人は誰しも鳥篭を持っている
大事な鳥はもういない
でも篭には羽だけが残されて・・・
それを懐かしく眺める時もあるのだろう
だけど、だけど
どれだけ年月が過ぎようと───
その想いだけは決して捨てられる事はない



ヱヴァンゲリオン新劇場版:零 -stand alone paradox-

第五話 ユイ、心のむこうに

presented by じゅら様




1

何故ユイとゲンドウが夫婦になったのか。
・・・それを既にこの世界のゲンドウとなったシンジがそれを知ったのは、シンタロウに再び出合った時だった。
「私は終わった」
シンタロウは唐突に言った。
その言葉に、ゲンドウは焦りを感じているかのように、
「貴方の何が終わったというのですか」
そう尋ねたのだが、シンタロウは顔を伏せたままそれに答えない。
そしていくばくかの沈黙の後、顔を上げたその表情にゲンドウは意表を突かれる。
その、まるで何もかもを受け入れてしまったかのような・・・その表情に口を挟むことを躊躇われ、ただ縋るかのような視線でシンタロウを睨む。
シンタロウはそのまま静かに、
「人には譲れないというものが何か一つはある。それは使命と呼ばれたり、運命と呼ばれたりしている。私にとってもそれはあり、それゆえにこうして私がお前に託すそうとすることは運命であるとも言える」
と、静かで何か悟りきって・・・まるでその姿は敬虔な僧侶であるかのような──
そんな表情で真剣に語り出したのだった。
それは、祖父と孫の決して逃げられない密約であり、その真意は永遠に誰にも語られることもなく───

2

それに遡る事数日・・・ゲンドウたちは未だ犯人達に囚われの身であった。
その攫われたどことも知れぬ一室では、ユイが唇から血を流してただひたすらに耐えていた・・・
目隠し、猿轡に耳栓、そしてベルトのようなもので身動きどころかまともに喋ることすらできない。
最初こそ身体が引きちぎれんばかりに足掻いた。
だが無駄だった。何もできない、手も足もでない。
どうしようもない現実がユイの動きを次第に緩慢なものにしていった。
そして目隠しをされているにも関わらず男と判るのは、そのユイ自らを犯しているからだ。
だが、そんな目に遭いながらもユイは歯を食いしばって耐えていた。
彼女はここ数日、自らの運命を選択しようとしていた。そんな彼女からすれば彼らは脆弱に過ぎた。
命令され、そして状況に流される。
それは家のしきたりに縛られ、父の言う事に縛られ、自分の積み上げた経歴に縛られた──昔の己を見ているかのようで──ただ憤慨していた。
脆弱な男に憤慨し
自分が欲望の対象である事に憤慨し
己に憤慨し
そして運命に憤慨した
その、既に何に憤っているのかすら忘れかけていた彼女に今、生まれたものがあった。
"負けてあげない"
そう、彼女にたった一つ残った武器。それは意地なのだった。

