、そりゃねぇよぉ)
「あ、うん・・・」
急に言葉を詰まらせて、つい黙り込んでしまうニケ。
だが、ミサトもベージュのスーツの背中が哀愁を漂わせだしたのを見て察したのか、
「あ、ごめんね。おにいさん」
顔を僅かに赤くして付け足すようにいい直す。
その横で声を殺して苦笑していた葛城博士だったが、すぐに真顔に戻り、
「話は既に伺っています、仕事の協力については惜しみません」
そう口にする。その表情は真剣そのものだった。
「ぷっ、い、いや失礼」
だが笑い上戸なのか一瞬で相好が崩れる。
大きく1回深呼吸をした葛城博士は、面持ちを持ち直す。
ただ、いくぶんかリラックスはできたようだ、ニケも笑われた甲斐というものがあるというものだと、思うことにした。
おかげで少し穏やかになった雰囲気で会話をやり直すことにしたニケは、穏やかに話しかけた。
「娘さんの具合はどうなんです?入院されていたんでしょう?」
「ミサトにもう会っていたのですか」
「ええ、こないだ京都で発作を起こされたときに傍にいました」
「それで貴方は一体・・・」
そしてニケは今までの経緯を博士から聞いた・・・
彼、葛城ヒデアキは今でこそこうやって不自由ない生活をしているが、数年前までは危うく一家心中かというくらいに追い詰められていということ。
勤めていた大学にあらぬ容疑で告訴の上、懲戒処分を受けたのだ。
だが、実際に蓋をあけてみればさにあらず、容疑は留年学生の逆恨みの仕業であった。
博士はすぐに処分は取り消されるのが妥当であると思っていたのだが、何故か処分は撤回されず、復職は出来ずにいた。
当然博士は抗議した。しかし一向に埒があかず、裁判費用も馬鹿にならない・・・
やむなく再就職先を探そうとした矢先に娘が入院。
ほとほと困り果てたそこに救いの手を差し出したのが旧知の米国の科学者であり、再就職先に国連の研究所を紹介されたのだが、この度国連の科学者として人工進化研究所に派遣される事が決まったのだ。
疑問が浮かんだニケは、
「それでその大学の騒ぎというのは?」
それがゼーレの自作自演ではないだろうかという意味で尋ねると、
「あぁ、組織の仕業ではないかということなら違います。今でも似た騒ぎを起こしていますよ」
そう言って苦笑する。その表情には憂いといった感情は見当たらないので本当に引きずってはいないようだ。
ニケは小さく頷いて人工進化研究所に行く博士の助手としての同行をお願いした。
博士は快く引き受けてくれ、握手を交わしたニケはしばし箱根で葛城一家と同道することが決まったのだった。

6

ゲヒルンに来た翌日、ゲンドウたちは行きのときのような万一の事態に備え、車で帰宅することになった。
やや大袈裟といっていい大きな黒塗りの車は例えマシンガンで撃たれたとしてもどうということはない特注のものだ。
その後部、顔色を悪くしたユイが座席にぐったりしている。
今だ一介の大学生であるユイには、持ち合わせの覚悟では足りなかったのだろう。ゲンドウも何も言わず、静かに目を閉じている。
車は高速道路を走っていて、小1時間程走ったところだった──
後ろから大きなトレーラーが追い越していく。
そのトレーラーはしばらく前方を走っていたのだが、更に後方から大型バスが併走してくる。
何かやばいものを予感した運転手は速度を緩め、後方に下がろうとしたのだが・・・

ゴンッ!──

「キャアアッ!!」
いきなりの衝撃にユイは悲鳴をあげる。
後方からの衝撃で車が大きく揺れる。それだけでなく併走しているバスは一向にかわすそぶりを見せない・・・
分厚い鉄板入りの車体は吹き飛ばされることもないが、バスや後ろの追突してくるトラックに"ゴン、ゴン"と突き回され座席から落ちないようにしがみつくので精一杯だ。
ゲンドウは目を見開いてその周囲を見渡したのだが景色は見えず、他の車の側面に囲まれていた。
咄嗟に大声で、
「ギアをパーキングに!逃げろ!!」
そうゲンドウは叫んだのだが、その言葉も終わるかといったとき、後部から更に追突されて座席から放り出されそうになって必死にしがみつく。
その混乱も覚める間もなく"ウィーィ"という機械音がして前方のトレーラーのハッチが上下に開いていく。
そのままハッチは路面に接触し、火花が散る。このまま進めば荷台に飛び込まされてしまう。
運転手はゲンドウの言葉通りにしようとしていたのだが、後ろから追突の手が激しくなり手の動きがままならない・・・
ものの30秒もしない誘拐劇であった。
ゲンドウたちの乗る車は追突してくるトラックに押されてトレーラーの荷台に放り込まれてしまう。
後部のハッチが大きな音を立てて閉まったとき、車は真っ暗な荷台に押し込められていた。
車の車内灯が唯一の照明だ。
激しい振動にぶつけた頭を押さえながら車外に脱出しようとゲンドウは後部ドアを開ける・・・
ハッチをなんとか開くことが出来ないかと後ろに目をやったのだが、"ポシュッ"というなんだか間抜けな音がして嫌な予感と共に振り向いた次の瞬間、その狭い荷台は白い煙で一杯になっていた──
不意を付かれ、後手に回った事に後悔の念を抱き、それを最後にゲンドウの意識は途切れたのだった。



To be continued...
(2009.11.28 初版)
(2009.12.05 改訂一版)


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