*

「う・・・」
別の一室ではゲンドウは今、心地よい喪失感と共に目が覚めていた。
まだ身体がだるい、あと5分寝ていたい・・・そういう心地よさだ。
今しゃべったのは自分であったのだろうか、まるで自分の寝言で目が覚めたときのような気がする。
ただ、布団にしては何か熱いものが覆いかぶさっているような・・・そんな感覚だ。
荒い息が首筋に当たる・・・ハァハァという吐息であることを認識した瞬間、ゲンドウの意識は急速に覚醒した。
薄暗いが視界にあるものが何であるのか、意識がはっきりした今よくわかる──
それは女だった・・・
何か気持ち良い感触、それは自分が犯されていたということらしい。
目の前の事態に何がどうなってこうなったのかさっぱりわからない。ただ、起きる前、何があったのかを次第に思い出すことが出来た。
だが、何故自分を犯したのか
この女は何者なのか
ここはどこなのか
今はいつなのか
混乱する頭を抱えようと腕を動かそうとしたが"ガチャリ"という鎖のような音がして、腕は動かそうとした反動で弾かれる。
女がそれに気がつき、慌てて身体を起こす。
「ここはどこだ」
慌てて身を起こす女にそう言ったのだが、
「・・・・・・」
まったく何も喋ろうとしない。その女は幾度かの問いかけにも全く答えなかった。
そして、ゲンドウが寝かされている硬いベッドから起き上がると一瞥もせずに身支度を済ませる。
それからほどなくして扉を数度叩いたかと思うと、今度は女と入れ替わりで男が2人入ってくる。
「くくく、あの女よかったか?」
入ってくるなりそう尋ねた。こんな状況でなければ文句の一つも出そうなものだが、ゲンドウはその代わりに男たちを睨め付ける。
その男たち・・・帽子を目深に被った一人は小銃を小脇に抱え、照準はこちらを向いていた。
もう一人は目が青い、のに肌は浅黒かった。ガムをくちゃくちゃという音をさせながらこちらを嬲るかのような視線を向けている。
「聞く必要があることは?」
そう尋ねるゲンドウに、
「いひひひひ、ねぇよ」
と、気味の悪い笑い方をしてどっかりとゲンドウの側に腰を下ろした。
「質問が2つあるがいいか?」
ゲンドウはそう言ったのだが、男はにたりとしているだけだ。
場を異様な雰囲気が漂っていた。
その沈黙を嘲る様に、
「ひひひひ、あの女のことか?」
「連れの女のことと、さっきの女の事だ」
そう質問し、返って来た言葉に男はちょっとの間きょとんとして、すぐに笑みを濃くし、
「ひひひ、女のことばっかりか。まぁいいけどよ。くっくっく」
そう心底可笑しそうに、それでいて生理的に受け付けない。そんな風に下卑た笑いを洩らした。
「ま、サービスだ。教えてやろう。さっきのはイラストリアスっていう名前の女だ。ビジネスってやつさ、お前大金持ちだそうじゃねぇか」
そう言われてゲンドウは、はっとした。
動揺が浮かぶ。そんなゲンドウを舐るような視線で覗き込みながら、
「さっきの女はお前の子を身篭ってもらうのさ、そうすればお前が死んだあとで合法的に相続できるってわけだ。その道のプロってやつさ、ひひひ」
まるで苦虫を噛み潰したような表情を浮かべるゲンドウに、心底嬉しそうな男の饒舌が回る──
「あと一人のほうはまぁ人質ってやつだ。まぁ命さえありゃ交渉には事かかねぇがなー!ひっひっひ」
その言葉が終わるかどうかといった時だった。

ドンッ───

「ぁ・・・・・・・・・」
男たちはゲンドウの周囲を驚愕の目で見る。
声を発したのは一体どっちなんだろう、と何がなんだかわからない男たちは慌てて視線を交わす。
一瞬だった、まるで衝撃波がゲンドウを中心として発生したような。

ドンッ─────

更に轟音と衝撃が巻き起こり、ゲンドウを拘束していた全てが弾け飛ぶ。
青目の男はその衝撃でベッドから転げ落ちていた──
ベッドを中心として・・・否、ゲンドウを中心として埃が吹きすさぶ・・・
だが、男たちは何もすることが出来なかった。後ろに控えている小銃を構えていた男ですら、引き金を引くこともできない。
誰にもわかりはしない──いささか異常な人間である青目の男も、自分の目の前にいるのが一体なんなのか理解できるはずもなかった。
それが、ゲンドウであるということですら・・・
「貴様らあああああああああああああぁっ!」
獣の咆哮であるかのような叫びをあげたゲンドウ。
その発する咆哮は、まるでそれが合図であったかのように一瞬でその周囲を巻き込み、その全てを弾き飛ばして壁に叩き付けた。
青目の男の瞼が一層見開かれ、そして信じられないものを見た驚愕の表情のまま息絶える──
衝撃と轟音が吹き抜けた後に残ったのは、その男の胸から上だけだった。
部屋には嵐の後の静けさが訪れる。何も動くものはなく、まるで何もかもが終わったかのようだった。

パチッ──

その静寂に満ちた部屋に何か火花が弾けたような・・・そんな音がする。
天井の照明が砕け散り、むき出しになった配線が火花を散らしていたのだ・・・

ジジッ─バチッ──バチチッ───

その音は、何かとんでもないことが起こる前兆のようにも見えた。
音は鳴り止まず、その異常な事態を主張し続けた。そしてその中、ゆらり──と立ち上がる影があった。
悲しみと怒りが混じった何とも形容し難い表情を張り付かせた・・・
それはゲンドウだった。

*

「誘拐犯からの連絡はまだなのかっ!」
碇シンタロウはそう苛立ちを隠しもせず、周囲の男たちに怒鳴り散らしていた。
まさに誘拐劇が起こってから4時間が経過していた。
敵は相当の用意があったらしく、GPS探索も衛星探査も役に立たない。
第一、誘拐が起こった事も碇家の車がパーキングエリアに放置されて1時間経つまでは判ってもいなかったのだ。
丁寧にも車のあらゆる無線機能を遮断する装置を取り付けているありさまだった・・・
「使えそうなものは何でも使え!役人でも政治家でも、何でもだ!」
だが、何もしなかったわけではない。
碇シンタロウはゼーレの日本支部長であり、その威光はこの事態にあらゆる方面で発揮されてはいた──
ただ、その手掛かりが一切掴めていない今、まるでチェーンの外れた自転車のような有様だ。
碇家は突然に大地震がやってきたかのような混乱に、どうしようもなく・・・犯人からの連絡を待ちながら捜索指示をあらゆる所に発する。
──そうするしかなかった。

*

ユイの犯されているその部屋で男達の中、やることをやった気だるさに包まれている男がいた。
そいつはだるそうに、タバコを吸いたいな・・・と思いつつズボンを履き直していた。
まだ当分終わりそうもない行為の様子を横目で見て、
「やれやれ、んじゃ外のやつと代わって来る」
そう言って部屋の外に出て行った。そして、
「おめえらも入りな、ここにゃ俺がいるからよ」
そう見張りをしていた男達に伝えて、扉が閉まるのを目で追った。
そして懐からタバコを取り出して火を付けると、
「かー、うんめぇー!」
そう言いながら満足そうににんまりとした笑みを浮かべた。
仕事もほとんどやり終えた。あとは船に乗せりゃ自分の仕事は終わる。
終わった後の報酬もあるが、その役得にも預かれた──
いい仕事だったと思い始めていた。
そこに───

コツンッ・・・

小さく、しかし確かに聞こえた音に、男は反応する。
一連の動作は訓練された兵士を思わせるに充分な動きだった。
ホルスターに収まっていた拳銃を抜き、音のした方向にぴたりと照準を合わせる。
だがそこにはコンクリートの廊下の行き止まりで特に何も見えなかった。
その足元に先程まで咥えていたタバコがぽとりと落ちる・・・
何か意図めいた、そんな気がした。
それはまだ男が少しは兵士であったからかもしれない。何かが背後にいる──
そんな予感めいた確信をもって男は振り向こうとしたのだが・・・
ずんっ・・・そんな音がひどく近くで聞こえたような気がして・・・・・・巡らせた視線に映った男の顔に驚きかけ・・・
そのまま永遠にその表情を顔に宿すことなく、ただ急にコンクリートの壁が眼前にやってきたのに、
(何でだろう)
と、思いながら・・・死んだ。

コンクリートの床に男が静かに崩れ落ちる・・・
その男を倒した全裸のゲンドウは、血に塗れた指をひどくやるせない表情で見ていた。
それも一瞬の事で、男の着衣をやや乱暴に剥ぎ取って身に着ける。今敵が出てこようものなら例え敵を全て倒せたとしてもユイは無事には済まない。
幸運にも服を着る間敵に気付かれる事はなく、ゲンドウは急ぎ扉を叩くと大声を出して、
「おいっ、男が逃げた。捕まえてくれ!」
そう叫んで、急いで扉の反対側に反動をつけるかのように足の裏をつける──
その足がついたかどうかというとき、バンッと大きな音と共に扉が勢い良く開く。
ゲンドウは壁を蹴り、凄まじい勢いで部屋から出てこようとしていた男ともども部屋の中に飛び込んだ。
常識ではありえない手だ。隠れていてやり過ごすのならともかく、敵が待ち構えているその中へ飛び込むのだ。
相手がゲンドウであることを敵が認識してしまったら暴行捕獲されるのが関の山だ。そう、普通は・・・
だが、ゲンドウにとっては敵が一瞬でもユイから離れる理由が出来ていれば充分だった。
己の身の安全など考えないその特攻だったが、誘拐犯はその入ってきた男が伝令役だと勘違いしてくれた為にユイの側まで転がり込む事に成功する。
「どうしたっ!」
そう叫び、混乱した男達を余所にユイの無事を確認するとその側にすっくと立ち上がる・・・
その様子に混乱していたはずの男たちも一斉にゲンドウに視線を向ける。
「あっ、こいつは!」
そいつらの中にいた男の一人がそう驚いた声をあげる。
やや俯いたその顔を見た別の男が小銃を構えて大きな声で叫ぶ──
「貴様、ゲンドウ!」
そう言うが早いか、相手が捕らえるべき人質であることも忘れているのか、その銃のトリガーを引く・・・

ガガガガガガガガガッ!!!!───

硝煙の煙も晴れ切っていない、だがそこにいたのは相変わらず立ったままの・・・
男は撃ってしまった事に気がついて慌てながら、ゲンドウがこのまま倒れ落ちる・・・そう確信して、そこで奇妙な事に気がついた。
何か虫のようなものが空中にあって、それがゲンドウの前にぴたりと、静止している事だった。
眉を寄せてそこに見たものに更に驚く。それが先ほど放った銃弾である事を───
「僕は・・・」
もう何が起こっているのか男達は判らなくなり始めていた。何よりこのまま崩れ落ちて死ぬはずのゲンドウが顔を上げて話し出したのだ・・・
ゲンドウの独白であるかのような小さな声は、銃声の止んだ静かな部屋の中によく響いた。
「幸せになれなかった人を沢山見てきた・・・」
その言葉に、恐怖にその心を塗りつぶされた男達は一斉に銃を撃ち放った。
それは一つの銃が出す音でなく、騒音とでも呼べるようなものだった・・・
飢えた獣の前に突然放り出されたという訳でもない。
だが何かとんでもない、そうとしかいいようのない感情に襲われた男達は全ての弾が撃ちつくされた後になってもまだトリガーを引き絞ったままぎりぎりとグリップを握り締めていた。
その部屋中に満ちた硝煙で何もみえなくなった煙の向こうから、
「だから、僕は。お前たちを──」
そう聞こえて、いくつかの銃が床に落ちた・・・
もはや悲鳴を上げるだけの人間が扉の方向に殺到する中、大きな声でもないゲンドウの声が奇妙にも響く。
「赦さない──」
その声と共に、煙が何か壁のようなものに押し出されるように男達に迫る。
パニックになって悲鳴を上げるしかない・・・その声が、

グシャッ───

この音と共に全て消えうせた・・・

*

「いやっ・・・もう・・・」
ユイは自分を抱えているのが一体なんなのか判らなかった。
目隠し、猿轡、耳栓──感覚を遮断されていた彼女には周囲の音は全て別世界の事であるかのように感じていた。
ただ、おぞましい暗闇の世界。
その世界でユイは憤りだけをもって意識を保っていたともいえる。
普通の女性であれば失調症になっていてもおかしくはない、そんな状況で精一杯頑張っていたのが急に誰かに・・・
ユイは暴れ、自由に動く手でもって自分を抱えている腕に爪を立てて抵抗する。
・・・ただ、頬に落ちる何か暖かいようなものが嫌悪一色に塗りつぶされそうな感覚を押しとどめていた。
だが、ユイにはそれが一体何なのか判らない。
その手はユイを拘束していたものを全て外し、そこで、
「私だ・・・ゲンドウだ」
そう小さく震える声で返って来る。その声に、腕から力が抜ける。
ユイは涙ぐみそうになっていた。
助かった事に・・・だが、目隠しが外された目に入ってきたそれに、一瞬呆然としてそれから更に涙がどうしようもなく浮かんでいた──
返り血を浴び、埃にまみれた顔がその瞳に映る。
ゲンドウは流れる涙を隠そうともせず、まっすぐにユイの目を見つめていた。
ただユイには、それが・・・まるで・・・何かひどく愛おしいような尊いような・・・そんな気がしていた。
そしてユイの瞳からは涙が零れた。
その涙のために滲む光景、ユイはそのまま自らを抱えるゲンドウの頬に力なくそっと手を伸ばして、
「どうして泣いているの・・・?」
そう勝手に口が動いていた。
指先がゲンドウの流す涙に触れ、わずかな逡巡がゲンドウに浮かぶ。
ゲンドウは・・・その言葉に泣いたまま困ったような表情で、
「君が生きていたことが、嬉しい──からだ」
そう答える。
何か暖かいものが心の堰を揺るがそうとしているのをユイは感じていた。
その感情は自然とある表情を浮かび上がらせる──

ゲンドウにとってはそれは既視感・・・今となっては懐かしい世界でかつては碇シンジに綾波レイが与えた・・・
あの微笑をユイはゲンドウに投げかけていたのだった。
ゲンドウの手に力が篭る。
だが、彼女の意識はそこでゆっくりと薄らいでいった。
張り詰めた糸が切れて・・・宙に解けてゆくように・・・
眠りにつくように気を失っていく。
ただ、その何も見えない入りかけた眠りの中、
「あやなみっ──」
そんな声が聞こえたような気がしていた。

3

「早まったな、碇・・・」
翌日、ゼーレ本部から秘匿回線で切り出したキールに恐縮している碇シンタロウがいた。
その額には汗が浮かぶ。
「申し訳ございません。不覚をとりました、此度の誘拐犯の背後関係を今調査している最中で・・・」
その会話をばっさり切り落とすかのように冷酷な声で、
『そうではない。我々に敵対する組織がいる。否、敵対できる組織がいる・・・そう知らしめてしまったのだよ』
そう切り出したキールに声もなく体を硬くするシンタロウ。
そのシンタロウに苦渋の色が僅かに見える声で、
『せめて隠密裏に動いているのであれば良かった。だが、お前は表のあらゆる組織に協力をさせた』
そう続けていた。
シンタロウは己の運命がどうしようとも逆らえそうにないと確信に至った。
胸のうちを密かに秘めて簡潔に返答する。
「はい・・・」
『せめて・・・いや、よそう。碇シンタロウ』
「・・・・・・はい」
『どう責任を取る・・・』
「支部長を辞したいと考えております──」
キールの威厳ある詰問だったが、それに対する覚悟の終わったシンタロウはきっぱりと答えていた。
これに逡巡した感のあるキールだったのだが、
『そうなったとき、お前はどうなるのか。わかっているのだな?』
そう問うが、僅かの乱れもおくびにも出さずにシンタロウはむしろ堂々と、
「はい」
そう言っていた。それは覚悟のある者にしかない、清清しい声とさえ言える響きだった。
『それならば何もいうまい』
「ですが一つだけ・・・娘のユイだけは」
シンタロウの声に、僅かに悲壮ともいえる響きが混じる。
そのまま永遠とも感じられる間が取られ、
『ゼーレの庇護下に入れろ。と・・・?』
「お願いします!」
キールの諦めの溜息のようなものがシンタロウには聞こえた・・・そんな気がした。
その必死のシンタロウに、まるで絞り出すかのように、
『最後の頼みだ。一考を約束しよう』
「ありがとう・・・ございます」
そう言ってくれていた。シンタロウもそれが通話機越しであるにも関わらず、頭を深く垂れる。
それは連絡というよりも最後通告のようなものだった。
ゼーレという組織の庇護を失う、組織のかつての長・・・
それは組織に報復したいと考える輩の絶好の標的になるということに他ならない。
組織の中、その一員であるということは何かしらの仕事を行う事でもあるのだが、命には代えられない。
絶対に娘を自分の運命に巻き込むわけにはいかない。
命よりも大事にした妻の忘れ形見なのだから・・・

*

京都にある、かつてゲンドウが寄付をした事もある碇の所持している病院の一室。
その最上階の病室の窓からは外が良く見えた。
街路樹やそれに沿って伸びる道路も、その向こうに広がる古都の町並みも、全てが一望できる。
空は雲ひとつない。星が見え始めていた・・・
「・・・・・・・・・」
その窓から、碇ユイはぼんやりと登りかけの月を眺めていた。
傍らにはいかにも安っぽいスチール製の椅子に座り、ゲンドウが疲れ果てたまま頭を垂れて眠っている。
そのベッドに放り出された彼の手にはユイの小指だけが絡みつくように重なっていた。
「・・・ふぅ」
時折吐く息はため息なのか、あるいは別の何かなのか──
彼女のあいまいな、呆けたような表情からはいまいち良く判らない。
彼女の腕にはいまだ点滴の針が刺さっており、そのまわりが痒くなってきたなと、ぼんやりと思っていた。
月の光が冷たく感じられていた───
その光の中、ユイはゲンドウが目覚めるのをじっと待っている・・・

*

次の日、キールからシンタロウに連絡が入った。
『件の研究所は六分儀を研究所の所長とすることにした。君の娘、彼を碇に迎えてはどうか』
シンタロウの知る限り、キールは頑固で目的の為には手段を選ばない・・・
その彼が無理をしてくれたのか・・・そうだろう、このような事は前例がない。シンタロウは想像した。
だが想像の外ではやはり、キールの思惑は存在した。と、いってもゲンドウに首輪を予てより付けたかっただけに過ぎないが・・・
ユイの研究所入りそのものは数いる人間の一人にすぎない。
だが、組み合わせればどうだろう・・・そうキールは考えた。
もし、この提案がなかったらどうなっていただろう・・・
シンジは存在せず、ユイはシンジの為に実験を強行せず、リリスのクローン体における事件もなかったかもしれない。
そして使徒が人類を蹂躙する結果になるのを、ゲンドウの隣でユイが歯噛みしていたかもしれない。
ただ、この時シンタロウは一人の父として娘に助勢してくれたのだと感謝していた。
彼は席について受話器を持ったまま、己の無力を悔いているように、
「ありがとうございます。彼には私から・・・では」
そう言って通話を終わる。
うまくいけば碇家としてはゲンドウを当主として、憂き目に遭わずに済むかもしれない──
そしてしばらく無言でいたのだが、机の引き出しを開けて一枚の写真を手に取った。
それは彼にとって一番大事な・・・何か。
どうしようもない時に、意を決する為のものだった。
後悔はない。その運命が決したのはけして彼が譲れない・・・全てであったのだから。
次の日、心を決めた彼がゲンドウの元を訪れた時、それは二人にとって最初で最後の・・・

*

そのシンタロウとの再会した日の晩、ゲンドウは酒を飲んだ。
初めて飲むにも関わらず浴びるように呑んだ。
結局ケンカになったのは誰でもいい、自分を殴って欲しかったからだ。
シンタロウは会談でこの誘拐劇における犯行の背後関係を洗った資料をゲンドウに差し出した。
その中にそれはあった。
犯人の顔写真とプロフィールの一覧・・・それは普通なら記憶にも残らないだろうものであった──
だが、その中にゲンドウは見つけてしまったのだ。
その男の顔は傷跡が額から顎先まで至り、スキンヘッドのやや強面の男だった。
ただ、その顔を見た瞬間、ゲンドウの背筋から電流が流れたかのように衝撃が走った。
その顔は・・・顔立ちはゲンドウそのものであったのだ。
それの意味する事に気付かないゲンドウではなかった、どうしようもない絶望と怒りがないまぜになった感情でそれを押し殺したまま会談を強引に終わらせたのだ。
今、母の中に自分が生まれようとしている──その考えに押しつぶされそうになりながらひたすら流し込むように呑んだ。
因縁を吹っかけたのはどちらかなどどうでもよかった。
ゲンドウ、いやシンジはただ運命を呪っていた・・・
警察に連行され、黙秘を通していた彼が碇の家でも己の力にでもない、冬月を呼んだのは全てを話してしまいたかったからなのかもしれない。
まさかこんな事があったなど、碇シンジには判るはずもなかった。
あの世界では全てが秘密にされていたのだから。
他でもない、シンジの為に、ユイの為に・・・
ただ、それが自分の見通しの甘さからだと自分を責めていたのだ。
そして保釈に冬月を呼んだ彼が、本当は泣いていたのだと・・・
そう判ってやれる人間もまた、どこにもいなかったのだ。

*

その数日後、シンタロウの導きで退院したユイと共に彼の手で碇家はゲンドウに委ねられた。
碇ユイ名義にしてはおけなかったのだ。
ユイ名義への変更はどうしても足が付き、また起こりかねない危険からユイを遠ざける意味もある。
財産をゲンドウに譲渡するだけでなく、それをユイのものにも出来るその条件───言うまでもないゲンドウとユイの縁組である。
養子縁組などゲンドウにとってのメリットもないはずだと考えていたシンタロウに・・・
全てを納める・・・その見地ではその時点で、シンタロウに他に手段の余地はなかった。
賽は投げられたのだ───



To be continued...
(2009.12.05 初版)


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